樋口恭介編『異常論文』早川書房

写真:三野新+山本浩貴
カバーデザイン:山本浩貴+h(いぬのせなか座)

異常論文とは一つのフィクション・ジャンルであり、正常論文に類似、あるいは擬態して書かれる異常言説を指している。そこで論じられる内容の多くは架空であるが、それは異常論文であって異常論文でしかなく、架空論文とは呼ばれえない。それは論文の模倣であることを求めない。そしてそれは、フィクションでありながら、架空の言説であることをも求めない。それは実在する一つの言説空間そのものであって、現実の言説空間に亀裂を入れる。

編者による巻頭言より

 本書の編者である(本業は会社員だが、副業にアナキストを営むとうそぶく)樋口恭介の説明によると、異常論文とはあくまでフィクションであるようだ。本書の解説で、神林長平も同様の見解を述べていて、しかし、論文と小説では想像力を向ける方向性がまったく逆であるとも書いている。どういうことなのか。

 決定論的自由意志利用改変攻撃について 円城塔:いつか誰かBが、いつか誰かCを思い浮かべることで、全く別の時間における誰かAその人自身でありうることが可能である。数式を含む論考。
 空間把握能力の欠如による次元拡張レウム語の再解釈 およびその完全な言語的対称性 青島もうじき:放散虫チャートに書かれた文字を三次元的に動かして成立する、視覚的言語レウム語について。
 インディアン・ロープ・トリックとヴァジュラナーガ* 陸秋槎:魔術師が空中に投げたロープが直立し、助手がそれをのぼって消えるマジック「インディアン・ロープ・トリック」に隠された真相とは。
 掃除と掃除用具の人類史 松崎有理:有史以前から続く人類と掃除を巡る歴史は、やがてシンギュラリティを迎え、宇宙をも巻き込む存在を生み出す。
 世界の真理を表す五枚のスライドとその解説、および注釈 草野原々:空洞地球や多重凍結世界の存在を説明しながら、われわれが知る世界とは異質の別の世界を注釈を交えて明らかにする。
 INTERNET2* 木澤佐登志:地球表面上を毛細血管のように覆い尽くしたニューロンの網は、INTERNET2と名付けられる。ここはとても素晴らしい、ここはとても美しい。
 裏アカシック・レコード* 柞刈湯葉:世界のすべての真実が収録されたアカシック・レコードの対極に、すべての嘘が収められた裏アカシック・レコードが存在する。しかしこれを巧妙に使うことで、真実を知ることもできる。
 フランス革命最初期における大恐怖と緑の人々問題について 高野史緒:フランス革命のころ現われた、緑色に光る人々の存在を記した文献があるらしい。その存在を探す研究者は不可解な事件を知る。
 『多元宇宙的絶滅主義』と絶滅の遅延──静寂機械・遺伝子地雷・多元宇宙モビリティ* 難波優輝:『多元宇宙的絶滅主義』とは絶滅こそが宇宙を救う手段であるとする。それは人類だけを対象にするのではなく、宇宙のすべてに拡張されていく。
 『アブデエル記』断片 久我宗綱:神の啓示を受けたアブデエルと呼ばれる人物がいる。どのような人物だったのか明らかではない。残された断片的な文章を解釈する。
 火星環境下における宗教性原虫の適応と分布* 柴田勝家:宗教性原虫とは人類と共生関係を築いてきた生き物で、根絶は難しい。火星環境でも独特の適応を見せている。「異常論文」という呼称は、編者が柴田勝家の諸作を評して付けたものである。
 SF作家の倒し方* 小川 哲:作者の周辺にいる複数SF作家について、弱点と優位点をひたすら並列に並べ立てた異常というより異質な文献。
 第一四五九五期〈異常SF創作講座〉最終課題講評 飛 浩隆:不穏な〈事態〉の下で、創作講座の最終課題選考会に挑む選好委員による、各作品の特徴や問題点についての懇切丁寧な指摘。
 樋口一葉の多声的エクリチュール──その方法と起源* 倉数 茂:人称表現が未分化だった明治期、樋口一葉はその中でも独特の話法で作品を書く。多声的と分析する文章の秘密を解き明かす。
 ベケット講解 保坂和志:ベケットが書いたことではないと断りながら、文中ではサミュエル・ベケット『モロイ』や、アビラのテレサからの引用らしき文と著者の個人的感想が繰り返される。
 ザムザの羽* 大滝瓶太:無名の数学者アルフレッド・ザムザは、ある二つの命題を提唱するが無視される。論文風にスタートした文章はやがて自伝の様相を呈する。
 虫→…… 麦原 遼:虫はさまざまな文に付着する。文章は危険になった。論文の査読者にも危害が及ぶようになる。虫が来る前にはたくさんの論文があったがいまはない。
 オルガンのこと* 青山 新:肛門からロッドを挿入し、微生物叢を腸内に移植すると「学習」することができる。荘子の漢詩や曲亭馬琴からバタイユまでを取り混ぜながら、意識変容の過程が詳述される。
 四海文書(注4)注解抄 酉島伝法:古書市で入手した手書きのノートには、でたらめな断片が記録されている。多層的な注釈によりその内容に迫ろうとする。
 場所(Spaces) 笠井康平・樋口恭介:Googleドキュメントを使いながら共著者は異常論文をまとめようとする。あるとき発見された壊れた.md ファイルの存在により事態は流動する。実話に基づく異常「私」論文。
 無断と土* 鈴木一平+山本浩貴(いぬのせなか座):開発者不明のホラーゲームWPSにまつわる、20世紀初頭の日本における怪談、詩篇、近代日本における天皇制などが論じられる。最後に、含意に満ちた質疑応答が置かれている。
 解説──最後のレナディアン語通訳 伴名 練:ある作家が架空言語レナディアン語を発明する。これはその言語で綴られた文章を集める対訳アンソロジイの解説文であるが、言語成立を巡る異様な事件をも明らかにする。
 *:SFマガジン2021年6月号収録作

 全部で19編を収める。もともとtwitter上で企画が立てられ、最初SFマガジンの特集記事として10編が書き下ろされた(それでも120ページに及ぶ)。この特集の好評を得て、ボリュームをほぼ倍増させたものが本書である。おおまかに分類すると、著者の3分の2強がジャンルを問わない作家、あとはSFプロトタイピングなどで編者が関係する評論家やアカデミズム関係の執筆者だ(フィクションを発表するのは初めてという作者もいる)。論文と言っても理系(仮説と証明、実験やシミュレーション)と文系(文献解釈中心)では形式が異なるが、本書ではフィクションとの親和性もあってか後者のスタイルが多い。

 レムは執筆期の後半になって、『完全な真空』などの架空書評を書くようになった。フィクションの枠に収めきれない内容を、書評の余白(読者の想像力)で表現しようとしたのだ。その趣旨にもっとも近いのが「裏アカシック・レコード」や、架空選評「第一四五九五期〈異常SF創作講座〉最終課題講評」、架空解説「解説──最後のレナディアン語通訳」になる。しかしこれらは少数派である。何しろ本書は「架空論文とは呼ばれえない」ものを目指すものだからだ。

 文学には実験小説という(文章構成どころかフォントや本の形までを自由に変形させ)難解さを愉しむ一連の作品があり、そういう意味では異常論文も実験小説の範疇に含まれるのだろう。だが、編者はおそらくそうは考えていない。神林長平による解説に戻ると、論文と小説との違いを「誤読」に求めている。小説は誤読を最大限誘うものであり想像力に繋がる。一方論文は誤読を最小限にする。書かれたこと以上があるのなら、それは不正確さになるからだ。では異常論文はどうなのか。樋口恭介は「過剰な読解」が必要と説く。

 今回の19編はバリエーションに富んだ面白い作品集である。しかし、「(書かれている内容による)誤読が最小限」で「(読み手側の混乱を契機とした)過剰な読解」が可能な「論文に値する」作品となると多くはないだろう。中では「無断と土」がその基準に達していると思われる。