オクテイヴィア・E・バトラー『血を分けた子ども』河出書房新社

Bloodchild and Other Stories,1996/2005(藤井光訳)

装幀:川名潤

 1947年生まれ(2006年に没)の著者は、SF分野では初の黒人女性作家だった。80年代後半に話題になったものの、(シリーズものが多かったこともあり)今世紀以降は作品紹介が途絶えていた。しかし、ジェンダーや人種の問題に対する先進的な取り組みが評価され、『キンドレッド』(1979)の翻訳がほぼ30年ぶりに復刊するなど再び注目を集めるようになった。

 血を分けた子ども(1984)ぼくは幼いころから保護区に住んでいる。生まれて一緒に育ったトリクとともに。
 夕方と、朝と、夜と(1987)遺伝的な要素のあるその疾患は、いったん発症すると周りの人間を巻き込む激烈な反応が顕われる。
 近親者(1979)シングルマザーの母はわたしを遠ざけたが、亡くなって遺品を引き継ぐときに伯父から意外な事実を知る。
 話す音(1983)何らかの異変が起こり、人々同士のコミュニケーション機能に重大な障害が生じる。
 交差点(1971)刑務所に入っていた元恋人の男が帰ってきて不満を垂れ流す。しかし、女との気持ちは相容れない。
 前向きな強迫観念(1989)6歳から、作家になるという強い意志を曲げなかった著者の半生(エッセイ)
 書くという激情(1993)書くためには文才ではなく書くという激しい思いが必要だ(エッセイ)
 恩赦(2003)形態も知性も異質な異星人は、少数の人間から彼らの通訳を養成する。
 マーサ記(2003)ある日主人公は神に遭遇し、その力を授けようと提案されるのだが。

 バトラーは《Patternist》など、シリーズものを書く長編作家だった。短編の数は少なく本書に収められたもので大半を占める。「血を分けた子ども」は、プロから一般読者までにインパクトを与えた異色作品である。ヒューゴー賞、ネビュラ賞、ローカス賞、SFクロニクル賞(SF専門誌の読者賞)の各中編部門を受賞している。

 表題作に限らず、全編を通して一種異様な社会が描かれている。その異様さは、いまわれわれが暮らす日常との違いにあるだろう。「血を分けた子ども」では異星人との共棲が描かれる。人間と異星人とはまったく生態が異なり、物理的にも政治的にも対等ではないのに共存を強いられる(これはさまざまな社会問題のアナロジーとも解釈できる)。

 異種のものとの不均衡な関係は、後年に書かれた「恩赦」でも出てくる。人間は関係の本質に気がついておらず、何とか自分の論理/倫理で理解しようとして(おそらく)失敗する。異星人は怪物ではないが、文字どおり人とは異なるものだ。だが、それでも正常な関係を築いていかなければならない。全面降伏か殺し合いの(ハリウッド的)2択しかないと考えるのは短絡なのである。

 2編のエッセイと「マーサ記」(の一部)では著者の創作法が語られる。ふつうの環境でも、兼業で小説を書き続けるには根気が欠かせない。著者の場合はそこに社会的な圧力(黒人は、女は作家になれない、SFは小説ではない)が加わるのだから、並大抵ではなかったろう。それらを乗り切るために激情が必要だったのだ。

ンネディ・オコラフォー『ビンティ』早川書房

BINTI:The Complete Trilogy,2015-2017(月岡千穂訳)

カバーデザイン:川名潤

 著者は1974年生まれの米国作家。両親がナイジェリア出身で、自身の出自を明確に意識したアフリカ系アメリカ人だ。この作品もアフリカン・フューチャリズム(アフリカの文化や視点に基づくもの)であり、欧米生まれのSFとは異なるルーツで書かれたものとする。本書は3つの中編(原著にあった書下ろし中編は含まれず)からなる長編。第1作目(第1部)が2016年のヒューゴー賞(同様の主張をするジェミシン『第五の季節』と同年)、2015年のネビュラ賞をそれぞれ中編部門で受賞している。

 未来のアフリカのどこか。田舎に住む伝統的な調和師である16歳の少女が、保守的な家族の反対を押し切って異星にある名門大学へと旅立つ。彼女の一族からその大学に入学したものはいないのだ。だが、新入生を乗せた宇宙船は何ものかの襲撃を受ける。

 調和師とは、ハンドメイドの通信端末作りに携わる工芸家で、高度な数学的センス(ある種の直感力?)を有する。主人公は閉鎖的で伝統重視のヒンバ族(現在のナミビアに住む少数民族)に属する。乾燥地帯には、砂漠の民もいる。地球の支配層クーシュ族はクラゲ状の異星人メデュースと対立しており、ちょっとしたきっかけで戦争になる。一方、大学は銀河中のあらゆる異星人を受け入れるオープンな施設である。宇宙船もユニークで、エビに似た姿を持つ生体宇宙船なのだ。

 物語では、広い世界を見ようと飛び出した主人公が、次第に調和師としての自我に目覚め、姿形のまったく異なる異星人すら味方に付け、葛藤しながらも大いなる宥和へと向かう姿が描かれる。本書中には風習の違いや少数民族に起因する差別はあるが、いまの欧米で見られるような意味での人種差別とは異なるものだ(クーシュ族は白人ではない)。テクノロジーも今現在の延長線上にはないようで、そういう価値観の転換が面白い。アフリカン・フューチャリズムを体現しているのだろう。

 アフリカ、それも西海岸のナイジェリアとなると、日本人は知識もなく関心が薄い(過去のビアフラ内戦や、現在のイスラム過激派ボコ・ハラムによるテロ活動など、ネガティヴな情報を耳にしたことがあるかも知れない)。しかし、ナイジェリアは人口2億余、ブラジルに匹敵する大国で、アジア時代(21世紀前半)の次にくるアフリカ新時代(21世紀後半)には、世界のリーダーになると目される国だ。そこに、複数(250)の民族に由来する独特の文化があっても不思議ではない。われわれの見たことのない新たな光景が描かれることに期待したい。

N・K・ジェミシン『第五の季節』東京創元社

The Fifth Season,2015(小野田和子訳)

カバーイラスト:K,Kanehira
カバーデザイン:岩郷重力+W.I

 3年連続ヒューゴー賞を受賞した《破壊された地球》の第1作目である。著者には『空の都の神々は』(2009)に始まる《十万王国》の邦訳があったが、三部作の最終刊(2011年刊)が翻訳されないまま、およそ8年間紹介のブランクが空いていた。ジェミシンはパピーゲート事件に関わるSFWA会長選挙で中心的な活動をするなど、熱心な反差別、フェミニストとしても知られる。

 その世界には5つめの季節があった。通常の四季とは別に不定期に訪れる〈季節〉では、巨大地震や大噴火などの天変地異が起こり、栄えていた文明がいくつも滅んでいった。しかし人々の中には、地覚と呼ばれる力で自然災害を未然に予知し、さらに変動を鎮める造山能力者オロジェンたちがいた。

 物語には2つの流れがある。1つは、息子を失った女が逃げ去る夫を追う物語。途中、奇妙な同行者たちと知り合う。もう1つは、オロジェンの能力を宿した娘が養成学校で成長し、やがて正規の任務に就いて活動する物語が語られる。姿を現す滅んだ文明の遺産や、オロジェンを管理する階級組織の仕組みなど、物語世界の詳細な背景が描かれている。

 近づきつつある次の破滅の季節(千年に一度くる)、火山灰が降る中のロードノベルでもあり、コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』を思わせる部分もある。登場人物の多様性(〈守護者〉や〈強力〉などさまざまな能力者や、人の姿をしていても代謝がまったく異質な〈石喰い〉も登場)、二人称を交える語りの多様さもあり、著者の思想を反映した(といっても不自然さはない)壮大な異世界を現出させている。ある意味、現代の《ゲド戦記》なのかもしれない。