ウルトラ世界を別視点から描き直す

 シミルボン転載コラムは、先週との関連になりますが、ウルトラ世界について書いた2016年のコラムを紹介します。こちらでは山本弘さんだけではなく、4年前亡くなった小林泰三作品を紹介しています。以下本文。

 2013年のデル・トロ版怪獣映画《パシフィック・リム》や2014年のギャレス版ゴジラから、怪獣ものは大人向けエンタテインメントとして再び注目を集めるようになった。それらが、「シン・ゴジラ」を生み出す原動力になったことは確かだろう。怪獣といえば、映画のゴジラに対し、もう一つTVでの原点となるのが円谷プロによる《ウルトラシリーズ》である。

カバー:開田裕治、後藤正行

 『多々良島ふたたび』は、2015年7月に出たアンソロジイで、円谷プロと早川書房(SFマガジン)とのコラボから生まれたものだ。収録作と著者解説は、すべて2015年に出たSFマガジンに掲載されたもの。2015年は怪獣アンソロジイが多数出た(たとえば『怪獣文藝の逆襲』)。それらの多くは、「ウルトラQ」「ウルトラマン」など《ウルトラシリーズ》に対するオマージュに基づく。本書は、その中でもオフィシャルなコラボということで、具体的な怪獣名なども含め、明確に元ネタを明らかにしている点が特長だろう。

 山本弘「多々良島ふたたび」レッドキングとウルトラマンが死闘を演じた島に観測員たちが再上陸する。北野勇作「宇宙からの贈りものたち」防災委員に任命された青年は火星のバラを荒らすナメクジの話を聞く。小林泰三「マウンテンピーナッツ」過激な環境保護団体が、ウルトラマンの怪獣退治を妨害する。三津田信三「影が来る」いつのまにか自分の分身が現われ、勝手に行動するようになる。藤崎慎吾「変身障害」ウルトラセブンが精神を病み、危機に陥っても変身できなくなる。田中啓文「怪獣ルクスビグラの足型を取った男」怪獣の足形を取る特殊な職務は、時代に合わず廃れつつあった。酉島伝法「痕の祀り」倒された怪獣を解体する任務に就く、特殊清掃会社の社員たち。

 ウルトラマン(多々良島)、ウルトラQ(ナメゴン、バルンガ)、ウルトラマンネクサス/ギンガ、ウルトラセブンなどなど、元ネタがあるといっても、大半は2次創作やパスティーシュとは少し違うものだろう。表題作「多々良島…」のみは原典の続編といっても良いが、頽廃感が漂う「宇宙からの…」、正義の立場を逆説的に問う「マウンテンピーナッツ」、ウルトラQ的な不条理感がある「影が来る」、現代の病理に犯されるセブン「変身障害」、滅びゆく職業への哀惜が感じられる「怪獣ルクスブグラ…」、独特の奇怪な会社を描く「痕の祀り」と、各作家の世界観にウルトラ怪獣(の固有名詞)をはめ込んだらどうなるかを試しているかのようだ。

カバー: 後藤正行

 なお、このうち「多々良島ふたたび」「怪獣ルクスビグラの足型を取った男」は2016年の星雲賞(国内短篇部門)を同時受賞している。

 引き続きコラボ企画の第2弾は、三島浩司『ウルトラマンデュアル』である。同書はウルトラマンの大枠を生かしながらも、設定や怪獣名などは独自のものだ。いわば別世界のウルトラマンだった。それに対し、第3弾小林泰三『ウルトラマンF』は、登場人物(早田=ハヤタ、嵐=アラシ、井出=イデ、そして富士明子=フジ・アキコ)や怪獣の名前(ゴモラ、ブルトン、ゼットン、ケムール人、メフィラス星人)も含め、オリジナルの設定をできるだけ取り入れているのが特長だ。その範囲は、《ウルトラQ》から《平成ウルトラマン》までを含む非常に広範囲なものになっている。

カバー:後藤正行

 《初代ウルトラマン》終了直後の時代、ウルトラマンは地球を去ったが、怪獣の脅威は収まることがなかった。科学特捜隊は、ウルトラマンの技術を応用したアーマーで対抗する。某国では人間の巨大化開発を進め、別の某国でも密かに兵器化を模索していた。しかし、強力な怪獣を倒すためには、不完全な兵器では力不足だ。かつて、メフィラス星人により巨大化した実績のある富士隊員の力が必要だった。

 ウルトラマンに限らず、ヒーローものや怪獣ものを小説にすると、物語に矛盾があったり科学的といえない設定が出てきたりする。しかし、50周年を迎えるウルトラマンともなると歴史的な重みがある。安易な改変をしてしまうと、いらぬ批判を招くことになる。原典はあくまで変えず、別の理屈で説明/解釈するしかない。こういう「解釈改変」は、山本弘の《MM9》などでも見られ、特撮とハードSF両者に拘るマニアックな著者らしい手法といえる。

 本書はそういう《ウルトラシリーズ》全体に対するオマージュであると同時に、初代ウルトラマン唯一の女性隊員フジ・アキコの物語となっている。コラボという背景がなければ、きわめて良くできた2次創作と言うしかない。それだけ著者のこだわりが際立っている。とはいえ、ライトなファンであっても十分に楽しめる作品に昇華できている。

(シミルボンに2016年8月27日掲載)

 小林泰三さんはこの4年後の2020年に亡くなっています。「シン・ウルトラマン」公開は2022年のこと。『ウルトラマンF』との類似性も指摘されていますが、マニアは同じように考えるという結果なのでしょう。映画についてはこちらをご参照ください

自然災害としての怪獣たち、《モンスター・マグニチュード9》 山本弘

 シミルボン転載コラムは、訃報が報じられた山本弘さんを取り上げます。評者が初めて山本作品と出合ったのは、デビュー前の1975年のこと。「シルフィラ症候群」という短編で、第1回問題小説新人賞の最終候補作でした。受賞はしなかったものの(同賞の選考委員だった)筒井康隆さんの推しを受け、同人誌NULL No.6(1976)に掲載されました(後に『ネオ・ヌルの時代 Part3』に収録)。一読、未成年(当時)とは思えない著者のストーリーテリングに驚嘆した憶えがあります。コラムでは代表作《MM9》を取り上げています。以下本文。

 《ウルトラ・シリーズ》の歴史は半世紀を越えており、現在50代後半から60代、中年から老年世代の原点といえば、やはりこれら特撮シリーズになるだろう。《ゴジラ》《ガメラ》などの映画は年に数作だったが、誰もが家庭で見られ、週1回放映されるTVのインパクトは大きかった。

装画:開田裕治

 『MM9』は連作短編集である。ウルトラマンの科学特捜隊=科特隊ならぬ、気象庁特異生物対策部=気特対が主人公。どうして「気象庁」なのかといえば、怪獣が自然災害(地震や台風など)であるからだ。

 潜水艦を破壊した巨大な海中生物の正体、岐阜山中に出現した身長10メートルの少女、遠く地球の裏側から日本を目指して飛んでくる怪獣の目的、気特対に密着取材するテレビクルーから見た活動のありさま、瀬戸内海の孤島で目覚めようとする巨龍には9つの頭が!など5編を収録している。

 本書には、さまざまな怪獣や、マイナーなSFに対するオマージュとパロディがちりばめられている。「危険! 少女逃亡中」が、大昔に翻訳されたコットレルのSF短編のパロディだなんて、おそらく誰も気がつかないだろう。登場人物名にも、伴野英世=天本英世とか、稲本明彦=平田明彦など、特撮映画の常連俳優に対する思い入れが感じられる。極めつけは、怪獣出現の「科学的根拠」として多重人間原理(多元宇宙+人間原理から創った造語)を提唱したことだ。神話宇宙(怪獣の存在が許される)と、ビッグバン宇宙(我々の物理法則が成り立つ)とのせめぎ合いが、怪獣を自然災害として出現させるという説明で、怪獣ものの弱点だった物理的な非科学性がうまく回避されているのだ。

装画:開田裕治

 『MM9』には続編があり、長編『MM9 invasion』(2011)と、『MM9 destruction』(2013)として出版されている。2つの作品は、エピソードとしては独立しているが、物語が一連の時間軸上にあるので、この順番に読むほうが良い。

 巨大な少女の姿をした怪獣を移送するヘリが青い火球と衝突、それ以降少女には宇宙人の精神寄生体が棲みつき、少年と精神交感できるようになる。そこで少年は、異星の神話宇宙の宇宙人たちが、怪獣を連れて侵略を試みていることを知る。まず東京スカイツリーを目指し首都圏を蹂躙(invasion)、続いて怪獣の神を伴って再び襲来する(destruction)。追い詰められた少女は、かつての仲間の巫女や日本土着の怪獣たちとともに、異星の怪獣に立ち向かう。

装画:開田裕治

 ウルトラマンへのオマージュと、怪獣大決戦が描きたかった、という著者の願望そのものが長編になっている。ガメラ風、ゴジラ風、モスラ風(そのものではない)怪獣対宇宙怪獣も、夏休み・冬休み東宝・大映特撮の定番だったものだ。怪獣ものが全盛だった頃に小中学生だった世代にとっては、特に説明不要なサービス満載の作品となっている。頼りない少年と、少女の姿をした怪獣、恋人を自称する同級生、超常能力を持つ巫女など、コミック風の三角関係ネタが新味だが、(怪獣ブームから時代は下る)高橋留美子へのオマージュなのかもしれない。

(シミルボンに2017年4月13日掲載)

 このコラムは『創元SF文庫総解説』に寄せた原稿の元記事にもなっています。著者には同じ設定で書かれた『トワイライト・テールズ』もありますのでご参考に。

死後8年、なおインパクトを残す作家 伊藤計劃

 シミルボン転載コラム、今回は比較的新しい作家を取り上げます。1930年前後生まれを第1世代とすると、伊藤計劃は第5世代になりますね。ただ、残念なことに34歳の若さで亡くなりました。下記の記事は、コラムと『屍者の帝国』レビューを併せたものです。以下本文。

 1974年生。2007年に長編『虐殺器官』でデビュー、2008年には小島秀夫によるゲームのノヴェライズである『メタルギア ソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット』及び『ハーモニー』を出版、翌2009年34歳で亡くなる。プロとしての活動期間はわずか2年あまり、生前に出した単行本は3作のみである。しかし、夭折の作家、闘病生活の傍ら書かれた作品、現代を映し出す特異なデビュー作、没後の星雲賞、日本SF大賞やフィリップ・K・ディック賞特別賞受賞(『ハーモニー』)など、そのインパクトは同世代作家や若手をまきこみ広範囲に及んだ。死後8年が経た今でも、余波は“伊藤計劃以後”と称され残っている。

カバー:水戸部功

 『虐殺器官』はこんな話だ。世界中でテロが蔓延している。第3世界に巻き起こった大量虐殺の連鎖は、とどまるところを知らず拡大を続けている。主人公は米国情報軍の特殊部隊に所属する。彼の任務は、虐殺行為の首謀者/各国の要人を暗殺することだ。しかし、その途上で奇妙な人物が浮かび上がる。要人の傍らには必ず一人の米国人が控えている。無害なポジションにあるように見えて、その男は複数回の襲撃を逃れ、常に紛争国に姿を現すのだ。

 この作品は第7回小松左京賞(受賞作なしで終わった)の最終候補作になった。「9.11をリニアに敷衍した悪夢の近未来社会」であり、小松左京の理念とは異なるという理由から受賞は逃したのだが、本書の完成度は内容や文章ともに初応募作とは思えないほど高かった。圧倒的な火力と情報力で、幼少兵からなる途上国の軍隊を蹂躙して任務を遂行する米兵は、まさに今の対テロ戦争そのもの。その上“虐殺器官”というネタ=表題になっていながら、読者を飽かさずに読ませるリーダビリティ、しかも曖昧な結末ではなく、SFとして納得できる解決が書かれている。

イラスト:redjuice

 『ハーモニー』は『虐殺器官』の未来を描いた続編ともいえる作品。ただし、硬質な文体で暗いテロの前線を描いた前作から一転して、本書の舞台は「福祉社会」である。

 2075年、大災禍と呼ばれる大規模な核テロの時代を経て、世界は高度な生命至上主義社会へと変貌している。国家は複数の「生府」から成り、ナノテク Watch Meにより傷病や不健康なものを一切排除していた。主人公は、未開地域で活動する世界保健機構の査察官である。だが、ある日、世界同時多発の自殺が発生、健康社会の基盤を揺るがす騒乱へとつながっていく。それは、13年前にシステムを出し抜いて自殺を図った少女たちの事件と似ていた。主人公は事件の生き残りなのだった。

 物語の最後は、ある意味グレッグ・イーガンが追及したものと似ている(このアイデア自体は、別の作家も使っている)。〈SFマガジン2009年2月号〉の著者インタビューでは、よりサイエンス寄りのイーガンに比べて、社会的インパクトに対する興味が強かったことが語られている。本書では、誰もが死なない理想社会と、肉体を改変することによる極度な均一社会の矛盾が、明快に描き出されている。もう一つのポイントは、主人公の感情が、そのまま文中にマークアップランゲージとして書き込まれていること。例えば、怒っているなど。これは、物語の結末と密接に関係する重要な伏線である。文体実験を試み、同時に仮想社会の真相をあぶり出した、きわめて野心的な作品といえるだろう。

装丁:川名潤

 伊藤計劃の著作では円城塔との合作『屍者の帝国』があるが、伊藤計劃が書いたのは冒頭のプロローグのみだ。ある種のトリビュート小説といえる。第31回日本SF大賞・特別賞、第44回星雲賞日本長編部門受賞作。

 そのプロローグは、死後〈SFマガジン2009年7月号〉に未完のまま掲載された。ここで出てくる“死者の帝国”という言葉は、前年の〈ユリイカ2008年7月号〉に掲載された、スピルバーグ映画評(『伊藤計劃記録』所収)に現れている。21世紀以降に作られたスピルバーグの映画には、彼岸から我々を支配する“死者の帝国”の存在が見えるのだという。

 19世紀末、大英帝国の医師ワトスンは諜報機関の密命を帯び、第2次アフガン戦争下の中央アジアに派遣される。この世界では、産業革命の担い手は屍者たちである。彼らは死後、無償の労働者/ある種の機械装置として働き、世界を変貌させている。またバベッジの開発した解析機関は、世界を同時通信網で結んでいる。やがてワトスンは、アフガンの奥地にある屍者の帝国の存在を知る。しかしそれは、世界を舞台とする事件の始まりに過ぎなかった。

 出てくるものすべてがフィクションに由来している。もちろん本書は小説だからフィクションなのだが、登場する物/者たちが過去のフィクションに関連しているのである。冒頭の《シャーロック・ホームズ》《007シリーズ》メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』、スチームパンク社会を鮮やかに描き出したスターリング&ギブスン『ディファレンス・エンジン』(あるいは山田正紀『エイダ』)、ドフトエフスキー『カラマーゾフの兄弟』キム・ニューマン『ドラキュラ紀元』など、無数の既作品からの引用に満ちている。伊藤計劃がプロローグで提示した暗号を解くというより、小説のなかで小説について書いた=自己言及(self-reference)したものといえる。つまり、謎をもう一段抽象化した深みへと引きずり込んだのだ。

 本書は3年間をかけて、伊藤計劃の着想を円城塔が長編化したものである。インタビュー記事を読むと、小松左京賞落選の同期で、厳密に言えば友人とまではいえない関係ながら、伊藤の構想を物語の枠組み(制約条件)に置き換え、何度もの中断を経てようやく書き上げられたとある。仕掛け的にはきわめて円城塔らしく、なおかつ波乱万丈のエンタメ小説になっている。完成までの間に伊藤計劃は国内外での評価が高まり、円城塔も芥川賞作家を得て広く名を知られるようになった。その変転も本書の中に反映されている。

カバー:水戸部功

 派生作品集として、同年代作家、若手作家による『伊藤計劃トリビュート』『伊藤計劃トリビュート2』が多彩な顔ぶれで楽しめる。それ以外にも、雑誌、同人誌、ウェブサイトなどから短編やエッセイを集めた『伊藤計劃記録』(2010)『伊藤計劃記録 第弐位相』(2011)がある。これは文庫化にあたり再編集され、短編集『The Indifference Engine』(2012)『伊藤計劃記録I』『同 Ⅱ』(2015)の3分冊になった。また、ホームページなどに載せていた映画関係の、短いながら切れ味の鋭いコメントを集めた『Running Pictures―伊藤計劃映画時評集1』『Cinematrix: 伊藤計劃映画時評集2』(2013)も出ている。

 なお映像関係では、一時製作がストップしていた村瀬修功監督『虐殺器官』が2017年2月にようやく公開された。それに併せ、2015年12月公開のなかむらたかし/マイケル・アリアス監督『ハーモニー』と、2015年10月公開の牧原亮太郎監督『屍者の帝国』が、それぞれ深夜枠でテレビ放映されている。

 この映画公開とコラボする形で、いくつかの書店で『虐殺器官』オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』ジョージ・オーウェル『動物農場』『一九八四年』を並べるディストピア小説フェアが行われたのだが、まるで呼応するかのように世界情勢は不穏さを増してきた。伊藤計劃の夢想した冥い世界は、衰えることなくいまでも拡大を続けているようだ。

(シミルボンに2017年2月9日/11日掲載)

 「伊藤計劃後」の世界はこの後しばらく続きましたが、小川哲『ゲームの王国』の登場により終わったとされます(もともとの提唱者である早川書房塩澤部長の見解ですが)。しかし、その後も世界の状況がますます伊藤計劃的になりつつあるのは、皆さんもご承知のとおりでしょう。

虚無の先に人間を見た作家 光瀬龍

 今回もシミルボン(#シミルボン)作家紹介コラムから。作家は亡くなってしまうと、一部の例外を除けば、本の入手が難しくなってしまいます。その点光瀬龍は初期作の電子化が進んでいるので、まだ読むことが可能でしょう。以下本文。

 光瀬龍は1928年生、1999年71歳で亡くなった。年齢で言えば、大正生まれの星新一・矢野徹・柴野拓美らと、1931年以降の小松左京・筒井康隆・眉村卓らとの中間になるが、そこまでを含めて日本の現代SF第1世代とされる。第2次大戦を挟んだ時代に青春、子ども時代を生きた経験はほぼ共通するし、同人誌〈宇宙塵〉(1957年創刊)や〈SFマガジン〉(1959年12月創刊)との出会いも同じ時期になる。

装丁・デザイン:中村高之

 大橋博之編『光瀬龍SF作家の曳航』(2009)によると、少年時代の光瀬の記憶は、東京空襲に始まる。東京に生まれ、私立中学に通う光瀬は、突発的な空襲で級友が亡くなって行くという理不尽な体験をする。やがて焼夷弾による大空襲後に岩手県(母親の実家)に疎開。終戦を経て3年後に東京に帰り、大学の入退学を繰り返した後、旧制最後の高校生活を送る。その後、東京教育大学(現筑波大)で生物、哲学を学び、女子高の教師となる。狂騒的な昭和20年代(1946-1955)が終わり、このままの生活に疑問を感じはじめたころ、SFと出会うことになる。

 なぜ光瀬が“東洋的無常観”(王者であれ誰であれ、すべてのものは滅び去る運命を内在している)とする考え方で宇宙ものを書き始めたのか、なぜ『ロン先生の虫眼鏡』(1976)(後に〈少年チャンピオン〉でコミック化もされた)など生物の生態にフォーカスしたエッセイを書いたのか、時代物(後述)に興味を惹かれるのか、そういった背景は光瀬の経歴の中におぼろげではあるが見ることができる。

 デビューは1962年に書いた「晴れの海一九七九年」で、この年代を冠した宇宙ものが《宇宙年代記》と呼ばれる連作になる。『墓碑銘二〇〇七年』(1963)は、著者初の短編集である。表題作の主人公は宇宙探検隊員で、他に生存者がいない任務でも彼だけが生還するため、英雄なのか卑怯者なのかと疑惑を呼ぶ。気を許せるのはペットの砂トカゲのみ。しかし木星への探査の途上で、不可解な事故が発生しカリストへの不時着を余儀なくされる。過酷で逃れようのない運命と、それを受け入れ共存する主人公という構図は《年代記》ものに共通するテーマだ。

 宇宙ものの代表的長編に、初長編でもある『たそがれに還る』(1964)がある。39世紀の太陽系全土が舞台だ。主人公は、シベリア、金星、辺境星区、冥王星と各地域の異変を調査する中で、隠されたメッセージや遺構の存在を知る。やがて、1200万年前に起こった大異変の真相が明らかになる、そんな壮大なお話だ。青の魚座(存在しない星座名)など、独特のタームを駆使して悠久の時を描いたもので、著者の世界観を余すことなく伝えてくれる。

カバー:萩尾望都

 引き続き書かれた『百億の昼と千億の夜』(1967)では、さらにスケールが広がる。プラトンが滅びゆくアトランティスで見た光景に始まり、シッダールタ(仏陀)、ナザレのイエス(キリスト)、阿修羅王という象徴的な主人公たちが、未来のトーキョーや銀河を超えて絶対者と闘うという作品だ。今でも日本SFの代表作に数えられている。宇宙ものの虚無感と、著者の哲学や宗教に対する考え方とが結びついた比類のない傑作といえる。後に萩尾望都がコミック化している。

 宇宙ものを書くのと同時期に、光瀬龍はジュヴナイルSFを書いた。これは、もともと〈中一時代〉などの学年雑誌に掲載されたものが多い。少年が江戸時代にタイムスリップする『夕ばえ作戦』(1967)は、後にNHK少年ドラマシリーズでTVドラマ化され人気を呼んだ。他にも、学園ミステリー『明日への追跡』(1974)など10作あまりがある。

デザイン:岩剛重力+WONDER WORKZ。

 著者の死後にまとめられた『多聞寺討伐』(2009)は、短編集『多聞寺討伐』(1974)『歌麿さま参る』(1976)などから抜粋された時代SF短編の傑作選である。初期の宇宙SFを書いたあと、著者の興味は時代・歴史ものに移る。本書に収録された作品は、後年の本格的な時代小説とは異なり、SF味を色濃く残している点が特徴である。表題作「多聞寺討伐」は多聞寺周辺の村で、死体が自分の首を持って歩くという奇怪な事件が発生する顛末。「歌麿さま参る」は、東京の美術商に希少な刀剣や浮世絵が次々と持ち込まれるが、売り手の正体をさぐるうちに歌麿の正体が見えてくるお話。捕り物帳のSF的解釈というスタイルを創出したのは光瀬龍である。登場人物が生き生きと活躍するさまが印象に残る作品だ。

 SFと歴史をからめた長編には、徳川家光の時代に与力と隠密が暗闘する『寛永無明剣』(1969)、日露戦争を扱った『所は何処、水師営』(1983)や太平洋戦争で日本が優勢になった世界を描く『紐育(ニューヨーク)、宜候』(1984)などがある。どの作品も、歴史改変とタイムパトロールが絡む話になっている。

 この後、著者の興味は本格的な歴史小説に向かい、『平家物語』(1988)『宮本武蔵血戦録』(1992)、遺作となった『異本西遊記』(1999)などを書いている。虚無的な宇宙SFでスタートした関係で、作品に対する先入観を持たれてしまった光瀬だが、一方で人間に対する強い興味が背後にあることを見逃してはいけない。晩年の時代小説は、その雰囲気を良く伝えているといえるだろう。

(シミルボンに2017年3月1日掲載)

 このコラム掲載後に、評伝となる立川ゆかり『夢をのみ 日本SFの金字塔・光瀬龍』が出ています。著者の人となりを知るには好適でしょう。また2018年には初期の宇宙SF短篇を集めた日下三蔵編『日本SF傑作選5 光瀬龍 スペースマン/東キャナル文書』も。

スラプスティックSFから最先端文学へ 筒井康隆

 シミルボン転載コラム、今回は眉村卓と同世代の筒井康隆です。著名人でもあり、経歴を中心とした詳細なものはあるものの、何に重点を置くかで観点は変わってきます。ここでは主に作品の流れについての概要を記しています。以下本文。

 1934年生。中学校時代には学校に行かず、映画やマンガに熱中した。そのあたりは自伝『不良少年の映画史』(1979-81)などに詳しい。同志社大学卒業後、主催した〈NULL〉は〈宇宙塵〉がタイプ印刷だった時代に活版で印刷され、(当初)家族のみで作られた同人誌だと評判になった。そこに載せたショートショートが、江戸川乱歩編集の〈宝石1960年8月号〉に転載されデビューする。

 初短編集『東海道戦争』(1965)、続く『ベトナム観光公社』(1967)『アフリカの爆騨』(1968)、ショートショート集『にぎやかな未来』(1968)など最初期の作品には、シュールさと猥雑さの同居、際限のないエスカレーション、時代風俗や流行の織り込みといった特徴がある。当時の筒井康隆は、若いファンにとってカルトヒーローだった(始まったばかりの星雲賞を、第1回からほぼ毎年受賞していた)。この人気は、1960年代後半から70年代にかけて、著者が多数の作品を一般小説誌に発表していく過程で形成されたものだ。

 初長編『48億の妄想』(1965)は、カメラがすべての有名人に設置された未来、人々がカメラを意識した演技をするため、何が本当で何が嘘なのかわからなくなった社会を描いている。もともとのカメラはTVカメラだが、これを監視カメラやスマホのカメラに置き換えても十分成り立つだろう。嘘が現実を変える今の社会を予見しているのだ。

イラスト:貞本義行

 光瀬龍や眉村卓と同様、筒井康隆はこの時期にジュヴナイルを書いた。ラベンダーの香りで時をさかのぼる、『時をかける少女』(1967)は、TVドラマ・映画・アニメなど8回の映像化がされた代表作だ。これ以外にも『緑魔の町』(1970)『三丁目が戦争です』(1971)、入門書である『SF教室』(1971)などがある。

 『家族八景』(1972)『七瀬ふたたび』(1975)『エディプスの恋人』(1977)はテレパス火田七瀬の登場する3部作である。特に第3部では、超能力をタイポグラフィック(文字の組み方)で表現するなど新しい試みを取り入れている。最初の作品では、家政婦七瀬が家庭内の闇を見てしまい、次作では別の超能力者との出会いから危機が迫り、最終巻では奇妙な能力を持つ少年と遭遇する。著者はこれ以降シリーズものは書いていないが、超能力もののバリエーションとして、夢に潜入できる能力者が登場する『パプリカ』(1993)を書いている。これらはTVドラマやアニメになった。

 1970年代後半より後、筒井康隆の活動の舞台は純文学でのより実験的な作品群へと移っていく。第9回泉鏡花文学賞を獲った『虚人たち』(1981)では、登場人物が虚構(小説)内にいると知って行動する。高度成長がなかったかわりに映画の全盛期が続く、もう一つの昭和を描いたユートピア小説『美藝公』(1981)や、人類史のカリカチュアでもある知的なイタチが住む惑星と、生きている文具とが戦う『虚航船団』(1984)などは、どれも単純な筋書きで成り立つお話ではない。物語構造や設定を含めた仕掛けの精緻さに驚かされる。

 短編集『エロチック街道』(1981)の表題作は、どことも知れぬ田舎町で、裸の美女に導かれるまま温泉に迷い込む作品。映画化もされた「ジャズ大名」は、江戸時代に地方の城主がジャムセッションを開くお話だ。「遠い座敷」では、どこまでも無限に続く畳部屋を通り抜けていく。「遍在」は改行のない高密度の文体で書かれている。『串刺し教授』(1985)は、『虚構船団』の前後に書かれた、短編17編を収録。お互いかみ合わない会話、夢の風景、現実と虚構との混交などを描く作品が中心だ。

 第23回谷崎潤一郎賞受賞作の『夢の木坂分岐点』(1987)では、主人公がやくざの夢を見るシーンから始まる。覚醒すると、彼はプラスチック製造会社の課長である。ただ、この現実は、小説の進行とともに、微細に変質していく。名前が変わり、社名が変わり、地位が変わり、年令が変わる。舞台は、会社でのサイコドラマから、夢の屋敷 (どこまでも長い廊下が延び、閉じられた襖が連なる)に、夢の下町(老いた運転手の操る路面電車が、軒先を掠める)に、夢の木坂へと連なっていく。途中から、この小説には覚醒はなくなる。どこまでも落ちていく、奈落だけがある。ここに描かれるのは、無数に多重化された夢である。

 『薬菜飯店』(1988)神戸のとある路地裏に、薬菜飯店がある。薬菜とは、文字通り薬になる料理のこと。食べればたちまち体の毒素が溢れ、肺、内臓、血液から、とめどなく流れ出す。夢こそが現実、虚構こそが真実という著者のテーマが語られた「法子雲界」、第16回川端康成文学賞を得た「ヨッパ谷への下降」、サラダ記念日の一首一首を精密にパロディ化した「カラダ記念日」、スプラッタ小説「イチゴの日」「偽魔王」、また、正統派SFスタイルで書かれた「秒読み」など、この時期を代表する多様な作品を収めている。

 第12回日本SF大賞受賞作『朝のガスパール』(1992)は朝日新聞の連載小説で、当時普及しつつあったパソコン通信「電脳筒井線」を用いて、リアルタイムに読者の意見を吸収しながら物語を進めるという斬新な試みだった(お話自体でも、コンピュータゲームと現実との壁がなくなる)。ジャズのセッションのように、物語を読者と共作しようとしたものだ。そこで起こるトラブル(誹謗中傷事件など)が、逆に物語を形成する要素となっていた。記録は『電脳筒井線(全3巻)』(1992)にまとめられている。

 筒井康隆は、1993年に表現の自由をめぐり断筆を宣言、以降、和解と出版契約が整う1996年までが空白期間となる。これは今でもたびたび起こる、小説で差別表現がどこまで認められるか、という議論に対する一つの考え方になるだろう。

 第51回読売文学賞受賞作『わたしのグランパ』(1999)中学生の少女のもとに、かつて殺人事件を犯して刑務所に入れられていた祖父が帰ってくる。彼女の周りにはさまざまな波紋が広がる。祖父は飄々としてその全てを解決していき、やがて無くてはならないおじいちゃん(グランパ)となっていく。物語の長さは中篇、ここで思い出すのは「わが良き狼」(1969)である。流れ者の賞金稼ぎがふと帰ってきた故郷の町で、老いた友や敵たちと再会する物語だが、本書はちょうどその逆の位置関係にある。グランパは、還ってきた老ヒーローなのであり、敵は誰もが若い。その若さに対して、グランパは対抗するのではなく、自身の死に場所を求めるように、ただ冷静に相対していくのである。後に、菅原文太主演で映画化されている。

 筒井康隆は、2002年に文化勲章の紫綬褒章を、2010年に菊池寛賞を受賞する。だが、それで執筆を止めたわけではない。72歳で長編『銀齢の果て』(2006)を書く。高齢化社会の究極の解決法として、老人相互処刑制度(シルバー・バトル)が設けられ、70歳以上の老人が各区域1人になるまで、老人だけの殺し合いが行われるお話だ。79歳で書いた『聖痕』(2013)は、著者20年ぶりの朝日新聞連載小説。主人公は5歳の時に、変質者により性器を切除される。この世のものとも思えない美少年だった彼は、性に対する欲望の一切から解放され、やがて味覚の奥義に目覚めていく。81歳では、神自体がテーマである『モナドの領域』(2015)を書き、毎日芸術賞を受賞している。SF第1世代作家の中で、眉村卓とともに80歳を過ぎてなお執筆を続ける稀有な作家といえる。

(シミルボンに2017年3月6日掲載)

 この記事の2年半後に眉村卓さんは亡くなっています。筒井さんは今年になって日本芸術院会員となり、昨年末には最後の短編集とする『カーテンコール』を出すなど、活躍を続けています。

ながい長い宇宙の旅路

 さて、シミルボン転載企画(#シミルボン)、今回は世代宇宙船による恒星間飛行をテーマとした著作紹介です。シンプルに古典とベテランの新作を対比したもの。これも息が長いテーマで、昨年『ブレーキング・デイ』が翻訳されるなど、途切れることがありません。以下本文。

地球外への移住と聞いて、まず思い浮かぶのはお隣の火星かもしれない

 金星も隣人で、むしろ惑星の大きさでは火星より地球に近い。ただ、高熱で硫酸の雲に覆われているため、あまり植民には向いていない。それなら火星移住の話をということなのだが、もはや火星はスペースXのような民間のリアル企業が計画できるくらい、身近で現実的なものとなっている。今回は思い切って、もっと遠くの太陽系外を目指す旅を考えてみたい。

 最新の天文学によると、太陽系外、別の太陽の下には惑星がたくさんあると分かってきた。地球型惑星は小さいので発見が難しい。しかし、火星のように薄い大気の心配をする必要のない、ほんとうの第2の地球があるかもしれない。問題は距離である。太陽から最も近いケンタウリ座アルファ星でも4.3光年、40兆キロ離れている(映画「アバター」の舞台にはなったが、実際にはこの恒星系に地球型惑星はないようだ)。スタートレックなどのワープ航法でもない限り、到達不可能な距離にある。

 こういう途方もない距離を越える手段の一つに世代宇宙船がある。ワープは未知の技術だ。一方、世代宇宙船は国家的予算をかければおそらく可能だろう。文字通り宇宙船を故郷にして何十世代も人が生き死ぬことで、何百年を要する航海を乗り切るのだ。もちろん閉鎖環境では社会的、生物的問題が持ち上がる。何百年も閉じ込められて、当初の技術水準が維持できるだろうか。乗組員の子孫は先祖が勝手に決めた使命を、素直に引き継いでくれるだろうか。

カバー:鶴田一郎

 このテーマの最初の作品は、ロバート・A・ハインライン『宇宙の孤児』(1963)である。宇宙船の目的が過去の反乱で失われ、テクノロジーの継承がされないまま文明が退行する。そこで、船を唯一の世界だと思って育った少年が、外宇宙を知るまでが描かれている。単行本にまとまったのは遅いが、もともと1941年に発表された中篇が元になっている。70年以上前の時点で「世代」に関わる問題点は考えられており、アイデアとして完成の域に達していたことが分かる。

カバーデザイン:坂野公一

 英国SFの重鎮ブラインアン・オールディスが、33歳で書いた最初の長編『寄港地のない船』(1958)は、食用植物が人の背より高く生い茂る〈居住区〉の描写から始まる。数百人規模の人々が、植物を刈り取りながら前進し、見捨てられた部屋を次々移りながら生活している。世界はいくつもの階層に分かれており、〈前部〉には彼らとは異なる超越的な人々が住んでいるらしい。主人公は部族の一員だったが、司祭と共に〈前部〉を目指す旅に出ることになる。世界は船の中にある。船には他所の部族の他、巨人族、ミュータント、紛れ込む超常的な〈よそ者〉などがいる。彼らはいったい何者なのか。この船はどこを目指しているのか、船を操船するものは誰なのかと物語は展開し、最後に一ひねりがある。

 この作品は初期のSFマガジンで紹介され、長い間名前だけ知られる幻の作品の一つだった。昨年(2015年)、翻訳者の努力もあって出版に結びつき大きな話題になった。原著は初版当時から定評を得ており、継続的に読まれ続けるSFの古典である。

カバーイラスト:toi8

 梶尾真治《怨讐星域三部作》(2015)は《クロノス・ジョウンター》などで知られる著者が、ほぼ9年間にわたってSFマガジンに連載し、計31話の連作短編形式とした2000枚に及ぶ長編である。これまで書かれた著作中最長の作品で、世代宇宙船テーマの集大成といえる作品になっている。2016年の星雲賞日本長篇部門を受賞。全3冊それぞれは『怨讐星域I ノアズ・アーク』『怨讐星域II ニューエデン』『怨讐星域III 約束の地』である。

カバーイラスト:toi8

 地球が太陽フレアに焼かれ、滅びる可能性が高まる。しかし、この事実は隠され、移民船による脱出計画が密かに進んでいた。世代間宇宙船ノアズ・アーク号に乗り組み、172光年先にある地球型惑星を目指すのだ。その数3万人。一方、取り残された人々もやがて真相に気が付き、多くは奇跡的な発明「転送」装置により、瞬間移動することを選ぶ。だが転送は成功確率が低く、民族や家族も引き裂かれた、着の身着のままの人々が未開の大地に投げ出される結果となる。彼らを結びつけるのは、後から移民船でたどり着く人々を怨み復讐するという怒りなのだった。

カバーイラスト:toi8

 連作短編と書かれているように、本書は3つの世界、「宇宙船」、「約束の地=異星」、「地球」で起こる小さなエピソードの積み重ねで成り立っている。大統領の娘と恋人の物語:地球、襲いかかる未知の生き物:異星、残された人々の最後の日々:地球、分散していた小集団が迎える再会のとき:異星、記念劇に登場する意外な人物:異星、宇宙船の中での恋人探し:宇宙船、船で起こる重大事故:宇宙船、接近する宇宙船からの信号を受信したとき:異星、宇宙船排斥を叫ぶ過激派の台頭:異星などなどだ。未開の惑星に国家が誕生し、やがて文明化する。宇宙船がトラブルを抱えながら世代交代する。それぞれ数百年(正確な年数は書かれていない)の時間が経過する。著者の意図として、国家や権力のようなパワーゲームはあまり描かれない。限られた世界の中で生きる、人々の生活や淡い恋が点描されるのだ。最終エピソードは他者への信頼に満ちていて、いかにも梶尾真治らしい結末になっている。

(シミルボンに2016年12月13日掲載

最後の『怨讐星域』は『ハヤカワ文庫JA総解説1500』に書いた記事の元になったものです。

5年目を迎えたハヤカワSFコンテスト

 今年ハヤカワSFコンテストは、第12回目の公募を迎えています。このシミルボン転載コラムは、(7年前時点で)その意義を捉えなおそうというものです。コンテストの醍醐味として「意表を突く新人登場の瞬間を目撃」というのがありますが、将来どうなるかは簡単には見通せません。以下本文。

 早川書房が主催するSF新人賞は、1961年から始まり多くの作家を輩出してきた伝統ある賞だ。ただこの賞は、時代によって大きく性格を変えている。1961年第1回から63年第3回までの「空想科学小説コンテスト/SFコンテスト」と呼ばれた時代は、田中友幸、円谷英二らが審査員に入り、東宝とのタイアップで映画化を目指すというものだった(ただし、映画化まで進んだ作品はない)。入選または各賞に入った作家には、眉村卓、豊田有恒、小松左京、平井和正、半村良、光瀬龍、筒井康隆らがいる。第1世代作家の多くは、唯一のSF新人賞だったこの賞を目標にしていたのだ。

 この後11年の空白のあと、1974年の第4回「ハヤカワ・SFコンテスト」では、川田武、田中文雄、かんべむさし、山尾悠子らが(この回のみのアート部門では、加藤直之、宮武一貴らが)登場する。5年を空け、小説専門に戻した1979年の第5回から1992年の第18回までは毎年実施される。野阿梓、神林長平、大原まり子、火浦功、水見綾、草上仁、橋元淳一郎、中井紀夫、貴志祐介、藤田雅矢、柾悟郎、金子隆一、北野勇作、森岡浩之、松尾由美、秋山完ら多数が受賞者に名を連ねた。

 しかし後半になると、応募作の減少や入選作のない年が増え、中断を余儀なくされる。以降20年という最長の空白期間が生じる。この間、新人は「小松左京賞」「日本SF新人賞」や、「日本ファンタジーノベル大賞」「日本ホラー小説大賞」、あるいは多数生まれたライトノベルの新人賞など、他ジャンルの賞に移っていった。結果として、2002年から始まった早川書房のSF叢書《Jコレクション》では、新鋭作家のほとんどが別の新人賞を経た作家で占められるようになる。そこで2013年に再スタートした「ハヤカワSFコンテスト」では、

(前略)世界に通用する新たな才能の発掘と、その作品の全世界への発信を目的とした新人賞が「ハヤカワSFコンテスト」です。
中篇から長篇までを対象とし、長さにかかわらずもっとも優れた作品に大賞を与え、受賞作品は、日本国内では小社より単行本及び電子書籍で刊行するとともに、英語、中国語に翻訳し、世界へ向けた電子配信をします。

「募集開始のお知らせ」より

と、新たな目標「世界展開」を掲げ通算回数をいったんリセット、リニューアル感を鮮明にした。六冬和生『みずは無間』は、新生ハヤカワSFコンテストの第1回大賞受賞作である。

カバー:loundraw

 主人公はAIである。人間の意識が転写されたもので、遠宇宙へと飛び続ける無人宇宙機に搭載されている。膨大な時間を経ても機能するように、物資の調達、自己改変をする仕組みを持っている。しかし宇宙は空虚なままで、何ものとも遭遇することはない。やがて、AIは自身をコピーし、銀河に遍く散開させる。刻み込まれた“みずは”の記憶とともに。

 コピーされた人格という概念は、もはやSFのスタンダードである。生命に束縛されないから、何千何万年の時間スケールで宇宙を航行しても何の問題もない。イーガン『白熱光』がそうだった。小松左京『虚無回廊』に登場する“人工実存”はその一種になる。ところが、本書には主人公(AIの人格)の他に、みずはという恋人が現れる。きまぐれで直情的、食べることに対する執着、遠く離れた恋人にまで作用する暗い存在感。その“みずは”との泥沼の人間関係が時空間に拡張されていく異様さが、まさしく本書のポイントとなる。宇宙機のAIが、現代日本人の形而下的な感情に翻弄されるわけだ。読み手に対するインパクトという意味で、21世紀のSFコンテスト、今のSFの立ち位置を再認識できる作品といえる。

 第1回では、この他に坂本壱平『ファースト・サークル』小野寺整『テキスト9』下永聖高『オニキス』(短編集)が、最終候補作から書籍化されている。

 翌年、第2回ハヤカワSFコンテストでは、大賞に柴田勝家『ニルヤの島』が選ばれた。独特のペンネームと、侍のコスプレが話題を呼ぶ。

カバー:syo5

 書名の「ニルヤ」は、沖縄神話の中のニライ・カナイ(理想郷)の別称ニルヤ・カナヤに由来するものだ。主な宗教で死後の世界が否定され、人々は自身の記憶を叙述し記録することが、死を克服する手段になると考えるようになった21世紀末。そんな神のいない世界の中で、島々を長大な橋で結ぶことで成立したミクロネシア経済連合体には、死後を信じる宗教が生きていた。カヌーで死者を送り出す彼らの宗教にどんな意味があるのか。文化人類学者や模倣子行動学者たちは、それぞれの立場からその謎に迫っていく。

 物語は4つのセクションに分かれ、それぞれが平行に進んでいく。「Gift 贈与」は、2069年に文化人類学者が、島に残る伝承の語り手を訪ねるところから始まる。「Transcription 転写」では、島で休暇中の模倣子(ミーム)行動学者が死後を信じる統集派の葬列と出会い、「Accumulation 蓄積」は、橋が完成する前、現地で危険な潜水作業に就く父娘の物語である。チェスや将棋に似たゲームをひたすら続ける「Checkmate 弑殺」の章は、不連続な時間の流れ方となる。人の記憶する時間は断片的で連続しない。それは「叙述」されることで1つの物語になる。叙述という言葉は伝承(語り伝える)文学との関係を意識したと、〈SFマガジン2014年1月号〉の著者インタビューにもある。電脳世界におけるデータ化された人間は、イーガン『順列都市』の強い影響を受けたという。ポリネシア=沖縄神話と、今風のヴァーチャルな世界観を結ぶ野心作といえる。

 第2回では、最終候補作の神々廻楽市(ししば・らいち)『鴉龍天晴』と、倉田タカシ『母になる、石の礫で』が書籍化された。また伏見完はアンソロジイ『伊藤計劃トリビュート』に最初の作品を寄せている。

 第3回ハヤカワSFコンテストの大賞受賞作は、小川哲『ユートロニカのこちら側』である。連作短編形式で書かれている。ユートロニカとは、ユートピア+エレクトロニカ(電子音楽)から作られた造語だ。

カバー:mieze

 サンフランシスコの郊外に、アガスティアリゾートと呼ばれる都市が建設される。そこは見たもの聞いたものなど、全ての個人情報を企業に提供する代わりに、生活が保障されるある種のユートピアだった。個人の行動は事前に推測できるため、犯罪も予め抑えられる。そういった利便性は、プライバシーと引き換えに与えられる。物語は6つの章に分かれ、リゾートにかかわった人々の運命を描いている。

 犯罪者を予防拘束するといえば、映画やTVシリーズにもなったディック「マイノリティ・リポート」があり、Google的なIT企業がプライバシーを失わさせるデイヴ・エガーズ『ザ・サークル』、存在しなくなった都市を電脳空間に再現するトマス・スウェターリッチ『明日と明日』など、アイデア自体には先行する作品がいくつかある。しかし、本書は楽園の暗黒面を、陰謀(秘密組織や国家が黒幕)のようには描かない。その周りに住む(こちら側の)人々を点描することによって、自由意志とは何かを表現しているのだ。

 第3回では、佳作となったつかいまこと『世界の涯ての夏』が書籍化されている。

 第4回ハヤカワSFコンテストでは、優秀賞が2作品、黒石迩守(くろいしにかみ)『ヒュレーの海』、吉田エン『世界の終わりの壁際で』、及び特別賞の草野元々(くさのげんげん)『最後にして最初のアイドル』が選ばれた。審査委員の意見が割れたため、大賞受賞作は出なかった。

カバー:ジェイコブ・ロザルスキ

 未来のいつか。文明は混沌に呑み込まれ崩壊、情報的記録の海が地球を覆う。人類はシリンダ型の塔のような都市に住み、都市は7つの序列を持ち、さらに資本家と労働階級に分かれる。人類はある種の情報生物となって世界に適応している。そんな中、過去の記録にある本物の海を見ようと、下層民の少年少女は旅立つ。

 『ヒュレーの海』のヒュレーとは、アリストテレス哲学でいう、形相(エイドス)と質料(ヒュレー)に由来する。情報生物が主人公なので、ソフト/ファームウェアとハードウェアとでもいえばよいのか。現職プログラマーの経歴を生かした、ITの専門用語をルビで駆使する異形の世界が印象的だ。

カバー:しおん

 未来の東京は山手線の内側に壁を築き、その外部との出入りを遮断している。内側にある〈シティ〉は、大規模な環境変動から逃れるための箱舟なのだ。外側で育った主人公は電脳ゲームの名手だったが、ある日アルビノの少女や奇妙な人工知能と出会ったことで、内側世界の秘密を知ることになる。

 物語では、ゲーム空間でのバトルと、リアル世界である壁内側/外側の争いが並行して描かれている。優秀賞受賞の2人は、ともにオンラインサイト〈小説家になろう〉で活動していることでも話題になった。

 「最後にして最初のアイドル」は120枚ほどの中編小説だが、この題名通りステープルドン『最後にして最初の人類』をベースに、その主体が人類ではなくアイドルだったら、という驚くべき発想で書かれている。電子書籍でベストセラーに上がり、『伊藤計劃トリビュート2』に収録されるなど注目を集めた。

 ハヤカワSFコンテストは2017年で第5回目を迎える。応募総数こそ、ラノベ系やネット系新人賞に比べて少ないが、入選作を見る限り応募作の水準は相当高い。発足の趣旨に沿った世界展開が図られ、新人発掘の場として機能していくことを期待したい。

(シミルボンに2017年2月7日掲載)

 国際化を謳ったハヤカワSFコンテストですが、英訳や中国語訳などの実績はまだないようです。この趣旨は、VG+主催によるかぐやSFコンテストで実現しています。なお、5回から11回までのコンテストについては、このページからリンクを逆にたどることで読むことができます。

幻視者の見た9つの世界『神樂坂隧道』

 シミルボン(#シミルボン)のコラムの中では、ちょっと異色の作家を紹介しましょう。西秋生、この名前ご存じでしょうか。《異形コレクション》など、アンソロジーや専門誌で見かけた覚えがあるかもしれません。小説の単行本がなかったこともあり知る人ぞ知る作家ですが、独特の忘れがたい印象がありました。以下本文。

装幀:戸田勝久

 西秋生という作家がいた。1970年初め頃から同人誌等で活動をはじめ、1984年から91年まで〈SFアドベンチャー〉や《ショートショートの広場》にて主に短篇、ショートショートを掲載、2000年代に入ってからは井上雅彦監修《異形コレクション》にも寄稿していた。著作には、神戸新聞夕刊の連載をまとめた『ハイカラ神戸幻視行 コスモポリタンと美少女の都へ』がある。この本は地元神戸と縁の深い、稲垣足穂や江戸川乱歩、谷崎潤一郎ら画家や作家が描く戦前の神戸を幻視するエッセイ集だ。

 そんな西秋生だったが、2015年9月に急逝する。70作近い作品があるのに、小説をまとめた著作集がないままだった。そこで、有志によって編まれたのが『神樂坂隧道』である。この本には9つの短篇が収録されている。

  • 『夢幻小説傑作選』について(1985):夢で編む小説集についての同人誌でのエッセイだが、本書の巻頭言として違和感なく置かれている。
  • 1001の光の物語(2011):『異形コレクション 物語のルミナリエ』所収。わずか12段落の文章で綴られた、タルホ風超掌編小説。
  • マネキン(1977):『ネオ・ヌルの時代 PART2』所収。マネキンとなった兄に語りかける弟。筒井康隆から「完璧な小品」と評された作品。
  • 走る(1977):同所収。文明が滅びた世界を、バイクで走り抜ける男を描いた疾走感あふれる作品。
  • いたい(1980):『ショートショートの広場1』所収。主人公を追ってきた姉は、毎夜幻の痛みに苦しめられる。
  • 星の飛ぶ村(1992):作家が訪れた村では、UFOらしきものが現われるが誰も存在を気にしない。
  • チャップリンの幽霊(2007):『異形コレクション ひとにぎりの異形』所収。神戸新開地の工事現場に、その地で亡くなったチャップリンの幽霊が出るらしい。
  • 神樂坂隧道(2000):第5回日本ホラー小説大賞最終候補作の改稿版。戦前の東京、神楽坂の下には得体のしれないトンネルがあった。乱歩をイメージする旧仮名遣いで書かれたホラー小説。
  • 翳の そしてまぼろしの黄泉(1984):〈SFアドベンチャー〉1984年12月号掲載。3人の同人誌仲間がスナック「オクトーバー・カントリー」に集い、お互いの作品を講評し合う。中井英夫のオマージュ作品でもある。
  • 5:46(1998):著者が実際に体験した阪神淡路大震災の瞬間をモチーフとし、神戸のさまざまな風景を封じ込めた幻想小説。

 本書の作品には、おおまかに3つの時代が含まれる。1つは完璧と言われたアマチュア時代のショートショート「走る」や「いたい」が書かれる1970年代、もう1つは「翳の…」を含む〈SFアドベンチャー〉にホラー短篇を寄稿していた1980年代、そして「神樂坂隧道」「1001の光の物語」など、乱歩やタルホを別の視点から描き出す夢幻小説群を書く1990年代以降である。

 考えてみれば、初期の段階で筒井康隆が認めるほど「完璧」な作品が書けたのだ。そのまま書き進めても良かったように思うが、おそらく著者が20代に抱えていた創作の動機(兄や姉への情感、滅びゆく世界に対する焦燥感と、反面突き放したような虚無感)は維持できる性質ではなかったのだろう。やがて、モダン・ホラーに趣向が変わり多数の作品を発表するものの、本書ではこの時期の短篇は1作しか採られていない。著者の迷いが、作品自体を歪めたせいかもしれない。

 その後、地元神戸や探偵小説に由来する幻想を語りはじめ高評価を得るようになる。1995年の大震災を契機に、神戸に対する志向性はより強まった。それらは、冒頭の「夢幻小説」を体現する独特の作品群となった。

 本書の後半に収録された追悼文も読みでがある。眉村卓はラジオ番組に投稿していた時代から振り返り、ネオ・ヌル時代から創作仲間だった高井信、大学の先輩で分析的な作品論に踏み込むかんべむさし、星新一ショートショートコンテストで繋がる江坂遊、異形コレクションで関係する井上雅彦、神戸での一夜の出会いを語る森下一仁、特に最近の諸作を高く評価する堀晃、神戸新聞編集者の大町聡は『ハイカラ神戸幻視行』連載当時を語っている。

装幀:戸田勝久

 『神樂坂隧道』は一部の書店で入手可能だが数が限られる。見当たらない場合は、ここからオンデマンド版を直接購入することができる。版型はB6判(四六判)並製(ソフトカバー)224頁。カバーや帯の付かないペーパーバックである。なお、前掲書の続編(新聞連載の後半)として『ハイカラ神戸幻視行 紀行篇 夢の名残り』も、戸田勝久の装幀で出版された。こちらも、一般書店での入手は限られる。

(シミルボンに2016年9月14日掲載)

 紹介した本のうち『ハイカラ神戸幻視行』は、どちらも新刊入手はできないようですが、『神樂坂隧道』については現在でもオンデマンドで購入可能です。

異世界への旅人 眉村卓

 シミルボン(#シミルボン)のコラムでは作家の紹介記事も書いていました。話題の作家だけでなく、ベテランでも全体像が分かりにくかったり、新刊入手が難しい作家を含んでいます。以下本文。

 眉村卓は1934年大阪市に生まれ、国民学校(小学校)の時代に戦災や疎開を経験した。その頃のエピソードは、ありえたかもしれないもう一つの少年時代を描いた「エイやん」(2002)の中にも描かれている。新制中学、高校を経て大阪大学を卒業。1960年に〈宇宙塵〉に入会、翌年第1回日本SFコンテスト(ハヤカワSFコンテストの前身)に入選しデビューする。

 デビューの後、ヒーローものともいえる初長編『燃える傾斜』(1963)を出版、作家専業となる年に出した短編集『準B級市民』(1965)には、後の宇宙もの、異世界ものに成長する作品が既に多く収録されていた。同時期に書かれた作品のうち、イミジェックスという情報装置により消費がコントロールされるディストピア小説『幻影の構成』(1966)は、今こそ読み直す価値があるだろう。

 この頃、光瀬龍らとともにジュヴナイルを書きはじめる。転校してきた美少年を巡る不可思議な事件『なぞの転校生』(1967)、見知らぬ女の子から届いた手紙『まぼろしのペンフレンド』(1970)、田舎町の因習が超常現象となって現れる『ねじれた町』(1974)、中学の生徒会長に選ばれた少女が着々と支配力を強めていく『ねらわれた学園』(1976)など、累計30作余りにものぼる。特に『ねらわれた学園』はTVドラマ・映画・アニメなど7回、『なぞの転校生』も同じく3回と、筒井康隆『時をかける少女』に並ぶ息の長い人気作品となった。他にも映画化、ドラマ化された作品は多く、著者を代表するジャンルといえる。

装画:加藤直之

 シリーズものでは、宇宙を舞台とする《司政官》が重要だ。司政官とは地球連邦から派遣された惑星統治の専門家のこと。しかし、任地でその権威が認められるとは限らない。『司政官 全短編』(2008) は、1974年と80年に出た中短編集を、年代記順に再編集した決定版である。「長い暁」多島海からなる惑星。軍政下で接触の機会が少なかった原住者との出会いが、予想外の危機を呼ぶ。「照り返しの丘」異星人の生み出したロボットが支配する惑星。その秘密を得るための手がかりとは。「炎と花びら」知性ある植物の惑星。彼らは成長すると知恵を失い、花びらを開き、季節風に乗って旅立つ。「遺跡の風」遺跡だけが残され、遠い昔に文明が滅びた惑星。植民者の間には幽霊が出没するという。「限界のヤヌス」急速に植民者が増えつつある惑星。司政官に反抗するリーダーはかつての同僚だった、など7作を収める。

 連邦制度をとる未来社会(特に官僚機構)、異星の描写、主人公の心理描写など、何れもが細密に描き込まれている。ロボット官僚たちに囲まれ、ただ一人の人間である司政官が統治するという設定が面白い。官僚機構は、ローマ時代から本質的な変化がない普遍的なものだ。こういった部分に焦点を当てたSF作品は他にないため、古びて見えず新鮮な印象を受ける。《司政官》は長編を含めてもわずか9作しかないが、ばらばらでは独特の世界を理解するのが難しい。一挙に読んでこそ面白さが分かる内容といえる。

装画:加藤直之

 長編には、第10回星雲賞、第7回泉鏡花文学賞を受賞した、太陽活動の異変で居住が困難となった惑星に赴任する司政官を描く『消滅の光輪』(1979)と、司政官制度が力を失った衰退の時代、苦闘する主人公の物語『引き潮のとき(全5巻)』(1988-95)がある。第17回星雲賞を受賞した後者は、〈SFマガジン〉に12年間にわたって連載された大長編であるが、残念なことに電子書籍版がない。手軽に読める『消滅の光輪』からまずお試しいただきたい。眉村卓には、《司政官》以外の宇宙ものとして『不定期エスパー(全8巻)』(1988-90)もある。超能力者でありながらその力を制御できない主人公が、貴族の勢力争いの中で地位を固めていくドラマだ。

 ジュヴナイル、宇宙ものと並んで、眉村卓の作品では異世界が多く描かれる。異世界とは、現実と違った(現実とよく似ている、あるいはよく似た人物がいる)別の世界のことだが、シームレスにつながっていて簡単に迷い込んでしまう。それは、『ぬばたまの…』(1978)のようなうす暗い幻想世界だったり、『傾いた地平線』(1981)の過去の自分と複雑に入れかわる世界だったりする。第7回日本文芸大賞を受賞した『夕焼けの回転木馬』(1986)では、著者の分身のような2人の登場人物が絡み合いながら、過去から続く無数の可能性に呑み込まれていく。

 『虹の裏側』(1994)は主に初期(1965-79)に書かれた、異世界ものを集成した傑作選である。「仕事ください」「ピーや」「サルがいる」など、登場人物の内面を映し出すホラー的な作品も含まれている。このうち高校生がタイムスリップする「名残の雪」は、ドラマや映画になった「幕末高校生」の原作である。

『妻に捧げた1778話』(2004)は、癌で闘病する妻(2002年に死去)に毎日1話のショートショートをささげた実話で、映画化もされベストセラーにもなった。本書には、一連のショートショート群からの抜粋の他、著者の自伝的な記述も含まれている。夫人とは高校時代に知りあいデビュー前からお互いを支え合ってきた。著者の作品と、夫婦の生きざまとは深いつながりがある。ショートショートを書いた前後およそ10年間は、それ以外の執筆が空白となるくらい重い時間だった。ショートショートの一部は『日がわり一話』『日がわり一話(第2集)』(1998)にまとめられている。

イラスト:ケッソクヒデキ

 しかし、この後も眉村卓は作品の発表を続けている。72歳で発表したセルフパロディのような長編『いいかげんワールド』(2006) 、77歳での短編集『沈みゆく人』(2011)、82歳で出した短編集『終幕のゆくえ』(2016)などは、異世界ものの新境地だろう。あとがきで著者は、異世界は現実に対置するものではなく、それ自体存在するものだと述べている。物語の主人公(多くは老人)は、さまざまな奇妙で不気味な異世界に踏み込んでいく。これはわれわれの今、あるいは、明日の姿を暗示するものだろう。

(シミルボンに2017年3月3日掲載)

 この2年後の2019年11月、眉村卓さんは亡くなっています。病床で書かれた遺作長編『その果てを知らず』(2020)は一般でも話題に。また、有志によるビブリオ付きの追悼文集『眉村卓の異世界通信』(2021)は、出版社を介しない私家版でありながら、AmazonのSFカテゴリ10位になるなど好評を博しました。ゆかりの作家による続編『眉村卓の異世界物語』(2022)も出ています。

SFと神さまのはざま

 著者がシミルボンに寄稿したコラム(#シミルボン)は、読書案内を意図したものが多め。この記事もSFの代表的テーマを作品に則して紹介したものです。(なるべく)電子書籍で入手可能なものが良い、という当時の編集部方針に配慮した内容になっています。以下本文。

 万物を創造した神さまは実在するのか。そんなことを真剣に悩む人は現代にはいない……とお考えだろうか。けれど、一方で神さまのために殉教する人がいるし、神さまの存在を疑わず、政治や倫理の基準だと考える人もたくさんいる。世界からとどくニュースには、神さまの影響力が顔をのぞかせているわけだ。科学不信があるとはいえ、おそらく物理的に存在しえない神さまが、なぜこんなに支持されているのだろう。

装幀:岩郷重力+T.K

 SFでは神さまのような存在がよく描かれる。アーサー・C・クラークの古典『幼年期の終わり(別題:地球幼年期の終わり)』(1953)では、人類を導く異星人が登場する。圧倒的なテクノロジーを持ち、進化の制御までできるのだから神とみなせる存在だろう。山田正紀『神狩り』(1974)に登場する神は、人類には理解不能の言語を持つ超越者だが、歴史に干渉する悪しき存在でもある。秘密を知った主人公は、神と対決する決意を秘める。そういう神々は人を越えたものでありながら、ある種の不完全さを残している。人間でもいつか同じレベルに手が届くかもしれない。だからこそ、対決を考える余地が生まれるのだ。

カバー装画:松尾たいこ

 人間が神さまになるお話もある。マッドサイエンティストが人工の宇宙を造るエドモンド・ハミルトンの古典「フェッセンデンの宇宙」(1937)(同題の短篇集に収録)や、機本伸司『神様のパズル』(2002)などだ。これらは箱庭のような閉じられた実験室内で、宇宙を物理的に製造する。ここまでのスケールはないが、ロバート・F・ヤング「特別急行がおくれた日」(1977)(短篇集『たんぽぽ娘』に収録)などもよく似た発想で書かれている。人間を神にスケールアップはできないので、逆に創造物を人間よりもはるかに(比喩的にも物理的にも)小さくするという考え方だ。しかし想像するまでもなく、しょせん人間が神なのだから崇高な創造者とはならない。心の弱さや残虐さをむき出しにした結果、宇宙もろとも破滅してしまう。

カバー:小阪淳

 グレッグ・イーガンの「祈りの海」(1998)(短篇集『祈りの海』の表題作)は、必ず奇蹟が体験できる異星の海を描き出す。住民たちは海の中での体験を経て、神の存在を確信する。しかし、科学者の研究により真相が明らかになる。我々が感じとる神というのは、高度な啓示によるものではなく、単なる生理的「現象」に過ぎないのかもしれない。ただ例えそうだとしても、当事者にとって神の実在が感じとれ、神を前提とした生活があるのなら簡単に逃れられはしないだろう。

カバー:岩郷重力 +WONDER WORKZ。

 テッド・チャンに「地獄とは神の不在なり」(2001)(短篇集『あなたの人生の物語』に収録)という作品がある。描かれているのは、キリスト教の天使がほんとうに降臨する世界である。天使の降臨は地上にさまざまな天変地異を引き起こし、罪もない人々が何人も亡くなる。逆に奇蹟が起こり、不治の病が治癒することもある。神は無慈悲な存在で、人の都合にはなんの配慮も払わない。畏怖すべき絶対的な神が存在するのに、人は祈りによって救われるとは限らない。まさに、今現在の現実をデフォルメした世界観だ。

 山本弘は長編『神は沈黙せず』(2003)でこんな物語を語る。主人公は幼いころ両親を災害で失う。それ以来、神の存在や神の意思について強い猜疑心を抱きながら成長する。やがて、フリーライターとなって、神に憑かれた人々の取材をはじめる。さまざまなカルト団体が奉じる神は、何の事実にも基づかない詐欺まがいの存在でしかなかった。しかし、合理的な説明のできない、奇妙な現象が主人公を襲う。やがて、神の実在を印象付ける、驚くべき事件が世界を揺るがす。本書では、UFO・UMA・超能力・超常現象の目撃例=あるがままの事件が膨大に提示される。超常的な現象と神の存在とには、何らかの共通点があるのかもしれない。物語は大ネタの解明で終わるのだが、神に人生を翻弄された人々はある種の諦観にたどり着く。神の定めた運命と、感情を持つ一個人との葛藤の結果ともいえる。

カバー:岩郷重力 +WONDER WORKZ。

 神林長平の長編『膚の下』(2004)では、視点が人類とは異なる。大戦争の結果、荒れ果て修復の目処も立たない地球では、全ての人類を火星に移して冬眠させ、地球再生を試みる計画が進んでいる。計画を推進するために、人造人間=アンドロイドであるアートルーパーが作られる。驚異的な生命力を持ち、知能は人類と同等の彼らは、荒廃した地上の管理者である。やがて、独特の自意識が芽生え、新たな救世主を育むものとなる。この物語は、多様性など顧みられずたった一つの目的で作られたアートルーパーの成長小説である。しかし「膚の下」に流れる血が人類と同じ人造人間は、全ての生物を救う存在となる。ここでは救世主=神を求める精神は、人間でなくても宿ると述べられている。

 後半の4つの物語の中では、神は人の思いと無関係なものとして描かれる。無関係ということは、存在しないに等しい。しかし、人はそれを自分に受け入れやすい形へと解釈し直す。悲しみや怒りを鎮め、自身の不遇さや人を亡くした苦しみを軽減する手立てにする。神さまの実在は問題ではない。単なる錯覚であっても、非科学的で人間に無関心な神であっても構わないのだ。実際、世界の人々が信じる神は、そういった心の中の存在なのである。

(シミルボンに2016年12月15日掲載)