水鏡子「なにぶん「岡本地獄」であるので」『千の夢』解説

以下は『千の夢』巻末に収録した、水鏡子解説を全文掲載したものです。

 著者の第四短編集。「会社」に焦点をあてた十二篇を集めている

 社会人としての経歴は、大学のシステム工学科を卒業後、大手電機メーカーに就職、半導体その他の研究開発にも携わり、三八年間勤続し、二〇一三年度末に六〇歳で定年退職した。二一世紀に入ってからは会社の方もごたごたがあり、現在は海外資本の傘下にある。直接聞いたわけではないが、したくもない得難い体験をいろいろ経てきたのではないか大変だったのではないかなど本書に漂う鬱屈を味わいながら思ったりする。今の日本は国の要請で定年退職後一年ごとの継続で六五歳までの五年間、再雇用の可能な仕組みになっているのだが、二年未満で再雇用を打ち切り、創作の道に踏み入る。

 六〇の手すさびというわけである。

筆者も同類ですが、最近は本業をリタイアした自称作家が急増しているそうです。新人賞応募などがあると、自伝まがいのフォーミュラ・フィクション(ある種の願望充足小説)を書く老年応募者が殺到して、増えすぎたシカやイノシシなみの害獣扱いになっているとか。駆除されないまでも、有力な若い作家がたくさん出てくる中、受賞できる確率はとても低いでしょう。将来性がない、というか、そもそも活動可能な賞味期間・作家余命が短かすぎるからです

自身による『機械の精神分析医』のプロモーション

 たんたんと無表情で毒を吐くのは昔からである。別に年を食って偏屈狷介になったわけではない。

 とはいえこの手すさびが尋常ではない。長年ひとつのジャンルに親しんだ人であるなら四、五篇の短編作品を捻り出すのは、それなりにできなくはない。「小説家になろう」にあるように、だらだらひとつらなりの話を書き綴るのはたぶんそれよりもっと楽。ほどほどに語り続ける才があれば、設定や構想の不備は後付けで輔弼していくことが可能であるから。

 しかしながら安定した商業出版レベルのクォリティで数十篇の短篇を書き続けるとなるとプロの作家であってもどれくらいの人間に可能であることか。大野万紀主宰のWEBマガジンTHATTA ONLINE誌上においてほぼ毎号、年十作のペースで作品の発表を継続し、現在までの総数は六〇篇に及んでいる。

 二〇一九年七月に第一短篇集『機械の精神分析医』を刊行したのを皮切りに、半年単位でテーマごとにまとめ、作品集を刊行している。現在までの収録作品総数が四〇篇。今後も年十篇の発表が続くものと仮定して、残り四冊の刊行が待ち構えている。

 六〇の手すさびと言ったが、元々が創作系の人間で、ファン活動の始まりは高校時代のショートショートの投稿である。

 MBSラジオで深夜の一時半から五時まで二年余り放送されていた「チャチャヤング」という番組で、故眉村卓氏が木曜日のパーソナリティを務め、その中でリスナーからの投稿を受け付け朗読されていたもので、「四当五落(五時間寝ると受験で受かれない)」といった言葉が普通に使われ、深夜ラジオ放送が共有文化だった時代である。はっきり言ってラジオを聞きかじっている時間はまるで勉強は身につかなかった。当時の関西の受験世代のSFファンは必死になって眉村氏を聴いていた。かくいうぼくもそのひとりであり、投稿もじつは何度かしている。この番組でしか流されなかった「スラリコ・スラリリ」という曲のメロディはいまだに耳にこびりついている。

 番組の終了に合わせて、七二年九月に優秀作を集めた『チャチャ・ヤング=ショート・ショート』が講談社から刊行されている。メンバーは、その後も眉村氏も囲んで(何年かの空白期間はあるものの)現在に至るまで親交を絶やさずそれぞれに創作中心の活動を続けている。

 ただ、著者については、進学したうちの大学サークルが海外SF指向で翻訳やレビューを中心に、活動を商業誌まで拡大していくなかで中心的な役割を担っていった関係もあり、創作活動は余技的にとどまり、活動はもっぱらレビュー中心にシフトしていった。

 レビューの対象作品は、五〇年代SFとかハードSFとか冒険SFとか会員各自で大まかに棲み分けがなされ、そうしたなかで著者の守備域は〈新しい波〉や主流文学系が中心となり、商業誌での「SFチェックリスト」の分担系レビュー(その月、刊行されたすべてのSF作品を数名の人間が分担してレビューする)においてもそうした方向性が引き継がれていった。

 読むことや書くことは、読みながら書きながら、煮詰まったりときほぐれていったりするものだというのが、僕自身が読んだ作家や書いた自分から導き出した実感なのだが、著者の文筆活動には、そんな陥穽を避け、持続していくことをなにより重視していると思える一面がある。なにか決まった製造工程に則って、きちんとした品質管理のもと、均質な生産物を送り出し続ける。均一ではなく均質である。そんな印象があるのだ。この数年の毎月生産される短篇の五年前も最近作も変わらぬ安定感から生まれた印象であるのだけれど、そんな持続と品質維持への意思は、翻るに過去半世紀に及ぶレビュー活動の中から生じたものであるかもしれない。

 創作活動に軸足を残しながら、SF及び周辺作品二千冊あまりの内容を言葉にしてきて半世紀、その中で蓄えられたSF知識、小説作法、SFファン活動や社会人生活のなかでの体験とその渦中での様々な思い、それらを積み重ね六〇代という人生の折り返し点で培ってきた個人的及び俯瞰的な世界と制度と将来への知見、そうした公的私的な景観を、品質管理を施した基本四〇枚前後のSF小説の枠組みに落とし込んでいくというのが現在行い続けている著者の作業であるのだと思う。

 意外であったのは、SFの最先端や周辺文学を読み込んでいるはずの著者であるのに、落とし込む先の小説形態がノスタルジックなまでに第一世代のころのSFの骨組みに近しい印象があること。はっきり言ってしまうと、眉村さんの初期作品群を彷彿させる。

 私的な心情や思いついたアイデアを小説に落とし込む手つきがすごく似通っている。テーマが重なるということもある。眉村氏との長い親交が影響を与えているのは間違いないのかもしれない。けれどもそれなら中期後期の氏の作品であってもいい。

 多感な高校生時代、なりたてのSFファンであった少年が最初に出会い、親身になってもらった作家の当時の作品群が、強烈に、小説作法として著者の心中に刻印されているのでないか。

 「インサイダー文学論」という眉村氏の提唱がある。サラリーマン、というより会社や社会制度の有り方をを知らずに文学は書けない。組織の一部となりながら、埋没せず、自分であることを捨てない生き方。そうしたものを組織や体制に組み込まれている人々に届ける努力をしなければ世の中に訴える力を持つことはできない。そんな趣旨の発言で、当時仲間のSF作家たちから反発を受けていた。社会学科卒業のぼくからするとすごくまともな意見であると思うのだが。

 主張の実践意図をもって書き上られた長編にはあまり感心しなかった。むしろ中間管理職的な立場に置かれてしまった主人公が投げ出さず、悲哀と諦観を交えながら事案を処理する「クイズマン」のような作品こそが作者の主張に沿っていると思っている。

 著者の第一短編集『機械の精神分析医』の前半は、AIの不調の原因を解決していく主人公による連作だが、その読後感は、アシモフの『われはロボット』のようなパズル性より、クライアントの病理を浮き彫りにする方向に話をまとめる。AIと人間が共存する社会制度のもとでその場その場の調整しかできない橋渡し的職業の悲哀と諦観を描いていく。

 そこに「クイズマン」の印象が重なり、さらには眉村氏初期の多彩な短篇群と、第二、第三短編集『二〇三八年から来た兵士』『猫の王』から共通する手つき、手触りが感じて、ぼくにとって「岡本俊弥作品は眉村卓初期短篇群の多大な影響下にある」という結論になった。

 ただし、それは手つき手触り、様々なアイデア、事象を小説の枠に落とし込む作法が共通しているだけで、展開される世界は天国と地獄くらいに隔たっている。当然眉村天国、岡本地獄である。

 人情味にあふれた眉村氏と異なり、著者は「まるでアンドロイドみたい」と形容される人格容貌だった。高度成長のきざはしにさしかかった六年間のサラリーマン生活、日本の未来が開けていたのが眉村氏の「インサイダー」なら、三八年間働いて、団塊の世代の後塵を拝し、不況下のグローバリズムに翻弄され、老後の展望はというと、ここでも団塊の世代に食い散らされ、さらには国の借金財政、少子高齢化が暗澹たる未来を予見させる現状である。著者の性格からすれば、嬉々として地獄八景を繰り広げるに値する素材が積もりに積もっている。

 「機械と人」「異世界」「獣性」と過去の短篇集もそれぞれテーマ設定がなされていたが、「機械と人」をテーマとした第一短篇集こそ同じ主人公による連作もあって、それなりのまとまりがあったが、第二、第三短篇集はテーマがあいまいすぎてテーマ短篇「集」としてはまとまりに欠けるきらいがあった。

 ところが本書はどうだろう。研究開発だったり、テレワークだったり、セキュリティ、あるいはグローバリズムだったり、内容は多岐に渡り、作品間のつながりもない、発表時期もばらばらである。にもかかわらず異様なまでに「集」として収束し、まとまりがある。著者の「会社」に対するいろいろな思いのたけが重くのしかかってくるようで、個人的には四冊の中でいちばん高く評価している。

 のしかかられてつらくなる人もいるかもしれないが。なにぶん「岡本地獄」であるので。

大野万紀「デジタルな時代のランドスケープ」『猫の王』解説

  以下は『猫の王』巻末に収録した、大野万紀解説を全文掲載したものです。

 本書は岡本俊弥の、Amazon(オンデマンド)、kindleで出版される3冊目の短編集である。1998年からインターネットで公開している大野万紀のオンライン・ファンジン「THATTA ONLINE」に掲載された作品の中から、2016年から2019年の9編が収録されている。

 ぼく、大野万紀と岡本俊弥のつき合いはもう半世紀近くになる。同じ大学のSF研に、彼は一年後輩として入って来たのだ。
 当初から彼は目立っていた。眼光鋭く、歯に衣を着せぬ物言いをし、実は「寺方民倶」のペンネーム(というかラジオネーム?)でMBSの深夜放送、眉村卓さんがパーソナリティをやっていた〈チャチャヤング〉にショートショートを投稿していたとカミングアウトする。みんな素人ばかりのSF研で、おお、プロだ(プロじゃないけど)と注目を浴びることになる。
 どちらかといえば翻訳や評論が主流だったSF研の中で、本格的な創作に軸足のある彼は異色であり、貴重な才能だったのだ。
 その年の大学祭でうちのSF研も何かやろうということになり、みんなで古本を売ったりしたのだが、彼は一人でタロット占いを始めた。聞くところによるとその占いは情け容赦なく、占ってもらった女子大生がみんな動揺しながら半泣きになって出てきたという。
 SF研で作る会誌は、まだ謄写版印刷の時代で、版下は手書きだった。会員が分担してガリ切りをやっていたのだが、彼の担当部分は正直いってかなりのくせ字であり、読むのに苦労した。タイプオフセット印刷の時代になって、彼が評価の高い多くのファンジンを作り出していったのはそれへの反動だったのかも知れない。
 筒井康隆さんの「ネオNULL」創刊に関わり、その編集をまかされたり、SF大会のスタッフをしたり、そしてSF雑誌に書評を執筆したりするようになったりと、その後の彼の活躍についてはインターネットに公開されているので、そちらを参照されたい

 彼の作品の特色は、その静かでほの暗い色調と、工学部出身で大手電機メーカーの研究所に勤めていた経験を生かした、科学的・技術的、あるいは職業的にリアルで確かな描写、そしてそれが突然、あり得ないような異界へと転調していくところにあるだろう。そしてちょうどグレッグ・イーガンやテッド・チャンなど、現代の最先端の作家の作品に見られるように、現実と仮想、人間の意識とその見る世界とが、相互にずれ合い、重なり合い、干渉し合う、そんなデジタルな時代のランドスケープを描いていくところにあるといえるだろう。

 第1短篇集『機械の精神分析医』はそんな作風が良く現れた作品集だった。たとえシンギュラリティは起こらなくても、人工知能(AI)はわれわれの生活の隅々にまで入り込んでくる。そんな近未来社会の「日常」はどんな姿をしているのだろうか。リアルに構築されたハードSF的な未来像から、ふいに幻想的ともいえるぞっとするような情景が浮かび上がってくる。

 第2短篇集『二〇三八年から来た兵士』は「異世界」がテーマの作品集であり、過去のSF作品を思わせるタイトルが示すように、作者のSFファンとしてのキャリアが前面に出ている。そこでは並行世界や改変歴史、破滅後の世界など、SFでおなじみのテーマが扱われているが、そんな世界に放り込まれた登場人物たちの運命はやはり重く、暗いものとなる。

 本書『猫の王』ではそれらに加え、人間の内部に潜む「獣性」にも焦点が当てられている。それはデジタルで論理的な「意識」の背後にある、生き物としてのベースラインであり、言語化されない叫び声なのである。

 収録作について。

「猫の王」THATTA ONLINE 2016年7月号
 猫の集会を見たことがあるだろうか。ぼくは会社からの帰宅途中、何度か見たことがある。猫たちは何をするでもなく、ただ集まってじっと佇んでいる。主人公は公園で拾った猫の子を飼うことになるのだが、その子こそ「猫の王」だったのだろうか……。
 日常の中の「少し不思議」を描きつつ、遙か遠い過去から連なる人間と猫の関係性を幻視するシーンが美しい。

「円周率」THATTA ONLINE 2017年8月号
 ハードディスクがSSDになり、さらにDNAメモリに置き換わっていく未来。主人公は臨床試験に応募し、DNAメモリのチップを体内に注入される。それにはデータとして円周率が記録されているという話だったのだが……。
 アイデアこそSFでありがちなものだが、この作品のリアリティには作者の専門分野での知識や経験が反映されているのではないだろうか。

「狩り」THATTA ONLINE 2016年11月号
 小学四年生の主人公は彼が心を惹かれる同級生の女の子に白い尻尾があるのを知る。彼にしか見えない尻尾だ。そして中学生のときも、高校生のときも、彼は尻尾のある女性(たち?)に出会い、心を惑わされ、翻弄される。だがそれはどこまでが現実だったのか……。
 人の中にある獣。人の意識が見る世界が現実とは限らないのであれば、その中にいる獣の見る世界はどうなのだろう。

「血の味」THATTA ONLINE 2017年6月号
 遺伝子操作により作られた植物性の人工肉。人口増加により食糧問題が重要になった世界で、その普及は何をもたらすのか……。
 味覚、とりわけ肉の旨みなどというものは、言語的ではなくまさに獣の感性によって判断されるものなのだろう。最新のバイオ技術によりそれが再現されるとき、パラメータからはみ出した部分に何があるのか。作者は仕事でインドに行っていたこともあり、そこでの現実もこの作品には取り込まれているようである。またこれは静かな「復讐」の物語でもある。

「匣」THATTA ONLINE 2017年5月号
 古い住宅地に建つ窓の無い匣のような建物。そこは年老いたコレクターが数え切れないほどの本を集めた書庫だった。役所から来た二人はその迷宮にさ迷い込んでいく……。
 ホラーめいているが、この建物は実在する(ただし現実には地下階はなく、作品はあくまでフィクションだが)。そしてこのコレクターもまた……。それを見てみたいという奇特な方は、こちらを参照のこと。

「決定論」THATTA ONLINE 2018年3月号
 過去から未来へ流れる時間線は一本だけで、その中で起こる全ての事象はあらかじめ決定している。そんな決定論の世界で、人間の自意識は脳内へ〈宇宙線――天の声〉が届くことによって生じるという実験が行われた。主人公はその実験の被験者となるが……。
 あたかもテッド・チャンを思い起こすような作品だが、主人公にとって自由意志の問題は最初の方であっさりと決着しており、むしろこの時間線がどのようにして確定しているのかを知ることが重要となる。もちろん現実の物理学とは異なるが、その思考実験は大変面白い。

「罠」THATTA ONLINE 2018年8月号(「トラップ」を改題)
 家を出ていつもの駅に向かう途中、彼女は見えない壁に阻まれる。彼女以外の誰にも存在しない壁。だがどうしても通り抜けることができない。彼女は自宅から半径一キロの範囲に閉じ込められてしまったのだ。罠。だがその壁に一つの扉があった。その向こうで彼女が知ったのは……。
 アイデアよりもストーリーを重視したという作品である。ごく普通の日常生活が異質なものによって変容する。後半はカート・ヴォネガット作品へのオマージュとなっているが、より現代SF的な味付けがされている。

「時の養成所」THATTA ONLINE 2019年12月号
 遥か遠い未来。〈養成所〉では正しい時間線の乱れを正すための官吏が養成されている。教官に指導され、過去へと向かった一人の官吏は、自分の行っている行為に疑問をいだく……。
 眉村卓「養成所教官」へのオマージュ作品である。SFのテーマとしてはタイムパトロールものといえるが、だが彼らが守ろうとしている時間線とは……。養成所の荒涼とした風景が象徴するように、物語には苦い味わいがある。

「死の遊戯」THATTA ONLINE 2019年5月号・6月号(「闘技場」を改題)
 仮想空間で、機械を操り、互いに破壊し合う戦争ゲーム。そのプレイヤーとしてスカウトされたプロのゲームアスリートだった男は、ゲーム内であり得ないものを見る……。
 原稿用紙にして百枚以上、本書で一番長い作品であり、また非常に複雑な構成をもった作品である。仮想世界の中に構築された仮想世界、その仮想世界の時間軸が交錯し、さらにAIのバグが互いの整合性を破壊する。そしてこの作品はまた、《機械の精神分析医》の一編となっているのだ。

大森望『21世紀SF1000 PART2 』早川書房

カバーデザイン:早川書房デザイン室

 本書は、本の雑誌に毎月連載されている「新刊めったくたガイド」の本文(2011年2月号~2020年2月号)と、年ごとの概要及び「SFが読みたい!」掲載のベスト投票結果を合わせたものである。別途出た『2010年代SF傑作選』をデータ面で補完する内容になっている。無印(PART1)が出たのは2011年12月なので、8年2か月ぶりの続刊。

 2011年は東日本大震災、小松左京が亡くなった年になる。バチガルピ『ねじまき少女』、「五色の舟」を含む津原泰水『11 eleven』が出た。2012年は円城塔が『道化師の蝶』で芥川賞を受賞、『屍者の帝国』も刊行。ハヤカワSFシリーズも復活して、SFの夏(東京新聞記事)となる。2013年は酉島伝法『皆勤の徒』が出る。この年は日本SF作家クラブ50周年となり、関連行事が開かれたり記念書籍も出た。2014年はSFマガジンの700号と特集が設けられたが、ミステリ・マガジンとともに翌年以降の隔月刊化が決定。2015年はケン・リュウ『紙の動物園』がブームを呼び、伊藤計劃作品のアニメ化がらみで特集、書籍も出た。2016年はアルファ碁が人間に勝った年、ピーター・トライアス《ユナイテッド・ステーツ・オブ・ジャパン》が話題になった。2017年はSF大賞、山本周五郎賞などを得た小川哲『ゲームの王国』が登場、ついに「伊藤計劃以後」の時代は終わったとされる。2018年は円城塔『文字渦』山尾悠子『飛ぶ孔雀』飛浩隆『零號琴』が出て、ハーラン・エリスンやル・ヴィンの死が報じられた。2019年は夏に出た劉慈欣『三体』が空前のブーム、中国SFに関心が集まり、小川一水《天冥の標》が完結した。その一方、眉村卓、横田順彌らの訃報を聞くことになる。

 10年代は小松、眉村といった第1世代作家の物故、SFマガジンが隔月化したという後退はあったものの、創元SF短編賞、ハヤカワSFコンテスト、星新一賞など公募型新人賞が開始され、歴史ある文学賞を受賞するような大型新人が数多くデビューした。文学とSFとの差異が無くなってきたのだ。また中国SFなど、英米に偏る翻訳出版にも変化が見えてきた。そういう俯瞰的な流れが本書を読むことで分かる。

 さて、本書をデータ面で見るとどうなるか。大森望の「新刊めったくたガイド」は採点があるのが特徴である。星5つを満点として10段階で評価するのだが、星1.5未満は記載がないので実質8段階とみなせる。自著(編著、訳書を含む)や評論書は採点に含めない原則があり、全715冊が対象になっている。円グラフはその内訳を表している。著者の意図的には星5~4.5が必読(19%)、星4が推奨(30%)、星3.5は読む価値あり(31%)、星3以下では水準作~それ未満(20%)という分類だろう。全SF網羅といってもまったくダメな作品は選ばれないだろうから、採点の分布は上位側に偏っており正規分布にはならない(下図参照) 。

 棒グラフは年別の評価のばらつきを表している。年によって対象となる本は62(2016年)~93冊(2013年)とばらつくが、標準偏差を取ると各採点とも年ごとにおおよそ2割程度のばらつき範囲に収まる。つまり、変動が2割以内であれば特異ではないことになる。その尺度で見る限り、10年代のどの年にも大きな差異はないだろう。ただ星5と4.5、星4と3.5の間には逆相関があり、例えば2018年のように4が多い年は3.5が少なく、19年は逆になっている。これを作品の揺らぎとみなすか、評価の揺らぎとみなすかは微妙なところだろう。