『紙魚の手帖 vol.24 Genesis』東京創元社

カバーイラストレーション:カシワイ
ブックデザイン:アルビレオ

 東京創元社の「紙魚の手帖」(雑誌形式の単行本)による「夏のSF特集 Genesis」も第3弾となる。第16回創元SF短編賞受賞作(2作品)を含め収録小説数は8作と昨年比で変わらないが、今回は短いものが多く分量的にはずいぶんコンパクトになった。

 雨露山鳥「観覧車を育てた人」金沢の廃遊園地で巨大な観覧車を育てる育鉄士がいる。単独ではまず不可能な技だ。その噂を聞いた記者は取材を試みる。
 高谷再「打席に立つのは」高校野球のレギュラーだった主人公だが、肝心の所でイップスが出てしまう。それを見かねたマネージャは自分との入れ替わりを提案する。
 レイチェル・K・ジョーンズ「惑星タルタロスの五つの場景」10年に一度、惑星タルタロスに囚人たちを積んだシャトルが降りていく。
 宮澤伊織「ときときチャンネル#9【高次元で収益化してみた】」インターネット3の情報を検証するサンドボックスが使えなくなった。無料期間が過ぎたためらしい。
 稲田一声「モーフの尻尾の代わりに」感情調合師のところにクレームが入る。もともとの依頼主は老犬の感情を希望していた。創元SF短編賞受賞後第一作。
 天沢時生「墜落の儀式」ナノマシン未接種者の大半が死に絶えたあと、死なない接種者は高層ビルからのダイブを遊びにしていた。復活できるからだ。
 理山貞二「キャプテン・セニョール・ビッグマウス」文化遺産連続窃盗の容疑者が捕まる。しかし被疑者は事件を認めるも、別に依頼人がいるとうそぶくばかり。
 小川一水「星間戦艦ゴフルキルA8の驚嘆」文明の抹殺を使命とする殲滅者の前に一人の旅人が現れ、すべてを見て回れと忠告する。

 今回の創元SF短編賞は2作品が受賞している。
「観覧車を育てた人」飛浩隆「「アイディアとドラマをどうレイアウトするか」という、だれもが悩む課題への回答としてお手本にしたいくらいだ。アイディアの独創性、それを実装する手際、ロマンティシズム、モチーフ(観覧車)の必然性と効果を隅々まで行き渡らせた」、長谷敏司「こういう要素の取り合わせと情報配置と、描写の抑制の関係は、一作家として、自分も見習うべきものだと、感心しました」、宮沢伊織「架空の歴史における架空のファミリーヒストリーを聞かされるという、それだけならひどく退屈になってもおかしくない話が、観覧車を一周する流れに乗せて語られることでスムーズかつ面白く読めてしまう。静かな物語だが、ラストの解放感もよかった」
「打席に立つのは」飛浩隆「率直なストーリーとプレーンなテキスト、身近な題材や葛藤、前を向く結末。「SF」ラベルにはややもすると、マニアックさや晦渋さ、ある種の独善性、そうした印象がつきまとうことを考えれば、むしろジャンルの最もコアな場所からこの作品を送り出す意義があるだろう」、長谷敏司「青春らしい人間関係や、心情の揺れ動きが、丁寧に描かれていて、それがSFの仕掛けによってドライブしてゆく。よいヤングアダルトSFだと思います」、宮澤伊織「意識交換アプリの名前が〈torikaebaya〉であることからもわかる通り、高校野球を題材にした男女逆転SFである。(中略)フックを軸にしたストーリーテリングが巧みで、野球に詳しくない自分でも非常に面白く読めた」

 対照的な2作品といえる。説明中心で動きが最小限の前者と、キャラを立てた青春小説の後者である。どちらも小説としてよくできている。選考委員の講評にも詳しく書かれているが、奇想のスケール感(文明を左右する技術なのに、金沢、家族、遊園地という狭い領域にあえて限定)と新規性(ありふれたアイデアをテック的に応用)をうまく補っている。とはいえ、これらはテクニカルな面の指摘であって、もう少し新人賞らしいパワー=破天荒さもあれば、とは思う。

 前号に続く唯一の翻訳「惑星タルタロスの五つの場景」はまさに技巧の産物、《ときときチャンネル》シリーズは快調、「モーフの尻尾の代わりに」は前作の設定を踏襲して捻りを加えたもの。自死が自死でなくなったワイルドな世界を描く「墜落の儀式」、久々の登場が目を惹く理山貞二の宇宙SF「キャプテン・セニョール・ビッグマウス」は、主人公が宇宙盗賊かと思うとちょっと違う方向に持って行かれる。同じく宇宙SF「星間戦艦ゴフルキルA8の驚嘆」は、設定通りのバーサーカーものとならないのがベテランの旨みだろう。この他、入門者向けベスト短編を議論する座談会を収める。

エミリー・テッシュ『宙の復讐者』早川書房

Some Disparate Glory、2023(金子浩訳)

Cover Illustration:鈴木康士
Cover Design:岩郷重力+A.T

 著者は英国在住の作家で主にファンタジイを書いてきた。ラテン語や古代ギリシャ語など“死語”の専門家で、古典語の教師をしていたこともあるという。初のSF長編である本書は、グラスゴーで開催された世界SF大会にて2024年のヒューゴー賞長編部門を受賞した作品である。また、この物語はダイアナ・ウィン・ジョーンズの『クリストファーの魔法の旅』から強い影響を受けたと語っている(著者インタビュー)。

 異星人との戦争に敗れ、地球は140億の人々もろとも滅亡した。主人公は〈ガイア・ステーション〉で暮らす17歳の戦士候補生だった。そこはわずか数千人が住む小惑星要塞で、反攻により人類の再興を図る拠点だと説明されていた。ただ、軍事独裁下の候補生には選択の自由はない。主人公は意に沿わない配属先を命じられる。

 絶望的な状況、敵は強大で味方は少数、勝てる見込みは少ない。この設定は《宇宙戦艦ヤマト》みたいだが、日本的な意味での悲壮感はない。遺された人類はスパルタ式に鍛えられている。とはいえ、極端な役割分担や男女間の性差別がまかり通るテロ集団にすぎないのだ。主人公はたまたま鹵獲した宇宙船の異星人と知り合ったことで、次第に真相を悟っていく。物語は全部で5部に分かれ、ちょっと意外な仕掛けが施されている。

 クィアや移民(異星人)差別、女の役割(『侍女の物語』風)など、現代的なテーマが取り入れられている。ただ、読んでみると《フォース・ウィング》的な(軍隊組織の)魔法学園を思わせる要素が多い。ワープ航法、宇宙戦艦、AI、ハッカーなどが出てくるものの、それらは魔法的なガジェットの位置付けだ。その点を納得できれば、テロリストに洗脳された高校生(相当の年齢)たちが、力を合わせて支配層の嘘を暴き、呪縛からの解放を勝ち取るまでの冒険物語として楽しめるだろう。

エドワード・ブライアント『シナバー 辰砂都市』東京創元社

Cinnabar,1976(市田泉訳)

カバーイラスト:八木宇気
カバーデザイン:岩郷重力+S.K

 エドワード・ブライアントを知る人は少ないだろう。もともと(競作の《ワイルドカード》を除けば)短編が中心の作家だったので、日本では雑誌やアンソロジーでの断片的な紹介が多く、単著翻訳は本書が初めてとなるからだ。ディッシュによって勝手にLDG(レイバー・デイ・グループ。マーチン、ヴァーリイ、ビショップ、マッキンタイヤら、SF大会で群れるエンタメ志向の作家たちを揶揄した言葉)に分類されたあげく、辛辣な評価を受けたことで話題を呼んだりもした。《シナバー》は架空の都市を舞台とする連作短編集である。いわゆる「名のみ高い幻の本」の一つで、半世紀を経て翻訳が出るとはまったく思われていなかった。

 シナバーへの道(1971)砂漠を越えて1人の流れ者がシナバーの外れにあるバーにやってくる。そこで奇妙な撮影クルーを連れたTVディレクターと出会う。
 ジェイド・ブルー(1971)時間編集機械を開発中の発明家と、乳母を勤めるキャットマザーが会話し、いつ戻るのか分からない研究者両親の帰りを待つ。
 灰白色の問題(1972)セックススターは、パーティの席で関係を持とうとする男たちと、とりとめのない駆け引きを続ける。
 クーガー・ルー・ランディスの伝説(1973)庭師が死んで、警察署長は記憶を失う。その事件には3人の夫を持つひとりの女が関係していた。
 ヘイズとヘテロ型女性(1974)タイム・トローリング装置がタイムトラベラーを捕まえる。それは少年でデンバーから来たと言うのだが、時間旅行のことは何も知らない。
 何年ものちに(1976)かつて役者だった父親も今は老いている。そして、毎日妻を相手にさまざまな行為を試しているが。
 シャーキング・ダウン(1975)海洋科学者が海底で作業中、ありえないほど巨大なサメに殺されそうになる。そのサメの正体とは。
 ブレイン・ターミナル(1975)終末に向かうピクニックが試みられる。目的地は町の中心だったが、どのルートを通っても近づけない。コンピュータが妨害しているのか。

 いつともしれない未来(数十年のようでも数万年のようでもある)、シナバーは海に面した孤立都市で、隣接する町とは砂漠に隔てられ交流もない。町の中心部と周辺では、時間の経過速度が違っているらしい。奴隷以下のシミュラクラたち、そしてまた、ネットワークのセックススター、キャットマザー、問題を抱える番組ディレクター、好事家の科学者、時代錯誤のネオ・クリーリストと頽廃的な人物たちが登場する。政府はなく、町をコントロールするコンピュータがその代わりを務めている。

 全部で8つの中短編から成る。バラードの《ヴァーミリオン・サンズ》(1971年刊、9編を収録)にインスパイアされていて、確かにあの砂漠の架空リゾートをイメージさせる設定にはなっている。ただ、ヴァーミリオン・サンズと比べると、シナバーの世界は人物の奥行きが浅いという印象だ。「ヘイズとヘテロ型女性」とか「シャーキング・ダウン」など楽しい作品はあるものの、「コーラルDの雲の彫刻師」のような際立った作品がない。逆にバラードになかった「何年ものちに」などのホラー/スプラッタ的な要素が本書の方にはある。

 冒頭にタオイズムからの引用があり、人々はフリーセックス、ヴァーリイ的なカジュアルな性転換や、縛られない奔放な生き方を実践する。これは、60~70年代に提唱されたフラワーチルドレンの思想に近いのではないか。また、ニューサイエンス(疑似科学)とまではいえないが、それらを許容する時代を反映している部分はある。(対象は本書ではないけれど)ディッシュに酷評されたのは、そういう時代性もあるかもしれない。