SFと神さまのはざま

 著者がシミルボンに寄稿したコラム(#シミルボン)は、読書案内を意図したものが多め。この記事もSFの代表的テーマを作品に則して紹介したものです。(なるべく)電子書籍で入手可能なものが良い、という当時の編集部方針に配慮した内容になっています。以下本文。

 万物を創造した神さまは実在するのか。そんなことを真剣に悩む人は現代にはいない……とお考えだろうか。けれど、一方で神さまのために殉教する人がいるし、神さまの存在を疑わず、政治や倫理の基準だと考える人もたくさんいる。世界からとどくニュースには、神さまの影響力が顔をのぞかせているわけだ。科学不信があるとはいえ、おそらく物理的に存在しえない神さまが、なぜこんなに支持されているのだろう。

装幀:岩郷重力+T.K

 SFでは神さまのような存在がよく描かれる。アーサー・C・クラークの古典『幼年期の終わり(別題:地球幼年期の終わり)』(1953)では、人類を導く異星人が登場する。圧倒的なテクノロジーを持ち、進化の制御までできるのだから神とみなせる存在だろう。山田正紀『神狩り』(1974)に登場する神は、人類には理解不能の言語を持つ超越者だが、歴史に干渉する悪しき存在でもある。秘密を知った主人公は、神と対決する決意を秘める。そういう神々は人を越えたものでありながら、ある種の不完全さを残している。人間でもいつか同じレベルに手が届くかもしれない。だからこそ、対決を考える余地が生まれるのだ。

カバー装画:松尾たいこ

 人間が神さまになるお話もある。マッドサイエンティストが人工の宇宙を造るエドモンド・ハミルトンの古典「フェッセンデンの宇宙」(1937)(同題の短篇集に収録)や、機本伸司『神様のパズル』(2002)などだ。これらは箱庭のような閉じられた実験室内で、宇宙を物理的に製造する。ここまでのスケールはないが、ロバート・F・ヤング「特別急行がおくれた日」(1977)(短篇集『たんぽぽ娘』に収録)などもよく似た発想で書かれている。人間を神にスケールアップはできないので、逆に創造物を人間よりもはるかに(比喩的にも物理的にも)小さくするという考え方だ。しかし想像するまでもなく、しょせん人間が神なのだから崇高な創造者とはならない。心の弱さや残虐さをむき出しにした結果、宇宙もろとも破滅してしまう。

カバー:小阪淳

 グレッグ・イーガンの「祈りの海」(1998)(短篇集『祈りの海』の表題作)は、必ず奇蹟が体験できる異星の海を描き出す。住民たちは海の中での体験を経て、神の存在を確信する。しかし、科学者の研究により真相が明らかになる。我々が感じとる神というのは、高度な啓示によるものではなく、単なる生理的「現象」に過ぎないのかもしれない。ただ例えそうだとしても、当事者にとって神の実在が感じとれ、神を前提とした生活があるのなら簡単に逃れられはしないだろう。

カバー:岩郷重力 +WONDER WORKZ。

 テッド・チャンに「地獄とは神の不在なり」(2001)(短篇集『あなたの人生の物語』に収録)という作品がある。描かれているのは、キリスト教の天使がほんとうに降臨する世界である。天使の降臨は地上にさまざまな天変地異を引き起こし、罪もない人々が何人も亡くなる。逆に奇蹟が起こり、不治の病が治癒することもある。神は無慈悲な存在で、人の都合にはなんの配慮も払わない。畏怖すべき絶対的な神が存在するのに、人は祈りによって救われるとは限らない。まさに、今現在の現実をデフォルメした世界観だ。

 山本弘は長編『神は沈黙せず』(2003)でこんな物語を語る。主人公は幼いころ両親を災害で失う。それ以来、神の存在や神の意思について強い猜疑心を抱きながら成長する。やがて、フリーライターとなって、神に憑かれた人々の取材をはじめる。さまざまなカルト団体が奉じる神は、何の事実にも基づかない詐欺まがいの存在でしかなかった。しかし、合理的な説明のできない、奇妙な現象が主人公を襲う。やがて、神の実在を印象付ける、驚くべき事件が世界を揺るがす。本書では、UFO・UMA・超能力・超常現象の目撃例=あるがままの事件が膨大に提示される。超常的な現象と神の存在とには、何らかの共通点があるのかもしれない。物語は大ネタの解明で終わるのだが、神に人生を翻弄された人々はある種の諦観にたどり着く。神の定めた運命と、感情を持つ一個人との葛藤の結果ともいえる。

カバー:岩郷重力 +WONDER WORKZ。

 神林長平の長編『膚の下』(2004)では、視点が人類とは異なる。大戦争の結果、荒れ果て修復の目処も立たない地球では、全ての人類を火星に移して冬眠させ、地球再生を試みる計画が進んでいる。計画を推進するために、人造人間=アンドロイドであるアートルーパーが作られる。驚異的な生命力を持ち、知能は人類と同等の彼らは、荒廃した地上の管理者である。やがて、独特の自意識が芽生え、新たな救世主を育むものとなる。この物語は、多様性など顧みられずたった一つの目的で作られたアートルーパーの成長小説である。しかし「膚の下」に流れる血が人類と同じ人造人間は、全ての生物を救う存在となる。ここでは救世主=神を求める精神は、人間でなくても宿ると述べられている。

 後半の4つの物語の中では、神は人の思いと無関係なものとして描かれる。無関係ということは、存在しないに等しい。しかし、人はそれを自分に受け入れやすい形へと解釈し直す。悲しみや怒りを鎮め、自身の不遇さや人を亡くした苦しみを軽減する手立てにする。神さまの実在は問題ではない。単なる錯覚であっても、非科学的で人間に無関心な神であっても構わないのだ。実際、世界の人々が信じる神は、そういった心の中の存在なのである。

(シミルボンに2016年12月15日掲載)