劉慈欣『三体III 死神永生(上下)』早川書房

三体III 死神永生,2010(大森望、光吉さくら、ワン・チャイ、泊功訳)

装画:富安健一郎
装幀:早川書房デザイン室

 三年がかりで翻訳された《三体三部作》の完結編である。副題「死神永生」とは「人の運命はさまざまだが、死だけが永遠である」ということなのだが、本書では人の生を越えた意味が与えられている。「必ず訪れる死」を象徴する一般的な表現ではないのだ。

 暗黒森林から少し遡った時代、面壁計画と同時にはじめられた階梯計画は、迫り来る三体艦隊に向かって探査機を送り込むというものだった。通常の推進機関では、接触までに時間がかかって意味がない。これまで知られていない技術的なブレークスルーが必要になる。主人公は暴力的な上司の下で研究に励んでいたが、そこで思いがけない贈り物を受け取ることになる。

 第2部までは、三体艦隊が太陽系に達するまでの400年が物語の舞台と思われていた。しかし、本書では時間以外のスケールが大幅に広がる。前作の結末で訪れた小康状態が覆って地球が大混乱に陥り、それがまた思わぬ突破口から解決すると、今度はリスクテイクを避けた手堅い防衛策が裏目に出る。予測不可能な危機と意外な解決手段のセットが(ディープな科学ネタを取り混ぜ)何重にも用意されていて、三部作中もっとも振り幅の大きな物語といえる。

 これまでの主人公は、『三体I』のナノテク学者や『三体II 黒暗森林』の面壁人など(一見凡庸だが実は天才という)巻き込まれ型ヒーローがドライブしていくスタイルだった。本書の女性科学者は彼らとは少し異なる。複数の地球/人類規模の危機に襲われ、何度も重大な局面で決断を迫られるのだが、決してマッチョな考え方に与しないのだ。七夕のような古典的な恋の物語でもある。

 頻繁な場面転換という点でも、3巻中もっとも派手だ。相変わらずのサービス精神で、それぞれの見せ場について吃驚仰天のどんでん返しがある。途中にコンスタンチノープル陥落(オスマントルコによる東ローマ帝国滅亡)のお話や、謎解きが織り込まれたおとぎ話まであり、メタフィクションを思わせる仕掛けになっている。先を見通せない複数の伏線が張りめぐらされ、しかも大風呂敷の大半が回収されているなど、構成の巧みさも楽しめるだろう。

日本SF作家クラブ編『ポストコロナのSF』早川書房

カバーデザイン:岩郷重力+Y.S

 表題をテーマとするオリジナル・アンソロジイである。ポストコロナとなっているが、必ずしも現在のコロナ禍を意味してはいない。また19人の収録作家も、全員が日本SF作家クラブの会員ではないのだ。ジェネレーションやジェンダーのバランスを再考する余地はあるものの、より幅広く多様にという意味なのだろう。

 小川哲「黄金の書物」ドイツ出張中の空港で、主人公は見知らぬ男から古書のハンドキャリーを依頼される。
 伊野隆之「オネストマスク」そのマスクの表面はディスプレイとなっており、着けている者の感情を表出する。
 高山羽根子「透明な街のゲーム」コロナ禍で無人になった街中に出て、インスタ的サービスのインフルエンサーたちがお題をテーマにベスト写真を競う。
 柴田勝家「オンライン福男」コロナ禍にヴァーチャル化した福男レースは、形を変えてその後も続けられている。
 若木未生「熱夏にもわたしたちは」コロナの後、接触を恐れて育った世代の少女2人が生きる、ひとときの夏。
 柞刈湯葉「献身者たち」国境なき医師団に属する主人公は、収束のみえない変異株に襲われるソマリアで、ひとつの解決法を明かされる。
 林譲治「仮面葬」一度は棄てた故郷に戻った主人公は、葬式に仮面を着け代理参加する仕事を得たものの、故人の名前を聞いて驚く。
 菅浩江「砂場」ワクチンが日常化し過剰なまでに投与される時代、ママ友の集う公園の砂場では不穏な世間話の輪が広がっている。
 津久井五月「粘膜の接触について」高校生になった主人公は、感染症対策のため全身を覆うスキンを身につけ、自由な接触を愉しむようになる。
 立原透耶「書物は歌う」三十代になると疫病で死ぬ世界、一人の子供は書物が奏でる歌を探して歩き回る。
 飛浩隆「空の幽契」猪人間と鳥人間が陸と空に別れて住む世界と、衰退した東京で老女とロボットとが会話する光景が交互に物語られる。
 津原泰水「カタル、ハナル、キユ」ハナル十三寺院に秘められた伝統音楽イムについて、詳細に分析した著作が「カタル、ハナル、キユ」である。
 藤井太洋「木星風邪(ジョヴィアンフルゥ)」木星大気に浮かぶ浮遊都市、主人公は月出身の労働者だったが、そこでは木星風邪と呼ばれるファームウェア感染症が蔓延する。
 長谷敏司「愛しのダイアナ」データ人格の家族で、父親の隠していた映像を娘が見たことからもめ事が発生する。
 天沢時生「ドストピア」濡れタオルを叩きつけ合って勝負を決めるタオリングは、滅びゆくヤクザたちにとって有力な収入源だった。
 吉上亮「後香(レトロネイザル) Retronasal scape.」マレー半島の奥深くに住むアガルは、常人にはない特殊な臭覚を持つ人々だった。
 小川一水「受け継ぐちから」隣の星系から飛来した3人乗りのクルーザーは、その製造年代から見てもありえない古さと思われた。
 樋口恭介「愛の夢」人類が眠りについてから1000年が経過し、一人の指導者が目覚めの時を迎えようとしている。
 北野勇作「不要不急の断片」70編からなる、ポストコロナを巡る世の中を点描するマイクロノベル集。

 著者の一人、飛浩隆によるとても詳細な解題が既にあるので、ここでは1文リミックス紹介のみとした。このうち、現状のコロナと直結する話は柞刈湯葉「献身者たち」くらいで、最も遠いのが小川哲「黄金の書物」と天沢時生「ドストピア」だろう。コロナから多重に連想された創造の果てという感じか。

 物理的な疫病から逃れられる究極の場所は電脳世界になる。柴田勝家「オンライン福男」、IT的にひねった藤井太洋「木星風邪(ジョヴィアンフルゥ)」、家族まるごと移転したのが長谷敏司「愛しのダイアナ」である。

 コロナの現実に生じた異形の風景を、さらにデフォルメした作品が多い。欠かせないマスクの伊野隆之「オネストマスク」、無人の街を切り取った高山羽根子「透明な街のゲーム」、少女の恋に昇華させた若木未生「熱夏にもわたしたちは」、これもマスクだが田舎の因習に形を変えた林譲治「仮面葬」、生活をむしばむ悪意を描く菅浩江「砂場」、肉体の接触が忌避される津久井五月「粘膜の接触について」、極めつけは日常のスナップショット北野勇作「不要不急の断片」だろう。

 現実をはるかに越えるお話も読みたい。小松左京「お召し」を思わせる世界を書いた立原透耶「書物は歌う」、飛浩隆「空の幽契」ではロボットと主人公の会話と異世界の物語がシームレスに溶け合い、小川一水「受け継ぐちから」は謎の宇宙船の正体を探り、樋口恭介「愛の夢」は1000年もの皮肉な明日が描かれ、津原泰水「カタル、ハナル、キユ」では緻密に組み立てられた音の秘密が、吉上亮「後香(レトロネイザル) Retronasal scape.」では匂いの秘密が解き明かされる。

 枚数的には50枚前後(ばらつきはある)で短編の書下ろしながら、テーマが明確なためか、ひねるにしても正面から書くにしても各作家なりの工夫が楽しめる。評者としては、上記の中で最後のグループが面白かったのだが、それは現実からの距離の置き方にも依存するのだろう。


三島浩司『クレインファクトリー』徳間書店

カバーイラスト:緒賀岳志
カバーデザイン:宮村和生

 三島浩司の書下ろし長編。著者の新作としては『ウルトラマンデュアル2』以来の3年ぶりになる。本書では、巨大ロボットが主人公だった『ダイナミックフィギュア』とは対照的に、小型の人型ロボットが登場する。

 あゆみ地区は全国から伝統工芸の職人が集まってくる特区だ。主人公はある事情で両親から離れ、地区の里親と暮らしている。同じ境遇で暮らす仲間もいた。しかし、ここはもともと此先ファクトリーズと呼ばれる先端工業団地だった。さまざまな工場が建ち並び、ロボットによる無人化が進んでいた。今ではその面影はない。いったい何があったのか。

 まず、著者が得意とする奇想アイデア「分水嶺」が登場する。自然界に生じる完全にランダムな現象をもとにした乱数を物理的乱数という。分水嶺は物理的乱数を攪乱する物体なのだ。疑似乱数ならともかく、こういう概念的なものに影響を与える物質など、ふつうは考えられない。分水嶺はさいころの目の頻度すら左右する。形はさまざま、おもちゃだったり日用品だったりする。ストルガツキーのゾーンにある物質と同様、超自然的存在といえる。

 もう一つがロボットの反乱である。ファクトリーズのロボットが人間に反抗し、治安部隊に向かって破壊活動を企てたのだ。それ以来、ロボットを使う機械化は忌避されることになり、自動化地区は伝統工芸地区になる。なぜロボットは反抗心を持つようになったのか。

 500枚ほどの長編だが、そこに家庭の問題、オーパーツ、AI(ロボット)の知能と心の問題を盛り込むという意欲的な作品だ。著者はかつて、小説にアイデアではなく概念を盛り込みたいと述べたことがある(下記リンク参照)。本書の場合、それはロボットの心がオーパーツを生み出し、家庭問題を救うという3段階の(本来結びつきようのない)連想で作られているのだろう。

早川書房編集部・編『世界SF作家会議』早川書房

装画:森泉岳士
装幀:早川書房デザイン室

 フジテレビの地上波番組(ただし東京ローカル)で放映された全3回の「世界SF作家会議」(2020年7月/2021年1月/同2月)をまとめたもの。全員が(たとえスタジオに居ても)リモート参加で、6分割画面という今風のスタイル。カットシーンを補完した拡張バージョンは現在でもYouTube版が視聴できるが、本書は文字にする段階でさらに手を加えた決定版である。担当ディレクター黒木彰一がSFファンだったために実現した企画だという。海外の作家も参加したので(陳楸帆が同時通訳参加、劉慈欣/ケン・リュウ/キム・チョヨプらはビデオ参加)、世界SF作家会議でも大げさではないといえる内容になった。

【第1回】コロナパンデミックをどうとらえたか/パンデミックと小説/アフターコロナの第三次世界大戦(冲方丁)アフターコロナのトロッコ問題(小川哲)アフターコロナのセックス(藤井太洋)アフターコロナは・・・・・・ない(新井素子)/劉慈欣のメッセージ。

【第2回】パンデミックから一年・・・・・・SF作家たちはどう見たか?/人類はチーズケーキで滅亡する(小川哲)人類は宇宙からの災難で滅亡する(劉慈欣)人類はポスト人類で滅亡する(ケン・リュウ)人類は愛で滅亡する(高山羽根子、藤井太洋)人類は目に見えないもので滅亡する(キム・チョヨプ)人類は滅亡しない(新井素子)/地球滅亡の日に食べるなら、ご飯か麺か。

【第3回】SF作家が考えるコロナ禍の現状/100年後の企業帝国と惑星開拓(冲方丁)100年後の和諧(ハーモニー)(陳楸帆)100年後はサイボーグたちの世界(キム・チョヨプ)100年後は人間が変化する(劉慈欣)100年後は分からない(樋口恭介)100年後は予測不可能(ケン・リュウ)100年後はあまり変わっていない(新井素子)/地球脱出時に連れていくなら犬か猫か。

 司会者のいとうせいこうは作家兼タレント、大森望がコメンテーター的な役割、それ以外は全員が作家である。6人で進行するのは、SF大会のパネルとしても多い方だろう。深夜帯とはいえ、非専門的な地上波TV番組として成り立つのかどうか見る前は疑っていた。評者はYouTube版で視聴したが、ネタ的な話題に偏らず(テーマはネタ的だが)、SF作家らしいキーワードを交えた分かりやすい流れで作られていた。さらに本書になると、キーワードに読み物としての重みが加わる印象だ。SF作家は予言者かと問われると誰でも違うと答えるだろうが、あらゆる可能性を(ありえないことまで含めて)考えてみるのがSF作家だという見方はできる。ハードな明日を冷めた視点で語る冲方丁、あくまで希望を失わない陳楸帆、何も変わらないとうそぶく新井素子が対照的で面白い。

ロバート・シルヴァーバーグ『小惑星ハイジャック』東京創元社

One of Our Asteroids is Missing,1964(伊藤典夫訳)

カバーイラスト:緒賀岳志
カバーデザイン:岩郷重力+T.K

 珍しい本を読んだ。シルヴァーバーグはペンネームを多用するペーパーバックライターだった(ピーク時に年30冊)が、この年に出しているのは長編3冊と短編集1冊ぐらい。ノンフィクションが多かったのだろう(また、雑誌にたくさんの中短編を書いていた)。本書はエースブックスのダブルブック(1952年から78年の間に出版された、2作家の本を裏表どちらからでも読めるようにしたお徳用合本)でヴォークトとのペアだったもの。いかにもチープな雰囲気が漂う。

 主人公は鉱山技師の資格を得て大学を出た後、大手探鉱会社の就職口を蹴って一人小惑星帯に赴く。太陽系は開発ブームに沸いており、個人であっても有望な未登録小惑星を見つければ莫大なもうけが得られるのだ。2年間という自らに科した期限はあったが、その最後に直径8マイルほどの小惑星を発見する。

 主人公はそのあと不可解な事件に巻き込まれる。登記したはずのデータが無くなり、自分の記録すら消し去られているのだ。宇宙が舞台、主人公は一匹狼で、相手は太陽系を席巻する大企業(ユニヴァーサル・カンパニー)。どうやって戦うのか、そこにもう一役が加わる、というスペースオペラだ。

 400枚に満たない長編である。いまどきの小説に比べると、さまざまな要素が削ぎ落とされている。主人公は知性と腕力を兼ね備え、しかし合理性よりも冒険心と一攫千金を優先する(なぜそうなのか、背景は分からない)。ヒロインはお飾りで、主人公の帰りをひたすら待つ役割(なぜ馬鹿な主人公に惹かれるのか不明)。敵は企業なのだが、強欲で人殺しも厭わない(頭の悪い経済ヤクザ)。ダブルブックは2冊分を1冊にまとめるため、分量に制約がある。余計なことは書けない。それに適応した、完全なフォーミュラ・フィクションに見える。

 食うために仕方なくなのか。しかし、作者はそのあたりを承知の上で、愉しみながらタイプを叩いたようだ(メカ式タイプライタの時代)。伸び伸びと破綻なく(たぶん)推敲することさえなく一気に書きあげたのだろう。さまざまなシルヴァーバーグのエピソードを聞くと、内容よりも書くこと自体に憑かれた作家である。時間さえ取れれば、すぐに執筆に没入できたのだ(訳者は、推敲をほとんどせずに大長編を書いた栗本薫に例えている)。作風をがらりと変え、ニューシルヴァーバーグと呼ばれるようになるのは1967年以降のことだが、方向性が変わっただけで書き方自体に変化はなかったと思われる。残念ながらシルヴァーバーグの現行本は『時間線をのぼろう』くらいしかない。『夜の翼』などを古書で入手して、読み比べてみるのも面白いだろう。