エイドリアン・チャイコフスキー『時の子供たち(上下)』竹書房

Children of Time,2015(内田昌之訳)

デザイン:坂野公一(well design)

 著者は1972年生まれの英国作家。2008年のデビュー後は、主にファンタジイを書いてきた。本書は初のSF作品だが、2016年のアーサー・C・クラーク賞を受賞するなど高い評価を得たものだ。好評を受けて、すでに続刊の Children of Ruin が2019年に出ている(これは同年の英国SF協会賞を受賞している)。

 地球は滅亡の危機にある、そう考えた人類は複数の異星をテラフォーミングする計画を立てる。完成までには時間がかかるため、人を送り込むのではなく、動物と知性化を促進するナノウィルスをセットで投入するのだ。だが、非人類を使う計画に異議を唱える過激派により実験ステーションは損傷を受ける。統括する科学者は軌道上で緊急避難的な冷凍睡眠に入り、地上では予期しない動物、蜘蛛たちによる文明が育まれようとしていた。

 物語は2つの視点で語られる。1つは、原始的な部族社会から、やがて統一された文明国家へと進化していく蜘蛛たちの視点。言葉や文字ではなく、知識を遺伝子に直接書き込むことで伝承するため、同じ知識を持つ子孫は(世襲のように)同じ名前を持っている。もう1つは、滅んだ文明から脱出した世代宇宙船の人類の一団である。二千年に及ぶ恒星間飛行を冷凍睡眠で切り抜ける。登場人物は断続的に冷凍睡眠を繰り返しているので、二千年+数百年であってもほぼ同じメンバーが支配層になる。ピーター・ワッツ『6600万年の革命』でも登場したが、時間を超越するためSFでは時々使われる仕掛けだ。蜘蛛たちの進化は『竜の卵』的でもある

 お話は、蜘蛛社会と宇宙船の人間という二重の時間の流れで構成されている。人間社会は旧テクノロジーを維持する単独の宇宙船だけという設定なので、急速に進化する蜘蛛族に対して絶対的な優位性はない。登場人物は、(世襲とはいえ)前向きに生きる蜘蛛に対して、(いくら冷凍睡眠しても)次第に老いていく人間たち。となると、非人間であっても(擬人化されていることもあり)前者の方が魅力的だろう。著者は意図的にそうしていると思われる。世代宇宙船やテラフォーミングといった古典的なアイデアに、性差別といった現代的要素を交えたことで、かえって新鮮さを感じる作品になっている。

 本書に出てくる蜘蛛は、日本の家の中でもよく見かけるハエトリグモらしい。手足が短くごく小さなクモ(イエバエと同サイズくらい)なのだが、しぐさに何となく愛嬌がある。続編はタコらしい。それにしても英米人はいつからクモやタコの愛好家になったのだろう。

津田文夫「サタイアや不気味な風景を感じさせることは短編SFの得意とするところなのである」『豚の絶滅と復活について』解説

 以下は『豚の絶滅と復活について』巻末に収録した、津田文夫解説を全文掲載したものです。

 本書『豚の絶滅と復活について』は著者岡本俊弥のSF短編集として五冊目にあたる。収録作品はすべて大野万紀主催THATTA ONLINE初出。ただし改稿改題されているものがある。

 最初の短編集『機械の精神分析医』が出たのが、二〇一九年七月(奥付)なので、二年と二ヶ月で第五短編集発刊の運びとなったわけである。ということは、このペースで行けば五年足らずで一〇冊、一〇年後には二〇冊もの短編集が出ているという計算になる。そんなわけないだろ、とツッコまれるかも知れないが、いやこの著者なら可能性は充分と思わせるところが、岡本俊弥という作家の恐るべきところなのである。それは、先に出た著者の第四短編集『千の夢』の解説で、水鏡子が述べているように

六〇代という人生の折り返し点で培ってきた個人的及び俯瞰的な世界と制度と将来への知見、そうした公的私的な景観を、品質管理を施した基本四〇枚前後のSF小説の枠組みに落とし込んでいく

ことができる作家だから。とはいえ今後のことは、著者/神のみぞ知る、なのだけど。

 さて、著者の作風については、第三短編集『猫の王』の大野万紀氏の解説に

作品の特色は、その静かでほの暗い色調と、工学部出身で大手電機メーカーに勤めていた経験を生かした、科学的・技術的、あるいは職業的にリアルで確かな描写、そしてそれが突然、あり得ないような異界へと転調していくところにあるだろう

とあり、すでに本書収録の作品群を読んだ方にはとても納得しやすいのではないかと思うのだけれど、もちろんそれだけが岡本作品の特徴ではない。もっとも水鏡子解説のように

意外であったのは、SFの最先端や周辺文学を読み込んでいるはずの著者であるのに、落とし込む先の小説形態がノスタルジックなまでに第一世代のころのSFの骨組みに近しい印象があること。はっきり言ってしまうと、眉村さんの初期作品群を彷彿とさせる

といわれると、大野解説との落差があまりにも大きく、ちょっとあたまのなかに「?」が浮かんでくるが、これは水鏡子先生お得意の超絶SF論ワザなのであまり気にしない方がいいでしょう。

 ここで三番目に登場した解説者(筆者のこと)は、作家岡本俊弥の作風をどう受け止めているかを書く前に、著者との関わりを書いておこう。

 第三及び第四短編集の解説者は、それぞれ著者の出身大学のSF研究会の先輩方で、著者とはそれ以来ほぼ半世紀近いあいだ定期的に集まってさまざまな話をしてきた人たちである。

 一方、筆者が京都の私立大学に入ったのは一九七五年で、当然のごとくSF研に入りその夏初めて第一四回日本SF大会(筒井康隆/ネオ・ヌル主催のSHINCON)にSF研の仲間とともに参加した。このSF大会で水鏡子、大野万紀、著者の三氏は筒井康隆が発行していたファンジン『ネオ・ヌル』関係者(著者は編集長)でもあり大会スタッフとして参加していたのだが、当時はまったく三氏とは面識がなかった。しかしわがSF研メンバーとして筆者は珍しくペイパーバックでSFを読むタイプだったことで、熱心に英米SFを読んでいる人たちが毎週日曜日に集まる大阪の喫茶店へ、先輩が連れて行ってくれたのである。そこで初めて著者や大野万紀や水鏡子と知り合ったのだった。当時この集まりには多いときで十数人が参加していた。これが後に関西海外SF研究会(KSFA)となる。新参の筆者は当然集まりの中で若年だったが、最年長者でも三〇歳そこそこだったことを思うとまだSFファン層自体が若かった時代といえる。まあ筆者は最若年とはいえ浪人していたので、水鏡子、大野万紀、著者、筆者はそれぞれが一歳違いである。

 大学を終えて田舎に帰ったあとも、KSFAの活動やイベントに参加していたこともあり、また二一世紀に入ってからは大野万紀主催のTHATTA ONLINEにも読書感想文もどきを定期的に投稿することで、やはり四半世紀近くの付き合いが続いている。ただし、家族が増えて以来は年一、二回集まりに顔を出せればいいような具合である。すなわち、前二作の解説者たちとちがって筆者には著者に関する個人的な情報があまりなく、作家としての著者に関しては一読者に近い立場にあるということなる。

 ここで著者の作風の話にもどると、本書をふくめ五冊の短編集に収録された四二編とその四二編の原型を含め六〇編以上の作品を読んできて、まず感じるのは著者の文体の冷静さであろう。著者の作品は基本的に科学技術にかかわってストーリーが構成されるいわゆるSFの最たるものであるが、その叙述法は科学技術/SF的アイデアの核はさまざまなものがありながら、ストーリーの語り口に一定の冷静さが常にある。それは最終的に物語の話者が狂気に侵されるような作品でも変わらない。大野万紀解説いうところの「ほの暗い色調」である。それはまた水鏡子解説にある「この数年の毎月生産される短編のその静かで五年前も最近作も変わらぬ安定感」をもたらすというのと同じかもしれない。

 そして短編SFとしてその結末がもたらす印象は、サタイア/風刺的なものと不気味なもの/ホラーへの傾斜であろう。もちろんそれだけでは語れない作品も多数あるが、サタイアや不気味な風景を感じさせることは短編SFの得意とするところなのである。著者の短編としてはおそらく一番多いと思われるこのタイプの作品が、冷静な語り口と相まって、水鏡子解説いうところの「岡本地獄」の印象を引きだすのだろう。

 しかしなんと云っても岡本SF作品の最大の特徴は工学部出身者で長年電機メーカーの研究所に籍を置いたその経歴からうかがえるとおり、バリバリの理工学系SFになっていることだ。これは根っからの文系SF読みである筆者がもっとも強く感じる岡本SFのトレードマークなのである。そのことは本書収録作の印象を並べてみて考えてみよう。

 冒頭の「倫理委員会 Ethics Committee」は、最初に出てくるカタカナで呼ばれる四人の登場人物がネットメディアのフェイク度を議論する場面から「倫理委員会」の意味は了解され、その登場人物が分野別に特化したAIであること、というところまではなんの違和感もなく読めてしまうが、人間である語り手がAIの議事録を書いているというところからこの作品のSF性が生じる。AIたちの議論を書き残せるとはどういうことかに思いを巡らせば、そこに著者が半世紀近く前の大学時代からコンピュータを操っていた経験から、人間とAIの違い/落差を読み手に納得させる小説のアイデアが立ち上がる。人間とAIの線引きの鮮やかさに著者の理工学系的思考が見える。

 続く「ミシン Sewing Machine」は、「ミシンが頭に被さり、針を打つ」というホラータッチの一文から始まるけれど、あとの文章を読めば、これは最先端技術による極小の針と糸を使った手術のようだと分かる。物語は「コロナ禍」のソーシャル・ディスタンス/テレワーク化が極限まで進んだ社会で生じる「事故」の激増とその解決法が主人公によってもたらされるまでの経緯が語られる。ここでは他人に認知されない特性を持つ主人公が駆使する最先端脳科学テクノロジーによってある種の解決がもたらされる。この作品の語り口がいわゆる「ほの暗い色調」であり「岡本地獄」であり、筆者が岡本作品の特徴と思っている「遅延性ホラー」の典型だと思われる。頭に無数の針が刺さったイメージはやっぱりホラーだし、「ミシン」というと家庭用ミシンしか思い浮かばない筆者のような読者には不気味なものに感じられる。

「うそつき Fibber」もまたAIが出てくるが、ここでは一般家庭でもAIが日常化した社会の陥穽(最近見ませんね、こんな文字)を描いたサタイアでありホラーである。開発コストを意識しながら、AI技術開発を人間側の心地よさに合わせて進めることに対する著者の視点が実体験からもたらされているかのように見える。

「フィラー Filler」は、デジタル技術でよみがえらせた物故俳優ばかりを使ったドラマが作られるようになった時代だが、役を演じるという行為はAI(作中では機械)だけではどうしてもうまくいかない。修正には膨大なコストかかるので、その修正を請け負うのが機械エンジニア出身の語り手だ。もうこの設定だけで理工学系SFになっている。しかし、語り手の物語は役を演じる行為のオリジナリティという意外な視点で進んでいく。ここでも人間と機械の線引きの鮮やかさに理工学系的思考を感じる。

「自称作家 Call Yourself a Writer」は、文学部出身ではないが作家志望というか実際に会社勤めをしながら何十年も文芸作品を書いている主人公が、作品を広く読者にアピールできるという電子出版サービスからのメールを受け取るところから始まる。実際契約してみると、主人公の作品が売れ始めるのだが……。ネットメディアによく話題になる人為的な売れ筋の話を著者ならではの着実な技術的背景とともに進めていく。これは悲哀の色が強いサタイアでホラー色はない……でもないか。

「円環 Wheel」は、著者としてはめずらしいアイデア一本勝負な作品。ヒトは老いとともに赤子に返って行く、というのはよくある話で、わが老親を見ていると実感が湧いてくるのだけれど、著者は表現に工夫を加えなおかつ表題のとおり実現してみせる。最後の一行がまた著者にはめずらしく叙情/感傷を湛えている。

「豚の絶滅と復活について On the Extinction and Resurrection of pigs」は本書表題作。このタイトルからオールドSFファンなら誰でも五〇年代アメリカSF短編のレックス・ジャトコ作「豚の飼育と交配について」を思い浮かべる。これは、ある惑星で変異ウィルスのため人口が激減、男は二人しか残っていない、という設定のSFで、男の片方が養豚場の経営者ということで、男たちの立場は……、というもの。この設定はスタンダードになっていて最近では筒井康隆が短編集『世界はゴ冗談』収録の「不在」で部分的に使っている。と、ここまで引っ張ってきてなんなんだといわれそうだけど、この表題作と「豚の飼育と交配について」が似ているのはタイトルだけで、こちらでは本当に変異ウィルスでリアルに豚が絶滅して復活する話である。研究所の男女研究員のユーモラスな会話のなかで立ち上がるこの「リアル」というところに理工学系の話づくりの確かさが感じられる。しかもこれは著者の作品としては思わずニヤリとさせてくれる珍しいコメディタッチが成功している一品。でもやっぱり結末はサタイアでホラーだと思う。

「チャーム Charm」は、「いじめ」を受けている子供が話から始まるが、その途中でいじめっ子たちは気まずそうに立ち去る、チャームが発現したからだ……。このプロローグが主人公の体験であり、主人公のチャームへのこだわりは、彼を脳科学に向かわせ国立の研究所で「感情の脳内マップ」を研究するまでになった……。まさに理工学系作家岡本俊弥の典型的な設定といえる作品で、これがSFなのは表題となっている「チャーム」がいかにもありそうな仮説に見えて、その上で物語の結末を支えるアイデアにもなっているからだ。われわれが若い頃の本格SFの定義に「SF的設定を抜くと物語が成立しないような作品」というのがあったけれど、これは岡本作品の多くに見られる。それにしてもこの結末がまた不気味な風景で作者の持ち味がよく出ている。

「見知らぬ顔 An Unknown Face」は、入国審査が高速の自動化ゲートだけになってしまった時代に、ある国の男が観光目的で入国しようとして機械ゲートに虚偽判定されたエピソードから始まる。筆者は著者が「機械」と名付けているものがAIに思えるのだけれど、常に「機械」と呼んでいるところに長年の理工学系技術研究を実践してきた著者のこだわりがあるのだろう。この物語は「ぼく」が機械ゲートの判定は何を意味していたかを依頼人の弁護士に報告する形になっている。すなわちこれは「機械の精神分析医」シリーズの一編なのだ。ということで岡本作品中最も多く書かれているシリーズの雰囲気がここでも味わえる。多分、「機械の精神分析医」である「ぼく」が著者にとっていちばん自分を仮構しやすい人物なのだろう。

「ブリーダー Breeder」は、二度目の定年を迎えた主人公がこれといった趣味もないのでよくある自宅のDIYを始めるが、それに飽きたころ「ブリーダー募集」のチラシに興味を持つ。この募集元が「株式会社 次世代知能技術研究所 NTL」というところが、やっぱり著者のSFたるところ。主人公が任された「ブリーダー」の相手は「会話するアプリ」で、主人公は画面中の猫アバターを選択し結構熱中するのだが……。ここでもまるでAIのディープ・ラーニングみたいなものを思わせておいて、著者は近未来テクノロジーのSF的ヴィジョンを披露する。これはサタイアでもホラーでもない一作。

 トリは本短編集の中でいちばん長い「秘密都市 The Secret City」。視点人物は会社を早期退職し、家族と別れヤモメ同然の生活をしていたが、ある日、以前ライターをしていたころ世話をした若者がいまはネット投稿記事サイトの編集者として取材仕事を依頼してきた。取材先の近くにいるので経費が安く済むと考えたらしい。あまり乗り気ではなかったが引き受けた。そして物語は主人公が書いた取材レポートとして展開する……。これはいわゆる陰謀論/トンデモ系のウラ歴史物で、ソ連崩壊時に多くの核技術者が各国へ離散したという事実を踏まえて、著者の作品としてはかなり異例の大がかりな仕掛けを用いている。さすがに話が大きすぎるのではと思うけれど、著者は最初からウラ事情系ネット投稿サイトの取材記事として予防線を張っている。著者の作品の中でも異色な部類に入ると思う。

 最後に、著者の刊行予告を見たら本短編集のテーマは「お仕事」とのことだった。うーむ、それにふさわしい作品紹介になっているか心許ないが、ここらで〆とさせていただく。

 POD/Kindle版解説ではこの後に「おまけ」が続きます。ここでは割愛しています。

 津田文夫さんは、全国的に有名な某ミュージアムや文化施設の幹部を務めた近代史の専門家です。今回は学生時代からの「一読者に近い立場」から執筆していただきました。

高野史緒『まぜるな危険』早川書房

装幀:早川書房デザイン室

 高野史緒の活動は長編が中心である。中短編も相当量書かれてきたはずなのだが、なかなか書籍にはまとまらなかった。本書は『ヴェネチアの恋人』(2013)に続く、8年ぶりの第2短編集である。帯にはロシア文学とSFのリミックスとあり、表題の「まぜる」もこのリミックスを意味している。本書は、ロシアに関係する著名な文学や歌などと、SFやミステリを「まぜた」作品を集めたものだ。第58回江戸川乱歩賞受賞作『カラマーゾフの妹』(2012)がドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の続編であったように、ロシアに対する造詣の深さが作品の特徴になっている。

 アントンと清姫(2010)ラトヴィアからの短期留学生が帰国する際に、日本の研究所に勤める叔父がつくばで時間改編の実験を行うことを知る。
 百万本の薔薇(2010)ソビエト時代の末頃、薔薇を栽培するグルジアの試験場に赴いた主人公は、関係者の不可解な死に疑問を抱く。
 小ねずみと童貞と復活した女(2015)屍者の使役が当たり前になったロシア帝政末期、スイスの研究所で知能を回復しつつある男は、取り仕切る教授の隠された意図を探るようになる。
 プシホロギーチェスキー・テスト(2019)赤貧の中で金が必要になった主人公は、高利貸しの女から奪い取ろうと考えるが、偶然立ち寄った古本屋で奇妙な冊子を見つける。
 桜の園のリディヤ(2021)列車を降りた主人公は、見知らぬ少女に導かれるまま、桜の木の広がる庭園の奥にある邸宅を訪問する。
 ドグラートフ・マグラノフスキー(書下ろし)記憶を失った主人公が精神病院で目覚める。どうやら重大な事件の真相を知る人間であるらしいが。

 それぞれのベースとなるのは以下の作品/事物である。歌舞伎で有名な「安珍と清姫」(いわゆる娘道成寺)+クレムリンにある巨大な割れ鐘「鐘の皇帝」、ソビエト時代の世界的ヒットソング「百万本の薔薇」、ドストエフスキー『白痴』+ベリヤーエフ『ドウエル教授の首』+伊藤計劃『屍者の帝国』+キイス「アルジャーノンに花束を」+他多数、ドストエフスキー『罪と罰』+江戸川乱歩「心理試験」、チェーホフ『桜の園』+佐々木淳子「リディアの住む時に…」、夢野久作『ドグラ・マグラ』+ドフトエフスキー『悪霊』。各作ごとに著者による解題と参考とした作品が列記されているから、詳細はそちらを読めば分かりやすい。

 著者の推しなのか、ドストエフスキー色を強く感じるが「百万本の薔薇」のようなワンアイデアのものから、「小ねずみと童貞と復活した女」のように過剰にまざりあったものまで、ロシア・ソビエトネタといってもさまざまである。ロシア文学は過去から連綿とした人気があってファンも一定数いる。しかし、SFファンとはほとんど重ならないと思われる。そういうニッチなリミックスがどの程度受け入れられるかだが、本書は原典が未読でも楽しめるように配慮されていて読みやすい。ただし、逆のケースでSF/ミステリの元ネタを知らないと、どこが面白いのか、その意味が分からないかもしれない。