ベストSFをふりかえる(2010~2012)

 シミルボン転載コラム、今回はベストSFの2回目です。前回と同様3年分を選んでいます。このうち1つは3部作なのですが、残念ながら現行本/電子版はありません。ただ、古書の入手性は比較的良いようです。以下本文。

 2010年:ジョー・ウォルトン《ファージング三部作》東京創元社
 ファシズム政権下に置かれた英国を描く、の歴史改変小説3部作(Small Changeシリーズと称する)である。ネビュラ賞やサイドワイズ賞(改変歴史小説が対象)などの最終候補になり、第2作『暗殺のハムレット』は2008年の英国プロメテウス賞を受賞している。著者は英国生まれ、現在はカナダのケベック州に在住。9.11(2001年)に衝撃を受け、イラク進攻(2003年)をきっかけに『英雄たちの朝』を書き上げたという。大衆を煽るデマゴーグに怒りを感じたからだ。

『英雄たちの朝』:1949年、ドイツとの戦争が講和で終わってから8年が経過していた。ロンドン近郊のハンプシャーにファージングという地所があり、英国保守党の派閥の領袖たちが集うパーティが催されていた。そこで、次期首相とも目される有力議員が殺される。スコットランドヤードの警部補は容疑者を絞り込むが、貴族院議員、爵位を持つ上流階級のはざまで真相は歪められていく。

『暗殺のハムレット』:殺人事件から1か月後、ロンドン郊外で爆発事件が起こる。しかし、死亡したベテラン女優と爆発物がなぜ結びつくのか。折しもロンドンではヒトラーを迎え、独英首脳会談が開催されようとしている。厳戒体制の下、貴族出身の主人公は男女逆転の新趣向であるハムレットのヒロインに抜擢される。

『バッキンガムの光芒』:1960年、英国がファシズム国家になって10年が過ぎた。警部補は英国版ゲシュタポの隊長となり、逮捕状なしで市民を拘束する密告・恐怖政治の先頭に立つ一方、裏でユダヤ人の国外脱出に手を貸していた。そんな混乱の中、彼が後見人となっている亡くなった部下の娘が、社交界デビューを果たそうとしていた。

 英米文化といっても、日本人の多くは単純なハリウッド映画に映る文化を知っているだけだろう。英国のような、多くの矛盾を抱えた階級社会の深層は分かっていない。本書は、改変歴史ものであると同時に、差別の色濃い旧い英国社会を描き出している。

 1巻目はユダヤ人と結婚した貴族の娘、2巻目は名家(実在した、ミットフォード姉妹がモデル)からスピンアウトした女優、3巻目は、エリザベス女王謁見まで果たした庶民階級の娘が、それぞれの視点で社会について語っている。

 ここでのポイントは、階級やユダヤ蔑視を公然と口にする登場人物が、日常生活では普通の人間という違和感だろう。ヒトラーでさえ怪物ではない。その当たり前の人間がファシズムを肯定し、強制収容所を作るのである。物語はI巻、II巻と緊密度を上げて、ただIII巻目は予定調和的に終わる。少しバランスの悪さを感じさせる結末かもしれない。

 ところで、本書の原題は英国コインの名称になっている。英国独特の12進数(ダース)単位の通貨だったファージング硬貨(4分の1ペニー、1960年廃止)、ハーフペニー硬貨(1970年にいったん廃止、同じ名称で再流通後84年で鍛造終了)、ハーフクラウン硬貨(1970年廃止)に対応する。それぞれ、地名(本書では派閥の名称でもある)、ハムレットが上演される劇場の一番安い座席、王室などバッキンガムの象徴と、2重の意味を持たせている点が面白い。

 2011年:アヴラム・デイヴィッドスン『エステルハージ博士の事件簿』河出書房新社
 翻訳されたデイヴィッドスンの短編集としては3作目となる。本書は主に1975年に発表された《架空の19世紀を描くエステルハージもの》8作品を集めたもので、1976年に世界幻想文学大賞(短編集部門)を受賞した著者の代表作でもある。2013年に亡くなった、ミステリ作家殊能将之が偏愛する作品でもあった。

「眠れる童女、ポリー・チャームズ」30年間眠り続け、見世物となっていた女の運命。「エルサレムの宝冠または、告げ口頭」帝国の権威の象徴、エルサレムの宝冠の行方を捜す博士の見たもの。「熊と暮らす老女」老女が匿う“熊”の正体と、その秘められた顛末とは。「神聖伏魔殿」複数の宗教が混在する三重帝国で、集会の許可を求めてきた“神聖伏魔殿”とは何者たちか。「イギリス人魔術師ジョージ・ペンバートン・スミス卿」霊との交信を可能とする力を持つというイギリスの魔術師。「真珠の擬母」安物故に取引が途絶えたある種の貝が、なぜ注目されるようになったのか。「人類の夢不老不死」不良品の指輪を売りつける男、しかしその材料は本物より高純度の金だった。「夢幻泡影その面差しは王に似て」ある日博士は、老王に似た男を貧民街でたびたび目撃する。

 主人公エステルハージ博士(名前自体は中欧に実在する。たとえばハンガリーの貴族エステルハージ家)は、7つの学位を有し、スキタイ=パンノニア=トランスバルカニア三重帝国の由緒ある伯爵家に産まれながら、在野の学者として名を知られている。

 19世紀末、蒸気自動車(当初、ヨーロッパではガソリン車より蒸気自動車が優勢だった)が普及しようとしてはいたが、帝国の随所には中世やイスラム時代の文化が色濃く残っている。そこで巻き起こる事件は、神秘的/怪奇的というより、(現在の我々から見れば)異質の事件といって良い。まさに「異文化」との遭遇に近い体験だ。

 本書はそういう意味で、いわゆるミステリでもなく、多くのファンタジイとも違う。トールキンでも、その物語の中に現実とのアナロジイは残していたのだが、本書に中欧オーストリア・ハンガリー二重帝国との類似点があるかといえば、おそらくほとんどないだろう。ストレンジ・フィクションとか、奇想コレクションとかの名称は、まさにデイヴィッドスンにこそ相応しい。

 2012年:小田雅久仁『本にだって雄と雌があります』新潮社
 この年は円城塔が芥川賞を獲り、伊藤計劃との合作『屍者の帝国』を出した。野尻泡介の短篇集が売れ、高野史緒の江戸川乱歩賞も話題になった。第33回日本SF大賞の宮内悠介『盤上の夜』も出ている。そんな中で、本書は2009年に第21回日本ファンタジーノベル大賞を受賞した小田雅久仁による長編第2作となる。前作のやや重いトーンから一転して、本書は非常に軽快な小説だ。祖父から語り手である孫、さらにその子までの4代にわたる奇妙な伝記を、わずか700枚余りで描き上げている。

 語り手の祖父は、博識ではあるが軽薄で饒舌、大衆からも人気がありマスコミ受けする学者だった。しかし祖父には旧家に溢れる22万冊の蔵書があり、しかも詰め込まれた本たちは自ら増殖し、それらは羽を生やして、どこかに逃げ去ろうとするのだ。空飛ぶ本の正体は一体何なのか。彼らの目指す目的地はどこなのか。

 本書で書かれた真相とは少し違うが、ジョン・スラデックの短編、読まれなくなった本が飛び去ってしまう「教育用書籍の渡りに関する報告書」を思い起こさせる。大量に蓄積された本は、単なる紙束ではなくなり、独特の生命/目的を得るようになるのだ。

 そんな奇想をベースに、本書では祖父を取り巻くユニークな人物たち、売れない探偵小説家だった曾祖父、祖母は識字に難のある天才画家、祖父のライバルコレクター資産家の御曹司、冴えない政治家の伯父、放浪のシンガーである叔父等々が続々と登場する。これだけ多彩な登場人物が詰め込まれた割に、この分量でも物足りなさは感じさせないのは、優れた文章力の賜物だろう。

 さて、本書には重大な結論が書かれている。
 ――人は死んだら本になる、いや、そもそも、人の一生は「本」なのである。

(シミルボンに2016年8月13日~15日掲載)

 小田雅久仁はこの次に長編『残月記』を書き、第43回吉川英治文学新人賞、第43回日本SF大賞を受賞。『本にだって雄と雌があります』に連なる作品としては、高野史緒「本の泉 泉の本」があり、評者も「匣」を書きました。ご参考に。

高野史緒『ビブリオフォリア・ラプソディ あるいは本と本の間の旅』講談社

装画:YOUCHAN
装丁:bookwall

 『グラーフ・ツェッペリン あの夏の飛行船』星雲賞を受賞した著者の、本にまつわる人々を描いた連作集である。既存の短編2作に書下ろし3作を加え、プロローグとエピローグで挟んでいる。各作品は「ダブルクリップ」というキーワードで結ばれている。ここでは本の校正時にゲラ刷りの束を止めるクリップを指す。ゲラはホチキス閉じができないため、超特大のクリップを使うのだ。

 ハンノキのある島で(2017)「読書法」が成立してから、出版界は活況を取り戻したかのように見えた。作家である主人公は、あるものを捜すため実家に帰る。
 バベルより遠く離れて* 主人公は翻訳者だったが、専門とする言語があまりにもマイナーで、しかも傑作とされる文学作品はおよそ翻訳不可能なものだった。
 木曜日のルリユール* 遠慮のない辛辣な書評で人気を得る評論家は、何気なく見た書店の棚刺しにありえない本があることに気がつく。
 詩人になれますように* 高校生のころ詩人になることを願った少女は、思いがけず有名人となって例外的に売れたが長くは続かなかった。もう一度、戻れないのか。
 本の泉 泉の本(2020)どことも知れない古書店の中で、SWのロボットコンビのような二人組が、希少な本を渉猟しつつ奥へ奥へと彷徨い歩く。
 *:書下ろし

 作家、翻訳家、評論家、詩人、収集家(コレクター)が、それぞれの物語の主人公である。ただ、誰もが葛藤を抱えている。「ハンノキのある島」は、読書法の下に出版物が恣意的に淘汰され、最新刊しか残らないディストピアだ(本がどんどん絶版になる現在の状況をデフォルメしたものだろう)。表題は主人公が初めて買った文庫本の著者エラリー・クィーンを意味しているが、クィーンも残されない。何が残るのが正しいのか、自分の作品はどうなのかと主人公は悩む。

 「バベルより遠く離れて」では、文化的に全く異なる言語を巡って壁に突き当たった翻訳家が、不思議なフィンランド人と知り合う中で新たな発見をする。言語の本質に迫るテーマながら、円城塔とは対照的な切り口だ。「木曜日のルリユール」では、真っ当に評価されない炎上商法で稼ぐ毒舌評論家が、批判できない意外な本と遭遇するという、異界と現実とがシームレスにつながりあう異世界もの。「詩人になれますように」では、詩人という職業でたまたま成功した主人公の、書けなくなった10年後の色褪せた現実を描く。「本の泉 泉の本」は、コレクターの日常/心情が架空の迷宮古書店を舞台に描き出される。この5作の中ではもっともファンタジイに近い設定なのに、なぜかもっともリアルに感じられる。

 すべてが本にまつわるホラーなのだと解釈することもできるだろう。悲惨さの順番でいうと、詩人<評論家<作家<翻訳家<コレクターとなる(コレクターまで行くとユートピア)。とはいえ、詩人は悲惨なようだが、(私が聞く限り)率直な意見を得るコミュニティがあり(数百人未満の)固定読者がいる。マスから個に読者層が変わる現代では、むしろ望ましい形態なのかもしれない。

 ところで、表題はビブリオフィリア(読書好き)ではなく、おそらく意図的にビブリオフォリア(スペイン語/造語? 読書狂い?)としている。

ベストSFをふりかえる(2007~2009)

 シミルボン転載コラム、今週から3回分はレビュー記事です。評者が9年間(2007年から2015年)に選んだ作品を、順次紹介していくという趣旨でした。年1作づつ、長編や中短篇集など単行本を対象としていましたが、ここでは3年分を1回にまとめています。国内外作品を問わず、ノンフィクションが入ることもありました。以下本文。

2007年:最相葉月『星新一 一〇〇一話をつくった人』新潮社
 本書は、第28回日本SF大賞、第39回星雲賞を受賞、他にもノンフィクション関連の賞を複数得るなど高い評価を受けたものだ。最相葉月は、主に科学技術やスポーツ関係の著作を得意としてきたノンフィクション・ライターである。

 星新一の父は、星製薬の創設者でもあった星一である。戦前の星製薬は、現存する製薬会社のどれよりも巨大で先進的な企業だった。アメリカ仕込みの経営、例えば全国をチェーン店で結ぶなど斬新な戦略で発展してきた。しかし、星一は典型的なワンマンであり、自分以外を信じなかった。阿片製造(戦前は合法だった)に絡む政界の一部との交流が、逆に恨みを買う要因となって訴訟・倒産につながる。この騒動は破産から立ち直った後も尾を引き、戦後のごたごたの中で星一の急死(1951)、長男親一(本名)への相続へと続いていく。

 SFとの出会いは、周り全てが悪意を持つ債権者たちの時代にあった。矢野徹や柴野拓美ら、宇宙塵とその同人たちとの出会いである。星はすべてを振り棄てて作家に転身する。SF黎明期に先頭を切ってデビューを果たしたのである(1957)。星が選んだショートショートという形式は、昭和30年代から40年代の高度成長期に伸びた企業のPR誌に最適だったこともあり、大きな需要があった。ショートショート集も売れ、流行作家の仲間に入ることになる。ただ、業界の評価は低く、読者の低年齢化が進む中、子供向けの小説とみられて文芸賞とは全く無縁だった。

 星新一は新潮文庫(1971年から)だけで累計3千万部を売ったロングセラーの作家である。小学生から読める内容なので、一度は読んでみた人も多いだろう。しかし、誰もが知っている名前でありながら、多作かつ客観的な作風であることも災いして、明瞭な印象を残さない作家だった。それが結果的に晩年の著者を不幸にする要因でもあった。ピークを過ぎ、先が見えた時に誰でも自分の存在意義を気にする。誰もが知っているが誰も憶えていない作家、まさにその点にこそ本書の焦点がある。

 星新一については、自身が書いた父親や祖父の伝記や、星製薬が解散する前後の事情もエッセイなどで断片的には知られていた。しかし、本書ではこれらの記述が、SF作家星新一デビューと有機的につなげられている。当時のSF界の記述、矢野・柴野・星の関係も正確で新しい視点がある。また、封印されてきた晩年(1983年の1001編達成以降、特にがん発症の前後)の星が何を考え何を行ってきたかが(一部推測を交えているとはいえ)明らかにされたのは初めてだろう。

2008年:クリストファー・プリースト『限りなき夏』国書刊行会
 日本オリジナルに編まれた作品集。『奇術師』クリストファー・ノーラン監督「プレステージ」(2006)として映画化されて以来、プリーストは再び注目を集めるようになった。年間ベストに顔を出すようになり、過去の埋もれた作品も再刊が進んだ。本書はその中で出たベスト版である。

 限りなき夏(1976)テムズ川に架かる橋からは、時間凍結された19世紀初頭以来の“活人画”が見渡せる。青ざめた逍遙(1979)時間を超えられる公園を巡って、大人に成長する少年が見かけた少女の正体。逃走(1966)戦争の影が忍び寄る世界、上院議員の前に少年たちの集団が立ち塞がる。リアルタイム・ワールド(1972)隔絶された宇宙基地で、情報操作により隊員たちをモニターする主人公。赤道の時(1999)赤道上空にある時間の渦の中は、目的の時間をめざして無数の航空機が旋回している。火葬(1978)異文化を持つ島の弔問に訪れた男は、人妻からあからさまな誘いを受ける。奇跡の石塚(1980)10台の頃、島の叔母の家で受けた忌避すべき思い出を追体験する主人公の葛藤。ディスチャージ(2002)3000年に渡る戦争から逃れようとする兵士の体験した群島の出来事。

 66年のデビュー作「逃走」から、主に70年代の作品を収めている。翻訳が2013年に出た《夢幻諸島(ドリーム・アーキペラゴ)シリーズ》に属する「ディスチャージ」や「赤道の時」が比較的新しいが、これはシリーズとしてまとめる際に書き下ろされたものなので、全体のバランスを崩すものではない。80年代以降の作者の活動が長編に移っていった関係で、もっとも作品数が多かった30年前に書かれたものが中心になる。

 プリーストの日本での紹介は『スペース・マシン』(1976)→78年翻訳、『ドリーム・マシン』(1977)→79年、『伝授者』(1970)→80年、『逆転世界』(1974)→83年という順番だった。当時は、『逆転世界』の設定(巨大都市が“最適線”に沿って移動する)が強烈で、ハードSF/数学SFの一種と思われていた。しかし、実際のプリーストの関心は、むしろ「リアルタイム・ワールド」に見られる“現実と幻想の相関関係”を描くことにある。改めて本書を読むことで、作者の意図が分かるようになる。

 それにしても、本書からは少し変わった印象を受ける。一つは、まるで自分の既刊本のように冷静に編集意図を述べる、プリースト自身が寄せた日本語版の序文。もう一つは、本書が安田チルドレン(安田均による海外SF紹介に影響を受けた世代を指す)の産物と説明する訳者あとがき。現実なのか虚構なのかを問う著者の作風から、本書がまるで架空のオリジナル作品集のように思えてくるから不思議だ。

2009年:長谷敏司『あなたのための物語』早川書房
 2009年は伊藤計劃の『ハーモニー』が出て第30回日本SF大賞を獲った。同じ年に出た本書は、著者の原点ともいえる作品である。テーマを深化させ、5年後に第35回日本SF大賞を『My Humanity』で得ることになる。本作品は、今年映画公開も予定されている、テッド・チャンの作品の影響下に書かれた(註:映画は2016年に「メッセージ」として公開)

 表題が『あなたのための物語 A Story for You』となってることから分かるように、本書はテッド・チャン「あなたの人生の物語 Story of Your Life」(1998)に対するある種の返歌となっている。ここで、A Story であることに注目する必要がある。つまり、“あなたのために書かれた複数の物語”の中の1つなのだ、という意味になる。

 21世紀後半の2083年。主人公は脳内に擬似神経を構築し、脳の損傷を改善できる技術によりベンチャーを成功させる。さらに彼女は、脳内の振る舞いを記述する言語ITPにより、物語を語る仮想人格《wanna be(なりたい)》を作り上げる。これで、人間の創造性さえ記述できることが証明できるのだ。しかし、成功の絶頂にいた彼女に、ある日余命半年であることが告げられる。

 神秘的な人間の創造性も、実は脳内物質の多寡に過ぎない。グレッグ・イーガンやテッド・チャンが冷厳に述べてきたその事実を、長谷敏司は一冊の長編にまで敷衍している。死が迫った主人公は、禁じられた手法を用いて自身の脳内を書き直そうとする。「あなたのため」小説を書き続ける仮想人格(wanna be=want to be)は、主人公の死に向き合った怯えや諦観を見るうちに、全く新しい反応を返すようになる。

 著者はライトノベルからスタートし、本書を書き上げるまでに、ほぼ5年を費やしている。アイデアの源泉は既存の作家に由来するが、詳細な伏線(なぜ主人公が孤独なのか)や掘り下げた知能に対する言及(なぜITPで記述された知能に感性の平板化が生じるか)など、既作品に対するアドバンテージは十分あるだろう。「あなたのための物語」とは結局なんだったのかを、最後に反芻してみるとさらに深みが増す。

(シミルボンに2016年8月10日~12日に掲載)

八潮久道『生命活動として極めて正常』KADOKAWA

装画:neni
装丁:bookwall

 著者は1985年生まれ。本書はカクヨムなどに発表した作品5編(はてなダイアリー、ブログに書かれた10年前の作品も含む)に、書下ろし2編を加えた初の作品集である。ある日KADOKAWAの編集者から打診があり…という詳細な出版経緯はこちらに書かれている。インフルエンサーでも有名人でもないと謙遜するが、ブログ記事(やしお名義)が年間総合はてなブログランキングの1位になるなど、注目を集める書き手であったことは間違いないだろう。

 バズーカ・セルミラ・ジャクショ(2016)バズーカのレーティングが突然ゼロになり、電子決済も使えない。主人公はセルミラを勧められ、ジャクショの存在を知るが。
 生命活動として極めて正常(2014)生産管理部の課長が課員を拳銃で撃ち抜く。その後、各部署に電話をかけ申請書を準備し、プロトコルに従って事務処理を進めていく。
 踊れシンデレラ(2016)継母の体育会系体罰や、義姉たちの理不尽な後輩虐めに、体育会的に応じる筋肉派シンデレラの物語。
 老ホの姫(2023)ほぼ男ばかりでロボット介護の老人ホームに新人が入居する。そこでは独特のルールがあり、中でもアイドルめいた「姫」の存在が特異だった。
 手のかかるロボほど可愛い(2021)リゾートにある戦争博物館に一人の老人が訪れる。案内係は古いAIロボットだったが、だんだんと調子がおかしくなる。
 追放されるつもりでパーティに入ったのに班長が全然追放してくれない(書下し)魔物を班(パーティ)単位の部隊が討伐、だが無能な班員を辞めさせるのは難しい。
 命はダイヤより重い(書下し)人身事故が起こっても列車を止めることは許されない。そういう鉄道会社のルールに従う主人公は、奇妙な現象に気がつく。

 少し不思議系なのかと思うと、かなり意外な方向に動く。『バズーカ・セルミラ・ジャンクショ』は、近未来ディストピアが後半「ツリー!」とかのピッピ語により、不条理な雰囲気を増幅していく。表題作は、会社にありがちな官僚的な社内規則に一点の「異常」を付け加える。『踊れシンデレラ』は、文字通りのデフォルメされた体育会系シンデレラ。「老ホの姫」は、老人ホームの老爺アイドルを巡る力関係をパワーゲーム風に描く。「手のかかるロボほど可愛い」は、戦場での老人の過去が明らかになっていく。書下ろしとなる「追放されるつもりでパーティに入ったのに班長が全然追放してくれない」は状況の説明を最小限にして、主人公の利己的なふるまいと状況に流されてしまう気弱さが描かれる。「命はダイヤより重い」は、これも一点異常ものなのだが、他の作品より社内の人間模様に焦点を当てたところが印象的だ。

 近作になるほど登場人物の行動に重点が移る。視点の混乱とか、切り詰め過ぎ/あるいは引っ張りすぎと思われる作品はあるものの、表題作に代表される異常さをシームレスに挟み込むセンス(きわめて非現実的なのにリアルさがある)は優れていて面白い。

豊かな経験から大河ドラマの覇者へ ジョージ・R・R・マーティン

 シミルボン転載コラムです。ベストセラーから大ヒットドラマを産み出したマーチンですが、デビュー当時からホラー寄り・スーパーヒーロー寄りなどの顔を持っていました。そういう初期の作品を含めて紹介しています。ただ、絶版本が多く古いものは電子版もないので、コラムだけでは十分ではありません。本文中にある過去のレビューへのリンクを参考にしてください。以下本文。

 1948年生。現時点でマーティンといえば、ベストセラー《氷と炎の歌》=エミー賞の最多受賞作品でもあるHBOのTVドラマ《ゲーム・オブ・スローンズ》の原作者・脚本家・製作者なので、それ以外の作品はよく知らない人も多いだろう。1971年にプロデビュー、当初は主にSFを書いていた。ヴォンダ・マッキンタイア、ジョン・ヴァーリイ、先ごろ亡くなったエド・ブライアントらとLDG(レイバー・デイ・グループ)の同世代になる。

 初期作を集めた短編集『サンドキングズ』(1981)では、表題作がヒューゴー賞、ネビュラ賞を受賞するなど高評価を得る。また、コミックが大好きで、日本でも第3部まで翻訳されたスーパーヒーローものの共作《ワイルド・カード》(1986-)の編纂や、ジャック・ヴァンス『宇宙探偵マグナス・リドルフ』へのオマージュでもある《タフの方舟》(1986)、ミシシッピ川を航行する蒸気船を舞台にした、吸血鬼ホラー『フィーヴァードリーム』(1982)も書いた。ホラーについては、日本で編まれた短編集『洋梨形の男』(2009)にエッセンスが収録されている。

 電子書籍でも入手可能なSFとなると、初長編『星の光、いまは遠く』(1977)だろう。

 辺境の放浪惑星ワーローン。銀河を巡る長大な軌道から、太陽に接近し居住に適する期間はわずか10年余り。しかし、その10年のために惑星規模の改造が行われ、外縁星域に散在するさまざまな文明が競い合うフェスティバルが開催された。宴も終わり、再び暗黒の外宇宙へと離れていく惑星に、1人の男が降り立つ。やがて、遺されたさまざまなパビリオンの廃墟を舞台に、かつての恋人を巡って、野蛮な習俗を復活させようとする一派との争いが生まれるのだ。

 主人公は優柔不断な文明人、対するは、決闘や人間を狩る伝統を有するハンターの一族。描かれる“宴の後”の世界は、冬の訪れ=滅びの色を湛えながら、華麗にしてエキゾチックである。一族の法に苦しむ豪胆な男たち、次第に彼らの考えに惹かれていく主人公、行動派で妥協しない女性と、登場人物は4半世紀後に書かれる《氷と炎の歌》を思わせる。ベストセラー作家となった作者の、その後を知っているから楽しめるとも言えるが、そういった余分な情報抜きでも面白い。特に中盤を過ぎ、後半に向かってのドライブ感、終盤に至っての意外な収束が読みどころ。

 さて、本命の《氷と炎の歌》シリーズは20年間にわたって書き継がれ、全7巻(各巻が2000枚から3000枚に相当する長さ)を予定するが、いまだ完結していない長大な作品だ。堅牢な世界構築が、このシリーズの魅力だろう。ファンタジイに科学的な説明は要求されないが、世界の成り立ちに矛盾があってよいわけではない。舞台となる大陸のありさま、8千年前(さらに4千年前のできごと)にさかのぼる伝説、七王国の由来と神話、宗教、各王家の人々とその性格など、世界を形作る体系=システムの緻密さ、矛盾のなさが重要なのだ。

 第1部『七王国の玉座』(1996)不規則な夏と冬との季節を持ち、中世ヨーロッパを思わせる異世界が舞台。ドラゴンを旗印に300年続いたターガリエン王朝が倒されて15年、不安定な均衡状態にあった王国に暗雲が立ち込める。新王ロバートは酒におぼれ、放蕩を尽くして王国を傾ける。新規に王の片腕に任命されたスターク家は、王の后を戴くラニスター家と軋轢を深め、他の貴族(7つの名家)を巻き込み、ついに内戦の危機を迎える。冬の到来と共に甦る、はるか北辺の不気味な伝説。そして、海の彼方の騎馬民族から、ドラゴン王の血を引くものが生まれようとしていた。

 第2部『王狼たちの戦旗』(1999)ロバート王亡き後、王都を押さえるラニスター家(摂政を務める后と長男、后の弟)に対して、ロバート王のバラシオン家次男と三男、王とともに殺された北の王スタークの長男は、互いに覇権をめぐって戦いを繰り広げる。戦いの混乱の中で、狼とともに育った幼いスターク家の兄弟姉妹たちにも、さまざまな困難、破壊と暴力/死が立ちふさがる。やがて、首都攻防の大会戦が陸海で勃発する。

 第3部『剣嵐の大地』(2000)七王国の玉座を賭けた決戦は、湾を埋めつくした大船団の壊滅で終わる。タイレル家との婚姻による同盟により、ラニスター家の権力は頂点を極める。七王国の統治は事実上ラニスター家のものとなった。しかし、北辺では、伝説の〈異形〉におびえる野人たちが、壁を破壊する勢いで押し寄せ、フレイ家への謝罪のため赴いた北の王は、恐ろしい血の歓待を受ける。

 第4部『乱鴉の饗宴』(2005)前巻が出てから5年後の刊行。北の王の死、結婚披露宴での毒殺、暗殺と、七王国全土に血塗られた闇が被さりつつある。ラニスター家の当主亡き後、玉座の実権は王母サーセイ摂政太后が握る。評議会を自らの取り巻きで固めたサーセイは、しだいに臣民の信頼を失っていく。太后は最愛の弟すら身辺から退け戦場へと追い払う。

 第5部『竜との舞踏』(2011)は、さらに6年後の刊行。物語は第4部と並行して進むため、第3部の直後の時代から始まる。デナーリス女王は、3頭の巨竜を従えたターガリエン王家の正統な後継者だったが、内乱や外部の敵対勢力に苦しめられる。竜たちは巨大化し、王女でさえ抑えきれなくなってきた。そのころ、女王デナーリスが七王国へ帰還する手助けをして、自陣営に引き入れようとする勢力が現れる。一方、北を封じる〈壁〉にある黒の城では、総帥ジョンが新しい施策を打ち出し、〈壁〉を死守しようとしていた。

 権謀術数の戦国時代絵巻は、全編を通じて繰り広げられる。しかし、その一方で、“冬”の到来とともに、魔法の力がしだいに増してくる。ばら戦争時代のヨーロッパ、北欧のヴァイキング、あるいは古代ギリシャなど史実を織り交ぜた七王国はリアルに、中央アジアを思わせる騎馬民族の国や、蘇るドラゴンの存在、南方の中国風の大都市は幻想/魔術的と、多彩に描き分けられる。極北からは伝説であるはずの魔法や魔物〈異形〉が七王国を侵食してくる。この物語には、マーティンが親しんできた物語や歴史、SFやホラー、コミック的要素が万遍なく込められている。加えて、脚本家時代の経験や、《ワイルド・カード》などで多数の作家と共作してきた経験も生きているようだ。

 2011年についにTVシリーズがスタートし、原作が5部までなのに、2016年時点で第6シーズン(各シーズン10話)まで進んでしまっている。原作を追い越したわけだが、一応マーティンの監修のもとにオリジナルのストーリーはなぞられているようだ。ドラマと、今後出る小説とで大きな矛盾が生じることは(おそらく)ないだろう。

(シミルボンに2017年2月22日掲載)

 この後、LDGの盟友マッキンタイアも亡くなり、ドラマ《ゲーム・オヴ・スローンズ》は第8シーズンで完結しました。一方、本編の原作は追い付かないまま今に至ります。その代わり(なのかどうなのか)、ドラマ《ハウス・オブ・ザ・ドラゴン》となった前日譚《炎と血》『七王国の騎士』が出ていますね。2019年になって翻訳された初期のSF傑作選『ナイトフライヤー』も入手可能です。

日本SF作家クラブ編『地球へのSF』早川書房

カバーデザイン:岩郷重力+Y.S

 ハヤカワ文庫から出た日本SF作家クラブ編のオリジナル・アンソロジイは、これで4冊目となる。今回も大部だが、22作家による22短編を収めるので必然的な分厚さなのだろう。「(SF作家クラブの)60周年を機会に、もう一度我々の依って立つところを振り返り、SFの可能性を改めて検討するスタート地点として」選ばれたテーマだという(大澤会長によるまえがき)。

悠久と日常
 新城カズマ「Rose Malade, Perle Malade」漢の時代、淮南の王は新皇帝に統治の何たるかを説く書を納めようとする。そのためには宇宙の真実を知る必要があった。粕谷知世「独り歩く」コロナ禍で自宅に籠っていた主人公は、ある日近所の川を遡ってみようと考えた。そこで国木田独歩好きの国語教師を思い出す。
温暖化

 関元 聡「ワタリガラスの墓標」温暖化が進む南極は資源を巡る国家間の暗闘の中にある。主人公の研究者は、同僚の行動に不信を抱き追跡の旅に出る。琴柱 遥「フラワーガール北極へ行く」温暖化と海進で既存の国家が崩壊した未来、仕立屋の主人公に不思議な組み合わせの結婚式招待状が届く。笹原千波「夏睡」自分の出身地について、閲覧不可能な文献があるようだった。そこは睡りを伴う過酷な夏がやってくるところなのだ。津久井五月「クレオータ 時間軸上に拡張された保存則」循環する時間の上で成り立つエネルギー保存則を唱える物理学者と、その実用化を考える気候学者。
AIと
 八島游舷「テラリフォーミング」ボットに囲まれて育った少女は、プラネタリウムの中にあるメタバースで「地球再生会議」のメンバーと称する人間と出会う。柴田勝家「一万年後のお楽しみ」ゲーム「シムフューチャー」は1万年後の未来をシミュレーションする。ところがそこは氷に覆われた氷河期なのだ。
ヒトと
 櫻木みわ「誕生日(アニヴェルセル)」90歳の主人公は思い立ってアプリのボトルメールを始める。AIが選んだ相手は9歳の男の子だった。長谷川京「アネクメーネ」地磁気の変動により多くの人が方向感覚を喪失した時代、主人公に地図メーカから遺伝子特許買収の打診がある。上田早夕里「地球をめぐる祖母の回想、あるいは遺言」なぜ火星植民に応募したのか、80歳を迎える祖母が孫娘に伝えるその秘密とは。
生態系
 小川一水「持ち出し許可」川洲で見かけなくなったカエルを捜していると、なぜかオオカミが現れて話しかけてくる。しかも彼らにある取引を持ち掛けるのだ。吉上 亮「鮭はどこへ消えた?」多くの生物が絶滅した100年後の未来、鮭もその一つだ。ところが、その鮭を獲りに行こうと誘うやつがいる。春暮康一「竜は災いに棲みつく」主人公は軌道上で暴れるペイロードを宥めるのが仕事だ。地球ではマグマの中でADSが活発な活動を続けている。伊野隆之「ソイルメイカーは歩みを止めない。」乾燥化が進む地上では、森はソイルメイカーと呼ばれる巨大な生き物と共生している。
経済
 矢野アロウ「砂を渡る男」アルジェリア南東部のサハラ砂漠に、ガイドを連れた大学教授が踏み込む。砂に新たな使い道が生まれたからだった。塩崎ツトム「安息日の主」貴族に仕える美容整形外科医が、客人の令嬢を手術することになる。しかし、そこには複雑な政治と身分、儀式の問題が絡み合う。
内と外
 日高トモキチ「壺中天」汎地球数理アカデミアの年次総会で、若手物理学者が地球内部の空洞を報告する。過去の諸説や、自ら撮影した映像を表示しながら。林 譲治「我が谷は紅なりき」火星では人口が順調に増え、このままでは資源が枯渇する。そこで、今では禁星と呼ばれる海のない地球への帰還事業が開始される。空木春宵「バルトアンデルスの音楽」地下15キロから「地球の音」を取り出すという100メートルの高さの〈花〉は、人々から熱狂的に迎えられたが。菅 浩江「キング 《博物館惑星》余話」ストレスに苦しみ博物館惑星を訪れた主人公は、ロボットガイドの案内でようやく落ち着く。やがて分かるロボットの正体は。
視点
 円城 塔「独我地理学」世界の形を確かめることにより、認識のあり方を地理的に知ることができる。スファイルは平らでもあり丸くもあった。

 「地球」というテーマに規定はなく、解釈は各作家(の裁量)に委ねられている。また数作品ごとに上記のサブテーマ(悠久と日常、温暖化、AIと、ヒトと、生態系、経済、内と外、視点)が設けられているが、あまり意識する必要はないだろう(やや無理な分類だ)。壮大なネタを短い枚数にまとめるのは容易ではない。中には、シチュエーションの説明だけで終わる作品もある。もっとも、SFの場合(設定がユニークでさえあれば)スタイルとして許される。

 それぞれ特徴はあるが、八島游舷はデンソーとのSFプロトタイピングの成果物、津久井五月は堀晃の「熱の檻」(1977)を思わせ、春暮康一は宇宙的スケール感が集中随一、空木春宵は飛浩隆酉島伝法に続く異形(異音?)音楽SFである。ベテランの域にある小川一水、林譲治、マダムSFと称される菅浩江、常連の円城塔らは安定した面白さになっている。

誰もたどり着けない弧峰 スタニスワフ・レム

 シミルボン転載コラム、今回はレム。国書刊行会の《レム・コレクション》は第2期まで進み、日本での人気の根強さを感じさせます。この作家紹介コラムは、いきなり選書ではハードルが高いという初読者の方や、数冊読んだが全体像が分からないという方のために、おおまかな全体像を提供する目的で書かれています(マニアの皆さまには今更ながらの内容ですが悪しからず)。以下本文。

 1921年生。2006年に84歳で亡くなる。レムは究極の弧峰である。多くのファンを持ち、ポーランド国内はもちろん国際的な評価は高いけれど、その流れを継ぐ者や、追従者すら見当たらない。何ものも寄せ付けないという意味で、そびえ立つ弧峰なのである。

 『高い城・文学エッセイ』(1966)に収められた自伝によると、レムは旧ポーランド領(現在はウクライナ領)のルヴフに生まれた。父親は医師で、幼いころから高価だった多くの本を読むことができた。際限のない知識欲を満たすために、百科事典をくまなく読んだりもしている。もらったおもちゃは残らず分解され、元に戻ることはなかったという。

 ギムナジウム時代に、レムは奇妙な遊びに熱中する。それは架空の国/機関の書類(パスポート、許可証、証明書類)を捏造するというものだ。さまざまな役職と、複雑な許認可制度が考え出され、書類ひとつひとつに意味が持たされた。これなどは、官僚的迷宮に主人公が迷い込む『浴槽から発見された手記』(1961)を思わせるが、レムのお話作りのベースがどこにあるのかをうかがわせるエピソードだろう。

 レムが30歳の時書いたデビュー長編『金星応答なし』(1951)は、ツングース隕石に書き込まれたメッセージをもとに、金星に向かった探検隊が遭遇する異星文明を描くものだった。社会主義リアリズム全盛期に書かれた作品だが、後に書かれる思索的な宇宙ものの萌芽を含んでいる。この後、労働部分と思考部分が分離した生物が登場する『エデン』(1959)『ソラリス』(1961)、昆虫のような群体ロボットを描く『砂漠の惑星』(1964)を出版する。それぞれ極めてユニークな知的生命を創造した、宇宙3部作といえる作品だ。

 『ソラリス』(1961)惑星ソラリスが人類に知られてから百数十年が経った。その惑星は二重太陽系に伴う不安定な軌道を、重力を制御することによって自立的に安定させているのだ。ソラリスは惑星海面全体を覆う巨大で単一の生命だった。しかし、最初の接触を目指したさまざまなプロジェクトはことごとく失敗する。あまりに異質で、共通点のない知性とコミュニケートする手段はないのか。しかし、ある日ステーションの科学者が行った個人的な実験が思わぬ結果を生む。科学者たち自身の奥底に隠されていた傷跡が、実体を伴って現れるのである。主人公の場合、それは19歳で自殺したかつての恋人だった……。

 『ソラリスの陽のもとに』(ロシア語からの重訳版)が出たのは、半世紀以上前のことである。その時点で、すでに『ソラリス』は伝説的な傑作と評されていた。本書は2回映画化されている。アンドレイ・タルコフスキー監督は『惑星ソラリス』(1972)でロシア的な原風景をふんだんに鏤めた原罪と罰の物語を作り、スティーヴン・ソダバーグ監督『ソラリス』(2003)は悲劇的な失われた愛と甦りのロマンスを映像化した。しかしレムが描き出すのは、異質な知性=不完全な神とのコンタクトの物語である。現在入手できる最新版は、コンタクトテーマに関わる欠落部分が補われた、ポーランド語原典からの完訳である。

 550枚ほどしかない短い長編だが、余計なものは一切含まれない。そこに、コンタクトの物語、人の持つ罪と奥底に隠された罪悪感の物語、失われた甘美で悲劇的な恋の物語という、複数の物語が並存している。そもそも単一の視点しかない作品では、これほど長生きできなかったろう。ようやく世間がレムに追いついてきたのか、原点としてのテーマ“完全に異質なものとのコンタクト”が重要な意味を持ち始めている。たとえば、人の知性=大脳生理作用の物語、不完全=欠陥を持った神の物語と見れば、グレッグ・イーガンやテッド・チャンとも違和感なくつながってくる。

 レムはこの他にも、相対論的(ウラシマ)効果で未来社会にもどってきた宇宙飛行士たちの戸惑いを描く『星からの帰還』(1961)や、宇宙から届くメッセージを解読しようと苦闘する科学者たちの考察『天の声』(1968)を書いた。どちらも、未知のものとの意思疎通の困難さという問題に踏み込んだ作品だ。

 『完全な真空』(1971)は書評集である。といっても、ここに収められた書評の対象はどこにも存在しない。レムが書こうとして果せなかった“架空の本”についての書評なのである。理想の作品を想像しながら、なおかつそれについての書評を書くという、極めて倒錯した作品集なのだ。中には思わず読みたくなる傑作もある。アルゼンチンの奥地に忽然とあらわれたフランス『親衛隊少将ルイ十六世』や、失われた天才を探索する旅『イサカのオデュッセウス』などである。物理法則自体がゲームであると説く『新しい宇宙創造説』はイーガンの《直交3部作》のようだ。小説レベルを越えた巨大なアイデアである。

 『虚数』(1973)は架空序文集である。「GOLEM XIV」は思考するスーパー・コンピュータの本で、序文だけでなく一部の抜粋が収録されている。GOLEMはプログラムされるコンピュータではない。今日の人工知能を思わせるが、どちらかというと人工生命に近いのかもしれない。レムの描くGOLEMは、既存の頭の悪い人工知能を遥かに超越した上位概念を垣間見せる。それが人間に語りかける様子を一部とはいえ書いているのだから、まさに離れ業に近い。本書が序文集でしか収録できなかったわけもわかる。人間以上の知性が書いた、文章や概念と出会ったらどうなるのかを問いかけているのだ。『完全な真空』『虚数』も、書かれている本はすべて存在しない。しかし、実在の本を読むのと同等、あるいはそれ以上の衝撃を与えてくれる。

 レムはこの他にもユーモアあふれる一連のシリーズものを書いている。1つはレム流の《ロボット》が登場するお伽噺風のシリーズ『ロボット物語』(1964)『宇宙創世記ロボットの旅』(1965)などだ。ロボットといっても、これらは人工知能の原点サイバネティクスを発展させたもので、アシモフ流のロボットとはずいぶん違う。

 もう1つは宇宙探検家泰平ヨン(イヨン・ティーヘ)が、さまざまな惑星や地域を訪れる《泰平ヨン》である。『泰平ヨンの航星日記』(1957/1971)『泰平ヨンの回想記』(1971)『泰平ヨンの未来学会議』(1971)『泰平ヨンの現場検証』(1981)で、もともと文明風刺の色合いが濃かったシリーズだが、後半に行くほど、生物学から宗教論を含む幅広い考察が含まれるようになる。

 『泰平ヨンの未来学会議』は、人口問題を解決するために赴いた世界未来会議で、ヨンが幻覚剤を使ったテロ事件に巻き込まれ、奇妙な未来社会に迷い込むお話だ。2013年にアリ・フォルマン監督による『コングレス未来学会議』として映画化され、アニメと実写の混淆したユニークな仕上がりになっていた。

 残念ながら、レムの短編は紙版が途切れ電子書籍化も進んでいない。これ一冊だけというのであれば、紙書籍だが、国書刊行会レム・コレクションに含まれる『短篇ベスト10』(2001)がある。クラクフで出版された15編を収録する短篇ベスト選から、さらに10編を選びだしたものだ。上記で紹介した《ロボット》《泰平ヨン》などレムの主要な短編が万遍なく盛り込まれている。

(シミルボンに2017年2月27日掲載)

 《レム・コレクション》の第2期が開始となったのは2021年のこと。現在も継続中ですが、『マゼラン雲』など幻の初期作や、新訳の『インヴィンシブル』『浴槽で発見された手記』という既訳作品に対する新解釈/新発見まであって目が離せません。泰平ヨンものの最後の作品『地球の平和』も出ています。

池澤春菜『わたしは孤独な星のように』早川書房

装幀:川名潤

 初の短編集である。著者は2022年に大森望のゲンロンSF創作講座を(関係者以外には知られず?)柿村イサナ名義で受講したのだが、本書の多くはそこで提出された課題作が元になっている。

 糸は赤い、糸は白い*:マイコパシー能力を生む、キノコによる脳根菌との共生が当たり前になった。主人公は友人との関係もあって菌種の選択に悩んでいる。
 祖母の揺籠:海が陸を呑み込んだ未来、私は巨大な祖母となって海洋を漂う。育房に三十万人もの第三世代の子どもたちを抱えながら。
 あるいは脂肪でいっぱいの宇宙*:ダイエットに励む主人公は、あらゆる手立てを費やしたのに、少しも痩せないことに気がつく。どうしてなのか。
 いつか土漠に雨の降る*:チリの首都から遠く離れた、アンデス山頂にある天文施設。そこで駐在する二人の技師にはもう一匹の仲間がいた。
 Yours is the Earth and everything that❜s in it:ネットから隔絶された人々の村がある。住人は高齢者と世話をする主人公だけ。ただ、XR観光客たちが来る。
 宇宙の中心でIを叫んだワタシ*:調査にやって来た宇宙人とのファーストコンタクト、しかしコミュニケーションの手段は思いもよらないものだった。
 わたしは孤独な星のように*:シリンダー型宇宙植民星で生きる主人公は、亡くなった叔母の形見を宇宙に流すために旅をすることになる。
 *:課題作を改稿

 「糸は赤い、糸は白い」は、著者の趣味と思春期女子の仄かな恋を融合した好編。ヒューマノイド由来の非人類もの「祖母の揺籠」は、徐々に特異な設定の意味が明らかになる(「おじいちゃん」というのもあった)。文体で読ませる「あるいは脂肪でいっぱいの宇宙」と続編「宇宙の中心でIを叫んだワタシ」は、ハイテンションでポップ(古い表現ですが)な作品。「いつか土漠に雨の降る」は冒頭の小さな謎が膨らんでいくアイデアストーリー。「Yours is the Earth and everything that❜s in it」はキプリングの(日本人にはなじみが薄いが、最後まで諦めなければ夢は叶うという)詩の一節を表題にした逆転の物語。オニール型(ガンダム型)植民星の衰退しつつある内周部を旅する「わたしは孤独な星のように」は、主人公の感性に寄り添った温かさが印象的だ。チョン・ソヨンキム・チョヨプらの韓国作家を思わせる。

 もともとの発表の場はSF創作講座ほぼ一択であるが、切り口は課題によって異なっている。さまざまなスタイルを模索していたことが読み取れる。これはこれで多様性があり面白いけれど、表題作のハードな状況の中での暖かみを目指す方向か、「・・・脂肪でいっぱいの宇宙」の意表を突く文体と展開なのか、その中間の「糸は赤い・・・」なのか、もう少しテーマを絞り込んで書かれたものも読んでみたい。

おもちゃがあふれる書斎、永遠の子ども レイ・ブラッドベリ

 今回のシミルボン転載コラムはブラッドベリです。アメリカではもはや国民作家、日本でもSFが一般化する前から紹介され(SFマガジン創刊以前、江戸川乱歩編集の旧宝石誌に翻訳されました)、新刊(新訳や新版)が途切れないロングセラーの作家ですね。最近では『猫のパジャマ』が新装版となって再刊されました。

 ブラッドベリは2012年、誕生日の2か月前に91歳で亡くなった。同世代である英米SF第1世代の作家たち、アイザック・アシモフ(1920~92)、アーサー・C・クラーク(1917~2008)、ロバート・A・ハインライン(1907~88)、親友だったフォレスト・J・アッカーマン(1916~2008)らが次々と世を去る中で、脳梗塞を患うなど苦しみながらも最後まで文筆活動を続けた。ブラッドベリは、2004年にナショナル・メダル・オブ・アーツ(米国政府が選定する文化功労賞、大統領から直接授与される)を得たアメリカの国民作家でもある。

 サム・ウェラーによる伝記『ブラッドベリ年代記』(2005)に詳しいが、レイ・ブラッドベリはアメリカの典型的な田舎町である、シカゴにほど近いイリノイ州ウォーキガンに生まれる。この街こそ、無数の作品の原風景/メタファーを育んだところだ(墓地、おおきな湖、怪しい魔術師、ただ広い平原、巡回するカーニバル、屋台のアイスクリーム)。大恐慌下、定職が得られなかったブラッドベリ家は貧く、一家は仕事を求めてアリゾナ、そしてロサンゼルスへ転々とする。ハイスクールに入ると本格的な創作意欲に駆られ、週に1作の短編を書くようになる。これは生涯の日課になった。大学には行かず、図書館を情報インプットの場に使う一方、街頭で新聞を売って生計を立てた。アッカーマンらSFファンたちの仲間にも恵まれ、最初の短編がパルプ雑誌に売れたのが1941年、一般誌にも載るようになる。ラジオドラマ向けの台本も書いた。

 1950年『火星年代記』、翌年『刺青の男』が出ると、多くの読者からの注目を浴びる。1953年、当時の赤狩りと検閲を批判した『華氏451度』を出版、これは30年間に450万部が売れるロングセラーに成長する。そのころ、敬愛する監督ジョン・ヒューストンから映画『白鯨』の脚本執筆依頼を受ける(92年に書かれた自伝的長編『緑の影、白い鯨』に詳しい)。ブラッドベリのイメージを決定づけたホラーテイストのファンタジイ『10月はたそがれの国』が55年、『たんぽぽのお酒』が57年、ロッド・サーリングに反感を抱きながらも有名なTVシリーズ《トワイライト・ゾーン》の脚本に協力、62年にはニューヨーク万博(1964-65)アメリカ館のプログラム脚本作成と、その地位を確立していく。

 この『火星年代記』『華氏451度』が代表作とされる。ブラッドベリが本書を書いた当時、もう火星に運河があり火星人がいると信じる人は少なかった。ここに描き出された火星は、ブラッドベリが育ったアメリカ中西部のメタファー、幻想的な再現でもある。本書は1997年に著者自ら改訂した新版。

 『刺青の男』は全身を刺青で埋めた男が語る、刺青一つ一つにまつわる物語。「草原」「万華鏡」などを含む、SFテイストが強い初期の傑作短編集である。なお、現行本で新装版とあるものは(一部の修正を除けば)翻訳は昔からのバージョンと同じもの、新訳版は翻訳者も変わった文字通りの新版になる。

 『華氏451度』は文字で書かれた書物が一切禁止され、ファイアマン(本来なら消防士)の職務が本を燃やすことになったディストピア世界を描く。1966年フランソワ・トリュフォー監督によって映画化もされた作品。ブラッドベリの作品は何度も映画化されているが、この作品は時代を越えて残っている。

 初期作では『メランコリイの妙薬』もある。本書は1950年代末期に出た代表的な短編集。有名な作品「イカルス・モンゴルフィエ・ライト」や「すべての夏をこの一日に」などが含まれている。

 もっと新しいものとしてなら『瞬きよりも速く』が、1990年代の作品を収めた作品集だ。後期のブラッドベリは作風こそ円熟するが、書いた内容自体は初期から育んできたテーマを踏襲している。上記作品と読み比べれば、その変化を楽しむことができる。

 他でも、ブラッドベリを敬愛する萩尾望都によるコミック集『ウは宇宙船のウ』は、同題の原作短編集(創元SF文庫)にとらわれず「みずうみ」「ぼくの地下室においで」など8作品をえらび、忠実にコミック化したものだ。

 こうして改めてブラッドベリの生涯を振りかえってみると、30歳代半ばで映画『白鯨』(1956)の脚本を書くなど、早い時期からジャンルSF以外で大きな実績を上げていたことが分かる。それで直ちに裕福になれたわけではないが、安い原稿料に苦しんでいたSF専業作家たちとは一線を画していた。ラジオ、映画、万博、演劇と手がけるありさまは、マスメディアが急拡大した戦後の日本で、小松左京や筒井康隆らが体験したことを先取りしているかのようだ。著作はアメリカの青少年に広く読まれ、後の宇宙開発、コミックや映画など文化創造を促すきっかけになった。

 インタビュー集『ブラッドベリ、自作を語る』(2010)のなかで、ブラッドベリは、生まれた瞬間を覚えている! 3、5歳で見た映画の鮮明な記憶がある、サーカスの魔術師との出会いは忘れない、などとなかば真剣に語っている。

 映画全盛期のハリウッドで、スターたちを追いかけた少年時代。特定の信仰は持たず、あらゆる宗教に興味をいだいた。マッカーシズムやベトナム戦争に反対し、政治家に肩入れしたこともある。ただ、保守派のレーガンを支持するなど、固定的な政治信条は持たない。結婚は1度きり、2度の浮気体験もある、しかし即物的なセックスを好むわけではない。深く考えるより、まず行動してから考える。未来の予言者と言われるが、自分の書くSFほど非科学的なものはない。62歳まで飛行機に乗らず、車も運転しない。もちろんPCは持っておらず、脳卒中で倒れてからは、遠方の娘との電話での口述筆記に頼る。

 SF作家の部屋は、一般の作家と特に変わらない場合が多い。資料関係の本や、関係する文芸書の種類くらいの違いで、内容に意味はあっても見た目に大差はない。しかしブラッドベリは違う。部屋にさまざまなおもちゃが溢れているのだ。ティラノサウルスや、ノーチラス号、得体のしれない怪物やファンタスティックな絵画などなど。大人になっても、おもちゃ屋に強く惹かれ、おもちゃのプレゼントが最高だという。誰の心の奥底にも生き続ける、子供の心を表現する根源的な作家。まさにその点で、ブラッドベリは世界の人々から愛されたのだ。

(シミルボンに2017年2月20日掲載)

 アメリカの第1世代作家となると、日本の第1世代よりさらに10~20年遡ることになります。生きていれば100歳超ですが、さすがにもはや歴史となっています。そんな中で、今でも親しまれている作家は数少ない。ブラッドベリは稀有な存在と言えますね。

ジョナサン・ストラーン編『シリコンバレーのドローン海賊 人新世SF傑作選』東京創元社

Tomorrow`s Parties: Life in the Anthropocene,2022(中原尚哉・他訳)

装画:加藤直之
装幀:岩郷重力+W.I

 MITプレスから出た、人が自然に著しい影響を及ぼした年代を指す「人新世」(正規の地質年代としては未承認)を冠したアンソロジーである。大学の出版部門から出た本らしく、すべての作品は近未来の社会環境問題を扱っており、エンタメ系商業出版物とはやや趣が異なる。原題はギブスンのこの作品や、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのこの名曲に由来するという。

 メグ・エリソン「シリコンバレーのドローン海賊」富裕層に属する少年は、配送ドローンのルートを分析し荷物を奪い取ろうとする。彼にとってはゲームのようなものだった。
 テイド・トンプソン「エグザイル・パークのどん底暮らし」ラゴス沖に浮かぶプラスチックゴミの島、そこに呼び出された主人公は異形の存在と出合う。
 ダリル・グレゴリイ「未来のある日、西部で」山火事が迫るカリフォルニアで、行方不明の患者を捜す医師、食肉を運ぶカウボーイ、スキャンダル映像に色めく投機師たち。
 グレッグ・イーガン「クライシス・アクターズ」気候変動陰謀論を唱える過激派組織から、主人公はサイクロン緊急対策のポランティアへの潜入を指示される。
 サラ・ゲイリー「潮のさすとき」海底牧場で働く主人公は、海中で自由に動ける身体改造に憧れるが、それには多額の費用が必要だった。
 ジャスティナ・ロブソン「お月さまをきみに」パンデミック後の海の浄化を仕事とする主人公は、息子のヴァイキング船に乗る夢を叶えてやろうとする。
 陳楸帆「菌の歌」中国の奥地にある隔絶した村、そこを国中をつなぐネットワークに参加させようとするチームは、常識とは異なる自然法則を知る。
 マルカ・オールダー「〈軍団(レギオン)〉」ノーベル平和賞を受賞した団体=レギオンにネット番組がインタビューするが、司会者の思惑通りに話は進まない。
 サード・Z・フセイン「渡し守」死が貧しさの象徴となった近未来、主人公は誰からも蔑まれる死体回収の仕事に就いている。
 ジェイムズ・ブラッドレー「嵐のあと」海進が進むオーストラリアで祖母と暮らす少女は、長い間会っていない父からメッセージを受ける。
 「資本主義よりも科学──キム・スタンリー・ロビンスンは希望が必須と考えている」ブラッドレーによるインタビュー記事。

 顔ぶれは(英語で書かれた範囲ではあるが)グローバルだ。編者ストラーン、イーガン、ブラッドレーはオーストラリア、テイド・トンプソンは英国在住のナイジェリア作家、陳楸帆は中国、サード・Z・フセインはバングラデシュの作家、それ以外の5人がアメリカ人である。

 流通独占企業や富裕層と貧困層の格差、プラスチック海洋汚染、大規模な森林火災、気候変動に対する陰謀論、テック企業と奴隷的に支配される社員、パンデミック後の社会、電子的なネットと自然環境、逆説的に個人が管理する監視カメラ、アンチエイジングや不死と貧困、海面上昇と気候変動、これらは単なるキーワードではない。極めつけは『未来省』を書いたキム・スタンリー・ロビンスンとの対話である。本書のテーマの意味が明らかになる。

 こういうテーマアンソロジーも、SFプロトタイピングの一種だろう。ここでSFは、編者が述べているように「わたしたちが生きている世界をよりよく理解するために、明日というレンズを通して今日の問題を見ている」のだ。