マルセル・ティリー『時間への王手』松籟社

Échec au temps,1945(岩本和子訳)

装丁:安藤紫野(こゆるぎデザイン)

 マルセル・ティリーは、19世紀生まれのベルギー作家。著名なフランス語作家(同国ではオランダ語、ドイツ語の話者もいる)で、詩人、政治家でもあった。本書は大戦前の1938年に脱稿(出版は戦後の1945年)された、ワーテルローの戦いを舞台とする時間SFでもある(帯にタイムトラベルとあるものの、人が搭乗可能なタイムマシンは出てこない)。

 主人公は鉄鉱などを扱う商社のオーナー経営者だった。しかし父親の跡を継いだものの、経営はうまくいかず会社は徐々に傾いている。ある日主人公は海辺のリゾートに逃避、そこで過去の友人と再会し、風変わりな英国人物理学者を紹介される。画期的な「過去を観る装置」を開発しているが、資金不足に陥っているのだという。

 装置で過去を観るには、調整のための膨大な計算が必要になる。しかし、英国人はなぜかワーテルローだけに固執している。曾祖父の行動が原因で大英帝国はナポレオンに敗北、歴史改変ができれば家系の汚名返上になるだろう、と語るのだ。しかし、観るだけの装置では過去に干渉できない。一方、仕事をおざなりにし、資金援助を続ける主人公も追い詰められていく。

 日本ではワーテルローについて、名前はともかく戦いの推移までは知られていない。地図があると分かりやすいが、本書の中にはないので以下を参照に引用する。

wikipedia commonsより引用

 とはいえ、本書は「もし関ヶ原の戦いで西軍が勝ったら」などの改変歴史ものではないのだ。また、登場するのはある種のタイムカメラ(同様の作品にシャーレッド「努力」がある)で、ウェルズの「タイム・マシン」(1895)やアインシュタインの一般相対性理論(1916)を説明に取り込む(科学的な正確さはともかく)など、SF小説のスタイルに準拠しているものの、やはりテーマはアイデアの斬新さにはないのである。

 未来の破綻=破産が目に見えている主人公(フランス語話者のベルギー人)と、過去の汚名に偏執する英国人とを対照的に配し、お互いの複雑な葛藤を描き出した点に著者の書きたかったポイントはある。その点は、彼らの試みが終わったあと、明らかになるアイロニーに満ちた結末を見てもわかるだろう。

ローラン・ビネ『文明交錯』東京創元社

Civilizations,2019(橘明美訳)

カバー肖像画:カール五世(右 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ画)/アタワルパ(中央 ブルックリン美術館蔵)/フランシスコ・ピサロ(左 アマブル=ポール・クータン画)写真提供:Bridgeman,Alamy/PPS通信社
装丁:柳川貴代

 3月に出た本。著者は1972年生まれのフランス作家。日本では『HHhH』(2010)が、2014年の本屋大賞Twitter文学賞に選ばれるなど人気がある。既訳の作品は歴史的/文学的な要素を満載した「衒学ミステリ」ともいうべき蘊蓄の塊だった。アカデミー・フランセーズ小説大賞を受賞した本書も、史実とフィクションが絶妙に入り混じるSF/歴史改変小説になっている。

 アイルランドを追われた人々がアイスランド、グリーンランドを経て西進し、やがて北米にたどり着く。雷神トールを信奉する一族は、現地人に鉄の製造法や馬などの家畜を教えたが、同時に病気も伝えることになる。彼らはさらに南下、キューバにたどり着き、そこで捕らえられ神殿のある都市に連れていかれる。何世紀か後、コロンブスが島に上陸する。一行はここが黄金の国と信じていたが……。

 半世紀が過ぎ、南米インカ帝国では皇帝が亡くなった。その息子の兄と弟アタワルパとの仲は悪くついに戦争となる。弟は敗れて北へと敗走する。しかも地峡の先にも強力な敵がおり、退路は東の島々からさらに東の海へと変わる。わずか200名に減った手勢と共に。

 そして、リスボンに上陸したアタワルパは、少数の部下だけでスペインと神聖ローマ帝国の皇帝カール五世の略取に成功する! ピサロのインカ帝国征服を裏返した設定だ。「インカがスペインを征服したら」というありえない系の奇想だけなら、弱小国がアメリカを征服してしまうウィバリー『子鼠ニューヨークを侵略』(1955)など先行作品がある。しかし、本書には有無を言わせぬだけの、膨大な歴史上の裏付けがある。

 16世紀初頭のヨーロッパといえば、大航海時代/ルネサンス期を迎え繁栄を極めている、というイメージはあるが実態は大乱の時代だった。英仏百年戦争こそ終わっているものの、神聖ローマ帝国(ドイツ)を巡る帝位争いや農民一揆の頻発、まだ勢力を保つオスマントルコを含む諸国との合従連衡、腐敗した宗教界は私権争いに忙しく、カトリックとプロテスタントはお互い大量殺戮を繰り返すなど、正義も秩序もない。宗教裁判や異端審問があり、ユダヤ人やムーア人(イスラム教徒)への迫害は深く、リスボンは大地震(1531年に発生した地震と津波)から立ち直っておらず、ペストも根絶には程遠い。つまり、うまく立ち回れば征服も不可能ではないほど不安定なのだ。

 ビネはそういった細々とした史実(文献)を組み合わせ、アタワルパによる征服戦をノンフィクションのように描き出す。しかも、最後にはセルバンテス(『ドン・キホーテ』の著者)とエル・グレコ(マニエリスムの代表画家、作中では頑迷なイエズス会士)、モンテーニュ(フランスの哲学者)まで登場させて論争をさせる。それが中世ヨーロッパの(現在まで引き継がれた)矛盾を、(プロパガンタや願望充足ではなく)冷静に批評する内容となっているのだ。

 なお本書の原題は、30年以上の歴史がある文明シミュレーションゲームのシヴィライゼーションに由来する。

フランチェスカ・T・バルビニ&フランチェスコ・ヴァルソ編『ノヴァ・ヘラス ギリシャSF傑作選』竹書房

Nova Hellas,2021(中村融他訳)

デザイン:坂野公一(welle desigh)

 日本版に寄せられた編者による「はじめに」によると、ルキアノスに始まった世界最古のギリシャSFも20世紀末まで長い空白があり、ようやく(アメリカ映画やTVドラマの影響もあって)70年代後半から海外SFの翻訳が、次いで90年代にはギリシャ人作家による短編の創作が行われるようになったという。このあたりの経緯はイスラエルとよく似ている。ただ、(非英語圏共通の課題として)英語での書き手が少ない分、知名度には難があった。本書は、グローバル向けの英訳傑作選からの重訳になる。スタートラインがいきなりサイバーパンク以降なので、過去の伝統などによる縛りがなく新鮮だ。

 ヴァッソ・フリストウ(1962-)「ローズウィード」海面上昇で都市の建物の多くが水没した近未来、移民ルーツの主人公は居住可能な建物を調査する仕事に就いていた。
 コスタス・ハリトス(1970-)「社会工学」VR下のアテネ、社会工学を学んだ男に集票工作の依頼が舞い込む。相手組織の正体は分からなかった。
 イオナ・ブラゾプル(1968-)「人間都市アテネ」アジア・アフリカで経験を積み、コンゴでも駅長を務めた主人公は、アテネ駅長となってギリシャ語を話すことになった。
 ミカリス・マノリオス(1970-)「バグダッド・スクエア」主人公が住むアテネはヴァーチャルな世界と重なり合っている。だが、意外な都市とも隣り合っていた。
 イアニス・パパドプルス&スタマティス・スタマトプルス「蜜蜂の問題」ドローン蜂の修理を生業にしていた男は、本物の蜜蜂が戻ってくるといううわさを聞く。
 ケリー・セオドラコプル(1978-)「T2」胎児の成長診断のため、清潔なT2より廉価なT1車両で移動したカップルは、産婦人科医師から意外な結果を聞く。
 エヴゲニア・トリアンダフィル「われらが仕える者」観光客を迎えるその島には人造人間しかいない。本物の人間は海底にある居住都市に住んでいるからだ。
 リナ・テオドル「アバコス」ジャーナリストと広報担当者との対話で、人の食事環境を決定的に変えるアバコス社の製品について問題点が指摘されるが。
 ディミトラ・ニコライドウ「いにしえの疾病」体のあらゆる機能が衰えていく病、漏失症の患者を収容する施設で、新任の女性医師が真因究明に苦しむ。
 ナタリア・テオドリドゥ「アンドロイド娼婦は涙を流せない」アンドロイドの皮膚に現れる真珠層は、機能への影響がないことから原因不明のまま放置されている。
 スタマティス・スタマトプロス(1974-)「わたしを規定する色」その女は、ある図案のタトゥーの持ち主を探していると告げた。

 本書は2017年に出たギリシャ語の傑作選(13編収録)をベースに、そこから作品の追加/割愛が行われている。全部で11作を収めるが、原稿用紙換算30~40枚程度の短いものが多い。著者は1960~80年代生まれが中心のようだ。中では英語での執筆が多いナタリア・テオドリドゥが、クラリオン・ウェスト出身者で2018年の世界幻想文学大賞Strange Horizens掲載の短編)の受賞者である。

 地球温暖化による海進(多数の島を有するギリシャでは死活問題)、難民/移民(アフリカ、中東からのバルカンルート=渡航の通り道)という現代的な社会問題とVR、アンドロイド(AI)、サイバーパンク的なテーマが混淆する。数値海岸(ヴァーチャルではなくロボットだが)みたいな「われらが仕える者」、虐殺市場なるものが出てくる「アンドロイド娼婦は涙を流せない」、変幻するタトゥー絡みの事件「わたしを規定する色」あたりが、独特の組み合わせでもあり印象に残る。アイデアものはシンプル過ぎるので、もう少し書き込みが欲しいところ。

エルヴェ・ル・テリエ『異常』早川書房

L`Anomalie,2020(加藤かおり訳)

装画:POOL
装幀:早川書房デザイン室

 著者エルヴェ・ル・テリエはフランス文学界のベテラン、本書は2020年のゴンクール賞受賞作である。なのだが、同時に110万部を売り上げる大ベストセラーでもある。伝統的な文学賞の受賞作品(エンタメ小説の対極にある)かつ、フランスの人口が日本の半分ということを考えると異例のヒット作と言える。

 さまざまな思いの人々を乗せたエールフランス006便は、ニューヨークへと向かう飛行の途中で尋常ならざる嵐に巻き込まれる。激しい揺れとエアポケット、パイロットも乗客もこのままでは死を免れえないと思った瞬間、機は意外なところに抜け出す。

 冷静で計画的な殺し屋、翻訳で食っている冴えない小説家(事件をきっかけに『異常』を書く)、刹那的に生きる映像作家、稼ぎにこだわるアフリカ系女性弁護士、ネットで人気沸騰のナイジェリアのシンガー、破綻した恋に未練が断ちきれない建築家……このあたりはいかにも純文的な執拗さで、それぞれの生きざまが描写される。

 冒頭部分では、上記のような多数の(かなり尖った)登場人物が順次紹介されていくのだが、全体の10%あたりで異変の兆候が現われ、『銀河ヒッチハイクガイド』(ちなみに物語との関係はない)が出てきたところから俄然SFとなる。この現象は、SFファンでも違和感のないある理論で説明される。これはジャンルSFに対するパロディともいえる。ほかでもフランスから見たアメリカの奇妙さなど、さまざまな皮肉が作中に溢れている。数学者で科学系ジャーナリストだった経験は(それらしい用語選択に)生かされているようだ。

 著者はアルフレッド・ジャリ、レーモン・ルーセル、レーモン・クノーらを理想とする文学集団ウリポの第4代会長である。言語遊戯的な実験小説をめざすグループで、著者も過去にはそういった作品を書いてきた。本書の場合、文体に実験要素はほとんど見られないが、クノーなどからの引用、事件の前と後に置かれた物語の数学的な対称性や、結末の文章にその片鱗をうかがわせる。サスペンス/SFと純文学要素を巧みに組み合わせた面白い作品だ。

アンドレアス・エシュバッハ『RSA(上下)』早川書房

NSA,2018(赤坂桃子訳)

カバーデザイン:土井宏明(POSITRON)

 久々に紹介されるドイツ作家アンドレアス・エシュバッハによる、2019年クルト・ラスヴィッツ賞受賞長編。著者は同賞を1997年から2021年までに12回も獲る常連人気作家だ。多くの著作があり、日本では『イエスのビデオ』(1998)や『パーフェクト・コピー』(2002)などの翻訳があったものの、2004年以降17年の空白ができてしまった。

 この世界のドイツでは第1次大戦後にコンピュータやテレビ、携帯電話が普及し、現在とよく似た情報化社会になっている。それらを巧みに操りナチスは政権を掌握した。やがてヨーロッパ全土で戦争が拡大、ソ連とは泥沼の消耗戦となる。NSAに勤務するアナリストは、個人的復讐に情報を悪用するつまらない男だったが、天才的な女性プログラマと出会ったことで、蓄積された個人情報の恐るべき活用法を提案することになる。

 NSAとはNationales Sicherheits Amt=National Security Agency(国家安全保障局)のこと。スノーデンが実態を暴露したことで明るみに出たアメリカの実在組織がモデルである(本書で書かれたような情報収集をしてきた)。外国人だけではなく、自国民の私的な通信まで傍受し(非公表の)諜報活動に利用するのだ。

 改変歴史ものでは大胆な「もし=If」が用いられる。もし帰趨を制する作戦や兵器開発競争で枢軸側が逆転勝利していたら、歴史はどう変わっていたのか。ただ、本書での「IT革命が戦前に起こっていたら」という設定では、不思議なことに歴史は大きく損なわれず、結末にはひと捻りがあるものの概ね史実をなぞっていく。おそらく著者は、過去の全体主義体制と、デマに脆弱で付和雷同に陥りやすい現在の情報社会とは相似している=ほぼ同じものと考えたのだ。

 ティムール・ヴェルメシュ『帰ってきたヒトラー』(2012)が、映画化を契機に日本でも評判を呼んだのが2014年のこと。ナチスドイツ/ヒトラーや、その後の分断国家/東ドイツが甦ってくるという悪夢は、例えば東ドイツが存続する現在を描くジーモン・ウルバン『プランD』(2011)が評価されるなど、ドイツ人にとって忘れてはならないテーマのようだ。さらに、高度に情報化された監視社会も注目されている。本書と同じくクルト・ラスヴィッツ賞を受けたマルク=ウヴェ・クリング『クオリティランド』(2017)ではあらゆるものにAIによる格付けが成されるし、これも同賞受賞作のトム・ヒレンブラント『ドローンランド』(2014)では、ドローンを使った超監視社会が描かれる。これらは近未来(≒現在)に仮託された全体主義社会である。本書は過去と現在の2つの要素を、巧みに組み合わせた作品といえる。

 同じような全体主義体制下にあった日本だが、戦前の翼賛体制が今でも続くというディストピア小説は(一部の短編を除けば)もうほとんど見かけない。体験世代が失われつつあるいま、忘れっぽい日本人には遠い戦前/戦中など、もはや関心の埒外だ。だが、もしほんとうにディストピアが来るなら、それは目先の小事の延長線上にはないだろう。国民が熱狂的に支持し、戦争に興奮したあの翼賛体制に近いものになる。だれも恐ろしいと思わなくなったところに、ディストピアは出現するのである。