ジーン・シェパード(1921~99)の初単行本となる。原著2冊から抜粋した日本オリジナル版。著者はラジオのパーソナリティや映画 A Christmas Story(1983)の原作者/脚本家としてアメリカでは有名なマルチタレントで、一方、スリック雑誌に掲載されるユーモア小説の書き手でも知られていた。本書に含まれる「スカット・ファーカスと魔性のマライア」は、ソフトなユーモア小説を好んだ浅倉久志の訳になる(もともと、新版《異色作家短篇集》の若島正編『狼の一族』に収録)。
雪の中の決闘あるいはレッド・ライダーがクリーヴランド・ストリート・キッドをやっつける(1965)広告に載ったBB銃をクリスマスプレゼントに欲しい小学生の主人公は、あらゆる手段で両親にアピールするが失敗し続ける(映画原作の一部)。
ブライフォーゲル先生とノドジロカッコールドの恐ろしい事件(1966)6年生の国語の授業では、毎週読書感想文を提出しないといけない。題材に困った主人公は、ある日両親の寝室で先生に受けそうな小さな活字の本を見つけ出す。
スカット・ファーカスと魔性のマライア(1967)不良のファーカスのコマは無敵で、誰との勝負でも負けることはなかった。主人公は密かに手に入れたコマで競おうとする。
ジョゼフィン・コズノウスキの薄幸のロマンス(1970)隣家のポーランド人の一家には、同い歳で美人の女の子がいて、なんと主人公をパーティに誘ってくれる。
ダフネ・ビグローとカタツムリがびっしりついた銀ピカ首吊り縄の背筋も凍る物語(1966)憧れの転校生と知り合いになり映画に誘うことに成功したものの、相手は身分違いの富豪の娘で対応の仕方に戸惑うばかり。
ワンダ・ヒッキーの最高にステキな思い出の夜(1969)高校生最後の夏に開かれるダンスパーティこそが、大人への通過儀礼だった。そう思い込む主人公たちだが、パートナーに誰を誘うかが問題になる。
30~60年代頃のインディアナ州北部、製鉄所がある企業城下町ホウマンが舞台(現在ではラストベルトと呼ばれる衰退した地域だ)。煤煙にまみれながらも誰もそんなことは気にせず、多くの工員が活気にあふれた生活を送っていた。主人公は工場労働者家庭の子ども(前半3作では小学生、後半は高校生)。学校は富裕層や移民の子女とも共学で分断はなく、(プロテスタントに対する)カトリックが異文化的に揶揄されるくらいで、将来の希望を疑わせるものは何もない。一人称「わたし」が過去をふりかえる形で語るのは、クリスマスプレゼントや読書感想文、喧嘩ゴマにやきもきする子どもや、女の子で頭がいっぱいの(うぶでまぬけな)高校男子の物語である。
編訳者若島正は、シェパードには言いようのないノスタルジアを抱く、と書く。編訳者はこの時代のアメリカに住んでいない。純粋な読書遍歴に基づく感慨なのだが、黄金期のアメリカTVドラマ(ホームコメディ)などを親しんだ世代ならば、シェパードの庶民的でユーモラスな家族に共感できると思う。もっとも、シェパードはホームドラマを体現した人物ではない。家庭を顧みない人だったらしく、自伝と称する本書でもフィクション=嘘を多数含めた。(人種問題もジェンダー問題も隠された)過去だからこそのユートピア感、幻想味を強く感じさせる。
ところで、シェパードとSFとは関係がある。ラジオ番組中に話した架空の本Frederick R. Ewing 作 I, Libertine,1956(存在しないのに注文が殺到し、ベストセラーになったため急遽出版された) をゴーストライトしたのがシオドア・スタージョン(共著扱い)だったのだ。スタージョンは他にエラリイ・クイーン『盤面の敵』(1963)のゴーストライトもしていて(やむを得なかったのだろうけれど)そこそこは稼げたのかもしれない。
- 『グラックの卵』評者のレビュー