牧野修『万博聖戦』早川書房

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カバーイラスト:佳嶋
カバーデザイン:早川書房デザイン室

 牧野修の書下ろし長編。本書は、初の連載小説だった『傀儡后』(2002)、SF大賞特別賞『月世界小説』(2015)でも描かれた1970年代が重要なキーとなる作品であり、全体を通して異形の20世紀三部作とでもいえる内容だろう。

 著者はインタビューの中で「どの作品もどこか重なりあって同じ旋律を繰り返しているような気がします。その結果が『万博聖戦』で、集大成というよりは、中央にある私の伝えたい核にだいぶ近づいているような気はします」(SFマガジン2020年12月号)と述べている。

 中学生になったばかりのシトには友人がいなかった。しかし、級友のサドルが唐突に話しかけてきたことをきっかけに、隠された秘密を知ることになる。彼は、オトナ人間とコドモ反乱軍が戦うテレビ漫画の話をするのだが、その戦いは現実にも行われているというのだ。

 物語は1970年に開かれた大阪万博の1年前から始まる。そこはわれわれが知っている(と思っていた)過去とは少し違う世界だ。オトナ人間はインベーダーに憑依された操り人形で、秩序と論理で日本人すべてを支配下に置こうとしている。対するコドモたちは、無責任な自由とでたらめによって対抗する。非力なようでも、彼らには異次元世界に棲む(子供じみた)援軍、少女将校ガウリーらの乗り組む超弩級巡洋艦がいる。その戦いの焦点こそが万博会場にあるのだ。後半舞台は一転し、われわれの見知らぬ2037年に移る。子どもたちはもはや大人で、かつて使えた特殊能力は失われている。しかも、オトナ人間たちは再び侵攻しようと力を蓄えている。

 著者の小説には、だれも見たことのない異形のものが登場する。ホラーではそれがゾンビや電波系怪人の姿をしており、SFではアニメや特撮ドラマのヒーロー、あるいは抽象化された概念的怪物であったりするが、本質的には同じものなのだろう。本書ではオトナ対コドモという対立軸が描かれる。しかし、前半と後半でその正義の意味が反転する。1970年代や大阪万博という繁栄の時代を、50年後に復活させようとする呪術(フィクション)を、虚構(フィクション)の中で問い直す意味もある(前掲インタビュー参照)。また、表現規制派(オトナ)対自由派(コドモ)、規律(オトナ)対放任(コドモ)という現代的な社会問題すら内包する奥深さが面白みを増している。

竹田人造『人工知能で10億ゲットする完全犯罪マニュアル』/十三不塔『ヴィンダウス・エンジン』早川書房

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カバーイラスト:ttl
カバーデザイン:アフターグロウ
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カバーイラスト:鈴木康士
カバーデザイン:早川書房デザイン室

 第8回ハヤカワSFコンテストは大賞受賞作がなく、2作品が優秀賞同時受賞となった。竹田人造は1990年生まれ、第9回創元SF短編賞で新井素子賞を獲った短編を全面改稿し長編化したものという。一方の十三不塔(麻雀の役名から採られたペンネーム?)は1977年生まれ、過去に中国に住んでいたことがあり(当時のルームメイトの名が主人公に使われている)、四川省成都が舞台で日本人の登場しない物語にその体験が生きたようだ。

 人工知能で10億ゲットする完全犯罪マニュアル:親の借金絡みでヤクザとのもめ事に巻き込まれた主人公は、たまたま口にした専門知識が幸いして、ある犯罪に協力することを条件に助命される。だが、それは監視カメラ網でがんじがらめに管理された首都圏で、装甲現金輸送車を襲うという破天荒な計画だった。

 主人公はAI技術者。先端企業に勤めていたが傲慢な上司と折り合えず退職、そのあと人生を転がり落ちる。しかしハイテクおたくだったヤクザの一人に見いだされ、しぶしぶ犯罪に加担する。巻末の参考文献でも匂わせているが、本書でのAIは「人間を超越した知能」を持つ存在ではなく、パターン認識を使って「直感的な推論」をする現実的なシステムだ。だから、特有のテクニックで騙すことができる。そのだまし合いがリアルに描かれている。

 審査講評(東浩紀、小川一水、神林長平、編集長)を読むと、エンタメ作品を書ける即戦力として評価が高い反面、物語としての意外性がない、結末が不十分、(リアルな現実を越える)視点が必要との意見が出て大賞には至らなかった。昨年のアガサ賞で藤田宣永(故人)が、SFコンテストではエンタメだけの作品は通らないと述べていたが、本書もSFコアな要素が不十分なのだろう。

 ヴィンダウス・エンジン:主人公は韓国人、動きのないものが認識できなくなる難病ヴィンダウス症に苦しむ主人公は、主治医だった香港の医師から誘われ、中国成都の研究施設を訪れる。成都は都市機能AIに制御されている。そこで、都市の管理を担うヴィンダウス・エンジンとなるよう要請されるのだ。

 主人公、主治医、都市の有力者、インド人の科学者、成都で密かに生きるヴィンダウス症の人々と人物は多彩、擬人化された都市AI(複数)も中国語でネーミングされて登場する。こちらのAIは(アニメや映画でおなじみの)スーパーヒーロー的な存在で、超常バトルもまたそれらしい。ヴィンダウス症が生み出すものの謎を追う物語でもあるだろう。

 本作のテーマは壮大で、その点は最終候補作の中でも高評価だった。しかし、人物の描きわけや(読み進める上での)論理的な記述に対して、客観状況説明がほとんどない、論理の連鎖もやや危うい、主人公の造形に特徴がない、テーマが無理やりキャラクターを動かしていると、竹田人造とは逆にエンタメ要素の不足が課題となったようだ。両者のバランスを取るのは、なかなか難しいと感じられる。とはいえ、大賞2作品にはそれぞれ読みどころがあり(一般読者的には)十分楽しめる。

橋本輝幸編『2000年代海外SF傑作選』早川書房

カバーデザイン:岩郷重力+M.U

 評論や最新海外SFの紹介で知られる新鋭、橋本輝幸による初のアンソロジイである(『2010年代ー』が続刊)。編者は英語だけでなく中国語も読めるので、本書には劉慈欣の作品も含まれている。しばらく途切れていたが、小川隆+山岸真編『八〇年代SF傑作選』(1992)や山岸真編『九〇年代SF傑作選』(2002)に続く、10年区切りの年代別海外SFアンソロジイの一環でもある。

 エレン・クレイジャズ:ミセス・ゼノンのパラドックス(2007)二人の女がカフェで語り合う。その内容には矛盾が混じり一貫性もないように見えて……。
 ハンヌ・ライアニエミ:懐かしき主人の声(2008)違法クローン作成容疑で南極の霊廟都市に収められたご主人を奪取しようと、飼い犬と猫が活躍する。
 ダリル・グレゴリイ:第二人称現在形(2005)ドラッグ・ゼンの中毒で「死んだ」少女の体には「別人」であるわたしがいる。両親は少女が蘇ったと喜ぶのだが。
 劉慈欣:地火(2000)古い炭鉱の町出身の主人公は、炭鉱をガス田に変貌させるプロジェクトのリーダーとなった。だが、大胆な実験の結果は予想を裏切る結果を招く。
 コリイ・ドクトロウ:シスアドが世界を支配するとき(2006)夜中にサーバーダウンの急報を受けてデータセンターに駆けつけた主人公は、そこに他のサーバーのシスアド(システム管理者)たちが詰めかけているのを知る。世界的な異変なのだった。
 チャールズ・ストロス:コールダー・ウォー(2000)冷戦下の時代、ソ連で密かに進むコンチェイ計画に動きが見られた。それがもし無制御で動き出せば世界は滅ぶ。
 N.K.ジェミシン:可能性はゼロじゃない(2009)なぜかニューヨークだけで、大当たりが偏在して起こっている。良いことだけじゃなく悪いことも。
 グレッグ・イーガン:暗黒整数(2007)数学的な公理が異なる宇宙が、この宇宙と重なって存在している。そこでは抽象的な数学の証明が他の宇宙への攻撃になるのだ。
 アレステア・レナルズ:ジーマ・ブルー(2005)惑星規模の芸術家が最後の作品を発表するという。主人公は単独インタビューに成功し、芸術家の秘密を知る。

 ニューウェーヴやサイバーパンク相当の大きなムーヴメントは、ゼロ年代には起こらなかった。すれ違う会話をしゃれた文体で魅せる「ミセス・ゼノンのパラドックス」や、電脳クローンを動物もので書いた「懐かしき主人の声」、21世紀のヴァーミリオン・サンズ「ジーマ・ブルー」は、複合化されたアイデアをいかに料理するかというテクニカルな面白さがある。一方、社会的には9.11事件(2001年)が起こり、世界同時テロの時代が訪れた。ニューヨークが舞台の「可能性はゼロじゃない」には、そういう得体の知れない不安感がバックにある。また、ネット社会の台頭が「シスアドが世界を支配するとき」の奇妙なアフター・ホロコーストもの、「暗黒整数」(「ルミナス」の続編)の情報戦争に姿を見せる。「コールダー・ウォー」も面白いが、これはもはや普遍的テーマなのでこの傑作選でなくてもよいと思う。

 本書の中では「地火」が異色だろう。1970年代の炭鉱が舞台で、書かれた1990年代末の中国は、2020年比10分の1の経済力しかない貧しい時代だ。日本で同等の(経済10分の1)時期は1950年代後半なのだから、他の欧米SFとは時間経過のスピードが異なる。科学技術がもたらす危険性や、未来に対する希望などに独特の思いが感じられる。(英米SFではなく)海外SFと称する限り、今後はこういう英米外の別の文化、別の時間軸にあるSFを取り入れていく必要があるだろう。

サム・J・ミラー『黒魚都市』早川書房

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Blackfish City,2018(中村融訳)
カバーイラスト:浦上和久
カバーデザイン:川名潤

 著者は1979年生まれの米国作家。2013年にシャーリー・ジャクソン賞(短編)、2018年に最初のYA向け長編がアンドレ・ノートン賞、2019年に第2長編の本書がジョン・W・キャンベル記念賞を受賞するなど、各賞候補や年刊SF傑作選の常連でもある。ニューヨーク州生まれで、いまもニューヨークに住む。また、長年コミュニティ・オーガナイザーとして社会活動に携わっている

 百年ほどの未来、〈シス戦争〉と呼ばれるグローバル・ネットワークを崩壊させる戦争の結果、社会秩序は崩壊し国家も体をなさなくなっている。世界には区画モジュールをつなぎ合わせたグリッド・シティ(格子都市)があちこちに点在するが、クアヌークは北極圏の洋上に浮かぶ星形の形状をした人工都市だった。そこに、シャチにまたがり巨大なホッキョクグマを従え、特殊な共感能力を備えた女が姿を現す。

 クアヌークには明確な政府は存在しない。少数の政治家とAI群によって、最低限の秩序が守られているだけだ。リバタリアン的な自由国家に見えるが、実態は少数の富裕層が都市の株主として君臨し、政治家に強い影響力を及ぼす格差社会だ。AIDSを思わせる感染症ブレイクスも暗い影を落とす。

 物語は不自由のない富裕層の孫息子、政治家の配下で住民とのコミュニケーションに携わる若い女性、ゲーム的な格闘技ビーム・ファイト選手の男、都市内部を知り尽くしたメッセンジャーの少年、それにシャチに乗る女、政治家の女、富裕層の老人らが絡み合い複雑に展開する。

 アメリカは四分五裂になっている。クアヌークにはさまざまな人種がいて、その誰もがとっくに祖国を失った流民たちだ。著者は長年ニューヨークで社会活動をしてきた体験があり、人種や性別、民族、出身国による差別や、所得格差の問題を身をもって感じてきたと思われる。本書の中では、気候変動で人間と同じように生態系を追われ、絶滅の危機に瀕する野生動物と(文字通り)共棲する設定もでてくる。しかし、北極圏の過酷な人工都市は絶望の地獄ではない。最後に小さな希望が姿を見せてくれる。

高山羽根子『暗闇にレンズ』東京創元社

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装丁:鈴木久美
装画:河井いづみ

 9月に出た本。第163回芥川賞作家である高山羽根子の、700枚余と(著者の既作品と比して)大部の初長編である。博物館に飾られていたレンズ付きの測量器が、兵器にも見えたことにインスピレーションを受け、長期にわたって構想が練られた作品であるという。標題「暗闇にレンズ」とは、闇に潜んだ箱の中から(レンズによって)撮影されたある凄惨な事件のことを指す。

 東京に住む女子高生の主人公は、変わり者の友人とカジュアルに街を撮影する。街には、さまざまなものに擬態した監視カメラが溢れていた。そして19世紀の日本、横浜港に名物の女主人が営む賑やかな娼館があった。女主人には娘がいたが、奔放に育つ中で写真、活動写真に興味を抱くようになる。

 物語には大まかに2つの流れがある。1つは現代パート、女子高生である主人公と友人が、自分たちの周囲を携帯端末で撮影しながら、やがて過去を知っていく物語。もう1つは百数十年前に遡る、主人公の母や祖母曾祖母たちの物語だ。これらは無表記のSide Aと、混沌としたSide Bに別れている。Side Bでは、年号が記された女たちの年代記(後半は年号すら書かれなくなる)と、「レポート」とある映像兵器に絡んだエピソード(さまざまな時代と場所)、標題のみが付けられた戦争ホラー風の小品が続く。レポートや小品は、メインの物語とは直接結びつかないが、こういう錯綜した雰囲気がいかにも高山羽根子だろう。

 娼館を仕切った女主人のときゑ、その娘照(てる)はパリにある黎明期の映画スタジオに勤める。未知江は娼妓の子で照の養子となり、戦前の記録映画の世界で活躍する。物語の中では、映画は大衆を操作する宣伝媒体だけではなく、物理的な影響をも与えうる兵器となっている。未知江の娘ひかりは、戦後のアメリカでアニメの仕事を経験し、最後は戦時下のサイゴンでルミと出会う。ルミはひかりの兄の子どもだ。成長したルミは、いまも世界を飛び回って、終わりなき戦争の撮影を続けている。ルミの娘が主人公、つまり6世代にわたる物語なのである。

 本書の女たちは、いわゆる大家族的な「一族」ではない。戸籍上は家族かも知れないが、同じところに住んだわけでもなく、世界を彷徨うノーマッド、放浪者たちなのだ。家父長などどこにもおらず、男たちは補助的に登場するものの存在感が薄い。その背景にレンズがある。世界を見る眼と、世界を支配する映像の力が示唆される。主人公はその力の意味を最後に知ることになる。

マーガレット・アトウッド『誓願』早川書房

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The Testaments,2019(鴻巣友季子訳)
装画:Noma Bar
装幀:早川書房デザイン室

 『侍女の物語』(1985)から34年ぶり(翻訳版では30年ぶり)に書かれた続編である。『侍女の物語』はHuluで2017年にドラマ化されエミー賞を受賞(第1シーズン)するなど高く評価された。その制作に著者自身が携わったこと、及び社会情勢の変化をトリガにして本作は書かれたという。2019年のブッカー賞受賞作でもある。

 前作から15年後、ギレアデ共和国の裏で暗躍する小母の一人は、熾烈な主導権争いの合間に一冊の手記を記している。そこには、この国を転覆しかねない隠匿された事実が書かれている。一方、有力な司令官の娘は共和国の良き妻になるための学校に通う。ただ自分の結婚の行方には不安を感じている。共和国の外、カナダにもう一人の娘がいた。不自由なく奔放に育つが、不幸な事件を経て両親の秘密を知ることになる。

 本書には3つの視点がある。一人は前作にも登場したリディア小母。今回はその小母の一人称で、共和国内部の状況が描かれる。公式な文書ではないため、感情表現が赤裸々であり、恐怖に満ちたギレアデ誕生期にも言及がある。上流階級の娘アグネスの視点では、下女・女中に相当する〈マーサ〉たちに囲まれた日常生活と、やがて〈妻〉になって決められた夫に嫁ぐ社会の仕組みが語られる。16歳の少女デイジーは外からの視点だ。女性を国外に脱出させるための地下鉄道(闇の逃走ルート)や、秘密組織〈メーデー〉の存在が明らかにされる。このような形で、ギレアデの支配する国家(旧アメリカの中・東部)に立体的なリアリティが与えられるのだ。

 35年前に書かれた『侍女の物語』では、徹底したディストピア社会が描かれていた。閉塞的で救いがなく厳格なギレアデ体制に抗する術もない、という暗い作品だ。この作品は1990年に一度映画化されているが「奇想天外な」SFホラー映画の扱いだった。当時は現実的な問題と捉えられなかったのだろう。しかし、2016年にトランプ政権が誕生すると、本書のデフォルメされたキリスト教原理主義の社会が、絶対に生まれないとは言えなくなった。作者は「歴史上や現実社会に存在しなかったものは一つも書いたことがない」という。本書の設定は、世界のどこかで行われた事実の組み合わせなのである。

 続編である本書には希望が描かれる。ギレアデは矛盾と腐敗を抱え、遠くない将来に瓦解するだろうと示唆される。破壊の原動力となるのは、本書に描かれた女性たちだ。正編のエピローグでは、百数十年後にカセットテープが発掘され〈侍女〉の日常が明らかになる。続編のエピローグはそれから2年後に、今度は〈小母〉の手記が発見されることになる。2つのお話は、そのようにしてリンクしていくのだ。

北野勇作『100文字SF』早川書房

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カバーデザイン:早川書房デザイン室

 著者がtwitter上で公開している「ほぼ百字小説」は、11月7日現在2670余話に達している。本書は、そこからSF風味の作品200話を精選した作品集である。刊行は6月、昨年段階で『じわじわ気になる(ほぼ)百字の小説』既刊3冊(390話を収録)が出ており、一部重複するが同じではない。

 昨日へ行くお買いもの、楽器に再生される人間、火星に導かれて帰宅、巨大化する人、空を舞う洗濯機、千年前の海岸、世界の上限、いざというときの抜け穴、水筒の中にいる何か、金属の塔、溺死した妖精、近所の猿、海岸の神様、ずり落ちる商店街、生きた恐竜、一種のヘルメット、と続く。これだけでもまだ10分の1に足らず。

 北野勇作は短編小説、特に短いものの天才だ。最近では、800字以内で書く第2回大阪てのひら怪談(2017)や、原稿用紙6枚以内の第1回ブンゲイファイトクラブ(2019)で受賞しているのだが、こういう短い作品を安定したレベルで維持し続けるのは難しい。単調になったり、持続できず出来が大きくばらついたりする。本書の作品の場合、文字数以外での形は定まっていない。短い文が5つ続くこともあれば、1つの文章だけというものもある。起承転結があるものも、起のあとにいきなり結がくるものもある。日常から始まってSFになり、SFから始まって日常に落ちる。抽象的概念的なものがあるかと思うと、妙に具象的なものがある。哲学、寓話、日記風、エッセイ風のものまである。

 短い小説というと掌編、ショートショートが思い浮かぶが、長さによってさまざまな呼び名がある。 英語版Wikiによると、6語ストーリー、280字ストーリー(英語版twitter小説)、ドリブル (ミニサーガ、50語)、ドラブル(マイクロフィクション、100語)、サドゥン・フィクション(750語)、フラッシュ・フィクション (1000語)、マイクロ・ストーリーなどだ。一部は『超短編小説70 Sudden Fiction』で過去に紹介されている。日本語で換算すると、それぞれの語数を2~3倍した文字数に相当する。日本でも最近「四文転結」という形式が提唱されている。4つの文だけで小説にしてしまうという試みだ。本書はtwitter小説に分類されるのだろうが、膨大な量と類型に陥らない多彩さがあり、上記形式に囚われない広がりを感じる。

 著者も述べている通り、これらの作品は朗読に向いている。短いので目で追うとお話を見失うが、声で聞けば腑に落ちるのだ。変化の早さに人の理解が追いついていけない現代の風潮とも符合する。一瞬立ち止まって、じっくり聴くのも良いと思う。超短編にはそういう効用もある。

山田宗樹『SIGNAL シグナル』角川書店

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イラスト:みっちぇ(亡霊工房)
デザイン:須田杏菜

 山田宗樹による書下ろし長編。本格SFのアイデアをより身近な設定で語り直してきた著者だが、今回はインタビュー記事の中で「(地球外知的生命体との出会いについて)できるだけリアルな世界を描きたかった」と述べている。

 正確な周期で繰り返される宇宙からの信号が検出される。それは三百万光年の彼方にあるM33星雲からと判明するが、素数が含まれる人工的な信号である以外、どういう情報が送られてきたかが不明だった。謎のままでは、世間の関心はまたたく間に薄れてしまう。その状況に焦りを感じた中学生の主人公は、深い議論ができる一貫校高校部の先輩と話し合う。17年後、サイエンスライターとなった主人公は、日本のグループが信号の内容を解読したとする記者発表に立ち会う。

 メシエが分類した100余の星のカタログのうち、約半分が銀河系外星雲である。その中では、M33(NGC598)はアンドロメダ星雲(M31)の近くに見える比較的小型の星雲だが、地球からの絶対的な距離はM31より遠い。なぜこんな遠方からの信号なのかは、物語の中で説明される。本書は第1部と第2部に別れ、第1部では主人公の中学生時代を、第2部では科学者となった先輩らとともに、謎を解き明かそうとする過程が描かれる。一方、その声を直接聞くことができる人々、レセプター(受容体)が現われる。映画「未知との遭遇」で宇宙人の声を聞く人々のようだ。その声は言語的というより、映像的暗示的なものなのである。

 宇宙人の信号が地球に届き……というSFは数知れないが、これについては過去に評者がレム『天の声』の解説で書いたので参照していただきたい。一般読者向けに書かれた本書の場合、そういった哲学的、科学的な議論には深入りせず、あらましまでで抑えられている。現在の日本を舞台とし、天文ロマンに憧れた僕(少年)と、声を幻視するもう一人の主人公私(レセプター)の、平行する出会いの物語とした点が面白い。コンタクトものなので必然的にそうなるのだが、別解釈の《三体》と言えるくらい同作と呼応する部分が多いのも注目点だろう。

眉村卓『その果てを知らず』講談社

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装幀:岩郷重力
装画:元永定正「おおきいのはまんなか」

 昨年の11月3日に亡くなった、眉村卓の遺作長編である。死の数日前に書き上げられたという。奥付は10月20日で、86回目の誕生日に合わせて出版されたものだ。また小説現代2020年11月号には本書の抄録と、権田萬治、池澤春菜の解説が掲載されている。しかし、本書は一般的な意味での遺作とは、やや異なる印象を残す作品である。

 主人公は84歳になる老作家で、がんの転移などもあり入退院を繰り返している。だが、入院中の病室で彼は奇妙な幻覚を見るようになる。そこに居るはずのない人物が現われ、自身も姿が見えなくなるのだ。退院したあと、東京に向かう新幹線の中で、デビュー前後の混沌とした記憶が次々と蘇ってくる。

 作家の遺作にはさまざまな形態がある。執筆途中の未完成作から、数ヶ月前に書き上がっていたもの、病床で書き上げられたものもある。とはいえ、数度の手術や抗がん剤治療など体力を奪われる重い病では、闘病の間に書き継ぐのはとても困難だろう。星新一や小松左京らには、そういう意味での遺作はなかった。著者の場合も、本作の存在が明らかになる前は、2017年12月に出た短編集『夕焼けのかなた』が最後と思われていた。

 本書の物語には、自叙伝的な要素がある。ただし、登場人物(光伸一、毛利嵐など作家や、林良宏など編集者)や固有名詞(速風書房など出版社や、エンタテインメント作家協会など団体名)はすべて仮名になっている。主人公が記憶する過去は、事実のようであっても不確かだからだ。記憶違いだけでなく、夢の中の存在、あるいは別の世界の現実が混じり合ってくる。病院で襲いかかってくる何者か、屋上にある紙ヒコーキのような乗物、あるいはデビュー作を載せてくれた出版社の火事。そして、作家協会の懇親会で一人の編集者から「異世界への編入」の話をされ、介護で世話になっている娘から「転位」ができるようになったと聞くのだ。

 「(たとえ理想から大きく乖離していても)これでいい、これでやるのだ」と独白する主人公は、著者の作品の中で頻繁に登場する。開き直りのようだが、現実を前向きに受け入れるための決意表明でもあった。本書の中では、それが確定した死に対する諦観「なるようにしかならない」となって現われる。人生=作家生活も終幕に差し掛かり、しだいに時代から取り残される寂寥感に抗うための呪文だったのかも知れない。けれども、本書の結末では、自分が別の宇宙で生き続ける意味が語られる。諦めとは違うのだ。眉村卓は、果てのない異世界のどこかで、作家として書き続けているのだろう。

菅浩江『歓喜の歌 博物館惑星III』早川書房

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装画:十日町たけひろ
装幀:早川書房デザイン室

 8月に出た《博物館惑星》完結編。来年でデビュー40周年を迎える著者だが、これまでにファン投票で決まる星雲賞を計4回受賞するなど、過去から人気が高い。本年の第51回星雲賞では、19年ぶりに「不見(みず)の月」(《博物館惑星》の1作で、同題の短編集に収録)が受賞した。本書には、SFマガジンに2019年6月から1年間連載した6作品(前後編を含む)が収録されている。

一寸の虫にも:ニジタマムシと呼ばれる遺伝子改変された昆虫が、博物館惑星に持ち込まれる。深い虹色の構造色を持つその羽を目的に、違法取引するものがいるのだ。
にせもの:博物館が購入した青磁の壺が偽物と分かる。派遣されてきた国際警察機構美術班の刑事は、贋作を取引するグループの存在を示唆するが。
笑顔の写真/笑顔のゆくえ:銀塩写真で笑顔だけを撮り続けた写真家が、博物館惑星の記念イベントの記録係に推薦される。しかし、なぜかピーク時の魅力が感じられない。写真家には、隠された事情があるようだった。
遙かな花:博物館惑星には、人工的な生物を隔離収容するキプロス島がある。そこで捕まった不法侵入者の男は、スポンサー企業の会長に対して怨恨を抱いていた。
歓喜の歌:創立50周年を記念する盛大なイベントが、博物館惑星全域でついに開催される。一方、観光客でごった返す表舞台の裏側で、違法取引グループを巡る駆け引きが続いていた。

 『不見の月』と同様、エピソードの積み重ねで書かれている。前作を含めて、一続きの物語といえる。健と尚美という若い主人公に加え、人の感情を学ぶ情動学習型データベース〈ディケ=ダイク〉を交えた成長の物語なのだ。後半は博物館惑星苑が50周年を迎える行事(「歓喜の歌」)に絡め、より関連性を高めた設定で組み立てられている。博物館惑星には絵画や彫刻などの芸術作品だけではなく、人の創り出したものすべてを網羅しようとする大目的がある(だから、違法な人工生物を集めるキプロス島ができた)。そう考えると、精緻に造られた贋作もまた創作のもう一つの面であり、表裏合わせてはじめて完全なものとなる。登場人物たちの、愛憎相半ばする感情を描き出すのに、相応しい舞台といえる。

 さて本編は、歓喜の歌大合唱という堂々の大団円を迎えるわけだが、終了後も余話と称して「海底図書館」(SFマガジン2020年10月号)が書かれているので、物語世界はまだ続く。