シン・ゴジラを見ました

 シミルボン転載コラム(#シミルボン)第3回目「ゴジラ-1.0」がアカデミー賞(視覚効果部門)候補になったという話題もあって、一つ前の「シン・ゴジラ」のコラムを選びました。「見ました」というタイトルで分かる通り、視聴直後の感想エッセイです。もう8年前になりますね。

要約すると、円城塔的な暗号文の解読を行なうSF大会スタッフのような組織が、無敵の怪獣ゴジラを伊藤アキラ的ガジェットの攻撃で停止させてしまう、というものです。

公式サイトより引用

 この映画は、エンドロール中至るところに庵野秀明の名前を見ることができます(音楽や美術関係など)。総監督以外でエンドロールに名前が出るのは、最終可否の判断だけではなく、実作業にも多く関わったという意味なのでしょう。

 アニメが本業で特撮が趣味なのか、その逆なのかは分かりませんが、庵野秀明にはDAICON FILM時代の自主製作映画「帰ってきたウルトラマン」(1983)から「巨神兵東京に現る」(2012)まで、精密に造られたミニチュアや怪物の造形=特撮が生み出した文化への独特のこだわりがありました。本作品では予算が潤沢にあるためか、特撮に隙がありません。庵野流の遊びが至るところに込められているようです。

 まず、ゴジラのような災害級のバケモノを、今の日本に現出させようとすると、社会的リアリティが重要になります。まだ誰もが憶えている、3.11を援用するというこの映画の方法は合理的でしょう。政府や役人の対応は、3.11に準じた、あるいは参考にしたシステムとなっています。同様に、大災害に対峙できる組織は軍隊以外にありません。自衛隊が主役となるのは物理的理由で、政治思想や有事立法とはあまり関係がないと思われます。ただし、特撮怪獣もののお約束は忠実に守られています。たとえ最新兵器であっても、人間の武器で怪獣を抹殺することはできないのです。したがって、自衛隊や米軍は敗退します。

 次に、ゴジラのリアリティは、社会的パートだけでは足りません。特殊であるにせよ、ゴジラにクリーチャー=生き物としての根拠を与えなければなりません。それを解明するのが、巨大不明生物特設災害対策本部(巨災対)という官庁横断型プロジェクトです。タテ割行政が主体の日本で、こんな組織がまともに機能するかどうかは分かりませんが、そこはSF映画なのでOKです。

カバーイラスト:開田裕治

 たとえば、山本弘が書いた『MM9』では、気象庁特異生物対策部=気特対という組織が登場します。なぜ気象庁なのかといえば、怪獣が自然災害(地震災害、台風災害)そのものだからです。怪獣出現の科学的根拠に多重人間原理(多元宇宙+人間原理)を設け、神話宇宙(物理的に成り立たない非科学的な怪獣が存在する世界)とビッグバン宇宙(我々の住む通常の物理法則が成り立つ世界)とのせめぎ合いを置き、怪獣を自然災害として出現させるという説明は、いかにもSFファン的な理屈で面白いでしょう。

 巨災対は不眠不休で働き、服も着がえず風呂にも入らず、現場に寝泊まりする組織です。ブラックなSEとか、事務局に寝泊まりするSF大会スタッフに近いのです(SF大会と限るわけではありませんが、イベントを主催するポランティアは、金銭的見返りがないのに妙にハイテンションになります。コンベンションハイですね)。ブラックな職場のモチベーションが高いはずはないので、ここは期日と目標が明白なSF大会スタッフのようなもの、と考えましょう。

 この映画は、過去のゴジラに一切準拠しません(設定上も、ゴジラの存在を知らない日本)。ただ、過去のゴジラ映画への明示的(伊福部昭の音楽など)、暗示的な言及は存在します。冒頭写真だけで登場する科学者は、原初の映画でゴジラの弱点を解き明かすマッド・サイエンティストを象徴していて、円城塔が書きそうな謎の図表で巨災対を挑発します。ゴジラ対策の答えは、その中にすでにあるのです。何十年かかってもおかしくない謎の究明を、わずか2週間で終わらせるための伏線がそういう形で置かれているわけです。

イラスト:中川 貴雄

 かくして、映画の終盤で謎は解明され、対ゴジラ最終作戦が発動されます。政府研究所内部ではなく、機密のないオープンソースで進めるのは今どきのグローバルIT開発風です。作戦に使われる機材は軍隊のものではありません。個々の具体的な名称は重要ではありませんが、ここでは伊藤アキラ(唄「はたらくくるま」に出てくるような)機材と呼んでおきましょう。ゴジラという巨大な虚構に対抗するためには、ありきたりな現実では不可能なので、荒唐無稽な組み合わせを用意したのではないでしょうか。間違って見に来たお子さま、ないしは準じる人向けサービスアイテムを兼ねているのかもしれません。

 ゴジラは完全生物であると劇中では語られます。無敵の怪物だったエイリアンも、最初の映画の中でそう呼ばれていました。人類は人類以外に負けたことはありません。人を越える絶対的な強者、殺すことができないものは、人より完全な存在と感じられます。映画でも、人間は勝ったように見えますが、エイリアンもゴジラもほんとうに殺すことはできないのです。彼らは「完全」なのだから、不完全な人とは比べものになりません。巨災対の勝利はもしかしたら幻なのかも、そういう畏怖感が残ったところがいいでしょう。

 さて、「シン・ゴジラ」は想定を超えたヒットとなっています。海外ではどうか。最近のハリウッド式映像は、動体視力を無視する超高速CGがあたり前です。セリフはそもそも最小限しかありません(アメリカの脚本の教科書には、セリフで表現するのは演劇で、映画は映像に語らせろと書いてあります)。ところが、この作品ではCGはむしろゆったりと動き、登場人物の倍速のセリフ回しによって物語が作られています。アニメでお馴染み、庵野流超早口ですね。そこをユニークと見るか、退屈と端折られるのか、どちらにしても直訳を字幕で読んでいては追い付けないスピードでしょう。

(シミルボンに2016年8月14日掲載)

 「シン」は海外であまりヒットしませんでした。上記のことよりも、登場人物が何者かが分かりにくかったからでしょう(異国の政治家や官僚がヒーローでは、いかにも共感がし難い)。その点「-1.0」の主人公は特攻帰りの目的を失った退役兵で、加えてアメリカンな紋切り型マッチョでないところが、ゴジラとの組み合わせにより新鮮と感じられたのだと思います。この見解はSF専門誌LOCUSでも書かれていました。戦争や核兵器の残虐さを象徴するゴジラの機微を理解しない(能天気な)アメリカ人はもうゴジラものを撮るべきではない」とも。

大図解!「ディレイ・エフェクト」に潜むボルヘス的時間

 シミルボン転載コラム(#シミルボン)の第2回目です。前回に引き続き「時間」がテーマです。宮内悠介「ディレイ・エフェクト」の内容に踏み込んでいますので、未読の方は読んでからどうぞ。以下本文。

時間はわたしを作り上げている実体である。時間はわたしを押し流す川である。しかし、わたしはその川である。それはわたしを引き裂く虎である。しかし、わたしはその虎である。それはわたしを焼き尽くす火である。しかし、わたしはその火である……

J・L・ボルヘス/木村榮一訳「時間に関する新たな反駁」より
装丁:城井文平

 「ディレイ・エフェクト」は、2017年10月に文芸ムック「たべるのがおそいvol.4」で発表された当初から話題を呼び、第158回芥川龍之介賞(2017年下半期)の候補作となったことで、さらに多くの読者の注目を集めた中編小説です。残念ながら受賞はなりませんでしたが、そこに描かれた重なり合う時間のありさまは、一般読者にも強烈なインパクトを与えるものでした。

 ディレイ・エフェクトとは、エフェクターなどを使って、音をわざと遅延させ現在の音に重ねる音楽の技法です。今現在という時間の一瞬は、過去の積み重ねによって出来上っています。しかし、われわれ個人に限れば、生まれる前の歴史的な過去を記憶しているわけではありません。単に伝承や記録、書物によって知るだけです。遠い過去は間接的にわれわれの今に影響を与えますが、実際の体験のように直接的なものではありません。そこに、76年前の歴史的な過去が実体験で加わるとどうなるのでしょう。

 5月のある朝、主人公は祖母がコメをつつく音で目覚めます。一升瓶に玄米をつめ、棒でつついて精米しているのです。祖母は少女の姿です。それは76年も前の出来事なのに、主人公の目の前に見えているわけです。

 2020年と1944年の東京がシンクロし、重なって見える現象が起こります。物理的にぶつかり合うことはなく、コンピュータで作られた拡張現実(AR)のように2つの世界が重なり合います。しかし、2020年から戦中の東京は見えても、逆はありません。影響は一方通行なのです。録画や録音ができないことから、物理的な実体はなく、意識の中だけにある存在だと示唆されます。

 目の前で生きる曾祖父夫婦や、一人娘である祖母の生活はリアルで、戦時下の日常が続いていきます。やがてくる翌年3月10日の東京大空襲により、自宅が全焼する日が迫ってきます。8歳になる自分の娘に歴史的な真実を見せるべきか、それとも疎開させるべきなのか。夫婦間の意見対立は、いつしか出口のない口論へと発展します。

 隔てられているといっても、2つの時間2020年と1944年は実在しています。仮想現実ではありません。本作で描かれるのは、一方的に影響を被る2020年です。主人公の生活や家族は、現在にないものに翻弄されます。1944年の時間は確定されていて、決まった運命に導かれます。過ぎ去った時間がディレイするだけなら、どこまでいっても決定された時間です。一方の2020年は、1944年の影響(エフェクト)を受けながらも、未来を選ぶことができます。

 2つの時間が重畳する先行作品はいくつかあります。小松左京「影が重なる時」では、ある日自分の影(自分そっくりの静止した像)が出現します。星新一「午後の恐竜」では、過去の地球の光景(恐竜が闊歩する姿)が現在につぎつぎと映し出されます。両作ともに、ある種の運命論のようです。現在が確定した未来に従属しているわけです。破滅につながる運命であって抗いようがありません。対する「ディレイ・エフェクト」のユニークさは、現在が能動的に変化していくところにあります。未来は確定していません。

 では、ディレイ・エフェクトとは何でしょうか。本書の中には、いくつかのキーワードがちりばめられています。主人公が子どもに話す「エネルギー保存則」、公安の調査官に語る「永劫回帰」「熱力学第2法則」などです。

 永劫回帰は、哲学者ニーチェの中枢をなす思想です。過去現在未来を含めて、全く同じ時間が何度も繰り返されるとするものです。全てが同じなので、輪廻転生とは違います。あとでも述べますが、エネルギー保存則はニーチェと関係します。熱力学第2法則は、一般的にはエントロピーの増大で知られるものです。例えばコーヒーにミルクを注ぐと、時間が経つにつれて完全に混じり合う。これは、より無秩序な状態、エントロピーが高い状態へと移行するからです。逆の現象(コーヒーとミルクが2つに分離する)は確率的に起こりません。現象が一方向にしか進まないため、これが「時間の矢(時間の向き)」を決めていると考えられています。

 キーワードを見る限り、作品の前半では「世界は決定的で、過去は寸分たがわず繰り返され」「時間は必ず過去から未来へと一方向に進む」と主張されているように読めます。ところが、東京大空襲3月10日が始まった深夜、突如時間は逆転を始めます。時間の逆転は、熱力学第2法則からはありえない。もちろん永劫回帰にもないものです。主人公はこれをリバース・エフェクトと名付けますが、設定すべてを否定する大きなどんでん返しといえます。


 ここで、作品構造を図解してみましょう。物語の始まりは5月。6月に公安調査庁の担当者が訪れ、現象に対する見解を求められます。主人公は信号処理の技術者で、会社のキーマンなのです。あとで分かりますが、主人公の経歴にも訪問の理由がありました。時期は不明確ですが、梅雨明け前の夏の初め(おそらく7月)頃に、妻と仲たがいし別居状態となります。以降、技術リーダーを管理職昇格という名目で解かれ、食べさせる相手もいないのに戦時食を作ってみるなど、さまざまなストレスに苦しみながら翌年の3月を迎えます。

 しかし、3月10日が過ぎ、リバース・エフェクトに入ると事態は一変します。秋になった10月ごろ、妻からの手紙を受け取るのです。そこには、妻の曾祖父が何を仕事にしていたかが書かれていました。主人公は、かつて反核運動に参加したことがありました。妻とはその際に知り合ったのです。けれど、曾祖父は戦時中に核開発に従事しており、空襲時もすぐに帰宅できず曾祖母を助けられなかった。妻はその事実に負い目を感じていたのです。

 図から分かるように、ディレイ・エフェクト期に妻が出ていった時期と、リバース・エフェクト期に手紙を受け取る時期は、3月10日を挟んで時間対称をなしています。手紙には、家族で起こった不和の原因が書かれていました。叙述上、原因(曾祖父の仕事)と結果(不和から別居)の逆転が起こるのですが、それが一般的な小説の技法としてだけでなく、ディレイとリバースという物語の設定と重なり合い、シンメトリーをより鮮やかに見せているのです。エントロピーの増大=緊張の高まり、エントロピーの減少=緊張の緩和・融和という関係もシンメトリーをなしています。

 アルゼンチンの作家ボルヘスは、ニーチェの永劫回帰を認めませんでした(「循環説」参照)。ニーチェはエネルギー保存則を根拠に、宇宙・時間には一定の大きさがあり、長大な時間を経ればいつか繰り返しが起こる、過去はそのまま回帰するとします。けれども、ボルヘスは宇宙・時間が無限に変化しており、繰り返しはないと考えます。現在が過去から未来へ移っていく瞬間ごとに、われわれは別のものに変化していく。同じものが成長進化するのではなく、常に変わっていくのです。冒頭の引用は、そのボルヘスの考え方をよく表したものです。

 この物語では、時間を物理ではなく、意識の問題だと解釈しています。だからこそ、時間はディレイしリバースする。その一つ一つが主人公たちの行動に影響を与え、主人公を別の存在、新たな存在へと変えていきます。主人公は過去の直接の影響下で考え方を変え、生き方を変えます。過去は繰り返されるだけの、固定的で動かしがたいものではなく、流動し反転もします。まさに、ボルヘス的な時間体験を描いているのではないでしょうか。

 ボルヘスは作家として、われわれの時間体験が運命論的なものであるという考え方は好みませんでした。本書の著者宮内悠介も、シンメトリーをなすユニークな時間の在り方を描きだしていますが、その背後に運命論に囚われない個人の意思があることに注目すべきでしょう。

 「影が重なる時」は自選ホラー短編集『霧が晴れた時』(1993)で入手できます。2003年にはTVドラマ化もされました。「午後の恐竜」は同題のロングセラー『午後の恐竜』(1977)に収められています。2010年に短編アニメーション化されています。またボルヘスの「循環説」はエッセイ集『永遠の歴史』に、「時間に関する新たな反駁」は『ボルヘス・エッセイ集』、または岩波版『続審問』でも読めます。

 ガジェットとしての「ディレイ・エフェクト」は、ボブ・ショウの「スローガラス」と同じ考え方です。スローガラスとは、光が通り抜けるのに数年がかかる(つまりディレイする)特殊なガラスのこと。人々はそこに、実在した過去を見ます。ボブ・ショウの場合、あくまで「窓」(空間ではなく平面)だというのが特長で、その制約が物語に生かされていています。これは旧サンリオ文庫の『去りにし日々、今ひとたびの幻』 (1981)にまとめられています。

(シミルボンに2018年5月29日掲載)

SFにおける「時間」の非実在性について

 今週からしばらく、過去にシミルボンに掲載したコラムを抜粋し、不定期ですが転載していこうと思います(カテゴリは「評論・ノンフィクション」、検索キーは「#シミルボン」です)。シミルボンは2016年8月から2023年10月1日まで開設されていたブックリスタ主催の読書系(メディア作品も含みます)ホームページです。プロアマを問わずたくさんのレビューやコラムが楽しめ、筆者も50余編を寄稿してきました(そこそこ書いてます)。2016年から19年の4年間のものになります。転載にあたって元の文章を修正した箇所もありますが、基本は変えていません。以下本文。

カバーデザイン:蟹江征治

 名のみ高かったマクタガートの原著論文『時間の非実在性』(1908)は、つい最近完訳された。時間関係の哲学書では、多くがこの論文について言及している。訳者永井均による詳細な注釈・論評も併録されている(論文自体のボリュームは、本の5分の1ほどしかない)。

時間の探求は、古くから哲学における重要なテーマだった

 それに伴って、文化や宗教、思想に至るまで、時間に対する解釈がたくさん生まれている。SFでは、さまざまな時間のありさまが小説という形で描かれてきた。並行に存在し別々に流れる時間、凍結して動かない時間、逆回りする時間、遅延する時間、不均一に流れる時間、ループする時間などなどだ。ここでは、その中でももっとも特異な時間を紹介しよう。

「昨日は月曜日だった」

 シオドア・スタージョン「昨日は月曜日だった」(1941)で、自動車修理工の主人公ハリー・ライトは、いつものように目覚める。だが、昨日が月曜日だったのに今日は水曜になっていることに気が付く。しかもあたりの様子がおかしい。何もかもが新しく、作り立てのように見えるのだ。仕事場に出ようとすると、見慣れぬ作業員たちが街路を古く見せようと懸命に働いている。こいつらは何ものなのか。そもそも自分の火曜日はどこに行ったのか。

「時間」と聞いて何をイメージするだろう

 通り過ぎた過去があり、今現在があって、これから未来がくる。多くの人は、川のような流れ(変化するもの)を思い浮かべるだろう。幼い頃の自分(過去)、今の自分、将来の自分(未来)というふうに、時間は一方向に流れていく。ところが、スタージョンが描くのは、とても奇妙な時間の姿である。ハリー・ライトが目覚めた世界は今日しかない。確かに昨日は既になく、明日はまだないのだから、今しかないという見方もできる。しかし、文字通り曜日単位に別々の世界が造られているのなら、昨日・今日・明日は連続しておらず、分断されることになる。ここに時間の流れなどない。つまり、われわれが知っている「時間」は実在しない。

「時間」がないとは、いったいどういう意味だろう

 「時間の非実在性」をとなえた、イギリスの哲学者ジョン・エリス・マクタガートの考えが参考になるかもしれない。マクタガートは、時間に関わる順序には、過去・現在・未来というA系列(たとえば、20世紀は過去、21世紀は現在、22世紀は未来)と、より前・より後というB系列(たとえば、20世紀は21世紀より前、22世紀は21世紀より後)の2つの系列があると説明する。A系列は変化する。未来もいつか過去になるからだ。23世紀から見ると、20-22世紀まですべてが過去になる。一方B系列では、たとえ23世紀になっても、20世紀は21世紀より前という関係は変わらない。変化しないB系列よりも、変化を伴うA系列こそ時間の本質なのだという。

過去・現在・未来は、お互いが矛盾する

 ところが、マクタガートは論文の中で、過去・現在・未来は、お互いが矛盾すると断じる。本質である過去・現在・未来が矛盾するのだから、時間(時の流れ)は人間の主観的な幻想にすぎないとする。この証明の要約は難しい。詳細は論文を見ていただくとして、解釈はさまざまにできる。証明自体が正しいか否かでも大きな議論を呼んだ。ただ、証明の是非はともかく、マクタガートの考えに従うなら、物事に並びはあっても時間的な順序はないことになる。奇想と思われるスタージョンの短編は(物語の基本アイデアに関して)マクタガートの考えに近いのかもしれない。未来はない、過去もない、実在するのはばらばらの現在だけなのだ。

「スロー・チューズデー・ナイト」

 もう1作、R・A・ラファティ「スロー・チューズデー・ナイト」(1965)を紹介しよう。脳から阻害要因を取り去った結果、人間の時間に対する感覚は大きく変貌する。1日は3つに分けられ、時間帯ごとに別々の集団が暮らしている。深夜族に属する男は、長い火曜の夜の8時間に一生分を働く。夜の始まりで乞食姿だった男は、わずか1時間半後には大金持ちになり、何度も結婚と離婚、倒産と成功を繰り返したあげく、夜が明けるころには元の乞食に落ちぶれる。

SFの産み出す奇妙な時間体験

 ラファティの主人公は、たった8時間で、生涯の体験を猛スピードで終えてしまう。一生と一晩では絶対時間が異なるはずだが、ここでは同等に描かれる。つまり、時間の長さという概念が壊れている。人の生理作用(脳内の反応速度)が加速されたとも、時間のありさまが変化したとも解釈できる。ゆっくりと流れる火曜の夜の世界では、一生のイベントは、マクタガートのいうB系列のようにただ並べられている。順番だけがあって長さがないのだ。これは、われわれが知っている(と思っている)時間とは違う。体験した記憶=過去だけなら、ビデオの早回しのような再生ができるかもしれない。しかし、未来を含めた全生涯の早回しはどうだろう。火曜の夜が終わったあと、主人公は次の日も同じになるとうそぶくが、毎晩一生が過ぎていく世界での時間体験は、われわれの日常とは全く違ったものになるだろう。

 SFにはこういう無秩序な時間が数多く含まれている。過去・現在・未来がでたらめに並んでいたり、未来が過去につながったりする。SFの産み出す奇妙な時間体験には、ノーマルな時間を否定する願望が内在されているのかもしれない。

 スタージョンの作品は時間テーマのアンソロジイ、大森望編『ここがウィネトカなら、きみはジュディ』(2010)に収録されている。よく似た作品に(かなり即物的に描かれてはいるが)スティーヴン・キング「ランゴリアーズ」(1990)などがある。ラファティの作品は、第1短編集『九百人のお祖母さん』(1970)に収録されている(現在なら『ファニーフィンガーズ ラファティ・ベスト・コレクションズ2』が入手しやすい)

(シミルボンに2017年5月10日掲載)