ワールドコン ビギンズ 1939年のソフトボール

 今年も、毎夏の行事である日本SF大会は62回目を無事終了しました(わたしは参加していませんが)。一方、世界SF大会=ワールドコンは第82回を数え、8月に英国のグラスゴーで開催されます。ではその80余年前、第1回ワールドコンはどんな集まりだったのでしょう。今回はシミルボン転載コラムではなく、1986年8月に開催された第25回日本SF大会のプログラムブック(スーベニアブック)掲載記事からの抜粋(一部修正)です。以下本文。

 1939年7月2~4日にニューヨーク市で行われた、第1回世界SF大会の主催者として、本年大阪で第25回日本SF大会を開く、あなた方の高揚感は大変によく理解できます。第1回大会は、アメリカ、そしてカナダ、イギリス、西ドイツで開かれた世界大会の伝統を方向づけました。

 当時、SF大会や会合を開いたことのある国は、イギリスだけでした。私たちは、自らの大会に「世界」とつけたことで、海外からわざわざ参加するほど魅力があるか疑わしいと批判されたものでした。

  日本は遙かに離れて遠く、アメリカとは言葉も全く違い、相違点の大きな文化を持つ国で、火星SFの舞台並みに「ファンタスティック」な世界と表現されてきました。その日本でSFが活発化し、1939年の「スペクタクル」が小さく思えるぐらいの大会が開かれるなど、ほとんど誰も考えなかったでしょう。

 今から思えば、昔からの素地はあったと思います。私はいま、1921年に日本で出版されたイギリス作家ジョージ・ グリフィスの箱入上製本 A Honeymoon in Space註:大正10年版の黒岩涙香訳『破天荒』と思われる。最初の版は明治43年に出ている)を見ています。宇宙地図の載っている星系への宇宙旅行を描くロマンティックな小説です。この作品は、アメリカでは未だハードカバーでは出ていません。それでも日本の出版者の誰かは売れると考えたのです。翻訳権を買い、手間のかかる造本としたのですから。

 もし、アメリカの黎明期に行われた大会の感激が普遍的なものであるなら。 第25回日本SF大会は主催者にとっても、そしてほとんどの参加者にとっても、大成功を収めるのは間違いないでしょう。

サム・モスコウィッツから大会に宛てた祝辞より抜粋

 このメッセージとともに小冊子が送られてきた。第1回世界SF大会(NYCON1)、つまり 47年前(註:現在からなら85年前)のプログラムブック(オフィシャル・スーベニア・ジャーナルとある)現物である。金色の厚紙に、スクリプト風の文字で飾られた表紙。アート紙の本文は、現在でもほとんど変色していない。ちょっとクラシックで、 ちょっと豪華な雰囲気がある。

 記録を捜すと、当時の参加者は200名足らず、これは初期の日本SF大会と変わりのない数字である。世界SF大会が参加者千名の大台を越えるのは、1967年のニューヨーク大会(NYCON3)から。戦争で中断された4年間(1942~45年)を除いても、四半世紀の時間が必要だった。

 まずこんな調子の挨拶文が入る「やあ、みなさん! 世界SF大会にようこそ。もしここで楽しめなかったとしたら、それは、 あなたにも責任があるんです……」。自己責任とかではなく、みんなで盛り上げましょうという意味だろう。

 広告も文字だけのものが多い(活版印刷の図版は高価だった)。スペ―スをたっぷりとった本文はとてもシンプルだ。同じ年にアシモフ、ハインライン、ライバー、スタージョンらが続々デビューしているが、当時はまだ無名だった。この冊子に近影のある作家では、D・H・ケラー註:代表短編「地下室のなか」はここで読める)、オーティス・ クラインマンリー・ウェイド・ウェルマンヘンリー・カットナーらがいた。ほとんどは、もはや歴史の中に埋もれている。

 その一方、 Sciencefictionistsとある参加者名簿(下図)を拡大してみれば、翌月19歳になるブラッドベリや、32歳のハインラインなどの名前が見つかる。一覧にはないが19歳のアシモフも当日参加していた。『アシモフ自伝』などを読むと、大会のあった1930年代の雰囲気がよく分かる。

 1日目(日曜日)のプログラムは、公式には午後2時から始まっている。キャンベル(アスタウンディング誌編集長)、パウル(画家), モスコウィッツらの講演が中心。まだパネルディスカッションは、一般的ではないのだろう。サイレント映画「メトロポリス」(1926)の上映もある。(ちなみにアシモフは、映画はひどかったと感想を述べている)。夕食をはさんで夜10時まで一応のプログラムは組まれている。アメリカの大会は、第1回からホテルでの合宿形式だった。時間的にエンドレスなのである。日曜日から始まっているのは、3日目に独立記念日の休日があるからだ。

 2日目(月曜)もほとんど同じ形式で進む。 開始2時は1日目と変わりない。2日目は、深夜まで続く。顔ぶれに新味はないけれど、 SFの夏の熱気が単調さを補っていたのだろう。大会参加者の多くが、その後プロになっていった。同様の状況が日本でもあった。草創期の夏は、あらゆる世界あらゆる年代を越えて存在する。祝辞にもあるが、世界SF大会はアメリカから外に出て、イギリス、西ドイツ、カナダ、オーストラリアなどで開かれた。日本人の参加者も最近は増えた。逆に今年のように、海外参加者が多数日本を訪れるようにもなった(註:この年、約40名がツアーを組んで来日した)。

 ワールドコンを名乗る以上、やがて欧米圏を離れ日本で開かれる日も来ることだろう(註:ようやく日本でワールドコンが開かれたのは2007年のことである。21年後のことだ)。 なお、モスコウィッツは、初期から中期にかけてアメリカSF界で活躍した評論家で『無限の探求者』Explorers of the Infinite (1963)などの著書がある。その一部はSFマガジン1967年5月、9月号に訳載されている(註:1997年に76歳で亡くなっている。第1回大会を主催した当時は19歳のティーンエイジャーだった)。

 さて、第1回世界SF大会の3日目(火曜)には、プログラムが尽きたのか、ふしぎな企画が記されている。SFプロフェッショナルズ対SFファンズ、SFソフトボール対抗戦。その勝敗は明らかではない。