2012/12/2

ケヴィン・ブロックマイヤー『第七階層からの眺め』(ランダムハウスジャパン)
The View from the Seventh Layer,2008(金子ゆき子訳)

装丁:常松靖史[TUNE]

 昨年11月に出た本。4年ほど前に、長編『終わりの街の終わり』が紹介されたブロックマイヤーの短編集である。著者は1972年生まれで、O・ヘンリー賞、イタロ・カルヴィーノ短編賞などを受賞、もともと短編の方に本領がある。本書(第2短編集)では、SFやファンタジイの要素をふんだんに取り入れた13編を収録する。

千羽のインコのざわめきで終わる物語:誰もが歌を唄う町で、一人唄えない男はインコを飼うことにした
第七階層からの眺め:島に戻ってきた女性が体験する、さまざまな人たちの中の一人の生活
思想家たちの人生:妊娠した恋人との関係に悩む文学部教員の前に現れたジプシー女
静寂の年:偶然起こった世界全体を覆う静寂は、やがて長期化し日常となっていく
壁に貼られたガラスの魚の写真にまつわる物語:中年の家具職人が、滞在先の家で見た不思議な写真
ジョン・メルビー神父とエイミー・エリザベスの幽霊:冴えない神父の説教が突然説得力を得た理由とは
〈アドベンチャーゲームブック〉ループ・ゴールドバーグ・マシンである人間の魂:ゲームブックで描かれるある日常
トリブルを連れた奥さん:初代スタートレックの設定(「トリブル騒動」)で書かれた、船長と人妻との顛末
瞳孔にマッチ棒の頭サイズの映像が含まれている物語:お互いが見詰め合うことができなくなった町の人々
ホームビデオ:視聴者投稿ビデオ番組で、映像の選択作業をする男がとった小さな反抗
空中は小さな穴がいっぱい:難民キャンプで写真を撮られた少女は、やがて大人になって同じ要求を受けるが
アンドレアは名前を変える:小学生で両親が離婚したアンドレアと、その人生を傍観する主人公
ポケットからあふれてくる白い紙切れの物語:誰かの願いが、紙切れとなって紛れ込む神さまのコート

 ピーター・S・ビーグル(『最後のユニコーン』など)や、ウォルター・テヴィス(『地球に落ちてきた男』など)に傾倒するという、作者の好みが良く出た内容といえる。孤独な主人公の苦しみは、別次元からの視点でも使わない限り解決の糸口もないものだが、いったんそこから見直すと全く別物に見えてくる。本書の短編からは、そういう切り替えが鮮やかに読み取れるのである。SF的(寓話的)なのは、「千羽のインコ…」「静寂の年」「瞳孔にマッチ棒の…」「ポケットからあふれてくる…」で、「トリブル…」はカーク船長を主人公としたハーレクイン風メロドラマ。

 

2012/12/9

西崎 憲『飛行士と東京の雨の森』(筑摩書房)


装丁:飯塚文子、装画:ナカノヨーコ

 9月に出た、7つの中短編を収録した作品集。大幅に加筆されたという冒頭の中編1編を除き、他はすべて書き下ろされたものだ。

理想的な月の写真(2004):小さな音楽事務所に、自殺した娘をイメージするCD作成の依頼が入る
飛行士と東京の雨の森:偶然入手した本から紐解かれる、父親に日本人を持つウェールズ生まれの少女の物語
都市と郊外:高速道路で偶然すれ違う男と女の一瞬
淋しい場所:両親も亡くし独り身になった男は、都市の中に潜む“淋しい光景”を写真に撮るようになる
紐:友人は、夢の話の中で、見えない天井から下がる一本の紐を見るという
ソフトロック熱:プロのバンド活動から逃げ出した主人公は、自身の本当に望むものを知る
奴隷:奴隷制度が日常化した、もう一つの日本社会

 主人公は、依頼主が提示した10の娘の思い出/形見を主題に、一連の音楽を組み立てようとする。それらは田舎の写真であったり、ワンピースであったり、ステンドグラスの欠片や、人形といったものから、シモーヌ・ヴェイユや表題の写真集だったりする。娘の痕跡からインスピレーションを得る作曲の旅は、やがて現実を越えた月の写真の世界へと連なっていく。表題作は、古本に書かれたウェールズの飛行士、その地で結婚した日本人、父親を亡くした娘、遠い日本への憧れと、自由連想のように物語が紡がれる。この作品集に共通するテーマは、“たった一人”という孤独さだろう。しかし、主人公たちはその孤独に苦しんでいるわけではない。大都会はまさに“雨の森”(=さまざまな生物が生きられる、豊かな熱帯降雨林)なのであり、さまざまな可能性が萌え出ている。その可能性の海の中では、孤独ではあっても不幸ではないのである。

 

 10月に出た(奥付では11月となっている)、瀬名秀明の講演をベースにした論考。表題にはないが、講演からの書き起しはライターの水野昌彦が行っている。この表題だけからは、一般読者向けのSF入門書のように見えるけれど、内容で瀬名秀明のSFに対する考え方が明確にわかるようになっている。

 未来を考えるとはどういうことか:未来を分かりやすく表現することの意味、想像力の大切さ
 エネルギーをかぱらってこい!:SFの中でエネルギーはどう扱われてきたか、そして生命活動とは何か
 ロボットと人間の違いってなに?:シンパシー(共感)と、エンパシー(感情移入)の違い
 空から地球文明とSFを眺めて:インフルエンザに対する考え方から、自身の科学観、小説観への展開

 昨年から、瀬名秀明は第16代日本SF作家クラブの会長職にある。2013年の日本SF作家クラブ創立50周年に合わせて、さまざまな記念行事を立ち上げようとしている。本書を含め、SFに対する啓蒙活動も積極的に行っている。そんな著作の冒頭に「ファンダムからSF作家とは思われてこなかった」と書かれているのは、いかにも違和感がある。ここで、組織である日本SF作家クラブに対し、“ファンダム”という組織がある訳ではない。コアなファン層全般を指しているのである。
 日本のSFのベースは小松左京、星新一、筒井康隆らや、海野十三や手塚治虫だという人もいるだろう。そういった作家の上に作られたものだ。アメリカのSFも同じように作家の流れで成立してきた。つまり、過去の作品の上に組み立てられてきた。コアなファンを束ねるファンダムは、アメリカから生まれた発想だ。これも、既存の作品をベースに成り立っている。科学的アイデアでスタートしたとはいえ、後継作家たちが目指す作品は、ウェルズやヴェルヌら創始者たちとは既に別の流れにある。それに対し、瀬名秀明は、創始者の原典に帰った方法論でSFを捕らえようとしている。これはレムに似ているので評者は納得するが、レムもアメリカのファンからは人気がない。その後の伝統的なSFのスタイルとは異なるからである。とはいえ、既に『パラサイト・イヴ』から17年を経たベテラン作家が、いつまでも違いに拘っても意味がない。自身の考え方を進めれば良いのだ。ファンが保守的なのは、どの分野においても同じことなのだから。

 

2012/12/16

R・A・ラファティ『昔には帰れない』(早川書房)
You can't go back, and Other Stories,2012(伊藤典夫・浅倉久志訳)

カバー:横山えいじ

 浅倉久志/伊藤典夫共訳によるラファティ短編集としては、1996年の『つぎの岩につづく』以来16年ぶりのこと。前作は元になる短編集Strange doing,1973があったが、本書は雑誌に断片的に翻訳されたものから選ばれたオリジナル短編集である。ラファティ人気は昨今高まっていて、9月の出版予定から3か月遅れる間も話題が絶えなかった。第1部の8作は従来からのイメージ通りの法螺話風、後半第2部の8作は結末がなく得体のしれない奇想小説となっている。

素顔のユリーマ(1972/74):字も書けない愚か者は、その代わり誰にも真似できない恐るべき発明者だった
月の裏側(1960/2002):日常行動を偶然変えてみた男は、まったく別の現実を見る
楽園にて(1961/83):不毛の惑星と思えた地に、失われた楽園を見た者たち
パイン・キャッスル(1983/98):明りのない暗闇に閉じ込められた、男女のこれまでの人生
ぴかぴかコインの湧きでる泉(1978/79):契約で尽きることのないコインの泉を得た男
崖を登る(1970/94):登れる高さが競われた崖で、学者が読む古代からのメッセージの数々
小石はどこから(1977/94):そのアパートでは、雨の後の窓辺に、どこからともなく小石が湧いてくる
昔には帰れない(1981/86):巨大な丸い岩が、まるで月のように重力を持って存在する田舎の谷
忘れた偽足(1970/94):異星人のために診療施設を開く星で、絶え間なく訪れる奇妙な患者たち
ゴールデン・トラバント(1966/2000):危険を冒して小惑星から禁断の荷物を運んでくる男
そして、わが名は(1974/94):さまざまな動物たちが山を越え集まった先
大河の千の岸辺(1970/92):不滅の巻き布に描かれた、いつの時代とも知れないミシシッピの細密画。
すべての陸地ふたたび溢れいづるとき(1971/2002):あらゆるものが変化する日あらゆる過去が蘇えってくる
廃品置き場の裏面史(1986/2008):犯人を問い詰める捜査官は、別のものが見えるようになる
行間からはみだすものを読め(1974/94):人類の歴史には封印された千年があった
一八七三年のテレビドラマ(1978/2006):19世紀に人知れず発明されたテレビジョンと記録されたドラマ
 *括弧内は(原著初出/翻訳初出)としています。

 ラファティが、単なる酔っぱらいのマッド作家(デビュー当時のラファティに会ったジュディス・メリルによる感想で、その評価が定着していた)ではないという説は、評論家柳下毅一郎や井上央の研究で明らかになってきた。アイデアが奇抜なのは本人の資質ながら、背景にキリスト教をベースとした深い教養と哲学的考察があるとされる。しかし、薀蓄はたいてい意図的に隠蔽されており、読者に対して何の説明もない。これでは、愉快犯的な作家と看做されても仕方がない。ただ、本書の第2部、審判の日をイメージする「すべての陸地…」、多重化された人物関係を描く「廃品置き場の…」、隠された人類史「行間から…」、驚異の発明「一八七三年の…」などは、そもそも落とし噺にもなっていない。どこか居心地の悪さが残る。“アメリカ伝統の壮大な法螺話”だけで読み解くには無理がある。もっと現代的な幻想小説として読まれるべきなのだ。そういう意味でも、本書はラファティの多層的な深みが良く分かる好作品集と言える。

 

2012/12/23

フェリクス・J・パルマ『宙の地図』(上下)(早川書房)
El mapa del cielo,2012(宮崎真紀訳)

カバーイラスト:影山徹、カバーデザイン:ハヤカワ・デザイン

 スペインの人気作家パルマの新作。好評だった前作『時の地図』(2008)の続編である。H・G・ウェルズを主人公とした濃厚な冒険小説だ。独立したエピソードだが、設定を引き継いでいるので、順序としては前作を読んでからの方が良いだろう。

 時間旅行社騒動から2年後、『宇宙戦争』を発表したウェルズのもとに、粗悪な続編を書いたアメリカ作家が訪れる。彼は秘密の倉庫に隠された“火星人”を知っており、ウェルズを導いてくれるという。そこには、70年前の南極で遭難した探検隊の遺物と共に、地球のものとは思えない円盤と異星人の遺骸があった。

 サービス精神旺盛という意味では、まさに盛り沢山な印象。改行がほとんどなく、延々と描写が続く展開なのに、読者を飽きさせることがない。ギャレット・P・サーヴィス(本書で書かれたほど軽薄な人物だったかどうかは定かではない)が書いた『宇宙戦争』の続編『エジソンの火星征服』(1898)は実在するし、ジェレマイア・レイノルズ(探検については不詳ながら、ポーに影響を与えたと言われるジャーナリスト)が主催するアメリカの南極探検隊は、実は地球空洞説を実証しようとしていたとか、どことは言わないが文豪ポーも登場して活躍するとか、冒頭から既に大変賑やかだ。ここで、宙の地図とは、リチャード・アダムス・ロックが月に文明があると報道して一大センセーションを巻き起こした事件(当時は事実と思われた)に由来するもの。ロックはヒロインの祖父に設定されており、彼が夢見た宇宙の絵巻が“宙の地図”なのだ。
 後半になると、物語は一変する。異星人による地球征服戦争が実際に起こり、人類は敗北・奴隷化される。ここは、ジョン・クリストファー原作の『トリポッド』そのままのお話につながる。この作品は古典的なTVシリーズとなっており、おそらくヨーロッパの多くの国で親しまれたのだろう。しかし、結末は既存のどの作品にも準拠せず、いかにも現代SF的解釈で終わる。なぜこんなエピソードがあるのかと疑問に思うような伏線があるのだが、大半は見事に回収されている。饒舌にして起伏に飛び、怪しげな薀蓄も楽しめる贅沢なエンタティンメントだ。

 

2012/12/30

山本弘『UFOはもう来ない』(PHP研究所)


装丁:bookwall、装画:ケッソクヒデキ

 PHPから出ている文庫形式の月刊誌「文蔵」に、2010年11月から11年6月にかけて掲載された長編を加筆修正したものである。『神は沈黙せず』(2003)以来、著者が何度も取り上げてきた超常ネタの中でも、今回は特にUFO現象をふんだんに取り込んだ作品となっている。

 怪しげなUFO番組の下請けプロデューサー、真面目なUFO研究家だった祖父を継いだ孫娘、天才的な詐欺師でもあるUFO教の教祖。立場も目的もばらばらな彼らの前に、ある日突然本物のエイリアンが現れる。世界に知らせるべきか、隠匿すべきなのか、異星人の思惑も交え、世界を巻き込む大混乱が始まろうとする。

 超常現象はカルト的なファンが多いが、中には無批判な宗教的事象としてとらえようとする者がいる。いったん宗教の領域に入ると、科学的/論理的な判断は失われ、信じるか信じないかの単純な二分法に陥りがちだ。そういった議論を、トンデモ科学の権威でもある著者の立場から描いたのが本書である。頭足類(タコ)のような宇宙人、非人類である彼らから見た人間中心のUFO観は、文明の未熟さを象徴するものだ。登場人物に邪悪な存在はおらず、明確に善悪を強調しない点は、山本弘流の価値観を反映していている。
 本書の章題は、すべて英語になっている。これは、1960年代のTVシリーズ《アウターリミッツ》の原題から採られている(後にリメイクもされた人気シリーズだ)。日本で放映された際の邦題は原文を全く無視しているので、見た人でも記憶との対応はつけにくいが、著者はむしろ原題を各章の内容に擬えようとしているので、あまり気にする必要はないだろう。
 また、末尾には、異星人社会の詳細設定が置かれている。“お約束”とあるが、過去の一部のSFでは、異星/異世界の設定を、文化面/科学面から詳細に解説する「付録」がついていたことに由来する。それだけ異なる異星人なのに、人間的な思考を行うというのも一種のお約束だ。思考までが異質だとコミュニケーションが不可能となり、物語が成り立たなくなるからである。