2008/8/3
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著者は2001年にデビュー、以降架空戦記を中心に(本作を含めて)52冊の著作がある。新書・文庫を中心とした作品の中では、本書は異例の位置づけにある。明確な「SF」を期待される、Jノベルズというレーベルだからである。
2039年、インドとスリランカを結ぶ巨大な架橋を巡る紛争で拠点を追われたマザーズ教団は、地球全体に蔓延しつつある病魔の存在から人類を救うため軌道エレベータを建造しようとする。活動を支えるため、さまざまな能力を持つ協力者たちが参集する。舞台はモルディヴから東京へと展開。しかし、教団代表を狙う暗殺者の影が執拗に付きまとう。
気になる点は多い。世界政治に関与する東京都知事、本書のような設定では必要ないと思われるギャグ、物理的にありえない超人の活躍、大仰なセリフ回し(例えば「笑止」など)、超高エネルギーの上を行く「超弩級エネルギー宇宙線」のような表現、世界的政治家が直ぐに感情を表立てるのも不自然に感じる。これは、本書本来の狙いが分かりにくいからだろう。地球と一人の女性の危機を救うある種のヒーローものなのに、そのように読むのが意外に難しい。『太陽の盾』や『妙なる技の乙女たち』、あるいは4年前に出た『星々のクーリエ』といった類書が出てしまった関係で、テーマが明確なそれらと比較をしてしまうせいもある。
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2008/8/10
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5月に出た本。著者の既訳作品としては、1995年に出た長編『夢の終わりに…』(1992)の他、中短編が4作ある。カナダの作家でもあり、4つの作品(『20世紀SF(5)』に収録された「征たれざる国」、『エア』を含む)が英米6つの文学賞を受賞するなど、一部に偏らない幅広い評価が特徴だろう。
2020年、中央アジアの小国カルジスタンが舞台。辺境の村に住む主人公は、小さな村で晴着のアドバイスをする副業を営んでいる。ある日、人々を直接ネットワークに接続する「エア」の実験が始まる。それによって、世界とのつながりを認識した主人公は新たな商売の手段を考え、村の暮らしを変革していく。やがてその体験は、未来の啓示として不思議なビジョンを見せてくれるようになるが。
ライマンはマンデーンSFという、より現実に根ざした(逆に言うと、奇想アイデア/ガジェットを排した)SF運動の提唱者でもある。それは本書にもよく表われていて、主人公の周辺で起こるのは科学の“奇跡”ではなく、不可避の“必然”なのである。主人公は、田舎の中年女性で、文字を読むこともできない。怠惰な亭主に愛想を尽かし、浮気すら試みるが、やがてネットの中で、世界的な自身の価値に気がつくことになる。ファンタジイのような全くの架空の世界の物語ではなく、しかしノンフィクションほど現実に近くない。著者の姿勢がよく分かる作品といえるだろう。
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2008/8/17
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書き下ろし1編を含む5作を収めた最新短編集。過去4年間で、各年1作の配分になっている。
「フリーランチの時代」(2005):火星に滞在する隊員たちが遭遇した奇妙なエイリアンの要求とは
「Live me Me.」(2004):回復不能の重傷を負い機械の肉体を得た主人公は、究極の決断を下す
「Slowlife in Starship」(2006):22世紀半ば、小惑星帯に住む孤独な青年が巻き込まれた騒動の顛末
「千歳の坂も」(2007):誰もが不死者になれる世界で、不死を拒む老人とそれを追う調査員の駆け引き
「アルワラの潮の音」(書き下ろし):南海の楽園に時を越えて襲いかかるETたち
表題作は、“ボディースナッチャー(あるいはゾンビ)になること”の喜びが描かれ、「Live me
Me」は、“機械で生きること”を書いたもう一つの「接続された女」(ティプトリー)の物語である。「Slowlife
in
Spaceship」ではニート青年の目覚めが、「千歳の坂も」では不死を選択する意味が問われる。最後の「アルワラの潮の音」は、長編『時砂の王』の1エピソードとして書かれたものだ。これまでのポジティブSFとちょっと異なるのは、各テーマに対する踏込の度合いだろう。アメリカ人なら明白に否定する“集合体への同化”や、“機械そのものになる”こと、不死(不治の病でないところがミソ)に対する“死ぬ権利”についての考察は、東洋的な倫理観を交えたものなので興味深く読める。ただ、各作品の結末で主人公たちの下す決断には不自然さが残る。読み手が納得できるまでには、今一歩至らないように思える。
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2008/8/24
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米沢嘉博<戦後マンガ史3部作>の第2部に相当する評論である。1980年に新評社から出たのち、長年絶版になっていた伝説の評論だった。2006年10月に著者が亡くなったのち、昨年の『戦後少女マンガ史』に続いて復刊されたものである。著者はコミックマーケット(コミケ)代表(総責任者)として著名だったが、そのベースにここに書かれたマンガに対する思想があったことは間違いない。全10章からなる本書は、約400ページを下記のように分けている。
戦前から終戦直後に、26ページ
手塚治虫を中心とした、貸本・赤本から少年雑誌誕生までの47〜56年に、90ページ
週刊誌による“少年”マンガの隆盛と、劇画の影響を受けた57〜68年に、168ページ
SFが拡散し少年マンガの役割がアニメと交代する69〜79年に、82ページ
1947年から79年までを各年ごとに記述するという、(いくら書誌的な評論といっても)破格の構成が採られている。およそ30年のレンジのうち、少なくとも60年代以降をリアルタイムに経験した著者だからこそできた内容と言える。なので、その60年代への言及が多くなり、当時まだ評価の定まっていない70年代以降が少ないのはやむを得ない。「宇宙戦艦ヤマト」(1974)、「スターウォーズ」(1978)がブームを呼んだ状況は書かれているが、たとえば「機動戦士ガンダム」(1979)についてはまだ言及がない。
それにしても、これが書かれてから28年が経過した(評者も28年ぶりに読む)。SFについても、80年代より後に社会的な状況を含めた大きな変化があった。それとマンガとの関係について書かれた評論はない。本書を読んで分かるのは、60年代のSFは文学の中ではマイナーだったが、若いマンガの中では中枢を占める重要な分野だったことである。古いマンガのパラダイムを変革する根幹思想としてSFがマンガに溶け込み、やがてツール/手法だけが拡散していった様子がよく分かる。昔は元になるデータが限られた。しかし、実体験がそのまま1次資料(原典)といえた。不確かな2次〜n次資料(引用、不正確な孫引き)が氾濫するインターネット時代よりも、ずっとリアルなマンガの世界が本書の中にはある。
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2008/8/31
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本書は、2007年の8月30日から9月3日まで開催された世界SF大会(ワールドコン)のアフターレポートである。SFファンの集いであるSF大会には長い歴史があり、世界大会ともなると65回(2007年)も開催されていながら、地域は限定されている。英米圏以外ではドイツやオランダで各1回開催されただけである。そういう意味でも、英米偏重の大会がアジアで開催される意義は大きい。さてしかし、SF大会はボランティアが主催者である関係で、アフターレポート(大会の事後報告)が出されることは少ない。主催者が大会後に解散してしまうことや、資金難が大きいためだ。ただし、本書は少し事情が違っている。日本SF作家クラブ自身が編纂したレポートだからである(「小松左京マガジン」と同様の形式で、イオが編集し角川春樹事務所から出版)。
本来SF大会は手作りで行われるものだ。SF大会の基本は、すべての参加者がSFファンであることにある。企画やゲストの選定・招待・出演、プログレスレポート(大会の進捗を参加者に通知する冊子)の出版、当日の進行まですべてが無償奉仕である。その点は、プロの作家や翻訳家の団体である日本SF作家クラブも変わりがない。本書でも、レポートの書き方がさまざまで不統一だったり、写真やデータの記載がまちまちだったりと、手作り感があって(悪口ではありません)、かえってSF大会の臨場感を与えてくれる。
問題点を挙げるなら、このレポートが大会の一部について書かれたものに過ぎないという点だろう(下記を参照、企画数の15%に相当)。今回の大会には3つの団体が関わった。1つはワールドコンの実行委員会(日本/米国)、もう1つが日本SFファングループ連合会議(日本SF大会)、最後が日本SF作家クラブである。その3つが別々に企画を立案し、独立して運営したことで少なからぬ摩擦が生じることになった。もちろん大会自身は成功したといえるのだが、本書の中でも大会の実行委員会に対する苦言が散見されるのは、そのような理由による(あとがきにまで、大会ルール改善要求があるのは違和感がある)。よほど事情が分かった人以外は、日本SF作家クラブ=大会主催者と勘違いするだろうから、歴史的な記録資料としての注釈も必要と思われる。
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