スタニスワフ・レム『捜査・浴槽で発見された手記』国書刊行会

Śledztwo/Pamiętnik znaleziony w wannie,1959/1961(久山宏一/芝田文乃訳)

装訂:水戸部功

 新訳となったレムの2長編である。『捜査』は初訳が1978年(深見弾訳)、『浴槽で発見された手記』は1980年(深見弾訳、邦題『浴槽で発見された日記』)/1983年(村手義治訳)以来なので、ほぼ半世紀を経たことになる。当時も、解釈を巡ってさまざまな議論を巻き起こした。どちらかといえば「なぜレムがこれを書いたのか不明」とする戸惑いが多かったように思う。今回はポーランド語専門家による翻訳(過去はロシア語を主とする翻訳者)で、新たに読み取れるものも多いだろう。

捜査:ロンドン周辺の遺体安置所で奇妙な事件が起こる。一晩のうちに遺体が動いているというのだ。うつ伏せになっていたり、棺から出ていたり、さらに遺体消失が頻発するようになる。しかも、安置所の警備を担当していた巡査が、飛び出し事故で重傷を負うという事件までが発生する。

 主人公の警部補は事件を詳細に追っていく。ある科学者は特定のデータを地図にプロットすることで、統計的に次の事件を予測しようとする。警部補は科学者に疑いをかけ証拠を集めるが、かえって謎は深まる。一方、主任警部は曖昧な状況証拠を並べ、真犯人を決めつける。……あらかじめ書いておくと、この作品はミステリではないので「真犯人」は見つからない。

浴槽で発見された手記:まず「まえがき」がある。ロッキー山脈にあった3000年前の廃墟の浴室で手記が見つかった。大崩壊によりセルロースが失われ、電子化以前の文字はすべて失われたため、奇跡的な記録なのだ。しかし、その中に書かれていたのは……。

 評者は『浴槽で発見された手記』の1983年版に解説を寄せている。何しろ40年前のものなので最新の知見は盛り込まれていないが、当時の読み方を反映するものとして抜粋(一部修正)してみる。

 本書『浴槽で発見された手記』は、1961年に出版されています。レムは、その創作法から考えてとても多作になるとは思えない作家です。あるインタビューで、200ページの本を書くのに、4~5000ページ分のタイプを叩くのだ、といっているぐらいです。何度も推敲し書き直すからでしょう。それなのに、61年には3冊の長篇が出ています。レムの活力の顕れであると同時に、何か共通点があるんじゃないか、とも考えられます。

 その1冊目は、代表作でもある『ソラリスの陽のもとに』、2冊目が『星からの帰還』です。この2長篇は、生きている海を描いていたり、未来の地球を描いていたりするわけですが、 どちらも明白なストーリーを持っている作品です。ストーリー性の稀薄な本書とは、ずいぶん対照的でしょう。ただ、それでも、一連のレム作品の持つ特質が、三者に共通していることも、否めない点があります。

 例えば、謎の追求と解明という一点、『星からの帰還』の冒頭で繰り広げられる、あの異様な描写を思い出して下さい。はるかな未来に帰還した宇宙船の乗員たち。ウラシマ効果で、彼らの知っていた地球とは全く様相が変わっています。我々が現在の都会を見て、あれはビルだあれは自動車だと見分けられるのは、その存在が何かを教えられ認識しているからです。もし、 隔絶した未来に突然投げ出されでもしたら、どんな形のものがあるのか、どう動いているのかさえ理解できないでしょう。そして、市民感情すら昔と違っているとしたら……。帰還した宇宙飛行士たちが捜し出す『謎』とは、人々を駆り立てたはずの情熱、消え去ってしまった宇宙 への夢の追求でもあったのです。一体、自分たちは何のために存在するのか――その問いかけは、本書の中にも窺えます。

 『ソラリス――』に至ると、その謎は海の姿をとってあらわれます。科学的な正体の究明(ソラリス学)と、人間の精神を写し出す鏡としての存在の二点から海の謎は追求されていきます。しかし、無数のアプローチが示されながら、その実、一つの真実も浮かび上がってきませ ん。答えがない、つまり本書と同じ迷路の世界が広がっているのです。

 『浴槽――』には、一貫したストーリーがありません。ところがこの手記が 、紙のあった時代から残された貴重な文献である云々という、奇妙な「まえがき」が付けられています。「まえがき」はそこだけ読むと、以下の本編がまるで風刺SFであるかのように感じさせます。しかし、本文はどう考えても、「まえがき」の雰囲気と乖離した印象を残します。本文では、およそ風刺を超越したグロテスクな世界が描かれています。

 指令書を捜しに出かけた主人公は、総司令官から秘密指令を受けます。ところが、その任務の内容がまず分かりません。主人公は、必死で中味を探ろうとします。探索の途上には、棺の安置された礼拝堂があり、暗号解読室があり、埃にまみれた図書室があります。提督の部屋も、 病棟もあります。しかし、何も解明されません。どこにでもスパイが潜んでいるようです。あらゆる文書が、暗号で書かれているようです。シェークスピアの小説さえ実は暗号だった? これだけ雑多なさまざまなレベルの「謎」を提示したものは、他の多くのレムの作品を通してみても本書しかありません。一冊の本全てが、暗号で書かれているかのようです。

 レムはいわゆる「象徴」や「暗喻」を嫌います。嫌うとまで書くと、断定のしすぎになるのかもしれません。ただ、ロブ=グリエやジョイスらを評価しながらも、それらの手法は、自分とは別の立場にあるものだと述べているのです。アメリカの研究家フェイダーマンが、あるインタビューの中で「完全な真空』(1971)を取り上げ、架空の本の書評集はヌーヴォーロマン的な手法ではないか、と問いかけますがレムは明確に答えません。ファウンデーシ ョン誌のインタビューでも、『砂漠の惑星』(1964)のラスト近くにある、人間の形をした影がサイバネティクスの虫たちの雲に浮かぶシーンを指して、あれは何を象徴するのかという質問に、単なるブロッケン現象で意味はないと素気なく答えたりします。

 つまり、レム自身、そのような批評的な書き方をしていないのです。けれども、 ニュー・フィクションや、ヌーヴォーロマンの手法に対して理解がなかったわけではありませ ん。1970年に出た「SFと未来学」の中に「メタファンタジア――SFの可能性」という小論が収められています。標題から分かるように、この中では、文学のいわゆるメタ視点が言及されます。もちろん、ヌーヴォーロマンもその立場で触れられています。

 ちょっと話が脱線しました。本書には、正しい答えなんてないのだ、全てが暗号なのだ。そんな話の途中でした。なぜ答えがないのか、作者に答えが分からないはずもないだろう――いや、推理小説ではないのです。犯人が何かさえ、誰にも(作者にも)分かりません。 例えば、本書の2年前に出た『捜査』は、作者自身答えを設定せず書き進めていったそうですし、レムの(当時の)書き方としてはそれほどめずらしいものではないのでしょう。(対照的に15年後の『枯草熟』(1976)は答えを持った書かれ方をしています)。

 本書は、一種の実験の上で書かれた雰囲気があります。何の実験か――ユーモアとスラップス ティック、そしてまた風刺のようでも、象徴のようでもある。おそらく、そのどれもが正しくてどこか間違っているのでしょう。小説は決して一通りではなく、 どれも機通りかの読み方ができるものです。それは時代と共に移り変わっていく場合もありますし、人によって違うこともあるでしょう。レムの作品には、そういう無数の視点が可能な、幅広さが内在されています。

 まずレムは本書で無数の実験とバロディ、アイデアの検証をしたように思えます。タイトルがボーの「曇のなかの手記」のパロディですし、「まえがき」は冗談めかしています。ちょっと無理な比較かもしれませんが、筒井康隆『脱走と追跡のサンバ』に相当する作品だという気もするのです。各章にばらまかれたアイデアは、なんともユニークで深みがあります。あらゆるものを、別の方向からひっくり返していく、SFのもっとも基本的な発想が、至るところに見られるはずなのです。そのつもりで読んでみてはどうでしょうか。

 そして、40年目の新訳には新たな指摘がある。訳者は、ヤン・ポトツキ『サラゴサ手稿』(著者はポーランド人だがフランス語で書き、その訳題が『サラゴサで発見された手稿』だった)の表題とまえがき、作品スタイルなどを本書が広く踏襲したとする。さらにカフカはもちろん、ポーランドの亡命作家ゴンブローヴィチ(『フェルディドゥルケ』や『コスモス』で知られる)を意識した不条理スパイ小説仕立てであり、ホロコーストを暗示するなど(人体の一部を展示するホールが登場する)奥が深いというのだ。これまで十分ではなかった、ポーランド文学におけるレム作品の位置づけを再検証する意義を感じさせる。

 レムは当時「答えのない」ものをどう描くか模索していたと思われる。自身の初期SF(『マゼラン雲』や『金星応答なし』)の器ではそれらを書くには十分といえなかった。ミステリ形式の『捜査』である程度の目途を立て、『ソラリス』では異質であるがゆえに理解不能の知性を、『星からの帰還』では現代からは予測不能の未来を、『浴槽で発見された手記』では不条理極まる政治をと、それぞれの形式を吟味しながら「答えのなさ」を書き分けたのだ。