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エシュバッハはドイツのベストセラー作家で、本書はクルト・ラスヴィッツ賞受賞作。ドイツSFの父ラスヴィッツといっても、日本ではハヤカワSFシリーズで翻訳されている代表作『両惑星物語』(1897)を含めて、ほとんど知名度はない(本書のあとがきでも未訳扱い)。ドイツではこのラスヴィッツ賞は、SFに限らずファンタジイや冒険小説までを幅広く対象にした賞のようだ。日本SF大賞と似た面もある。そしてまた、本書自体はノンジャンル風味のSFである。 イスラエルの遺跡で2000年前の遺骨とともに、不可解な遺物が発見される。一枚の紙なのだが、存在するはずがないものだった。それは、SONYが“数年後”に発売するはずの、ビデオカメラの説明書だった。遺骨は時間旅行者なのか、時間旅行者は何を撮影したのか。遺骨の時代はイエスが生きていたはず、そう考えた発掘のスポンサーであるメディア王は、あらゆる手段をつくして、隠されたビデオカメラの確保を画策する。発見者である主人公は、彼を出し抜こうとする野心家。宗教的打算から介入するバチカンの秘密機関、伝説が政治に直結するというイスラエル軍まで登場して、この手のノンジャンル小説の常道も豊富。時間ものに付きまとう矛盾は、なかなか周到な伏線で説明されている。ベストセラー作家ならではのテクニックといえる。 時間旅行を説明するために、ドイツから呼び寄せられたSF作家(これは作者か)は、最後に出てくる”宗教的”なニュアンスを薄める役割を担う。むしろ、このあたりの主張が、SF作家としての作者の持ち味なのだろう。まあしかし、本書のSF的な面白さは限定的かもしれない。
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副題が、Alice in the hemisphere。“hemisphere”とは何か。それは、論理、逐次処理の左半球に対して、直感/非論理、並列処理を司る脳の右半球を意味する。 7年前、東晃大学医学部で行われたある実験は、重篤な意識障害者68名を生じる重大事故を発生させる。事故の原因は、厳重に封印され隔離された一人の少女だ。少女は、人間に決して認知できない“あるものを見る”ことができる。少女の認知能力は、人とは決して相容れないだろう。つまり、人類にとって、彼女は“怪物”に他ならない。 作者は研究所でのウィルス漏洩事件を扱った『レフトハンド』(1997)で、ホラー小説大賞長編賞受賞している。本書は、スケールアップされた、その直系にあたる作品といえる。“恐るべき能力を持つ子供”という基本的なアイデアは、SFでは珍しくない。しかし、不可知の認知能力を持つが故に“化け物”(理解できないもの=非人間=化け物)となるという連想は、ちょうどホラーとSFとの境界を成しているため、面白い設定だろう。結末もまた、作者の立場はクラークと逆なのだが、ちょっと『幼年期の終わり』を思わせる。
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徳間版自薦短編集の完結篇(全6冊)。収録作品は以下の通りである。
ブラック・ユーモア《現代》篇とあって、主にドメスティックなテーマが中心となる。ただ、これこそが著者の旧来のイメージ“ドタバタ/軽薄/流行作家”を象徴する内容と思える。シュールにして下品、エスカレーションする物語、時代風俗の織り込み、猥褻さと倒錯の混交などなど、筒井康隆は若手ファンにとってカルトヒーローだった。このイメージは、60年代後半から70年代にかけて、著者が多数の作品を中間小説誌に発表していく過程で形成された。最近の作品から読み始めた読者には、むしろぴんと来ないかもしれない。事実、70年代後半(40歳以降)主な舞台は純文学系雑誌での、より実験的作品群へと移っていく。そういう意味から、もっとも若々しく爆発的な時代の作品といえるかもしれない。
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架空の過去/現在/未来が舞台、絢爛豪華な帝国/宮廷と、邪神の住む暗黒の世界/次元、世界を変容させる邪悪な魔法/数万年を超える呪いの数々。虐殺/殺戮はあってもスプラッタはなく、ヒーローは天真爛漫/病んでいても精神異常者ではない。 編者も述べているように、“ヒロイック・ファンタジイ”という言葉は、ディ・キャンプが1963年に提唱した比較的新しい言葉だが、ハワードのコナンからムアコックまでを定義付けできる(かつ、古典的な秘境冒険もののメリットやバローズを含めない)考え方だった。日本でも、団精二(荒俣宏)が、コナンの最初の単行本『征服王コナン』(1970)を翻訳し、鏡明らと共に熱心に紹介していた。ところが、30年前に初めてコナンが日本で紹介された当時、この種のファンタジイは、スペースオペラと並ぶハヤカワSF文庫の2大看板とされた。SF文庫の最初の刊行作6冊のうち、3冊がスペオペ、残りが冒険ファンタジイである。ハワード、メリット、バローズという、ディ・キャンプの定義に反するファンタジイが、エンタティンメイトとして事実上1つに扱われた。 そういった歴史的経緯から、これらを別ものと見做す論理的根拠はあっても、主観的にそうは感じられないのが評者の感想となる。 収録作品は以下の通り。この中で読める作品は、ハワード、ムーア、ライバー、ヴァンス(初訳)、ムアコック(長編『この世の彼方の海』の原型)となる。その他の作品は、歴史的価値を重視すべきものだろう。上記の立場からすると、本書の“正しいヒロイック・ファンタジイ”は、印象が似通いすぎていて、ちょっと狭すぎるように思える。
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牧野修の7つの短編を収めた作品集。7篇+プロローグとエピローグが新たに書き足され、1つのオムニバス長編のように構成されている。 過去のささいな出来事から、人を殺してしまった3人の男たちは、それ以来、非合法すれすれの仕事で暮らしていたが、ある日不可解な電話/落書きに悩まされるようになる(プロローグ)。 きわものAVの企画のため、田舎町の食堂に迷い込んだディレクタと助手の運命(ドキュメント・ロード)。執念深いいじめを受ける少女が産み出す破壊者(ファイヤーマン)。誰からも無視される高校生の少女の家には、古い防空壕に潜む何かがいる(怪物癖)。落ちこぼれの男に持ちかけられた、医薬治験のアルバイト(スキンダンスの階梯)。鍵開けの天才が開く古代の封印(幻影錠)。ほんの悪戯に思えた嫌がらせが、家族の身辺へとエスカレーションする(ヨブ式)。自身の過失で息子を殺した父親に伝えられる“真実”(死せるイサクを糧として)。 牧野修の特徴、というか、最近のホラー全般の特徴かもしれないが、登場する被害者/加害者共に正常ではない。いやいや、そもそも正常の規範がないのである。神さえも正しくない。最後の2作は、旧約聖書の暗黒面 (神の異様さ)が描かれていて、まさに、聖書をホラーとして読む試み。 しかし、この種の奈落ホラーは、相当の気力/体力がないと読めない。ストレス解消には不向き。とことん落ち込みたい人向きかも。
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