2017/9/3

ジョー・ウォルトン『わたしの本当の子どもたち』(東京創元社)

ジョー・ウォルトン『わたしの本当の子どもたち』(東京創元社)
My Real Children,2014(茂木健訳)
Cover Illustration:丹地陽子、Cover Design:波戸恵

 《ファージング三部作》や『図書館の魔法』(2011)で人気の高いウォルトンの長編。これまでも異なる時間線に生きる人々を描いてきたが、本書は1人の女性に焦点を絞った作品だ。2014年のジェームズ・ティプトリー・ジュニア賞、全米図書館協会のRUSA賞(Women's Fiction部門)と、ストーンウォール・ブック賞を受賞している。

 主人公は、1926年にイングランドの田舎町で生まれた1人の女性。家族の半分を戦争で亡くし、自身は奨学金を得てオックスフォードに進学する。国教会信徒で、男性との付き合いが一切ないまま育った。だが、同じオックスフォードの学生から熱心な手紙をもらい、初めての恋をする。女学校で教職に就いていた彼女は、1つの選択を迫られる。仕事を捨て収入の少ない彼と結婚するか、結婚を諦めて現職を続けるか。

 本書でも、バックグラウンドには改変された歴史が置かれている。ただ、分岐した歴史、2つの人生のきっかけは、誰でもが経験するレベルの(当人にとっては重要かもしれないが)「結婚するか、しないか」という決断だった。物語は貴族と庶民、働く男性と家庭を守る女性、LGBT、宗教や人種などの固定的な常識が大きく変遷していくありさまと、2人(同一人物)の主人公のいきざまを対照させている。多くの改変歴史ものにある政治的な相違ではなく、社会的・人権的な違いに重点があるといえる。

 冒頭、40年前と現在の少女が入れ替わる、ペネロピ・ファーマー『ある朝、シャーロットは』(1969)や、結婚しなかった旧世代の女たちを皮肉に描いた、エリザベス・ギャスケル『女だけの町 クランフォード』(1853)などを提示して、この後の物語を暗示している(そういう英国文学作品からの引用は、本文の中に多数ある)。主人公は一方では4人の子ども、もう一方では3人の子どもを得る。かれらが生きた社会は、一方は穏健でもう一方には不穏な空気が漂うが、ディストピアとユートピアの関係にはなく、どちらが良いとは書かれていない。

 一番興味深いのは結末だろう。2つに分かれた人生はほとんど交差することなく、養護施設で暮らす主人公の独白に収束する。不思議なことに、この施設は両者ともに共通していて、主人公は両方の記憶を持っているらしい。最後に下す決断は、作者から読者への問いかけとなっている。


2017/9/10

小川哲『ゲームの王国(上)』(早川書房) 小川哲『ゲームの王国(下)』(早川書房)

小川哲『ゲームの王国(上下)』(早川書房)

Cover Design:Tomoyuki Arima、Cover Photo:Roger-Viollet/Aflo(上巻)/Cover Illustration:mieze(下巻)

 第3回ハヤカワSFコンテストで大賞を受賞した、小川哲の受賞後第一作である。これまでは大賞受賞者でも、文庫やソフトカバー単行本であるJコレクションでの書き下ろしだったのだが、編集部の強い押しもあって本書は異例のハードカバー上下巻で出た。しかも、即重版という好調な滑り出しのようだ。

 物語は1956年のカンボジアの首都プノンペン郊外で始まる。フランスから独立直後の国内は、政治的な混乱状態にあった。元王族シハヌークは、露骨な不正選挙で自身の政党を大勝させ専制体制を敷く。秘密警察を立て、野党や共産党への容赦ない弾圧に乗り出すのだ。後の独裁者ポル・ポトはまだ高校教師だったが、共産党(クメール・ルージュ)の一員でもあった。そのシハヌークも、アメリカの支援を受けたロン・ノル将軍のクーデターで追われる。軍政が庶民の支持を失う中で、1975年ついに革命がおこる。一方、60年代から70年代初め、バタンバンに近いへき地の農村では、異能の子どもたちが生まれ、その能力を目覚めさせるようになる。

 本書はポル・ポト政権下4年間(1975-79)に起こった、大規模な虐殺=キリング・フィールドを中心に、カンボジアの現代史を題材としている(当時の人口の4分の1近く130〜200万人が死んだとされる。正確な数字は不明)。虐殺が正当化されるわけではないが、クメール・ルージュの革命を招いた当時の社会的腐敗にも、要因があるように描かれる。ただそういう重い内容でも、嘘のような、コミカルなエピソードが淡々と続き、陰惨な印象を与えない。本書はカンボジアの政治を告発する小説ではないのだ。それは、カンボジア人自身の問題なのだから、著者はあえて論評を避けたのだと思われる。

 下巻では一挙に半世紀の時間が流れる。舞台は2023年の未来である。子どもたちはカンボジア社会でそれぞれの地位を得て、社会的な影響力を行使できる立場となっている。しかし、社会の公正さはまだ未確立だった。そんな中で、脳波を入力とした特殊なゲームが考案される。下巻の半ばになってようやく出てくる「ゲームの王国」という言葉の意味こそが、本書のメインテーマになる。

 本書からは、東北の歴史と家族を絡めた古川日出男『聖家族』や、中国の田舎町の人々を描いた閻連科『愉楽』が連想される。何れも庶民・家族の歴史と社会の歴史を、異能者を介して結びつける物語である。本書の中でも上巻で能力を知った少年少女たちが、下巻で自分たちの能力の本当の意味を悟る物語となっている。異文化を背景にゲームをキーワードとするという意味で、イーガン『ゼンデギ』を思わせる部分もある。最終的に、すべてが家族へと収れんしていくありさまが印象的だ。


2017/9/17

ラメズ・ナム『ネクサス(上)』(早川書房) ラメズ・ナム『ネクサス(下)』(早川書房)

ラメズ・ナム『ネクサス(上下)』(早川書房)
Nexus,2012(中原尚哉訳)
カバー・イラスト:Rey.Hori、カバー・デザイン:早川書房デザイン室

 著者のラメズ・ナムはエジプト生まれの米国作家。初期のMS IEやOutlook、Bing検索エンジンなどの開発に携わり、ナノテク開発支援ソフト会社の創業者でもある。本書はそういうソフト開発の専門家が書いた近未来サスペンス。理屈っぽいのではと思ったのだが、初めての小説とは思えない、ストーリーテリングに富んだ作品に仕上がっている。

 2040年、世界的に神経科学研究が進み、脳内に高度なナノテクマシンを挿入することで、人類の能力を超えたポストヒューマン誕生の可能性が論じられるようになった。しかし、人類に危険を及ぼすポストヒューマン研究は、国際条約の下で厳しく制限されている。そんな中、画期的な新世代ナノテクの研究者である主人公は、不法性を難じる米国政府機関に脅迫され、中国にある先端研究組織に研究員として潜入し、スパイ活動を行うよう命じられる。

 ナノテクによる意識の変容となると、イーガン定番のネタだろう。AIのシンギュラリティ越えが昨今の流行だが、人類自身が旧人類の知性を越えるポストヒューマンに変容するというのは、SF初期からのテーマだった。本書はそこにマインドフルネス(仏教に由来する瞑想。メンタルヘルスに有効とされ、一般企業でも取り入れられている)の考えを加えており、シリコンバレー・ハイテク業界での東洋趣味がうかがえて面白い。

 ただし、本書の面白さは理屈の部分にはない。米国政府機関は秘密作戦チームを有する軍隊だし、中国には特別に養成された戦闘員がいる。主な舞台はタイで、仏教僧や傭兵、ナノテク密売人が暗躍するアクション満載の高速展開になる。アメリカや中国が出てくるが、著者は一方だけを批判する政治的な立場はとらない。オーソドックスに人類対ポストヒューマンの戦いなのだ。

 本書は三部作の第一部である(それぞれ副題がついていて、第一部Nexusはインストール、第二部Cruxはアップグレード、第三部Apexはコネクト。この第3部はP・K・ディック賞を受賞し、また上記ナノテクソフト会社の社名になっている)。パラマウントで映画化する話もあるようだ。完結してはいないが、これだけ読んでも十分楽しめるだろう。


2017/9/24

シオドア・スタージョン、フリッツ・ラーバー他 中村融編『猫SF傑作選 猫は宇宙で丸くなる』(竹書房)

シオドア・スタージョン、フリッツ・ラーバー他 中村融編『猫SF傑作選 猫は宇宙で丸くなる』(竹書房)
2017(中村融他訳)
カバー・イラスト:旭ハジメ、カバー・デザイン:坂野公一(welle design)

 中村融による日本オリジナルの翻訳アンソロジイ。テーマは猫の登場するSFである。あとがきでも述べられている通り、SF猫アンソロジイでは扶桑社からガードナー・ドゾア&ジャック・ダンによる『魔法の猫』『不思議な猫たち』が既出(といっても20世紀のこと。このコンビによるアンソロジイは多岐にわたり『幻想の犬たち』もある)だが本書との重複はない。あえて有名な作品は外し、知られざる名作を採ったため、初訳4編、既訳の6編も3編は新訳とリフレッシュされた印象だ。ヒューゴー賞ノヴェラ部門受賞作ライバー「影の船」など、長年埋もれていた傑作が収録されているのはうれしい。物語の舞台が地球上か宇宙かで〈地上編〉〈宇宙編〉各5編に分けられている。

 ジェフリー・D・コイストラ「パフ」(1993/1997):子猫が子猫のまま成長しない技術が開発され、最初の成功例の子はパフと名付けられた。ロバート・F・ヤング「ピネロピへの贈りもの」(1954/1972)*:寒い日の朝、猫を飼う老いた女性は、奇妙な少年と会話を交わす。デニス・ダンヴァーズ「ベンジャミンの治癒」(2009)*:治癒の手で回復した飼い猫は、いつまでたっても歳を取らなくなった。ナンシー・スプリンガー「化身」(1991)*:永い眠りから覚めた主人公は、カーニヴァルの出演者の一人に興味を抱く。シオドア・スタージョン「ヘリックス・ザ・キャット」(1938?/1997):画期的なガラス加工法を開発した主人公は、跳ね回る瓶を目撃する。ジョディ・リン・ナイ「宇宙に猫パンチ」(1992)*:新型宇宙船の公募クルーとマスコットの船猫が遭遇する危機とは。ジェイムス・ホワイト「共謀者たち」(1954/1972)*:宇宙船の中で、秘密のネットワークにより共謀するものたちの目的。ジェイムズ・H・シュミッツ「チックタックとわたし」(1962/1964)*:自然が保護された惑星で、標題の1匹と1人は何ものかの存在を知る。アンドレ・ノートン「猫の世界は灰色」(1953)*:寡黙で知識豊富な女、冒険心旺盛な男と猫は、さまよえる宇宙船を見つける。フリッツ・ライバー「影の船」(1969/1972):靄がかかったような世界で働く主人公と、しゃべる猫のコンビが知る真相。
 (初出年/翻訳年)、*:初訳または新訳(既訳があるもの)

 この中で純粋に猫が主人公となると「共謀者たち」くらいになる。あとは、物語の重要なファクターが猫となる点が共通する。溺愛するペットの象徴「パフ」「ピネロピの贈りもの」「ベンジャミンの治療」、謎めいた猫的主人公が登場する「化身」、一枚上手の猫「ヘリックス・ザ・キャット」、パートナーである猫「チックタックとわたし」「猫の世界は灰色」、「宇宙に猫パンチ」の猫はコードウェイナー・スミス「鼠と竜のゲーム」を思わせる使われ方だ。「影の船」は設定にひねりがあり、猫が主役ではないものの妙に存在感がある。

 版権の関係で実現しなかった企画に、ハインライン「宇宙での試練」クラーク「幽霊宇宙服」アシモフ「時猫」ら3巨頭を採る案もあったようだ。ただその場合は、もう少しクラシックな印象になっただろう。もちろんSFだからといって、猫に対する人の愛情/興味が他のジャンル(ホラー、ミステリ、その他文学作品)と大きく違っているわけではない。設定やアイデアによってスケールアップされたとき、より可愛さや怖さがきわだつところに猫SFの面白さがあるのだろう。本書の大半が書かれた20世紀後半と比較すると、少なくとも日本ではペットの猫率がより高くなった(ほぼ犬と同等)。いかにも現代に似合うアンソロジイといえる。

 本書は標題だけでなくイラストも凝っていて、さまざまな「丸いもの」が表紙をはじめ各作品の冒頭を飾っていて楽しい。