小川哲の最新短編集。「陰謀論、サイコサスペンス、神と人類の未来を問う弩級エンタメ集」と惹句が並ぶが、(大きな意味での)宗教をテーマとした作品集である。収録作は冒頭の作品がアンソロジーの『NOVA2019年春号』、巻末が同じくアンソロジーの『Voyage 想像見聞録』(もともとは小説現代に掲載)である他は、すべて文藝に載った作品だ。
宗教とか神様について考えることは、根源的に人間の欲望に内蔵されているもので、それについて考えることは、小説について考えることにもつながるだろうと。人々の欲望を満たそうという、僕ら小説家が普段しようとしていることを、いろいろな角度から考えてみたかったというのがあると思います。
七十人の翻訳者たち(2018)紀元前3世紀、ヘブライ語の(旧約)聖書をギリシャ語に翻訳した七十人訳聖書が作られた。しかしその内容には重大な問題があった。
密林の殯(2019)主人公は天皇に縁がある由緒ある八瀬童子の子孫だったが、仕事を継ぐつもりはなく、なぜか宅配荷物の配達に生きがいを感じていた。
スメラミシング(2022)ディープステートにノーマスク運動、さまざまな怪しい情報が渦巻く中で崇拝を集めるスメラミシングと、その代弁者の活動。
神についての方程式(2022)未来のいつか、宗教団体「ゼロ・インフィニティ」の起源を探る宗教考古学者は、開祖と伝道者の正体に迫ろうとする。
啓蒙の光が、すべての幻を祓う日まで(2024)理国の正史にも取り入れられている叙事詩に、重大な矛盾点が指摘される。それは神の存在に関するものだった。
ちょっとした奇跡(2021)第2の月により自転が停まった大異変後の地球では、少数の人類が明暗境界線を移動していく車両の中だけで生きながらえていた。
著者は、小説の原点は聖書にあると述べている(上記参照)。七十人訳聖書もヘブライ語部分は一部に過ぎず、それも(さまざまな伝承を寄せ集めたため)一貫していない。ギリシャ語段階で追加(創作)されたところも多い。つまりその出自からいっても「嘘」が前提の小説に近い存在なのである。そこから、人がなぜ陰謀論=極端な嘘に惑わされるのかの理由が想像できる。嘘であるほど(虚構が大きいほど)人は魅了されるのだ。
本書では、聖書の矛盾、伝統的な宗教と新たな宗教儀式ともいえる宅配、陰謀論者たちとホテル勤務の(隠された記憶を抱える)青年の空虚な生きかたの対比、インドで生まれたゼロの存在と新たな宗教の理念、逆に神の否定が産み出すある種の教条主義が描かれる。「ちょっとした奇跡」だけは異色だが、黙示録的な世界に生きる終末期人類の物語と思えばしっくりくるだろう。
- 『地図と拳』評者のレビュー