浅羽通明『星新一の思想 予見・冷笑・賢慮の人』筑摩書房

真鍋博《星新一『ひとにぎりの未来』新潮社 表紙原画》1969 愛媛県美術館蔵

 今年はレム生誕100年、小松左京生誕90年であると同時に、星新一生誕95年の年でもある。

 浅羽通明は(もともと時事・思想関係の著作が多いが)『時間ループ物語論』(2012)なども書く幅広い著述家。また、星新一の読書会「星読ゼミナール」を主催してきた。読書会自体は最近だが、きっかけが雑誌「幻想文学」のインタビューで星新一と対面してからだというから古い(1985年1月)。本書はそういう著者による大部の星新一論だ。しかし一風変わった作品論でもある。作家論が書かれる日本のSF作家は多くはない。小松左京でさえ、複数人による雑多なエッセイ集があるぐらいで一貫した論考はまだない。星新一には、本人に肉薄した最相葉月の評伝『星新一 一〇〇一話をつくった人』(2007)があるものの、人間星新一に密着しすぎていて作品論が不十分だと著者は考える。

 プロローグ:星新一は半世紀も前に「流行の病気」でコロナ禍を、『声の網』で監視されるネット社会を、「おーいでてこーい」では環境問題だけでなく秘密の消去という社会的な事件を予見した。そのキーワードとは。
 第1章 これはディストピアではない:星の描くディストピアは一般的な作品とは異なる。反逆者目線がなく、その社会をネガティブに描く(残虐な)シーンは最小限しか見られない(「生活維持省」「白い服の男」「コビト」ほか)。
 第2章 “秘密”でときめく人生:星の作品には秘密が隠されている。だが、それらは大義名分のない私的なものばかり。何が目的なのだろうか(「眼鏡について」「雄大な計画」「おみそれ社会」ほか)。
 第3章 アスペルガーにはアバターを:星作品では、異星人どころか隣人でさえお互いわかりあえない。自身もアスペルガー症候群(ASD)で、他者の気持ちが読めなかったと思われる。対人恐怖の象徴としてアバター的な小道具が描かれる(「地球から来た男」「肩の上の秘書」「火星航路」ほか)。
 第4章 退嬰ユートピアと幸せな終末:星作品ではディストピアであっても人々は幸せに見える。悲惨な結末さえもハッピーエンドのようだ(「妖精配給会社」「最後の地球人」「古風な愛」ほか)。
 第5章「小説ではない」といわれる理由:星作品では人物や背景などの描写がほとんどない。感情移入を阻み、疑似体験もできないので「小説ではない」と断言されてしまうこともある(「霧の星で」『人民は弱し 官吏は強し』「城のなかの人」ほか)。
 第6章 SFから民話、そして神話へ:作品を時系列に分類すると、宇宙ブームと共にオチのあるショートショートを量産した前期(~1966)、宇宙や未来テーマから解き放たれた中期(~70初)、オープンエンドで民話風のの異色作を生み出す後期(~1975)1001編達成期である最後期(80以降~)がある(「マイ国家」「門のある家」「風の神話」ほか)。
 第7章 商人としての小説家:星は創作のコツを「まず他人に読んでもらえ」とした。他人に面白がってもらえる作品を求めてきた(「SFの短編の書き方」「とんでもないやつ」「第一回奇想天外SF新人賞選好座談会」ほか)。
 第8章 寓話の哲学をもう一度:小説家でないのなら、星新一は哲学者なのか(イソップのような)寓話作家なのか。その単語だけで思考停止せず中味を検証する(「老荘の思想」「SFと寓話」「いわんとすること」ほか)。
 エピローグ:星はSFの自由さを象徴するものとして、錬金術師との比較をしたことがある。その真意とは(「錬金術師とSF作家」「小松左京論」「科学の僻地にて」ほか)。

 著者は、作品そのものと星新一が書いたエッセイに準拠しながら論をすすめる(他作家や評論家による既存の見解は随時取り上げるが、どちらかといえば批判的な見方だ)。関係者へのインタビューを多用する最相葉月とは対照的な方法である。

 秘密結社、ASD、幸福なディストピア、ふつうの小説とは大きく異なる文体、さらにはニューウェーヴ(SFの枠組みを壊した作品)、時代小説(礼儀作法が最優先される特殊社会)、ハリ治療(西洋合理主義とは異なるもの)の影響、文学的な価値より商業的な価値を重視した姿勢など、これまでなかったユニークな説が展開される。最相葉月による、晩年の星新一は「抜け殻」という物語化された説に異を唱え、旧来の星と変わらなかったとする見方が印象的だ。

 ややまとまりを欠くものの、星新一の文章を根拠に述べられた内容なので説得力を感じる。補論として、短い論考を多く掲げている点も多角的で注目される。ただし、小松左京、筒井康隆、眉村卓ら同時代作家との比較は、対象作品が限られていたり推測が多いように思われる。

 星新一直系の作家というと江坂遊らの他に、最近では田丸雅智がいる。田丸はショートショートを誰でも書けるものにするため、フォーマットによる定型化、単純化を試みた結果、文章が単調すぎて味気ないと批判されることがある。星が「小説ではない」と見做された経緯と同様である。しかし、田丸の目指すものが「文学的な価値」でないのなら、その批判もおそらく的はずれなのだろう。