2003/8/3

紺野あきちか『フィニイ128のひみつ』(早川書房)

Cover Direction&Design:岩郷重力+WONDER WORKZ。
Cover Photograph:Ken Kaminsky/CORBIS/CORBIS JAPAN
 

 ふーむ。70年代生まれの作者のデビュー作なのだが、意外にも本書は60年代の陰(ヴォネガットとバラード!)を色濃く見せ、90年代を舞台とした作品となっている。
 亡くなった叔父の謎の言葉を追って、主人公は世界規模で開催されているライヴRPG「ウィザーズ&ウォーローズ」に参加、光の戦士というキャラクタを与えられる。やがて彼女は、RPGそのものに内在するさまざまな伝説や権力闘争の存在を知り、ついにゲームの創始者探索の旅へと迷い込む…。
 ハヤカワのJシリーズでは、飛浩隆に次ぐデビュー書き下ろしの登場である。飛浩隆のデビュー自体は古いので、純粋の新人では事実上初めてといえる。キャラクタ小説を意識しながら、類作とはまったく肌合いの異なる作品に仕上がっている。えんえんと書かれたRPGのシチュエーション、あくまで“見立て(ごっこ)”に過ぎないフィクションは、いつの間にか主人公の現実に追いついてくる。そこで、現実が幻想に侵食されるのを異常と見做さない点は、いかにも90年代的。ホラーでもなく、ファンタジイでもない、現代風俗とも違う。とはいえ、本書の128章だけでは、現実変容にちょっと届かず。もうあと32章くらいは欲しかった。
 


左)カバー:和田 誠
右)カバー:東 幸見

 本書のベースでもある、『猫のゆりかご』(1963)は、ヴォネガットの出世作。主人公が、アイス・ナイン(常温で融けない氷)で崩壊する世界を点描する。127の断章からなり、ヴォネガット・スタイルを確立した作品。翻訳は68年、左掲はハヤカワ文庫版(1979)。
 一方、ロバート・クーヴァー『ユニヴァーサル野球協会』(1968)は野球ゲームに興じる中年男の妄想が、ついに現実に変容を及ぼすというお話で、本書のテーマとも通底する。翻訳は85年、左掲は新潮文庫版(1990)。

bullet ライヴアクション・ロールプレイング(LARP)の紹介サイト
オンラインゲームやテーブルゲームとは異なり、LARPは生身の人間が、現実の街や建物をファンタジイ世界に見立ててゲームを行うもの。そういう定義では、JR主催のミステリーツアーも、ある種のLARPといえるらしい。
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2003/8/10

冲方丁 『マルドゥック・スクランブル3部作』(早川書房)
The First Compression  圧縮
The Second Combustion  燃焼
The Third Exhaust  排気

Cover Direction&Design:岩郷重力+WONDER WORKZ。
Cover Illustration:寺田克也
 

 77年生まれ、96年のスニーカー大賞受賞作家。デビュー後7年、本書も含めれば14冊3シリーズの既刊本を有する作者ながら、今年に入ってから活動を本格化、新作発表が相次いでいる。
 少女はマルドゥック市で殺されることになっていた。犯人は自分の記憶を消し、犯罪を隠蔽しようとする。辛うじて生き残った少女に、上位組織の犯罪調査のため委任事件担当官が任命される。委任が発動される法律マルドゥック・スクランブル09は、被害者=告発者を超法規的に防衛するため、非合法な技術を容認する。担当官は、先の戦争で開発された超兵器そのものなのだ。人間を超える知能ネズミ=ウフコック、しかし敵組織側にも、宇宙環境に耐える非情な担当官ボイルドが指名されていた。
 昨年の今ごろは『クリプトノミコン』が話題を呼んでいたが、本書も饒舌さでは負けていない。無意味な脱線に迷い込みがちなスティーヴンスンとは違って、冲方はテーマから離れることなくアイデアを展開する。時に数十頁にもわたる(たとえば、命の価値についての)生硬な議論は、しかし、主人公たちの行動の基底原理を成している。2巻目の後半から3巻目では、銃撃戦から一転、ポーカー/ルーレット/ブラックジャック勝負がひたすら描写されるが、ここに違和感がない理由も共通の基底原理による。主人公は、銃撃戦とカードゲームに同じ行動/心理の波を感知するのだ。
 作者あとがきの表題は「精神の血を捧げて」とあって、人間の“価値”(これこそ、本書の主要テーマ)を論じたものだ。ここでいう価値とは、結果の成否を問わないある種の生きざまであって、その人固有の記憶=経験となって生き続けるものを指す――という、ある意味で“原理主義的”作品なのである。ここに書かれたこと自体は、客観的根拠があるものではない。作者の内面から生じたものだ。それだけにパワーは圧倒的だろう。
 
bullet 著者の公式サイト
独自の創作論、電波系(?)日記などを掲載。ここを見るより、SFマガジン7月号のインタビューを読むほうがプロフィールは分かりやすいかも。
bullet 『クリプトノミコン』評者のレビュー

2003/8/17

ポール・デイヴィス『タイムマシンをつくろう!』(草思社)
How to Build a Time Machine,2001 林一訳
装丁者:坂川事務所(坂川栄治)
 

J・リチャード・ゴット『時間旅行者のための基礎知識』(草思社)
Time Travel in Einstein's Universe,2001 林一訳
装丁者:清水良洋(Push-up)
 

 SF作家がタイムマシンを好んで取り上げるのは、実現性を信じているためではなく、時間旅行が内在する矛盾が想像力を刺激するからである。親殺しのパラドクス、閉じた時間の輪…。
 たとえば、ハインライン「輪廻の蛇」は、自分が両親であり子供でもあるという究極のパラドクスを描いていて、時間もののパロディといえるくらい諧謔に満ちている。シルヴァーバーグ『時間線を遡って』では、過去の歴史的現場に無数の時間観光客が押寄せる様子が書かれている(こういう“事実”がないことが、時間旅行が不可能な証拠だという説もある)。しかし、それが物理的に実現可能なら、ちょっと書き方も変わってくる。
 一方、物理学者が時間旅行をまじめな論文で取り上げるのは、そこで考えられた理論や法則が宇宙論と密接に関連しあっているからだ。タイムマシン自体は、理論的に可能であっても、技術的にまだ可能ではない(現状のテクノロジーでは実現不可能)。ポール・デイヴィスは、科学者というよりサイエンス・ライターとして有名だろう。本書はいわば、タイムマシンを可能とするさまざまな諸説のサーベイなので、ちょっと簡単すぎるかもしれない。同著者の、より詳しい解説書『時間について』(1997:早川書房)の方がお勧め。
 リチャード・ゴットはプリンストン大学の宇宙物理学教授だが、タイムトラベルに関する論文で、一般には知られている。理論研究とはいえ、タイムマシンの実現性に言及したため、ニューズウィークやタイムの記事に登場したこともある(それくらい通俗ウケのネタでもある)。本書は「輪廻の蛇」やベンフォード『タイムスケープ』等にも言及しており、独自の宇宙モデルが分かりやすく解説されている(宇宙論に詳しい人ならば、既知の内容かもしれない)。
 この2冊を読めば、閉じた時間の輪(1年未来の自分から時計をもらう→1年後、タイムマシンで1年前に旅行してその時計を自分に渡す。さて、時計はどこから来たのか?)は、実は物理的に矛盾のないことが判明するし、時間観光客が発見されていない謎も分かる。ビッグバンがなぜ始まり、時間の矢(時間の方向性)が存在する理由も、説明されている。そもそもこの宇宙自体、タイムマシンによって生まれたのである!
 


左)ブックデザイン:鈴木成一デザイン室
右)装幀:葛西薫

 青山拓央『タイムトラベルの哲学』(2002:講談社)は、時間旅行を若手哲学者の立場から論じたもの。物理面ではなく、人間の実存面から述べられている。上記物理学では、言及されない“同一性”といった概念が面白い。「輪廻の蛇」も登場。
 スティーヴン・W・ホーキング『時間順序保護仮説』(1991:NTT出版)はホーキングの同題の論文や講演を収録した論文集。時間旅行に関するさまざまな仮説に対して、具体的に反証を示し、旅行を禁止する物理法則が存在する、というもの。

bullet 時間旅行関連サイトのリンク集
このページは、リチャード・ゴットの共同研究者リー・リシン(ハーバード大学→マックス・プランク研究所)によるもの。
bullet 宇宙誕生の秘密を伝える記事
プリンストン大学ビュレティン(2001年11月)より。これもまじめなひとつの説ではある。

2003/8/24

田中啓文『忘却の船に流れは光』(早川書房)

Cover Direction&Design:岩郷重力
Cover Illustration:Arte&Immagini srl/CORBIS JAPAN
 

 田中啓文の書き下ろしSF長編。ファンタジーロマン大賞(1993)でデビュー、ホラー長編が先行しているとはいえ、この作者は、ミステリ連作も書き、『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で星雲賞を受賞するなど、ファンタジイ/ホラー/ミステリ/SFという、現状のエンタティンメント分野を全て押さえるハイブリッド作家である。独特のギャグを武器にしているのだが、たとえば本書がギャグ中心の駄洒落小説かというとそんなことはなく、妙にクラシックで骨太なSFの骨格で作られているので、ちょっと注意が必要だろう。
 生物的な身分制度と、5つの物理的階層に分割された都市。世界は砂漠の果ての壁に隔てられ、第1層に位置する<殿堂>により支配されている。しかし、長い支配体制は腐敗を生み、各所で悪魔崇拝の不法集会が開かれるようになっていた。そんな中、一人の少年僧が都市の矛盾と真理の探求に目覚める…。
 表紙に大きく、The City and The Stars(『都市と星』)とあることでも分かるように、本書はクラークの伝説的な代表作(1956)のオマージュとして書かれている。実際、砂漠の中の孤立した都市、遥か過去に襲来した侵略者、ただ一人真実に目覚めた主人公などなど、多くの共通点がある。その一方、8つの階級に分断された異形の人類の姿など、田中啓文の得意とする生理的嫌悪を誘う描写も横溢し、もう一つのテーマであるダンテの『神曲』世界が鮮やかに描き出されている。
 ただ、この世界の謎の答えは、どこかで聞いたようなと思ったら、フレデリック・ブラウンのショートショートと同じだ(『未来世界から来た男』(1961)参照)。それもまた、作者のSFオマージュ/パロディの一環だろう、たぶん。
 (注:生憎なことに、クラーク、ブラウンの両作とも現時点では在庫切れ。ただし、『都市と星』の原型でもある『銀河帝国の崩壊』(1953)は入手可能だ)
 

bullet ファンタジーロマン大賞の紹介サイト
ベースは集英社コバルト・ノベル大賞(1983)だが、92-95年は両賞が並存し、96年以降さらにロマン大賞、ノベル大賞に分かれる。
bullet 『水霊ミズチ』評者のレビュー
bullet 『ベルゼブブ』評者のレビュー
bullet 『銀河帝国の弘法も筆の誤り』評者のレビュー
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2003/8/31

沢村凛『瞳の中の大河』(新潮社)

装画:高橋常政、装幀:新潮社装幀室
 

 沢村凛は、日本ファンタジーノベル大賞の常連で、『リフレイン』(1991、第3回最終候補作)がデビュー作、『ヤンのいた島』(1998、第10回優秀賞)の他にも、入選間際までいった作品が2作ある。前作から5年、本書は究極の沢村節というところか。ほんとうに処女作以来、作者のスタンスは変わりがない。その集大成といえる出来だ。
 高い山脈に囲まれた盆地。中央に大河が流れ、平野部には小さな王国が存在する。しかし、国の周辺には野賊と呼ばれる6つの武装集団がいて、国軍と一進一退の勢力争いを繰り広げている。そんな中、貴族の南域将軍の係累で、民間人ながら一頭地抜き出た軍人が生まれる。彼は、統制の乱れた国軍を掌握、やがて民間最高位の大佐に任じられる。しかし、頑なで誰も愛せなかった彼は、一人の野賊の女への思いを秘めていた。
 作者は、市民運動家であったり光瀬龍の弟子であったりした経歴がある。そのことと関係があるのかどうか、純粋な(たぶん、現実にはありそうにない)人間の生き様に執念を見せる。これまでの諸作は、読み手を納得させるには、やや舌足らずだった。本書の主人公の、彼をとりたててくれた南域将軍に対する病的なまでの忠誠心や、正義への執着心は、必然とまでいえないだろう。しかし、敵側の女に惹かれながら他の女性への思いやりを持ち得なかった点、孤児に対する愛憎入り混じった感情など、今回は人の不完全さを象徴するエピソードを含めることで、メッセージ性(声高な主張)を薄め、読者の違和感をなくすことに成功している。リーダビリティ(読んでいるときのドライブ感)は、もともとこの作者の才能だ。
 

bullet 日本ファンタジーノベル大賞公式サイト
ここは、読売新聞社のサイト。第10回については、三井不動産販売のサイトが詳しい。三井不動産は第10回までで、現在は清水建設が主催。
bullet 『リフレイン』評者のコメント
bullet 『ヤンのいた島』評者のレビュー

殊能将之『子どもの王様』(講談社)
装丁:祖父江慎+阿部聡(Cozfish)、装画:マヤマックス
 

小野不由美『くらのかみ』(講談社)
装丁:祖父江慎+阿部聡(Cozfish)、装画:村上勉
 

 なつやすみのどくしょかんそうぶん。

 さいしょのおはなしは、とかいのだんちのなかでおこったじけんです。ショウタくんのともだち、トモヤくんはやすみがおおくて、しゅうだんとうこうにも、よくちこくします。でも、トモヤくんは、おはなしがとくいです。おもしろいおはなしをしてくれるので、ショウタくんは、よくあそびにいきます。だんちのそとにはなにもない、そとのせかいはつくりものだなんて、とんでもないおはなしもしてくれます。だんちにすむ「まじょ」や、こどもをどれいにする「こどものおうさま」という、こわいおはなしも。ところが、あるひ、ショウタくんはほんものの「こどものおうさま」をめにします。「おうさま」は、トモヤくんをさがしているようです。ショウタくんはトモヤくんをたすけるため、ひとりで「おうさま」をやっつけようとします。
 このほんは、ふつうのたんていしょうせつのように、はんにんさがしのほんではありません。「おうさま」もじつは、トモヤくんとかんけいのふかいひとだったのです。「おとなのわるいせかい」がだんちのそと、「こどものただしいせかい」がだんちのなか、そんな「あく」をこどもがうちまかすというのもゆかいです。ただ、ショウタくんがやったことには、ちょっとおどろいてしまいました。つくりものじゃない、「ほんとうのこどものせかい」には、こどものおきてがあるのかもしれません。

 つぎのおはなしは、いなかのおおきなふるいいえでおこったじけんです。こうすけくんたち、5にんのこどもたちは、とおいしんせきの、あとつぎをきめるしんぞくかいぎのために、おやたちといっしょにあつまってきたのです。けれど、ふるいいえのあとつぎになれば、たくさんのおかねがもらえます。あらそいが、おこらないはずがありません。さいしょはどくいりのりょうり、つぎはひとだまにさそわれて、そこなしぬまにおちる。それもそのはず、このやしきには、「ぎょうじゃののろい」でんせつがあるのです。それに、もうひとつ、たしかこどもは4にんだったはず。ふえたひとりは、ざしきわらし「くらのかみ」だったのです。
 こちらは、はんにんをさがすというおはなしです。でも、そこに「くらのかみ」や「ぎょうじゃののろい」がくわわって、こわいおはなしにもなっています。たくさんひとがでてくるし、おやしきもおおきいので、ややこしいのですが、なぞときはわかりやすいとおもいます。ざしきわらしのかつやくがすくないのが、すこしざんねんでした。
 
bullet しゅのうせんせいのホームページ
はげましのおてがみをかこう。
bullet おのふゆみせんせいのファンのページ
ほかにもたくさんファンのページがあります。

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