スタニスワフ・レム『電脳の歌』国書刊行会

Cyberiada,1964ー1967(芝田文乃訳)

装訂:水戸部功

 ツイベリアーダは、1973年に『宇宙創世記ロボットの旅』という訳題で翻訳されている。この集英社版(76年にはハヤカワ文庫に収録)が定訳だったのだが、残念なことに連作の半分(分量的には三分の一)しか含まれないアブリッジ版だった。本書は原著のレム著作集(2001年版)に基づき、全17話中14話分を新訳したものである(完訳ではない事情も含め、詳細は訳者あとがきと解説を参照)。

いかにして世界は助かったか(1964)建造師トルルルはあるとき、Nで始まるものなら何でも作れる機械を作った。しかし〈無し〉を作ることを命じた結果恐ろしい現象が。
トルルルの機械(1964)トルルルはあるとき、9階建ての思考機械を造った。ところが2掛ける2を問うと「7!」と答えるのだ。さんざん再調整しても直らない。
大いなる殴打(1964)建造師クラパウツィウスの元に〈望みをかなえる機械〉がやってくる。何でもできるのならトルルルを造れと命じると。
トルルルとクラパウツィウスの七つの旅(1965)
 探検旅行その一、あるいはガルガンツィヤンの罠:ある惑星は2つの国に分かれ対立していた。クラパウツィウスは、プラグでつながり合って1つになる軍隊を提唱する。
 探検旅行その一A、あるいはトルルルの電遊詩人:トルルルは詩を書く機械を造る。ただ、その機械をプログラムするためには宇宙のカオスから始める必要があった。
 探検旅行その二、あるいはムジヒウス王のオファー:仕事を求める広告を出した建造師のもとに、ある君主からこれまでになく凶暴な狩猟の獲物を造れとの依頼が来る。
 探検旅行その三、あるいは確率の竜:存在しない竜でも、確率増幅器を使う竜トロンで実在化が可能になる。それが悪用されているという噂が流れる。
 探検旅行その四、あるいは、トルルルがパンタークティク王子を愛の苦悩から救わんがため、いかにオンナトロンを使用したか、そしてその後いかに子供砲を使うようになったか:今回の依頼は、隣国の王女に恋した王子をいかにして救済するかだった。
 探検旅行その五、あるいはバレリヨン王のおふざけについて:ふざけるのが大好きな王はかくれんぼの究極の隠れ場所を2人に求める。それはあるものを交換する方法だった。
 探検旅行その五A、あるいはトルルルの助言:綱目族の星に何かが降りたって動かない。何をしても効果がなかった。そこで通りすがりのトルルルに助けを求めるが。
 探検旅行その六、あるいは、トルルルとクラパウツィウス、第二種悪魔を作りて盗賊大面を打ち破りし事:盗賊に捕まった2人は解放の代償に第二種悪魔を建造する。
 探検旅行その七、あるいは、己の完璧さがいかにしてトルルルを悪へと導いたか:追放君主のために箱庭の王国を贈ったトルルルはクラパウツィウスから非難される。
ゲニアロン王の三つの物語る機械のおとぎ話(1965)退位した王に3台の機械が提供される。機械は次々と物語を語る。群衆が地表を覆う惑星で王の「顧問」との駆け引き、何ものかを虐待する4人組の根拠、過剰な幸福に沈む世界、自分で自分を夢見る夢……。
ツィフラーニョの教育(1967)トルルルが後継者ツイフラネクに教育をする。そこに隕石が落下、中からは打楽器奏者とアンドロイドが現れ、自身の出自を語り始める。

 これらは〈永久全能免許状〉を持つロボット建造師トルルルとクラパウツィウスが活躍する連作で、多少の関連はあるものの大半は独立した作品である。このうち〈トルルルとクラパウツィウスの七つの旅〉が『宇宙創世記ロボットの旅』に相当する。「ゲニアロン王の三つの物語る機械のおとぎ話」は中編で、3つの機械の物語の中で、さらに別の物語が多層的に重なり合う入れ子構造を取っている。「ツィフラーニョの教育」も同様の中編だが、執拗に描写される〈天球のハーモニー〉や〈種球〉の奇怪なありさまは恐ろしさすら感じさせる。最後の2作品だけで全頁の半分を占める。

 本書の読みどころとしては、ポーランド語の特徴を駆使した言葉遊び、隠喩、文体実験があり、さらにそれを日本語化した翻訳者の(超絶技巧的な)工夫があるだろう。どういう方針だったかは訳者あとがきに詳しいのでここでは触れないが、「ツィフラーニョの教育」などでの複数ページにわたる言葉の氾濫には圧倒される。いまの日本でいうなら、円城塔や飛浩隆、酉島伝法らに見られる特異な単語の組み合わせによる駄洒落、架空の概念の構築に近い言語遊戯的試みといえる。

 さらに、物語の中では独裁者や非効率な官僚体制などが描かれ、これらは当時の社会主義体制への隠れた批判となっているようだ。本書のロボットは源流のサイバネティクスに基づくものだが、VRやAIに関する先見性なども指摘されている。生成AIは人間のデータを(膨大に)読み込み、そのパターンから出力(会話やレポート)を産み出している。レムが書いたのはそういう予見なのだろうか。しかし、計算パワーに頼る現状のAIは数年後にはおそらく陳腐化している。日々変わるテクノロジーの宿命である。それでも、レムの知性に対する洞察力はより哲学的であり、テクノロジーよりも普遍性があると思われる。レムの発想は古びては見えないだろう。