2016年10月からスタートしたJ・G・バラード短編全集が、予定通り全5巻で完結した。特に本書では、これまでオリジナルの短編集として唯一未訳だった『近未来の神話』(1982)に属する7編を読むことができる(他3編はすでに第4巻に収録済み)。これで、凡そ40年にわたって書かれた98編が、発表年代順かつ最新訳ですべて読めるようになった(この巻に含まれる最後の2編は、原著2001年版が出た後に追補されたもの。その関係で1作のみ年代順ではない)。巻末にはウィリアム・ギブスンによる、日本版特別寄稿も収められている。
英国内戦を実在のニュースアナウンスからコラージュする「交戦圏」(1977) 、観光客がリゾートに閉じ込められる「楽しい時間を」(1978)、 第2次大戦の遺構で過去の兵士を見る「ユタ・ビーチの午後」(1978)、ヒッチコックの「サイコ」を妄想する男「モーテルの建築術」(1978)、
シンデレラを妄想する富裕層の娘「暴走する妄想の物語」(1980)、 光と時間がテーマの三部作「太陽からの知らせ」(1981)「宇宙時代の記憶」(1982)「近未来の神話」(1982) 、エリザベス女王とレーガン大統領を狙うテロリスト「
攻撃目標」(1984)、月面着陸した元宇宙飛行士と称する落ちぶれた男「月の上を歩いた男」(1985)、
EU成立後リゾートにバカンスで訪れた人々は帰国を拒否した「世界最大のテーマパーク」(1989)、20世紀最後の頽廃的なTV番組表「ヴァーチャルな死へのガイド」(1992)、火星から帰還した宇宙船から誰も出てこなかった「火星からのメッセージ」(1992)、作家のバ***以外すべての人が消え失せる「J・G・バ***の秘められた自叙伝」(1981)、ピサの斜塔が崩れ落ちるとき現場に居合わせた男が語る真相「死の墜落」(1996)
など24作。
「太陽からの知らせ」「宇宙時代の記憶」「近未来の神話」は、ほぼ同じ設定と、同様の登場人物が繰り返される三部作だ。「太陽からの知らせ」では、ネヴァダ砂漠が舞台で、時間が遁走する(急激に流れる)病が蔓延する。主人公は医師、疎遠になった妻は超軽量飛行機に乗る元宇宙飛行士と関係を持つ。「宇宙時代の記憶」はケープ・ケネディの廃墟が舞台、時間が失われていく病が広がる。この作品の主人公も医師、グライダーに乗る少女や、軌道を巡る死者となった宇宙飛行士、複葉機を操る元宇宙飛行士が出てくる。「近未来の神話」は同じくケープ・ケネディの廃墟が舞台で、引きこもりとなる宇宙病が人々を侵す。主人公も病に苦しむが、若い神経外科医と南に旅立った元妻を追う。その医師は鳥に執着し、グライダーを操るのだ。「夢の積荷」(1990)(『楽園への疾走』の原型)とも繋がる作品。三作品とも主人公と妻との仲は歪んでおり、離反を知りながら咎めもせず、ストーカーのようにただ付き纏う。この崩壊した夫婦関係は「ユタ・ビーチの午後」や「死の墜落」でも見られるバラード得意の設定でもある。
バラードの場合、単なるアイデアストーリーも馬鹿にはならない。無限に拡大していく「未確認宇宙ステーションに関する報告書」(1982)や「巨大な空間」(1989)は、ウィル・ウィルス『時間のないホテル』などに影響を与えたと思われるし、核戦争より大統領の病状報道に執心するメディア「第三次世界大戦秘史」(1988)は、昭和天皇の危篤報道が始まる前に書かれたまさに予見的作品だ。「寒冷気候の愛」(1989)は村田沙耶香『消滅世界』と同様の発想、「戦争熱」(1989)も伊藤計劃『虐殺器官』の先駆作といえる。
監訳者である柳下毅一郎は「J・G・バラードは二十世紀でもっとも偉大な作家ではないかもしれない。だが、彼が二十世紀においても指折りの重要な作家として名を挙げられるのはまちがいないだろう」と記している。その理由を「バラードは二十世紀に生きる我々の生について書いた。我々の生のかたちは何に規定されているのか、未来のそれはいかなるかたちを取るのか…(中略)…問題意識はつねに変わらなかった」と続けている。そういう意味からすると、テクノロジーが廃墟と戦争を誘い、夫婦の関係を問い直す本書の収録作こそ、20世紀と近未来21世紀を象徴する作品群と言えるだろう。
ところで、巻末にある今年70歳になるギブスンの寄稿文は、冷静な分析批評ではなくバラードに対するオマージュに満ちたものだ。12歳でバラードを知り、サイン会で初めて出会い、インタビュー記事で名前を挙げてくれたことに感激するなど、素直な喜びを語っている。ギブスンにとって、バラードはカルト・ヒーローだったのだ。