大森望編『ベストSF2021』竹書房

カバーデザイン:坂野公一(well design)
カバーイラスト:日田慶治

 いろいろな事情により刊行が3ヶ月余遅れた(昨年比)、竹書房の年刊日本SF傑作選2021年版である。なんとか年内に読むことができた。本年も2020年版と同様11編を収録している。

 円城塔「この小説の誕生」僕は文章を書き、機械翻訳にかける。それは英語であったりヒンディー語であったりするのだが、揶揄ために試みているわけではない。
 柴田勝家「クランツマンの秘仏」信仰が重量を持つ、という仮説をスウェーデン人の学者が思いつく。それは日本のとある秘仏に由来する。異常論文ブームの嚆矢となった作品。                               
 柞刈湯葉「人間たちの話」地球外生命の研究者で、人間に関心のなかった主人公のところに、甥にあたる少年が転がり込んでくる。
 牧野修「馬鹿な奴から死んでいく」魔術医の男は、街中で偶然1人の少女を助け出す。少女には因縁があり、思わぬ暴力に振り回されてしまう。
 斜線堂有紀「本の背骨が最後に残る」その世界では「本」は一人一人のの口承で伝わっていく。しかし「誤植」のある本は焼かれるのだ。
 三方行成「どんでんを返却する」ワンルームの部屋を片付けようとしたとき、どんでんが転がり落ちてきた。借りて使われないままだった。
 伴名練「全てのアイドルが老いない世界」人間の歴史の裏側でひっそりと生きてきた不死人たちは、いまは永遠に死なないアイドルとなって生き続けている。熱狂的なファンの生気を吸い取りながら。
 勝山海百合「あれは真珠というものかしら」海辺に作られた学校には不思議な生徒たちが集まる。1人は海馬なのだが、勉強がよくできる。
 麦原遼「それでもわたしは永遠に働きたい」主人公が育った地域では人はめったに働かない。ただ、望めばいくらでも働けるのだと教育相談官は話す。
 藤野可織「いつかたったひとつの最高のかばんで」非正規雇用だった社員が行方不明になる。誰も良くは知らなかったが、住んでいた部屋から膨大な量のかばんが見つかる。
 堀晃「循環」主人公は長年続けてきた会社を終わらせようとしている。毛馬閘門から淀川左岸を歩きながら、その仕事の契機となった小さな部品の由来を想起する。

 昨年と重なっている作家は冒頭の円城塔のみ。雑誌から4編(一般文藝誌・SFマガジン各2)、ネットから2編、残り5編はアンソロジイや短編集から採られている。前年はかなり時事的なテーマが多かったのだが、今回は一転して(より)観念的な奇想が目につく。

 小説はどのようにしてできるのか、信念は(アンドレ・モーロワ「魂の重さ」のように)重さを持つのか、生命の定義から外れた地球外生命とあまりにも人間的な甥とのつながりの対比、魔法的な人造人間たちが存在する世界、文字通り人間化され焚書される本、どんでんという言葉が生き物になり、メトセラものの現代的新境地が拓かれ、在原業平の句を巧みに取りこんだ掌編へと続く。末尾の3作は仕事を象徴する作品である。その暗黒面が「それでもわたしは永遠に働きたい」となり、別の何かに相変化したものが「いつかたったひとつの最高のかばんで」で、古い碑文を読み解くような「循環」へと繋がる。どれにも、既成のSFを緩やかに逸脱する面白さがあるだろう。

 ところで堀さんの「循環」に登場する会社は実在していて、今年出た『眉村卓の異世界通信』の協賛企業にもなっています(奥付参照)。

ヘンリー・カットナー『ロボットには尻尾がない』竹書房

Robots have no tailes,1952(山田順子訳)

装画:まめふく
デザイン:坂野公一(welle design)

 ルイス・パジェット名義で出版された同題の短編集である。翻訳にあたり、著者名がカットナーに、収録順序が発表年代順に並べ替えられている。ルイス・パジェットはカットナー&C・L・ムーア共同ペンネームの一つだが、本書はカットナー単独で書かれたものらしい(原著のムーア序文による)。カットナーは1915年生まれ、多彩なペンネームを使い分けブラッドベリらを指導するなど活躍するも、1958年に若くして亡くなっている。日本で単行本や文庫が出たのは1980年代までで、あとは散発的に短編が紹介されるのみだった。本書は人気シリーズ《ギャロウェイ・ギャラガー》をまとめたものだ。

 タイム・ロッカー(1943)酔いが覚めると実験室の片隅にロッカーが置かれていた。それには入れたものの形を変形させる効果があるらしい。
 世界はわれらのもの(1943)二日酔いで目覚めると、窓の外でうさぎのような小さな生き物が叫んでいた。「入れてくれ! 世界はわれらのものだ!」
 うぬぼれロボット(1943)テレビ会社のオーナーと称する男が、一週間前に依頼した仕事の成果を求めてくる。何かを提案したはずだが、まったく覚えがない。
 Gプラス(1943)裏庭に巨大な穴が空いている。実験室には得体の知れない機械があり、しかも警官までが会いに来ているという。
 エクス・マキナ(1948)* ギャラガーがいつものように酒を呑もうとすると、未知の生き物がその酒をさらっていく。動きが速すぎて目にも停まらない。
  *…初訳、他の作品も改題新訳

 主人公ギャロウェイ・ギャラガーは天才科学者なのだが、酔っ払わないとその才能(潜在意識)が目覚めない。ただ、酔いに任せて作った驚くべき発明品は、しらふだと動作原理どころか目的も分からないのだ。物語は、なぜこれを発明したのかを(しらふに戻った)自分が解明していくという倒叙型スタイルで書かれている。「Gプラス」などは、1つの謎だけでなく、何段階にもわたる重層的な謎が潜んでいる。どうなるか、予測不能のアイデアストーリーである。

 すべて、キャンベル編集長時代のアスタウンディングSF誌に掲載されたもの。カットナーが大量のペンネームを駆使して書いていたのは、専門誌の原稿料が安く、かつSF作家が単行本を出せない時代だったせいもあるだろう。多作ながら早逝したカットナーは、本国では高い評価を得られなかった(近年になって回顧的な傑作選は出ている)。草創期の1960年代からたくさんの翻訳がなされてきた日本でも、作品集となると総集編的なオリジナルの3冊だけである。36年ぶりに出た本書はとても貴重だ。

 本シリーズのキャラクタ(酔っ払いのマッド・サイエンティスト、同じく酔っ払いの父親、マスコットのような火星人、ケチな欲望に駆られる弁護士や金満家、シースルーのボディを持つナルシストのロボットなど)はとてもコミカルだ。サブスク方式のテレビとか、書かれた当時(TV普及以前の戦前)からすれば、かなり先進的なアイデアも含まれている。それでも、サイバーパンクとまではいかない。アメリカの60年代アニメを見ているようなレトロな気分になる。どこにも存在しない、懐かしい未来のコメディなのだ。

R・A・ラファティ『ファニーフィンガーズ ラファティ・ベスト・コレクション2』早川書房

Best Short Stories of R.A.Lafferty,2021(牧眞司編 伊藤典夫・浅倉久志・他訳)

カバーデザイン:川名潤

 ラファティ・ベスト短編集の第2弾。編者のコンセプトによると「カワイイ編」らしいが、いったい何がカワイイのだろうか。確かに、登場人物にはかわいい(と記載された)少女や子どもたちが出てくる。とはいえ、言動も行動も破天荒、正体は人類ですらない(のかもしれない)。

 ファニーフィンガーズ(1976/2002)* 養女として育てられた少女は、ある日、自分が何ものなのか疑問を抱くようになる。
 日の当たるジニー(1967/79)4歳の娘ジニーは、永久に年を取らなくなったと言う。だが、世界一美しいはずの姿は、実はほんとうではないのだ。
 素顔のユリーマ(1972/74)物覚えが悪い子だった。賢い子どもだらけの中で最後の愚鈍とまで罵られたが、驚くべき発明によって欠点を克服する。
 何台の馬車が?(1959/2002)* 9歳の少年は、毎晩何台もの馬車が西に向かって走って行く音を聞く。そこは古い馬車道だったが、馬車が通っていたのは大昔のことだ。
 恐るべき子供たち(1971/71)* ナイフの血を落とすにはどうしたらいいか知ってる? 9歳の女の子カーナディンが巡査に質問する。
 超絶の虎(1964/84)カーナディンは7歳の誕生日に赤い帽子をもらい、精霊から贈られたものと説明する。実際、その日から霊力が顕われる。
 七日間の恐怖(1962/68)9歳の少年が消失器を発明した。目についたものを、何でもかんでも消してしまうのだ。
 せまい谷(1966/74)19世紀末、その地で最後のインディアンが自分の土地に魔法をかけ、よそ者から見えないようにしてしまう。
 とどろき平(1971/93)その郡のあらゆる町には影となる第二の町があった。たとえば、ブーマーにはブーマー(とどろき)平(だいら)がある。
 レインバード(1961/67)18世紀末に生まれた発明家レインバードには、数々の業績がありながらまったく知られていない。
 うちの町内(1965/78)うちの町内にはおかしなやつがうようよいる。彼らの住む小さなバラックからは、あり得ない数の荷物が積み出されたりするのだ。
 田園の女王(1970/81)自動車とローカル鉄道、どちらに将来性があるかを思い悩んだ若者は、全財産を一方に投資する。
 公明にして正大(1982/83)お互い親友同士の野心家と内向的な若者がいた。内向的な若者に遺産話が転がり込んできてから状況が変わる。
 昔には帰れない(1981/86)〈まいご月の谷〉でムーン・ホイッスルを吹けば、ホワイトカウ・ロックがその音に反応して動き出す。
 浜辺にて(1973/2007)* 4歳の少年は浜辺で珍しい貝、チリガク芋貝をみつける。それを耳に当てるだけで聡明さを得ることができるのだ。
 一期一宴(1968/81)港町の酒場に奇妙なお客がやってくる。みすぼらしい身なりをしているが、際限なく食べて酒をあおり、女遊びをしたあげくまた食べはじめる。
 みにくい海(1961/75)港の酒場でピアノを弾く少女がいた。気を惹かれた男は女の好みに合わせるため船乗りとなり、いつか添い遂げようと思うがなかなか成就しない。
 スロー・チューズデー・ナイト(1965/72)一日を三交代で生きる世界。しかもその短い一日の時間の間に、一生分の絶頂とどん底を何度も繰り返す。
 九百人のお祖母さん(1966/78)不死だと称する人々を探る調査員は、九百人の祖母がいるという話を聞きだす。
 寿限無、寿限無(1970/80)宇宙創造の妨害をした咎をうけ、1人の下級神に時間の壮大さを認識させる刑罰が処せられる。
 (原著発表年/初翻訳)*…短編集初収録(雑誌、アンソロジイ収録作)

 今回は20編が収められており、うち4編が著者の短編集では初収録となる。日本でのラファティ初紹介作「レインバード」(1967年のSFマガジン掲載)や、50年代に書かれた初期作「何台の馬車が?」が含まれている。

 実際に「カワイイ」子どもが主人公なのは、冒頭の「ファニーフィンガーズ」から「七日間の恐怖」までと「浜辺にて」の8作品。なぜか、4歳と9歳が多くて10歳以上はいない。ラファティ的な意味で、大人との境界を越えてしまうからかもしれない。子どもの特性として、相手の都合や人格など忖度せず(時には残忍に)自分の我を通そうとする。非力な子どもだからこそ抑えられるが、超常的な力を持てば誰も止められない。ラファティの描くかわいさの裏には、そういう怖さが潜んでいるわけで、カワイイと喜べるのは重度のラファティアンだけだろう。

 ラファティを1テーマにまとめるのは難しい。本書には定番のベストも数多い。空間のスケール感を描く「せまい谷」「うちの町内」「昔には帰れない」や、時間のスケール感を描く「とどろき平」「一期一宴」「スロー・チューズデー・ナイト」や「九百人のお祖母さん」「寿限無、寿限無」は、いかにもSF的なアイデアを、ラファティでしか書けないユーモアたっぷりの短編に仕上げた傑作である。一方「公明にして正大」や「みにくい海」は、人の数奇な一生をアイロニー一杯に描いた忘れがたい作品だ。

 今回のラファティ再発見文庫は、本書で完結となる。ラファティもの第3弾となる、井上央編ラファティ新訳短編集は《新☆ハヤカワ・SF・シリーズ》で出るようだ。

劉慈欣『円 劉慈欣短篇集』早川書房

刘慈欣科幻短篇小说集Ⅰ&Ⅱ,2015(大森望、泊功、齋藤正高訳)

装画:富安健一郎
装幀:早川書房デザイン室

 著者自身が日本向けに編んだ自選短編集である(底本は著者の短編全集のようだ)。1999年のデビュー作「鯨歌」から、第50回星雲賞海外短編部門受賞作で日本でも好評を得た「円」までの13編を収める。

 鯨歌(1999)南米の麻薬王は密輸を目的に一人の科学者と接触する。麻薬探知の技術が進み、並の方法では突破できないからだ。科学者はクジラを使う奇策を提案してくる。
 地火(1999)かつて炭鉱の街で育った男が、石炭ガス化プロジェクトの実証実験のために帰ってくる。それは事故や粉塵にまみれた過酷な探鉱労働を一掃するはずだった。
 郷村教師(2000)* 貧しい農村出身の教師は、村の教育のために身を捨て打ち込むが、成果はなかなか現われない。だが、子供たちに伝えたある教えが思わぬ結果を生む。
 繊維(2001)米国人パイロットが訓練から帰還中に未知の空間に迷い込む。そこは繊維乗り換えステーションと呼ばれ、見える地球はぜんぜん地球らしくなかった。
 メッセンジャー(2001)名声を博した老科学者がヴァイオリンを弾いていると、いつも一人の青年が聞いている。青年には不可思議な能力があるようだった。
 カオスの蝶(2002)* ほんの小さな変動が大きな気象変化を生じる。カオス理論を応用することで祖国を救えるかも知れない、そう考えた主人公は大胆な行動に出る。
 詩雲(2003)* 恐竜文明の食料に堕した人類だったが、より高位な神に近い文明と接触することで転機が訪れる。それは古代の詩なのだった。
 栄光と夢(2003)* 戦乱と制裁により疲弊した国で、かつてのスポーツ選手たちが集められる。彼らはある競技会に参加するらしいのだが、その目的は驚くべきものだった。
 円円のシャボン玉(2004)乾燥化が進み、砂に埋もれようとする辺境の都市で育った娘は、やがて巨大なシャボン玉を生成させる技術を開発する。
 二〇一八年四月一日(2009)遺伝子改造により、人は300歳まで生き延びることができた。それを享受できるのは一部の金持ちだけだ。主人公はヒラ社員だったが、上手く画策すれば金はなんとかなると考えた。
 月の光(2009)主人公の男に未来から電話が架かってくる。将来の地球の運命に関わる重大な内容なのだという。しかも、話しているのは未来の自分だと称している。
 人生(2010)母親が、胎内で育つ赤ん坊と会話をしている。しかし、その子は母親のことなら何でも知っているのだ。
 円(2014)燕の国から降伏のしるしを献上した使者は、秦の始皇帝に対して天の言葉を伝える「円」の秘密について語る。それを極めるためには300万人の兵士が必要なのだ。
 *:初訳。他も改訳あり。

 デビューからといっても1999年から2014年まで、15年のスパンである。その間日本は停滞していたが、中国は激変した。1999年での中国のGDPはアメリカの1割足らず、2014年時点ではその10倍、6割に達している(2020年では15倍、7割)。日本がアメリカの1割だったのは1960年頃のこと、最初期作はそのイメージで読むべきだろう。「地火」や「郷村教師」で描かれる地方の厳しさや困窮ぶりは、閻連科や残雪らの作品とも共通する。日本でも1960年前後、昭和30年代の田舎生活は決してバラ色ではなかった……といっても、現代からは想像は厳しいかも。ちなみに、日本が1960年比でGDP10倍となったのはバブル末期の1995年である。

 ユーゴスラビア紛争や湾岸戦争を間接的な題材とした「カオスの蝶」や「栄光と夢」は、欧米先進国とは反対側(敵側)で暮らす、一般庶民の苦悩を語るという(われわれから見て)ユニークな作品だ。背景に圧倒的な力の差があるにもかかわらず、公正さがあるように取り繕う国際社会への批判も込められている。

 一方、地球環境問題を扱う「円円のシャボン玉」や、遺伝子改変にまつわる「二〇一八年四月一日」「人生」は最新のトレンドに乗っている。未来の自分が現在の自分に干渉する話はさまざまにあるものの、「月の光」は環境をコントロールする困難さを描いてスケール感がある。「繊維」はラファティ調のマッドな平行宇宙もの。100万ゲート相当のLSIを描く「円」は中国ならではの題材の勝利である。一方「詩雲」は文字通り詩的な物語で、詩で作られたクラウドが登場するのだ。