キム・スタンリー・ロビンスンが3年前に発表した、106の章から成る1500枚余(2段組み600頁)に及ぶ長編である。バラク・オバマが2020年のベストに選び、ビル・ゲイツが推奨したことでも話題になった。ただ、解説で坂村健(翻訳出版を推した)が触れている通り、日本では注目されず棚上げ状態だった。理系+文系の両方を理解するセンスが要求される小説であり、ジャンルSF以外で受け入れる読者が少ない=商業的に難しいと思われたからだという。
ごく近未来のインドで大熱波が発生、地域の大規模停電と重なって2000万人もの犠牲者を伴う惨事が起こる。インドではそれを契機に既存の政治勢力は力を失い、全く新しい超党派の環境派政権が誕生、その対極に炭素排出を暴力で阻止しようとする過激派も現れる。一方、国連では気候変動に取り組む新たな組織「未来省」が活動を開始する。
物語は大熱波を生き残ったPTSDに苦しむ男と、未来省のリーダーである女を主人公に、世界の人々や事件を点描しながら進んでいく。未来省の置かれたスイスのチューリヒ(著者は一時期滞在していた)や、アルプスの光景が印象的だ。南極を含む世界各地と、さまざまな人々の活動も含まれる。中高年の男と女は、ある事件を契機に知り合うものの恋人同士とはならない。しかし、距離を置きながら終生惹かれあう。
本書の中では、炭素増加に伴う環境破壊、貧富の格差(南北間、国家間、国内、組織内)克服、民主主義のあり方、新自由主義の弊害、MMTやモンドラゴン、炭素税(ペナルティ)とカーボンコイン(インセンティブ)などが論じられる。既存の政治経済システムだけでは破局的な環境問題に対処できないと主張する。もちろん、書かれている内容すべてが正しいとは言えない。さまざまな意見が出てくるだろう。けれど、それこそが著者の意図することでもある。スルーではなく、反論でもよいから考えるべきなのだ。またコロナ、ウクライナ前に書かれた本書の現在の立ち位置については、ロビンスン自身がこの講演(2023年4月)で語っている。
本書以前の最新翻訳は、6年前の《火星三部作》完結編『ブルー・マーズ』(1996)になるが、もっと新しい『2312太陽系動乱』(2012)が2014年に先行翻訳されている。こちらも、政治経済システムについての刺激的な提案を含む意欲作だった。
- 『ブルー・マーズ』評者のレビュー(『2312』へのリンクもあり)