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1963年にウォルター・テヴィスによって書かれ、1976年にニコラス・ローグ監督、デイヴィッド・ボウイ主演で映画化された作品。映画のほうは、上映当時さほど評判にならなかったが、ボウイ主演ということもあって、今では“伝説”だろう。テヴィスもまた、映画『ハスラー』(1961)の原作者で、生涯7冊の作品を残すのみ(そのうち、1冊は『ハスラー2』)ながら、本書を含めて3作が映画化されるなど、寡作なわりに幸運といえるのかもしれない。ただ、テヴィス個人の生きざまは、ずいぶん悲惨なものであったようだ。 アメリカの田舎町に異星人が降り立つ。危機に瀕した故郷を救うための密命を帯びて。しかし、彼の前には苦難が横たわる。母星の何倍もある重力、異邦の習俗、相容れない感性――高度な知識を駆使して着々と計画を進めながら、一方、彼は孤立を深めてゆく。主人公を理解しようとするのは、元大学教授と、アル中の中年女性だけ…。 テーマは、見ての通り“孤独”そのものである。これが、別の観点で今日的なのは、先月のスタージョンのレビューを参考にしてもらえばよい。50-60年代、核の恐怖下での“孤独”は、アメリカ経済の繁栄の陰に紛れて、むしろ表立ってこなかった。個人の基盤が脆弱な今こそ、誰もが共感を持って読めるのである。 扶桑社からは、『パヴァーヌ』(1968)、『デイヴィー』(1964)とSFのクラシックが出ており、『地球に―』もその系列に相当する。テヴィスは、アルコール依存症を克服し作家活動に専念した矢先、1984年に56歳で亡くなった。SFは、短編集『ふるさと遠く』(1981)、『モッキンバード』(1980)と本書の3冊が翻訳されている。
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『鳥類学者のファンタジア』の奥泉光が、ヴェルヌに挑む新作SF長編。 世間を騒がせた、著名な科学者とその娘の失踪事件。謎が解明されないまま1年が経ち、事件が忘れられようとするころ、主人公の友人が有力な説を披露する。博士は、富士の裾野にある洞窟から、地底世界へと旅立ったというのだ。主人公、お調子者の友人、博士の弟子と女中の娘の4人は、リデンブロック博士(『地底旅行』の登場人物)の手記そのままに、驚異の地底世界へと下降する。彼らの前には、漆黒の瀑布、延々と続く螺旋状トンネル、地底の海と巨竜、恐竜人の群れ、そして落雷の巣が…。 秘境探検ものから一転、地底世界の秘密(例の宇宙XXXXです)が解き明かされるところは、いかにもこの作者流。皮肉っぽい主人公(挿絵画家)と、饒舌ながら見掛け倒しの友人、エキセントリックな科学者と、17歳だがしっかりものの女中、という人間の取り合わせも楽しめる。原作『地底旅行』が見せてくれた、博物学的豊饒さ(“新発見”の羅列)はちょっと希薄だが、19世紀のヴェルヌ=明治の連想からそう思うだけで、本書の明治後半には、アインシュタイン「特殊相対性理論」(1905)も発表されていた。もはや博物学の時代ではない。 ちなみに、本書は『鳥類―』(2001)、および『「吾輩は猫である」殺人事件』(1996)と設定/人物の一部を共有する。著者は1994年の芥川賞作家。
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著者の(現在の)ライフワーク、“五感シリーズ”の最新作。臭覚を扱った『カニスの血を嗣ぐ』(1999)、視覚の『左目を忘れた男』(2002)、聴覚テーマ(かつ、第58回日本推理作家協会賞受賞作)『石の中の蜘蛛』(2002)が既刊。本書は触覚を扱う。 主人公は幼い頃酷いアトピーに罹り、極度に内向的な性格に育つ。今では、他人とほとんど接触しない生活を送っている。しかし、見知らぬ蜂に刺された後、理性を吹き飛ばす奇妙な感覚に取り憑かれる。皮膚が鋭敏になり、あらゆる感触が異なって感じられる。やがてそれは異様な性的願望へと結びついていく。前半の“接触感覚”描写は、後半、体に密着する下着(ストッキングなど)へのフェティシズム、究極の接触行為でもある“痴漢”の視点へと変貌する。 著者自身、本書をハードコア・ポルノと称する。実際、後半3分の1はそのような展開になるのだが、主人公がしだいに壊れていく過程が印象的である。 ただ、気になるのは説明不足。たとえば、この物語の主人公に起こった現象と、アフリカのコンゴ奥地で起こった現象との因果関係がおかしい。また、虜になる女性が主人公からの接触で、なぜあのような反応を見せるのかも、“針”が原因ではないので、ちょっと納得できない。 さて、本書に近い作品があるとすれば、牧野修『傀儡后』(2002)と貴志祐介『天使の囀り』(1998)あたりか。
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テリー・ビッスンは90年代の中頃に本書の編訳者によって紹介され、2冊の長編
『世界の果てまで何マイル』(1986、翻訳1993)、『赤い惑星への航海』(1990、翻訳1995)やSFマガジンの特集記事(1994年11月号)などで知られるようになった。とはいえ、ヒューゴー賞やネビュラ賞等アメリカでの評価は高いのに、日本での人気は継続せず、
3冊のノヴェライゼーション(映画の小説版)を含めて絶版状態となっている。本書は、そんな状況に満足できない編訳者の、執念ともいえる日本オリジナル傑作選である。
しかし、これが90年代の短編なのか。改めてビッスンを読み直すと、“同時代性のなさ”を再認識させられる。もちろん、そこに書かれた風俗や科学用語は時代相応かもしれないが、わずか10年前の作品とは思えず、50-60年代といわれても違和感がない(大半はアシモフズSF誌、一部 プレイボーイ、オムニ誌に掲載)。アメリカ特有の壮大なジョーク、大法螺と聞くと、我々は大笑いしながら読まねばならぬと思いこむ。日本でビッスンが広がらないのは、どこか笑いきれない部分、冗談で終われない部分が残るからではないか。けれども、本当はこういう大法螺は、真剣な顔で(なかば信じて)聞くのが本当かも知れない。そうすれば、漂う英国というばかばかしい設定や、冥界に飛ぼうとする主人公が抱く悲哀にも共感できるだろう。
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その昔、トマス・N・スコーシア篇のアンソロジイに『ストレンジ・ベッドフェロウズ』(1972)というのがあったが、本書の掲題は著者が「翻訳の世界」(eトランスの旧称)に連載していた最初期の評論に付けられていたもの。時期は1991年9月から翌年の12月。日本SF大賞を受賞した『女性状無意識』が94年で、同書にもこの連載の一部が含まれていた。さまざまな意味での原点といえる。 取り上げられた作品は、「無脊椎動物間の愛と性」(パット・マーフィー)/Electric Forest(タニス・リー)/Hermetech(ストーム・コンスタンチン)/ K/Sフィクション(スタートレック)/The Gilda Stories(ジュウェル・ゴメス)/Divine Endurance(ギネス・ジョーンズ)/A Woman of the Iron People(エレノア・アーナスン)/Carmen Dog(キャロル・エムシュウィラー)/Faces(リー・ケネディ)/Memoirs of a Spacewoman(ナオミ・ミチスン)/He, She and It(マージ・ピアシイ)/Sarah Canary(カレン・ジョイ・ファウラー)/Synners(パット・キャディガン)/A Mask of the General(リサ・ゴールドスタイン)/『冬長のまつり』(エリザベス・ハンド)と、大半は未訳ながら名のある作家が多い。英米に限っても、翻訳される作品はほんの一部(10分の1以下)に過ぎないが、著者の目指すフェミニズムに沿った紹介の場合さらに少なくなる。テーマで見るならば、男(man)概念に対立するエイリアンすべて、異星/非人間/非生物、そして異性そのもの。ロボット/バンパイア/ガイノイド/やおい/ゴーレム/ハッカーと、SF特有のガジェットに対する斬新な視点は貴重だろう。 実のところ、本書の冒頭は読みにくい。さまざまな造語で修飾された文章が過剰。しかし、それも数章進むといつもの小谷節が全開し、快調に読めるようになる。著者の提示するさまざまな考え方は、本来(柔軟といわれる)SFの読者にこそ受け入れられるべきものだ。
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