講談社タイガから出た「改変歴史SFアンソロジー」である。小説現代2022年4月号の特集「もしもブックス」をベースに、斜線堂有紀の中編を加えたもの。
石川宗生「うたう蜘蛛」イタリア南部の町タラントで蜘蛛を媒介した奇病が発生する。スペイン人のナポリ総督はこれを鎮めようと手を尽くし、怪しい噂に満ちたパラケルススの力を借りることにする。
宮内悠介「パニック――一九六五年のSNS」1965年の日本で、国産大型コンピュータを介した最先端のネット社会が実現する。カナ文字のみの簡素なネットだったが、そこで世界初の炎上事件が発生する。
斜線堂有紀「一一六二年のlovin’life」後白河天皇の皇女である式子内親王は、御所の歌合では沈黙を保たざるを得ない。なぜなら親王は詠語に自信が持てず、和歌は詠語での朗唱が必須だからだ。
小川一水「大江戸石廓突破仕留(おおえどいしのくるわをつきやぶりしとめる)」明暦三年、関東代官の長男と親しい小者は、江戸から西十里ほどにある玉川上水の見回りで薬売りの一行を助ける。それは大事件の先触れだった。
伴名 練 「二〇〇〇一周目のジャンヌ」国家主義時代が終わり第六共和制が成ったフランスで、国家主義者が賛美したジャンヌ・ダルクの再検証が行われる。量子コンピュータ上でシミュレーションが実行されるのだ。否定的な結果が出るまで何千回、何万回も。
事件/事象やキーパーソンの意志決定に干渉し、歴史の流れを変えるという旧来の意味での「改変歴史」とは、ちょっと違ったニュアンスの作品が多い。宮内悠介の発想はもともとの定義に近いが、岸信介や開高健ら、実在した人物を批評的に解釈する手段に使っている。小川一水のアイデアは壮大(なぜ江戸は石造建築ばかりなのか)で、結末の付け方も伝統的なSFスタイルに準拠する。
一方、石川宗生、斜線堂有紀は歴史的な事件と言うより、組み合わせの奇抜さ(ナポリの音楽タランテラやタランティズムと錬金術、和歌の名手である式子内親王と英語)の上にフィクションを築くという荒技だ。そうなる理由などは示されない。
伴名練はシミュレーションと人間の違いはあるが、「アラスカのアイヒマン」を思わせる作品である。この作品では、状況説明の中で設定の意味が明らかになり、さらに歴史的英雄の本質に踏み込むという周到な伴名練節が味わえる。
- 『Voyage 想像見聞録』・『短編宇宙』評者のレビュー
今週はもう1冊、西崎憲の短編集を読んだ。新書版の上製本で、カバーはなく帯もミニマルという凝った造本になっている。短編1本(電子書籍で発表済)と、ショートショート4本(書下ろし)からなるコンパクトな内容。
本の幽霊:海外から届く古書のカタログで、ぼくは長年探していた本を見つけるのだが、その本のことをマニアの友人も知らない。
あかるい冬の窓:長いつきあいの知人は、転職を考えグラフィックデザインの勉強をしている。ところがある日、スターバックスの二階の窓にどこか見知らぬ街の風景を見る。
ふゆのほん:詩人が主催する参加型読書会の案内を見つけた。それは街を歩きながら行うイベントのようだった。ぼくはいつもの読書サークルの友人を誘って参加する。
砂嘴の上の図書館:大雨の後、川の砂嘴に建物が現われる。不審に思った町長はそこを訪れるが、図書館とあるのに本は見当たらない。
縦むすびの ほどきかた:今度の読書会は京都で開かれる。東京在住でその気もなかったぼくだが、思い立って日帰り参加することを決める。
三田さん:歌唱を教える一般講座に、三田さんが参加してくる。三田さんには歌いたい事情があったのだ。
寓話的な「砂嘴の上の図書館」だけは三人称で、あとは一人称のぼくや、ぼくの知人友人たちの体験したこと、聞いたことのお話になっている。読書家と自分を変えたいと思っている人たちの物語である。その両方というのもあるが、どれも強迫観念とまではいえず(著者の視点のためか)柔らかくふんわりしている。思いは叶うこともあれば、叶わないこともあって、人の日常そのものでもある。
どれも短い。1~2時間もあればすべて読んでしまえる。けれど、それではもったいなくて、この本の場合は1日1編がちょうど良い分量だと思う。ほぼ1週間は楽しめる。
- 『未知の鳥類がやってくるまで』評者のレビュー