ピーター・ワッツ『6600万年の革命』東京創元社

The Freeze-Frame Revolution / Hitchhiker,2018(嶋田洋一訳)
カバーイラスト:緒賀岳志
カバーデザイン:岩郷重力+W.I

 ピーター・ワッツの最新刊。先に出た日本オリジナルの短編集『巨星』に3作品が収められている《サンフラワー・サイクル》で、未訳だった中編と続編に相当する短編1作が収録された作品集だ。短編は暗号を解読した読者だけのボーナストラックなので、書籍でそのまま読める日本の読者はお買い得である。著者が中編と主張する本編は、350余枚あるので短い長編ともいえる。

 国連ディアスポラ公社が建造した恒星船〈エリオフォラ〉は、銀河を周回しながらワームホールゲートの敷設をする任務を続けている。ブラックホールを内蔵し、航路周辺の天体を燃料に変え、敷設したゲートは既に10万を越える。しかし、その間6600万年が経過した。3万人の乗員は少人数に分割され、数千年に一度必要に応じて目覚めるのみ。船のコントロールはすべてAIに委ねられている。

 6500万年が経った時点で、乗員たちの一部にAIによる恣意的な操作が行われているのでは、という疑念が生まれる。対抗するため、密かにAIからの解放革命が進められるが、それには100万年もの時間がかかる。人間の寿命は任務の長さに比して極端に短いので、何度も休眠と覚醒をタイムラプスのように繰り返すことになる。

 登場人物への共感を拒否するワッツの作品の中では、この《サンフラワー・サイクル》は比較的人間寄りのシリーズである。ここに出てくる人類は(詳細な説明はされないものの)おそらく我々とは異なる存在だろう。途方もない時間スケールの中で、精神に異常を来さず任務をやりとげねばならないのだ。そこに超AIならぬ頭の悪いAIチンプ(チンパンジー並という蔑称)が絡み、乗組員たちと駆け引きをする。宇宙的時間が流れ、登場する全員が非人間なのに、妙に人間的な弱みが見えるのが面白いところだ。

エドゥアルド・ヴェルキン『サハリン島』河出書房新社

Остров Сахалин,2018(北川和美・毛利公美訳)
装画:杉野ギーノス
装丁:森敬太(合同会社 飛ぶ教室)

 エドゥアルド・ヴェルキンは1975年生まれのロシア作家。YA向けのSFを書いてきたが、本書で初めて一般読者向けSFを書いた。2019年のストルガツキー賞を受賞。サハリンとは樺太のこと。本書の設定では、復活した大日本帝国の領土となっている。ロシアの文豪チェーホフは、ロシア帝国末期の1893年に同じ題名の『サハリン島』(旅行記ではなく多分に政治的なルポルタージュ)を書いた。本書ではそういった過酷な流刑地だった過去と、作者自身が訪れた現在のサハリン、核戦争後の異様なサハリンが混淆しているのだ。

 北朝鮮の核攻撃を契機に全面核戦争が勃発、アメリカや中国、ロシアは崩壊し、さらに生き残った人々をゾンビ化させる、謎の疫病MOBが蔓延する。日本では自衛隊のクーデターで大日本帝国が復活、鎖国政策により押し寄せる難民を強制的に排除する。物語は東京帝国大学で応用未来学を専攻する主人公が、イトゥルプ島(択捉島)やサハリン島でフィールドワークを行うため、島に上陸する場面から始まる。島には難民の収容所、居住地があり、また日本人流刑囚を収監する刑務所が点在しているのだ。

 主人公はロシアの血を引く美少女、二丁拳銃で撃ちまくる。案内役のタフな銛族(銛を自在に操る)の青年と共に、列車やバギー、ボート、徒歩など移動手段を換えながらサハリン各地を転々とする。サハリンは北海道と同じくらいの広大な島で、交通手段や治安が乱れた状況での移動は極めて困難なのだ。

 と書くとラノベなのだが、ロシアSFはそうそう生易しいものではない。ロシア時代の地名がそのまま残る帝国領は異形の世界だ。本土に入れない中国人難民や、ロシア人、コリアンが溢れている。人の命には価値はなく、無造作に殺され死体は発電所の焚きつけになる。アメリカ人はというと人種を問わず「ニグロ」と呼ばれ、檻に吊されて石打ちの刑に処せられる。海は放射能で汚染されている。支配階級であるはずの日本人も、サハリンではどこか精神に異常をきたすのだ。

 著者は本書と関連ある作品として『宇宙戦争』『トリフィド時代』「少年と犬」『渚にて』「風の谷のナウシカ」などを挙げている。他にもヘンリー・カットナーの〈ホグベン一家〉もの(日本では単行本にまとまっていない)や芥川龍之介の影響を受けたという。そこにソローキンやエリザーロフ(下記リンク参照)の、エスカレーションする凄惨さを加えたカオスが本書になる。日本の読者からすれば、(アンモラルな)差別的描写はフィクションの一要素と割り切り、政治性を排した異世界ものとして解釈すべきだろう。エピローグはちょっと蛇足ぎみでは。

 

橋本輝幸編『2010年代海外SF傑作選』早川書房

カバーデザイン:川名潤

 11月に出た『2000年代海外SF傑作選』に続く、橋本輝幸編の翻訳SFアンソロジイである。このくらいの時期になると、ケン・リュウやピーター・トライアスなど新刊でも入手容易な作家が多くなる。11作品を収める。

 ピーター・トライアス:火炎病(2019)*兄は周りが青い炎に包まれるという病に犯される。主人公は、治療の手がかりを探すうちに、感覚操作並列SOPというARエンジンの存在を知る。
 郝景芳:乾坤と亜力(2017)*社会全般を統括するAI乾坤(チェンクン)は、ある日、三歳半の子ども亜力(ヤーリー)から学ぶように命令される。亜力の言動は理解不能のものばかりだった。
 アナリー・ニューイッツ:ロボットとカラスがイーストセントルイスを救った話(2018)*全米の医療が崩壊したアメリカで、ドローン型ロボットと一羽のカラスが協力することを学ぶ。
 ピーター・ワッツ:内臓感覚(2018)*グーグルのデリバリーに暴行を働くというもめ事を起こした男は、パラメータ化の専門家と名乗る女の非公式訪問を受ける。
 サム・J.ミラー:プログラム可能物質の時代における飢餓の未来(2017)*ソフトウェアで自在に変化する、形状記憶ポリマーが爆発的に普及する。しかし、ハッキングのために恐ろしい事態が生じるようになる。
 チャールズ・ユウ:OPEN(2012)ある日突然、部屋の中央に”door”という文字が出現する。僕は彼女と話し合わねば、と思う。
 ケン・リュウ:良い狩りを(2012)清朝末期、香港の近辺に住む妖狐と妖怪退治師だった親子は、魔法が消えていく時代の中で、姿を変えながら生き抜いていこうとする。
 陳楸帆:果てしない別れ(2011)**主人公は脳内出血で倒れ、かろうじて意思の伝達こそ可能なものの全身麻痺のままとなる。ところがそんな主人公に、思わぬ仕事が依頼される。
 チャイナ・ミエヴィル:“ ”(2016)* “ ”とは〈無〉を構成要素とする獣である。現実の事物の反対側にある負の存在は、新たな学問を生み出すことになる。
 カリン・ティドベック:ジャガンナート(2012)いつなのか分からない未来、異形の生き物マザーの中に生まれた主人公は、やがて成長し生涯の役割を与えられる。
 テッド・チャン:ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル(2010)仮想空間に生きる人工生物ディジエントは、独自のゲノム・エンジンを使って知能を持つ生き物としてふるまう。
 *:初訳、**:新訳

 7作品は初紹介、または入手困難な本の新訳。ピーター・トライアス郝景芳アナリー・ニューイッツピーター・ワッツらは、まさに今のテクノロジーであるAIや、ネットで構成されたGAFA的な世界を切り取った小品だろう。サム・J・ミラーは登場人物が現代的、チャールズ・ユウチャイナ・ミエヴィルは円城塔風(文字のような純粋に抽象的な存在を生き物のように扱う)である。カリン・ティドベックは酉島伝法『皆勤の徒』(英訳版)を高評価したヴァンダミアのアンソロジイから採られたが、本作もそういう流れを汲む作品。陳楸帆も後半はよく似た雰囲気だ。ケン・リュウは『紙の動物園』収録のスチーム・パンク作品、テッド・チャンはデジタル生命の意味を考察する力作で、比較的最近(約1年前)出た『息吹』収録の中編だが、テーマ的にも欠かせないということであえて収録されたようだ。

 2010年代は終わったばかりの近過去なので、客観的な評価を下すのは難しいが、本書の中にそのエッセンスは見える。ネットがその存在感を広げ、AIは偏在化(あらゆるところに分散化)し、無形(ソフト)が有形(ハード)を凌駕する社会だ。また、国家に替わって企業が情報=人間を支配する。男女の定型的な役割は否定され、人に似たものは人間とは限らない。本書の多様な視点から、そういう社会的な変化が顕わに見えてくる。

 2020年はパンデミックで明け暮れ、さまざまなものが終わりまたは加速されたが、これらは2010年代(2010-19)より後に物語の形を成すものだろう。

キム・チョヨプ『私たちが光の速さで進めないなら』早川書房

(註:この書籍はPREVIEWに対応していません)

우리가 빛의 속도로 갈 수 없다면,2019(カン・バンファ、ユン・ジョン訳)
装画:カシワイ
装幀:早川書房デザイン室

 1993年生まれの著者のデビュー作で、韓国内17万部を売り上げたというベストセラーである。人口が日本の半分ほどの韓国では、小説で1万部が売れればヒットらしいので、異例の注目作と言えるだろう。昨年チョン・ソヨン『となりのヨンヒさん』を紹介したが、本書も7編を収録する短編集だ。

 巡礼者たちはなぜ帰らない:遠い星に築かれたに村では、18歳の大人になると巡礼者として「始まりの地」へ旅する儀式があった。しかし、帰還するのは半数だけだ。向こうでは何が起こっているのだろうか。
 スペクトラム:祖母は宇宙探査船の乗組員だった。ワープ航法の事故で亡くなったものと思われていた。ところが、40年後に宇宙を漂流しているのを発見される。そして異星人と接触したと話すのだが。
 共生仮説:その画家は見たことのない風景を描いたが、不思議なことに誰もが懐かしさを感じた。やがて、その光景は既に消滅した異星のものだと分かってくる。だが、なぜ懐かしさにつながるのかは不明だった。
 わたしたちが光の速さで進めないなら:廃棄された宇宙ステーションで、来るはずのない連絡船を待ち続ける老人がいた。係員はその老人と話すうちに、過去に起こった技術開発史での皮肉なできごとを知ることになる。
 感情の物性:小さな石のような物体に「感情」を封じ込めたアイテムが、爆発的に流行する。主人公は自分の恋人までがそれに溺れるのを見て疑念を抱く。
 館内紛失:妊娠中で精神的に参っていた主人公は、死んで図書館にアップロードされた母と話そうとする。母とは不和で家を出て以来、話したことはない。ところが、母のデータは館内紛失状態なのだという。
 わたしのスペースヒーローについて:主人公は過酷な訓練を経て、宇宙飛行士になろうとしている。幼い頃から母親同然と慕う先任飛行士を、自分の目指すヒーローだと思ってきた。そのパイロットは事故で亡くなったはずだった。

 見かけから体質までを遺伝子操作すること、人とは全く異なる知覚手段で認知が行われること、他者の精神が体の中にあるとしたら、時代に取り残された科学者の悲哀、感情が外部に取り出せたら、失われた母親と母親になろうとする自分、逆境を跳ね返したヒーローの秘密と、不安を抱えつつもソフトな語り口で未来を指向する主人公たちが印象的だ。

 私見ながら、世界中で日本と最も近い国というと、おそらく韓国だろう。物理的距離だけでなく、町並みや人々の雰囲気がよく似ている。しかし、日本よりもさまざまな面で未来にある。大学進学率が7割を超える(日本は5割)厳しい競争社会で、そのため少子化が進み(出生率1.05、日本が1.43)自殺者も多い。女性の社会的地位や差別はより厳しい。主人公たち(多くは女性)の葛藤には、そういう背景があるように思える。

 昨年から韓国ではSFがブームになっており、「今日のSF(오늘의sf)」(現在2号まで出ている)などのSF専門誌の創刊や旧作の復刊などが相次いでいるという。また『82年生まれ、キム・ジヨン』に代表されるフェミニズムとの融和性も指摘されている(「現実を転覆させる文学」文藝2020年冬季号)。

 今年出た英訳版が絶賛されている村田沙耶香『地球星人』(Earthlings)とか、藤野可織『来世の記憶』など、外観はSFながら、これらは必ずしも奇想アイデアをメインに据えた作品ではない。ジェンダーや人種・社会階層・民族差別、貧富の差、LGBTなどのマイノリティーへの共感など、社会問題が関わっている。アレゴリーというより、もっと直截的にメッセージを届ける道具としてSFが使われているわけだ。本書も同様だが、ジャンル小説内にとどまらない、ほぼ世界同時に進む現代文学の潮流と言って良いだろう。

牧野修『万博聖戦』早川書房

(註:この書籍はPREVIEWに対応していません)

カバーイラスト:佳嶋
カバーデザイン:早川書房デザイン室

 牧野修の書下ろし長編。本書は、初の連載小説だった『傀儡后』(2002)、SF大賞特別賞『月世界小説』(2015)でも描かれた1970年代が重要なキーとなる作品であり、全体を通して異形の20世紀三部作とでもいえる内容だろう。

 著者はインタビューの中で「どの作品もどこか重なりあって同じ旋律を繰り返しているような気がします。その結果が『万博聖戦』で、集大成というよりは、中央にある私の伝えたい核にだいぶ近づいているような気はします」(SFマガジン2020年12月号)と述べている。

 中学生になったばかりのシトには友人がいなかった。しかし、級友のサドルが唐突に話しかけてきたことをきっかけに、隠された秘密を知ることになる。彼は、オトナ人間とコドモ反乱軍が戦うテレビ漫画の話をするのだが、その戦いは現実にも行われているというのだ。

 物語は1970年に開かれた大阪万博の1年前から始まる。そこはわれわれが知っている(と思っていた)過去とは少し違う世界だ。オトナ人間はインベーダーに憑依された操り人形で、秩序と論理で日本人すべてを支配下に置こうとしている。対するコドモたちは、無責任な自由とでたらめによって対抗する。非力なようでも、彼らには異次元世界に棲む(子供じみた)援軍、少女将校ガウリーらの乗り組む超弩級巡洋艦がいる。その戦いの焦点こそが万博会場にあるのだ。後半舞台は一転し、われわれの見知らぬ2037年に移る。子どもたちはもはや大人で、かつて使えた特殊能力は失われている。しかも、オトナ人間たちは再び侵攻しようと力を蓄えている。

 著者の小説には、だれも見たことのない異形のものが登場する。ホラーではそれがゾンビや電波系怪人の姿をしており、SFではアニメや特撮ドラマのヒーロー、あるいは抽象化された概念的怪物であったりするが、本質的には同じものなのだろう。本書ではオトナ対コドモという対立軸が描かれる。しかし、前半と後半でその正義の意味が反転する。1970年代や大阪万博という繁栄の時代を、50年後に復活させようとする呪術(フィクション)を、虚構(フィクション)の中で問い直す意味もある(前掲インタビュー参照)。また、表現規制派(オトナ)対自由派(コドモ)、規律(オトナ)対放任(コドモ)という現代的な社会問題すら内包する奥深さが面白みを増している。

竹田人造『人工知能で10億ゲットする完全犯罪マニュアル』/十三不塔『ヴィンダウス・エンジン』早川書房

(註:この書籍はPREVIEWに対応していません)

カバーイラスト:ttl
カバーデザイン:アフターグロウ
(註:この書籍はPREVIEWに対応していません)

カバーイラスト:鈴木康士
カバーデザイン:早川書房デザイン室

 第8回ハヤカワSFコンテストは大賞受賞作がなく、2作品が優秀賞同時受賞となった。竹田人造は1990年生まれ、第9回創元SF短編賞で新井素子賞を獲った短編を全面改稿し長編化したものという。一方の十三不塔(麻雀の役名から採られたペンネーム?)は1977年生まれ、過去に中国に住んでいたことがあり(当時のルームメイトの名が主人公に使われている)、四川省成都が舞台で日本人の登場しない物語にその体験が生きたようだ。

 人工知能で10億ゲットする完全犯罪マニュアル:親の借金絡みでヤクザとのもめ事に巻き込まれた主人公は、たまたま口にした専門知識が幸いして、ある犯罪に協力することを条件に助命される。だが、それは監視カメラ網でがんじがらめに管理された首都圏で、装甲現金輸送車を襲うという破天荒な計画だった。

 主人公はAI技術者。先端企業に勤めていたが傲慢な上司と折り合えず退職、そのあと人生を転がり落ちる。しかしハイテクおたくだったヤクザの一人に見いだされ、しぶしぶ犯罪に加担する。巻末の参考文献でも匂わせているが、本書でのAIは「人間を超越した知能」を持つ存在ではなく、パターン認識を使って「直感的な推論」をする現実的なシステムだ。だから、特有のテクニックで騙すことができる。そのだまし合いがリアルに描かれている。

 審査講評(東浩紀、小川一水、神林長平、編集長)を読むと、エンタメ作品を書ける即戦力として評価が高い反面、物語としての意外性がない、結末が不十分、(リアルな現実を越える)視点が必要との意見が出て大賞には至らなかった。昨年のアガサ賞で藤田宣永(故人)が、SFコンテストではエンタメだけの作品は通らないと述べていたが、本書もSFコアな要素が不十分なのだろう。

 ヴィンダウス・エンジン:主人公は韓国人、動きのないものが認識できなくなる難病ヴィンダウス症に苦しむ主人公は、主治医だった香港の医師から誘われ、中国成都の研究施設を訪れる。成都は都市機能AIに制御されている。そこで、都市の管理を担うヴィンダウス・エンジンとなるよう要請されるのだ。

 主人公、主治医、都市の有力者、インド人の科学者、成都で密かに生きるヴィンダウス症の人々と人物は多彩、擬人化された都市AI(複数)も中国語でネーミングされて登場する。こちらのAIは(アニメや映画でおなじみの)スーパーヒーロー的な存在で、超常バトルもまたそれらしい。ヴィンダウス症が生み出すものの謎を追う物語でもあるだろう。

 本作のテーマは壮大で、その点は最終候補作の中でも高評価だった。しかし、人物の描きわけや(読み進める上での)論理的な記述に対して、客観状況説明がほとんどない、論理の連鎖もやや危うい、主人公の造形に特徴がない、テーマが無理やりキャラクターを動かしていると、竹田人造とは逆にエンタメ要素の不足が課題となったようだ。両者のバランスを取るのは、なかなか難しいと感じられる。とはいえ、大賞2作品にはそれぞれ読みどころがあり(一般読者的には)十分楽しめる。

橋本輝幸編『2000年代海外SF傑作選』早川書房

カバーデザイン:岩郷重力+M.U

 評論や最新海外SFの紹介で知られる新鋭、橋本輝幸による初のアンソロジイである(『2010年代ー』が続刊)。編者は英語だけでなく中国語も読めるので、本書には劉慈欣の作品も含まれている。しばらく途切れていたが、小川隆+山岸真編『八〇年代SF傑作選』(1992)や山岸真編『九〇年代SF傑作選』(2002)に続く、10年区切りの年代別海外SFアンソロジイの一環でもある。

 エレン・クレイジャズ:ミセス・ゼノンのパラドックス(2007)二人の女がカフェで語り合う。その内容には矛盾が混じり一貫性もないように見えて……。
 ハンヌ・ライアニエミ:懐かしき主人の声(2008)違法クローン作成容疑で南極の霊廟都市に収められたご主人を奪取しようと、飼い犬と猫が活躍する。
 ダリル・グレゴリイ:第二人称現在形(2005)ドラッグ・ゼンの中毒で「死んだ」少女の体には「別人」であるわたしがいる。両親は少女が蘇ったと喜ぶのだが。
 劉慈欣:地火(2000)古い炭鉱の町出身の主人公は、炭鉱をガス田に変貌させるプロジェクトのリーダーとなった。だが、大胆な実験の結果は予想を裏切る結果を招く。
 コリイ・ドクトロウ:シスアドが世界を支配するとき(2006)夜中にサーバーダウンの急報を受けてデータセンターに駆けつけた主人公は、そこに他のサーバーのシスアド(システム管理者)たちが詰めかけているのを知る。世界的な異変なのだった。
 チャールズ・ストロス:コールダー・ウォー(2000)冷戦下の時代、ソ連で密かに進むコンチェイ計画に動きが見られた。それがもし無制御で動き出せば世界は滅ぶ。
 N.K.ジェミシン:可能性はゼロじゃない(2009)なぜかニューヨークだけで、大当たりが偏在して起こっている。良いことだけじゃなく悪いことも。
 グレッグ・イーガン:暗黒整数(2007)数学的な公理が異なる宇宙が、この宇宙と重なって存在している。そこでは抽象的な数学の証明が他の宇宙への攻撃になるのだ。
 アレステア・レナルズ:ジーマ・ブルー(2005)惑星規模の芸術家が最後の作品を発表するという。主人公は単独インタビューに成功し、芸術家の秘密を知る。

 ニューウェーヴやサイバーパンク相当の大きなムーヴメントは、ゼロ年代には起こらなかった。すれ違う会話をしゃれた文体で魅せる「ミセス・ゼノンのパラドックス」や、電脳クローンを動物もので書いた「懐かしき主人の声」、21世紀のヴァーミリオン・サンズ「ジーマ・ブルー」は、複合化されたアイデアをいかに料理するかというテクニカルな面白さがある。一方、社会的には9.11事件(2001年)が起こり、世界同時テロの時代が訪れた。ニューヨークが舞台の「可能性はゼロじゃない」には、そういう得体の知れない不安感がバックにある。また、ネット社会の台頭が「シスアドが世界を支配するとき」の奇妙なアフター・ホロコーストもの、「暗黒整数」(「ルミナス」の続編)の情報戦争に姿を見せる。「コールダー・ウォー」も面白いが、これはもはや普遍的テーマなのでこの傑作選でなくてもよいと思う。

 本書の中では「地火」が異色だろう。1970年代の炭鉱が舞台で、書かれた1990年代末の中国は、2020年比10分の1の経済力しかない貧しい時代だ。日本で同等の(経済10分の1)時期は1950年代後半なのだから、他の欧米SFとは時間経過のスピードが異なる。科学技術がもたらす危険性や、未来に対する希望などに独特の思いが感じられる。(英米SFではなく)海外SFと称する限り、今後はこういう英米外の別の文化、別の時間軸にあるSFを取り入れていく必要があるだろう。

サム・J・ミラー『黒魚都市』早川書房

(註:この書籍はPREVIEWに対応していません)

Blackfish City,2018(中村融訳)
カバーイラスト:浦上和久
カバーデザイン:川名潤

 著者は1979年生まれの米国作家。2013年にシャーリー・ジャクソン賞(短編)、2018年に最初のYA向け長編がアンドレ・ノートン賞、2019年に第2長編の本書がジョン・W・キャンベル記念賞を受賞するなど、各賞候補や年刊SF傑作選の常連でもある。ニューヨーク州生まれで、いまもニューヨークに住む。また、長年コミュニティ・オーガナイザーとして社会活動に携わっている

 百年ほどの未来、〈シス戦争〉と呼ばれるグローバル・ネットワークを崩壊させる戦争の結果、社会秩序は崩壊し国家も体をなさなくなっている。世界には区画モジュールをつなぎ合わせたグリッド・シティ(格子都市)があちこちに点在するが、クアヌークは北極圏の洋上に浮かぶ星形の形状をした人工都市だった。そこに、シャチにまたがり巨大なホッキョクグマを従え、特殊な共感能力を備えた女が姿を現す。

 クアヌークには明確な政府は存在しない。少数の政治家とAI群によって、最低限の秩序が守られているだけだ。リバタリアン的な自由国家に見えるが、実態は少数の富裕層が都市の株主として君臨し、政治家に強い影響力を及ぼす格差社会だ。AIDSを思わせる感染症ブレイクスも暗い影を落とす。

 物語は不自由のない富裕層の孫息子、政治家の配下で住民とのコミュニケーションに携わる若い女性、ゲーム的な格闘技ビーム・ファイト選手の男、都市内部を知り尽くしたメッセンジャーの少年、それにシャチに乗る女、政治家の女、富裕層の老人らが絡み合い複雑に展開する。

 アメリカは四分五裂になっている。クアヌークにはさまざまな人種がいて、その誰もがとっくに祖国を失った流民たちだ。著者は長年ニューヨークで社会活動をしてきた体験があり、人種や性別、民族、出身国による差別や、所得格差の問題を身をもって感じてきたと思われる。本書の中では、気候変動で人間と同じように生態系を追われ、絶滅の危機に瀕する野生動物と(文字通り)共棲する設定もでてくる。しかし、北極圏の過酷な人工都市は絶望の地獄ではない。最後に小さな希望が姿を見せてくれる。

高山羽根子『暗闇にレンズ』東京創元社

(註:この書籍はPREVIEWに対応していません)

装丁:鈴木久美
装画:河井いづみ

 9月に出た本。第163回芥川賞作家である高山羽根子の、700枚余と(著者の既作品と比して)大部の初長編である。博物館に飾られていたレンズ付きの測量器が、兵器にも見えたことにインスピレーションを受け、長期にわたって構想が練られた作品であるという。標題「暗闇にレンズ」とは、闇に潜んだ箱の中から(レンズによって)撮影されたある凄惨な事件のことを指す。

 東京に住む女子高生の主人公は、変わり者の友人とカジュアルに街を撮影する。街には、さまざまなものに擬態した監視カメラが溢れていた。そして19世紀の日本、横浜港に名物の女主人が営む賑やかな娼館があった。女主人には娘がいたが、奔放に育つ中で写真、活動写真に興味を抱くようになる。

 物語には大まかに2つの流れがある。1つは現代パート、女子高生である主人公と友人が、自分たちの周囲を携帯端末で撮影しながら、やがて過去を知っていく物語。もう1つは百数十年前に遡る、主人公の母や祖母曾祖母たちの物語だ。これらは無表記のSide Aと、混沌としたSide Bに別れている。Side Bでは、年号が記された女たちの年代記(後半は年号すら書かれなくなる)と、「レポート」とある映像兵器に絡んだエピソード(さまざまな時代と場所)、標題のみが付けられた戦争ホラー風の小品が続く。レポートや小品は、メインの物語とは直接結びつかないが、こういう錯綜した雰囲気がいかにも高山羽根子だろう。

 娼館を仕切った女主人のときゑ、その娘照(てる)はパリにある黎明期の映画スタジオに勤める。未知江は娼妓の子で照の養子となり、戦前の記録映画の世界で活躍する。物語の中では、映画は大衆を操作する宣伝媒体だけではなく、物理的な影響をも与えうる兵器となっている。未知江の娘ひかりは、戦後のアメリカでアニメの仕事を経験し、最後は戦時下のサイゴンでルミと出会う。ルミはひかりの兄の子どもだ。成長したルミは、いまも世界を飛び回って、終わりなき戦争の撮影を続けている。ルミの娘が主人公、つまり6世代にわたる物語なのである。

 本書の女たちは、いわゆる大家族的な「一族」ではない。戸籍上は家族かも知れないが、同じところに住んだわけでもなく、世界を彷徨うノーマッド、放浪者たちなのだ。家父長などどこにもおらず、男たちは補助的に登場するものの存在感が薄い。その背景にレンズがある。世界を見る眼と、世界を支配する映像の力が示唆される。主人公はその力の意味を最後に知ることになる。

マーガレット・アトウッド『誓願』早川書房

(註:この書籍はPREVIEWに対応していません)

The Testaments,2019(鴻巣友季子訳)
装画:Noma Bar
装幀:早川書房デザイン室

 『侍女の物語』(1985)から34年ぶり(翻訳版では30年ぶり)に書かれた続編である。『侍女の物語』はHuluで2017年にドラマ化されエミー賞を受賞(第1シーズン)するなど高く評価された。その制作に著者自身が携わったこと、及び社会情勢の変化をトリガにして本作は書かれたという。2019年のブッカー賞受賞作でもある。

 前作から15年後、ギレアデ共和国の裏で暗躍する小母の一人は、熾烈な主導権争いの合間に一冊の手記を記している。そこには、この国を転覆しかねない隠匿された事実が書かれている。一方、有力な司令官の娘は共和国の良き妻になるための学校に通う。ただ自分の結婚の行方には不安を感じている。共和国の外、カナダにもう一人の娘がいた。不自由なく奔放に育つが、不幸な事件を経て両親の秘密を知ることになる。

 本書には3つの視点がある。一人は前作にも登場したリディア小母。今回はその小母の一人称で、共和国内部の状況が描かれる。公式な文書ではないため、感情表現が赤裸々であり、恐怖に満ちたギレアデ誕生期にも言及がある。上流階級の娘アグネスの視点では、下女・女中に相当する〈マーサ〉たちに囲まれた日常生活と、やがて〈妻〉になって決められた夫に嫁ぐ社会の仕組みが語られる。16歳の少女デイジーは外からの視点だ。女性を国外に脱出させるための地下鉄道(闇の逃走ルート)や、秘密組織〈メーデー〉の存在が明らかにされる。このような形で、ギレアデの支配する国家(旧アメリカの中・東部)に立体的なリアリティが与えられるのだ。

 35年前に書かれた『侍女の物語』では、徹底したディストピア社会が描かれていた。閉塞的で救いがなく厳格なギレアデ体制に抗する術もない、という暗い作品だ。この作品は1990年に一度映画化されているが「奇想天外な」SFホラー映画の扱いだった。当時は現実的な問題と捉えられなかったのだろう。しかし、2016年にトランプ政権が誕生すると、本書のデフォルメされたキリスト教原理主義の社会が、絶対に生まれないとは言えなくなった。作者は「歴史上や現実社会に存在しなかったものは一つも書いたことがない」という。本書の設定は、世界のどこかで行われた事実の組み合わせなのである。

 続編である本書には希望が描かれる。ギレアデは矛盾と腐敗を抱え、遠くない将来に瓦解するだろうと示唆される。破壊の原動力となるのは、本書に描かれた女性たちだ。正編のエピローグでは、百数十年後にカセットテープが発掘され〈侍女〉の日常が明らかになる。続編のエピローグはそれから2年後に、今度は〈小母〉の手記が発見されることになる。2つのお話は、そのようにしてリンクしていくのだ。