ゲオルギ・ゴスポディノフ『タイム・シェルター』早川書房

Времеубежище,2020(寺島憲治訳)

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扉デザイン:早川書房デザイン室

 著者は1968年生まれのブルガリア作家。本書は22年に英訳され翌年の国際ブッカー賞を受賞し、以降、欧州各国語版が出て広く読まれるようになった。邦訳版は2020年に出た原著からの翻訳である。さまざまな過去が同時に現出するという物語なのだが、では標題「タイム・シェルター=時の避難所」とは何なのか。

 主人公は革命が起こる直前の80年代終わりに、ある文学セミナーで友となる男と出会う。しばらく後に手紙をもらうのだが、書かれている内容は冗談のようだった。日付は1939年の8月、過去がいま現在であるかのように書かれていた。足跡を見失ったあと、作家となった主人公はチューリヒで友人と再会する。そこは「過去のためのクリニック」だった。

 認知症に罹った患者は記憶が保持出来ない。現在も未来も存在しない。ただ、過去の記憶は残っている。当人が望む過去を再現してやれば症状も改善する。しかし、その過去はさまざまだった。60年代、70年代、80年代、あるいは30年代と、過去を再現した部屋や町が創り出される。やがて、過去への回帰は患者だけではなく、回りを巻き込んで際限なくエスカレーションしていく。

 認知症は個人の病であり、その過去はあくまでも個人の体験に属している。ただ、複雑で捻れた欧州の歴史と個人体験とは無縁ではない。1939年に始まる第2次世界大戦や1989年の東欧革命では、ブルガリアを含む多くの国で政治体制が崩壊している。その度に市民は翻弄されてきたのだが、今よりも昔の方が良かったとする、正常性ならぬ郷愁のバイアスが奇妙なブームを産み出す。

 本書はタイムトラベルのお話ではないが、(人にとっての)時間の特性を顕わにする。加えて、多くの帝国に蹂躙されてきた東欧史の厚み、かつての西欧やアメリカ文化への憧れ、(ブルガリアはEU加盟国だが)揺れ動く欧州政治への不安が背景に流れ、それらと断章を多用した構成(章は数ページ以内、スケッチもある)とが相まって、独特の味わいを感じさせるファンタジイに仕上がっている。