2015/9/6

トマス・スウェターリッチ『明日と明日』(早川書房)
Tomorrow and Tomorrow,2014(日暮雅通訳)

カバーデザイン:坂野公一(welle design)
カバー写真:EyeEm/Getty Images、Dollar Photo Club

 本書はスウェターリッチの初長編にあたる。表題は『マクベス』からの引用。地元紙によると、ピッツバーグ在住(大学も地元カーネギー・メロン大学、職場も同地のカーネギーライブラリ)だった著者が、同郷のファンタジイ作家スチュアート・オナンに見せた短篇がきっかけで生まれたものという。しかも、オナンのエージェントの助けなどがあり、出版に先行してソニー・ピクチャーズに6ケタもの契約金で売れている。レアさ重視のためなのか、ウィアーピアース・ブラウンなど、新人の初長編が映画原作に採用されるケースが多くなった。

 アメリカ東部の中核都市ピッツバーグが、核テロにより壊滅してから10年がたった。主人公はその災禍により妻と子供を失い、立ち直れないまま麻薬に溺れている。そんなある日、彼は奇妙な調査の依頼を受ける。在りし日のピッツバーグを再現した電子的なアーカイヴの中で、一人の人物を探し出せというのだ。

 21世紀半ば(2058年)のアメリカは、反動的で残虐な女性大統領が政権を握っている。主人公は、度重なる薬物中毒で、収監の執行猶予も危ない。ピッツバーグの廃墟は汚染で立ち入ることもできないが、市民の目で直結記録された電脳ピッツバーグ(人の目そのものを監視カメラにして、画像を自動合成するイメージ)は、現実と見まがうリアルさで再現される。そのアーカイヴで偶然見つかった女性の死体は、主人公を猟奇的な事件に巻き込んでいく。
 麻薬浸けの主人公はチャンドラー風、電脳空間はギブスン風、狂気をはらんだ設定はディック風で、著者もその影響を否定しない。前半は先行作品に負けない描写力により、奇怪な電脳空間を描き出す。死んだ街のアーカイヴという発想が面白い。後半は、政治陰謀がらみになったせいか、スケールがちょっとダウングレードしてしまう印象。

 

2015/9/13

 国際SFシンポジウムは、今から45年前の1970年に第1回が開かれ、半世紀を経た2年前、日本SF作家クラブ50周年企画の一環で第2回目が開催された不定期の催しである。各国の作家が集まり、テーマに沿ったシンポジウム形式で意見を述べ合うものながら、各国のSF自体が未知だった第1回と、SFの一般化が進む第2回では、内容も雰囲気も大きく異なっている。

 第1部「第1回国際SFシンポジウム(1970年)全記録」参加者:クラーク、オールディス、ポール、メリル、ザハルチェンコ、パルノフ、ベレジノイ、カガリツキーら、「国際SFシンポジウム趣意書」、星新一「想像を超える現実――日本での国際シンポジウムを前に」、「国際SFシンポジウム速報レポート」、ジュディス・メリル草稿参加五カ国共同宣言、小松左京VSアーサー・C・クラーク対談「未来社会への展望」、福島正実「クラークとの10時間」、乙部順子「小松左京と国際SFシンポジウムの思い出」
 第2部「第2回国際SFシンポジウム・キックオフ(2012年)全記録」基調講演トマス・ラマール「時の渦巻―川又千秋『幻詩狩り』論、 参加者:トマス・ラマール、川又千秋、笠井潔、荒巻義雄、司会:巽孝之
 第3部「第2回国際SFシンポジウム(2013年)全記録」参加者:パオロ・ガチガルピ、パット・マーフィー、呉岩、ドゥニ・タヤンディエー、荒巻義雄、高野史緒、北野勇作、上田早夕里、林譲治、八杉将司、立原透耶、YOUCHAN、片桐翔造、沼野充義、新島進、増田まもる、谷甲州、夢枕獏ら
 〈公開シンポジウム〉広島、大阪、名古屋、東京で開催、〈非公開セミナー&ワークショップ〉京都大学IPS研究所、福島大学行政政策学類で開催、〈関連講演会〉 広島「パオロ・バチガルピ講演会」、東京「パオロ・バチガルピ講演会――アメリカ文学における SF」、「対談ー藤井太洋×パオロ・バチガルピ」、「パット・マーフィーVS森奈津子公開対談:来るべき身体政治学――フェミニズム、SF、そして、わたしたちの地球環境」、最後に第2回国際SFシンポジウム共同声明

 さて、1970年のシンポジウムは万博プロデュースを行う傍ら、小松左京が仕切った催しだ(『小松左京自伝 実存を求めて』によると、企業に寄付を募るだけでは足りず、自宅を担保に入れてまで資金調達をしたとある)。これ以外にも複数のイベントや番組出演など、並行して絶え間なく仕事をしていた時期になる。実務は鏡明ら若手が務めたとはいえ、シンポジウムは当時39歳の小松左京による独壇場だった。そのため、後が続かなかったと思われる。中では、53歳のクラークが小松左京との対談で、将来のネット社会における検索の重要性(Google創業は1998年)に言及している点が注目される。ネット社会を予見したこのTV放送よりも4年早い。参加した英米カナダの作家は今でも名を残すが、ザハルチェンコ以下のソビエト作家については宮川耕治「現代ロシアSF人名事典」に一部記載があるのみだ(ロシア時代以降の活動は目立たず、大半の作家は既に亡くなっている)。
 第1回は宣言の中でSF教育普及の重要性を唱えていた。2012/2013年の第2回は主張が実現した結果ともいえる。シンポジウムを開催する広島、名古屋、大阪、東京、福島では各地の大学や研究機関が協力した。その点は、主体的に動いた本書の監修者らアカデミズムの力が大きい。資金が文化交流を目的とした国際交流基金から出ているという違いもある。シンポジウム出席者の主体は第1回同様作家なのだが、今回は翻訳者や研究者が大きな役割を果たしていることが分かる。食料、エネルギー、アジアに関心の深いバチガルピや、LGBTに詳しいマーフィー、中国におけるSFの位置付けを説く呉岩らの個性もあり、総体的なSFを目指した前回よりも、より目の前のテーマでの議論が深まっている印象だ。何よりアカデミズム主体であることで、シンポジウムに持続性が生まれる可能性を評価すべきだろう。

 

2015/9/20

伊藤計劃・ほか『蘇る伊藤計劃』(宝島社)
cover ilustration:redjuice、cover design:原真澄

早川書房編集部編『伊藤計劃トリビュート』(早川書房)
カバーデザイン:三戸部功

 伊藤計劃を巡る評論集や、短篇を含む作品集はこれまでも数多く出てきたが、今秋のアニメ公開を前に再びアンソロジイ、ムックなどが相次いで出た。SFマガジン2015年10月号はこのアンソロジイ出版と連動して、執筆者座談会を中心とした特集を組んだ。この後も、大森望編『NOVA+』が『屍者の帝国』をテーマにトリビュート・アンソロジイを出す。

『蘇る伊藤計劃』
 
冒頭にイラストやアニメ映画の詳報を載せ、伊藤自身の初期作(同人誌掲載エッセイ、短篇、コミック)とビブリオ、バイオグラフィの間に、作品解題と山形浩生、藤井太洋、中原昌也、佐藤亜紀、多根清史、藤田直哉らの評論、大森望、虚淵玄らのインタビューを載せる構成。ムック版140ページに記事が37編も載る関係で、示唆的なキーワードは見られるものの深くはない(薄味なのは否めない)。ただ、死後6年を経て一面的になりがちな著者の評価を、モザイク状に解きほぐす意義はある。

『伊藤計劃トリビュート』
 藤井太洋(1971)「公正的戦闘規範」:元人民解放軍の兵士だった主人公が知るドローン戦の真相
 伏見完(1992)「仮想の在処」:生まれたとき死んだ姉は、AIとなって妹と共に成長する
 柴田勝家(1987)「南十字星」:ボリビアで、軍属の文化人類学者が接触する難民たちの一団(長編の1部)
 吉上亮(1989)「未明の晩餐」:死刑囚に最後の晩餐を作る男が、不思議な能力を持つ幼い姉弟を拾う
 仁木稔(1973)「にんげんのくに」:南米密林の森の民の中に、異能を有した一人の異人が育つ(長編の1部)
 王城夕紀(1978)「ノット・ワンダフル・ワールズ」:eシティ・ニューヨークで巻き起こる「進化」の行き着く先
 伴名練(1988)「フランケンシュタイン三原則、あるいは屍者の簒奪」:屍者の帝国におけるナイチンゲールの正体とは
 長谷敏司(1974)「怠惰の大罪」:革命が失敗した並行世界のキューバは、麻薬組織の暗闘に沈む(長編の1部)

 アンソロジイ寄稿者の生年を見ると、伊藤計劃(1974生まれ)と同世代である藤井、仁木、玉城、長谷らと、15年程度若い伏見、柴田、吉上、伴名らにちょうど二分されている(SFマガジンの座談会も、2組に分かれて行われた)。個々で事情は異なるが、伊藤計劃に対しては、直接的(同時代で知る)/間接的(既に世評がある)という受け止め方の違いはあるだろう。中編クラスの8作品を収め、非人間的なAI対AIの戦闘を変える手段、リアルに存在しないAI兄弟、ネットに繋がらない人々、ヴァーチャル化された偽物の食事、人外の能力を自在に操る異人、ネットの最終勝利者、改造人間ナイチンゲール、麻薬組織のAIと、各作品とも伊藤計劃を感じさせるフレーズが多く含まれる。ここには、もともと本書と関係のない長編の、切り出された冒頭部が3作もある(例えば、仁木稔は《HISTORIA》の一部)。個々の長編はまだ未完成なので、独立して読めるよう工夫はされているが、それがトリビュートに見えるという点だけ見ても、伊藤計劃の付けた痕跡/インパクトの深さを窺い知ることができる。

 

2015/9/27

ミシェル・ウエルベック『服従』(河出書房新社)
Soumission,2015(大塚桃訳)

装丁:鈴木成一デザイン室

 今年の初め、厳冬のパリで起こったイスラム過激派によるシャルリーエブド襲撃事件の当日に、(たまたま)発売されたのが本書である。実在の政治家やジャーナリストを実名で登場させるなど、いかにもありそうな設定を援用しながら2022年に起こるイスラム政権樹立に至る政治的な変動を、あくまでも「傍観者」の視点から描いた作品だ。ただし、主人公の「傍観者」は外国人ではない。パリを地元にする大学の文学部教授である。

 主人公はユイスマンスを専門とする文学部の教授だ。しかし唯一の著書を10年前に書き上げ、教授職を得てからは大した成果を上げていない。結婚もせず、毎年違う学生と肉体関係を持ちながら、熱意なく別れる怠惰な生活を続けている。政治にも無関心だったが、その年の大統領選で、初のイスラム教徒大統領が選ばれることを知る。ファシストの国民戦線を阻止するために、第2位のイスラーム同胞党と旧勢力の社会党、UMP(国民運動連合)が野合したのだ。

 イスラム教徒といっても、新大統領は有能な実務家に見える。政権ができてから治安は回復し、オイルマネーで社会は豊かになる。財政再建のため教育予算は削減(義務教育は小学校で終える)、ソルボンヌ大学でも教授職は男性のみとなり、イスラムへの改宗が求められる。しかし改宗した教員の給与は増え、断っても多額の年金が出る。誰も文句は言わない。女性は伝統的な家庭に戻り、性的な露出を避け、福祉は家族単位で営まれる。
 ウエルベックは、本書の中のイスラムを、インテリジェントデザインや反知性主義、古い伝統社会の象徴として扱っている。その一方、現代の西欧や社会政治システムの衰退と、市民意識そのものの脆弱さを主人公に象徴する。極めて簡単に政治は転覆し、抵抗すら起きない。しかし、本書は恐怖を煽る嫌イスラムの際物ではないし、近未来に対する予言や警鐘でも、そもそも政治小説でもない。何しろ、主人公が求めるのは極めて利己的な安定だけなのだ。政治などどうでもよい。物語は、確かなものが何もない中で、主人公のように流れに呑まれる人々を、ただ冷徹に観測する。