2012/9/2

パオロ・バチガルピ『シップブレイカー』(早川書房)
Ship Breaker,2010(田中一江訳)

Cover Illustration:鈴木康士、Cover Design:岩郷重力+N.S

 数年前、劣悪な環境のもと廃船解体(シップブレイカー)を行うバングラデシュの人々が話題になったことがある。巨大なタンカーを人手のみで解体する作業場は、グーグルの衛星写真で見えるくらい大規模なものだ。バングラデシュに限らず、こういった解体場は各地にあるが、本書の舞台は海面の水位が上昇し、水没したアメリカ南部の海岸地帯である。この世界観は、『ねじまき少女』や『第六ポンプ』と共通する。

 主人公は解体屋の少年だ。かつて豊かだったアメリカは、海進と石油の枯渇で困窮化し貧富の差が極大化している。海岸に住み、無用となったタンカーを解体する彼らの中で、小柄な子供たちは船に残された貴重な金属類を回収するチームに属している。事故、貧困、父親による暴力が日常化し、どこにも希望はない。そんなある日、彼は嵐で座礁した豪華船から一人の少女を救い出す。

 少女は世界的な富豪の娘、支配権を巡る争いから逃れてきたという。その少女を助ける旅の中で、彼の知る世界は大きく広がっていくことになる。期待の作家バチガルピの翻訳第3作目だ。2011年のローカス賞ヤングアダルト部門の他に、全米図書館協会ヤングアダルト部門(YALSA)のマイケル・L・プラッツ賞(6つある賞の1つ)を受賞している。明確にジュヴナイルの設定で書かれたもので、既存の作品に比べると仕上がりはあくまでソフト。一連の作品の一部でもあり、お話が未完のままなのはちょっと食い足りない。バチガルピの場合、人気が上がっているものの単行本がまだ少なく、訳したくても本がない事情もある。

 

2012/9/9

 伊藤計劃が実際に書いたのは、本書のプロローグ部分のみだ。それは死後、2009年7月号の「SFマガジン」に未完のまま掲載された。ここで出てくる“死者の帝国”という言葉は、前年の「ユリイカ」2008年7月号に掲載された、スピルバーグ映画評(『伊藤計劃記録』所収)に現れている。21世紀以降に作られたスピルバーグの映画には、彼岸から我々を支配する“死者の帝国”の存在が見えるのだという。

 19世紀末、大英帝国の医師ワトスンは諜報機関の密命を帯び、第2次アフガン戦争下の中央アジアに派遣される。この世界では、産業革命の担い手は屍者たちである。彼らは死後、無償の労働者/ある種の機械装置として働き、世界を変貌させている。またバベッジの開発した解析機関は、世界を同時通信網で結んでいる。やがてワトスンは、アフガンの奥地にある屍者の帝国の存在を知る。しかしそれは、世界を舞台とする事件の始まりに過ぎなかった。

 出てくるものすべてがフィクションに由来している。いや、もちろん本書は小説だからフィクションなのだが、登場する物/者たちが過去のフィクションをreferしているのである。誰もが指摘するように、冒頭の《シャーロック・ホームズ》、《007シリーズ》や『フランケンシュタイン』はもちろん、スチームパンク社会を鮮やかに描き出したスターリング&ギブスン『ディファレンス・エンジン』(あるいは山田正紀『エイダ』)、『カラマーゾフの兄弟』(高野史緒『カラマーゾフの妹』でも分かる)、キム・ニューマン『ドラキュラ紀元』など、無数の既作品からの引用に満ちている。伊藤計劃がプロローグで提示した暗号を、解くというより小説中の小説として自己言及(self-reference)させたものといえるだろう。つまり、謎をもう一段抽象化した深みへと引きずり込んだのだ。
 本書は3年間をかけて、伊藤計劃の着想を円城塔が長編化したものである。小松左京賞落選の同期で、厳密に言えば友人でもない関係ながら、伊藤の構想を物語の枠組み(制約条件)に置き換え、何度もの中断を経て漸く書き上げられたものだ(円城塔インタビュー)。そうでなければ、円城塔がこれだけエンタメ寄りの話を書く動機がない。その間、伊藤計劃は海外で名を上げ、ベストセラーになるほど人気を得た。円城塔も芥川賞作家になり、広く名を知られるようになった。その変転も本書の中に反映されている。

 

2012/9/16

ウラジーミル・ソローキン『青い脂』(河出書房新社)
Голубое Сало(Goluboe Salo),1999(望月哲男・松下隆志訳)

装丁:木庭貴信(OCTAVE)

 1955年生まれのロシア作家ソローキンが、20世紀の終わり(40代半ば)に書いた、破天荒なファンタジー/SF小説である。スターリン時代を批判した、ある種の並行世界テーマのように見える。その後も、プーチン批判を込めた2027年の独裁国家ものを何冊か書いているので、著者好みの設定なのかもしれない。ただし、現在のソローキンは、むしろ(トルストイ風の)トラディショナルな大作を書く作家として評価されているようだ

 2068年、シベリアの研究所で青い脂を抽出する研究が進んでいる。その脂は量産できず、唯一「作家」からしか採ることができない。その「作家」とは、7体の大文学者生体クローンである。奇怪な外観をした彼らは、トルストイやドストエフスキー、ナボコフなどと呼ばれ、劣化コピーのような小説/詩/戯曲を出力すると同時に、青い脂を生成するのだ。そこをテロリストたちが襲撃し、出来上がったばかりの脂を奪い去る。

 さて、そこまでで物語の4分の1だ。奪われた脂は、不気味な組織の潜む地下へ地下へとを運ばれ、ついに最終目的地、1954年のソビエトに時間転送される。そこは、スターリンが夜な夜な大宴会を催す帝国だ。脂を手にした麻薬中毒者のスターリンは、愛人フルチショフと共に、スイスに作られたヒトラー第3帝国の巨大な別荘へと旅立つ。
 本書全体を貫くのは、驚くべき猥雑さだ。暴力/拷問/強姦/殺人/人肉嗜食/糞尿と、過去の権威、権力に対する強烈な嫌悪が全篇を覆っている。その上、文学クローンと各作家のパロディ、未来の教条主義者たちの儀式、同様のレベルで描かれるスターリン治下の晩餐会、ヒトラーが勝利したもう一つの1954年の描写、スターリンとフルシチョフとの同性愛などという、ちょっと他では味わえない異様な創造物が溢れている。小説としての結構より、まずその文学的暴力の印象が圧倒的だ。

 

2012/9/23

 著者の樺山三英は、2006年に第8回日本SF新人賞を受賞している。6月に出た第3作目となる本書は、「SFマガジン」2008年2月号から2010年12月号まで、ほぼ3〜5ケ月間隔で掲載された連作短篇を収録したものだ。ユートピアを主題として「先行作品の蓄積をつくっていき、その情報と文体を再構成してフィードバックすること」(「SFマガジン」2012年8月号インタビュー)により出来上がったものだという。そのあたりの経緯は、2010年の「SFセミナー」で企画された鼎談でもうかがうことができる。

「一九八四年」(オーウェル):オーウェルがたどり着いたディストピアとそれを形作ったスペイン内戦の光景
愛の新世界」(フーリエ):社会主義者フーリエの著作とはかけ離れて見えるラヴホテルの残酷な顛末
「ガリヴァー旅行記」(スウィフト):カリヴァーと下僕であるヤフーらとの質疑で語られる戯曲風対話
小惑星物語」(シェーアバルト):小遊星パラスに住む異星人たちが打ち立てる巨大な塔の建設物語
無可有郷だより」(モリス):川から始まり、源流に溯っていく6つの手紙から成る物語
「すばらしい新世界」(ハクスリー):質問者と回答者が語る、幻覚剤の見せる世界のありさま
世界最終戦論」(石原莞爾):最前線の塹壕や廃墟、そして日常的に繰り広げられている戦争
収容所群島」(ソルジェニーツィン):東西に分割され、やがて東側=収容諸国家に吸収される世界
「太陽の帝国」(バラード):バラードが見た上海の現実と虚構に、著者の私体験とが交雑していく
「華氏四五一度」(ブラッドベリ):文字が失われようとする2040年から振り返るブラッドベリ
的焚書の意味

 広い意味での“ユートピア/アンチ・ユートピア/ディストピア”小説をベースに書かれた小説集である。寓話や評論のようであり、あまり連作のように感じられない(インタビューでは、「ぼく」「きみ」という人称の問題にこだわった点が共通要素とある)。また、フィクションを題材にしてフィクションを語る形式で、元ネタはあるが、オマージュ/パスティーシュといった原作に従属する内容ではないのだ。作家論に近いもの(オーウェル、バラード、ブラッドベリ)から、原作に忠実な設定(シェーアバルト)、ほぼオリジナルな物語(フーリエ、モリス、石原莞爾)など、1つとして同じ書き方がない。作者にとっても、小説の可能性を試す実験的な意味があった。マイナーな元ネタもあり幻惑されるが、読者は、まずその多彩さを楽しめばよいだろう。

 

2012/9/30

小野不由美『残穢』(新潮社)
小野不由美『鬼談百景』(メディアファクトリー)

装幀:司修、ブックデザイン:祖父江慎+鯉沼恵一(cozfish)

 メディアファクトリーの怪談専門誌「幽」(東雅夫編集)で、2004年7月から2010年8月まで掲載された怪談に、新たに18編を書き下ろして99話にしたものが『鬼談百景』(連載時は「鬼談草紙」)である。その百物語目を、これもノンフィクション風に描いた長編が『残穢』なのだ。著者の作品としては『くらのかみ』以来9年ぶりの書下ろしとなる。

 知人のライターからマンションで起こる怪異を聞かされた著者は、そのマンションが建つ地域の来歴を調べるうちに、さらに過去に起こった事件の存在を知ることになる。バブル期、高度成長期、戦後すぐ、戦前、怪異の系譜は次々と溯っていき、やがてその源流にたどり着くが。

 ファンタジイ《十二国記》やホラー《ゴーストハント》を書く著者が、なぜいま「実話怪談」なのか。まず著者は、霊や怪異を信じているわけではない。そもそも本人は、怪奇現象を体験したことがないのだ。しかし、人が語り/書く「怪談」は、実際に物理的な影響を与えることがある。「言葉」になって世に放たれると、聞いた人の中に棲みついて、怪異を生じるようになる。それが精神的な病を産めば、実在したも同然になるからだ。心を汚染する「死の穢れ」はいわゆる自然現象ではない。人間の意識の中でしか「怪しきもの」は生きられないのである。本書では、そういったメカニズムが明らかにされている。