高野史緒『ビブリオフォリア・ラプソディ あるいは本と本の間の旅』講談社

装画:YOUCHAN
装丁:bookwall

 『グラーフ・ツェッペリン あの夏の飛行船』星雲賞を受賞した著者の、本にまつわる人々を描いた連作集である。既存の短編2作に書下ろし3作を加え、プロローグとエピローグで挟んでいる。各作品は「ダブルクリップ」というキーワードで結ばれている。ここでは本の校正時にゲラ刷りの束を止めるクリップを指す。ゲラはホチキス閉じができないため、超特大のクリップを使うのだ。

 ハンノキのある島で(2017)「読書法」が成立してから、出版界は活況を取り戻したかのように見えた。作家である主人公は、あるものを捜すため実家に帰る。
 バベルより遠く離れて* 主人公は翻訳者だったが、専門とする言語があまりにもマイナーで、しかも傑作とされる文学作品はおよそ翻訳不可能なものだった。
 木曜日のルリユール* 遠慮のない辛辣な書評で人気を得る評論家は、何気なく見た書店の棚刺しにありえない本があることに気がつく。
 詩人になれますように* 高校生のころ詩人になることを願った少女は、思いがけず有名人となって例外的に売れたが長くは続かなかった。もう一度、戻れないのか。
 本の泉 泉の本(2020)どことも知れない古書店の中で、SWのロボットコンビのような二人組が、希少な本を渉猟しつつ奥へ奥へと彷徨い歩く。
 *:書下ろし

 作家、翻訳家、評論家、詩人、収集家(コレクター)が、それぞれの物語の主人公である。ただ、誰もが葛藤を抱えている。「ハンノキのある島」は、読書法の下に出版物が恣意的に淘汰され、最新刊しか残らないディストピアだ(本がどんどん絶版になる現在の状況をデフォルメしたものだろう)。表題は主人公が初めて買った文庫本の著者エラリー・クィーンを意味しているが、クィーンも残されない。何が残るのが正しいのか、自分の作品はどうなのかと主人公は悩む。

 「バベルより遠く離れて」では、文化的に全く異なる言語を巡って壁に突き当たった翻訳家が、不思議なフィンランド人と知り合う中で新たな発見をする。言語の本質に迫るテーマながら、円城塔とは対照的な切り口だ。「木曜日のルリユール」では、真っ当に評価されない炎上商法で稼ぐ毒舌評論家が、批判できない意外な本と遭遇するという、異界と現実とがシームレスにつながりあう異世界もの。「詩人になれますように」では、詩人という職業でたまたま成功した主人公の、書けなくなった10年後の色褪せた現実を描く。「本の泉 泉の本」は、コレクターの日常/心情が架空の迷宮古書店を舞台に描き出される。この5作の中ではもっともファンタジイに近い設定なのに、なぜかもっともリアルに感じられる。

 すべてが本にまつわるホラーなのだと解釈することもできるだろう。悲惨さの順番でいうと、詩人<評論家<作家<翻訳家<コレクターとなる(コレクターまで行くとユートピア)。とはいえ、詩人は悲惨なようだが、(私が聞く限り)率直な意見を得るコミュニティがあり(数百人未満の)固定読者がいる。マスから個に読者層が変わる現代では、むしろ望ましい形態なのかもしれない。

 ところで、表題はビブリオフィリア(読書好き)ではなく、おそらく意図的にビブリオフォリア(スペイン語/造語? 読書狂い?)としている。