映画の原作を読んでみる、その2

 シミルボン転載コラムは、映画原作を読んでみようという企画の2回目です。今回はノーベル文学賞作家のTVドラマ、日本SF大賞作品のアニメ化、無料ウェブ小説からの映画化と、内容も経緯も異なる3つの作品を紹介しています。以下本文。

カセットテープから聞こえる、わたしを離さないで
 2016年に森下佳子脚本、綾瀬はるか主演でTVドラマ化されたので、(視聴率は振るわなかったようだが)ご覧になった方もおられるだろう。舞台を日本に移しながら、原作の雰囲気をよく伝える内容だった。また、2014年には蜷川幸雄演出で舞台化、2010年にはマーク・ロマネク監督による映画化もされている。

 カズオ・イシグロは、英国を代表するベスト20作家にも選ばれた、寡作で天才肌の作家である。英連邦での最高文学賞であるブッカー賞を含め、多数の受賞歴がある(註:この記事のあと、ノーベル文学賞を受賞した)。本書も、タイム誌が選ぶ1923年から2005年までのオールタイムベスト小説100(ちなみに、SFではスティーヴンスン『スノウ・クラッシュ』、ギブスン『ニューロマンサー』、ディック『ユービック』等が入っている)に選ばれるなど、各方面から絶賛を浴びた話題作だ。

 英国のヘールシャムに寄宿制の学校がある。男女の生徒たちは閉ざされた学園の中で、幼い頃から思春期まで一貫して育てられる。不思議なことに彼らには苗字がない。決められたイニシャルが与えられているだけ。そして、「提供者」となる自分たちの運命を知っている。

 この作品では、学園生活を送る寄宿生たちや、卒業生がたどるその後の人生が描かれている。寄宿生がどのような存在かは、SFファンでなくとも気がつくだろう。舞台は(われわれから見れば)倫理的に許されない残酷な未来社会(あるいは、並行世界の現代)である。主人公たちもどこか閉塞感を感じ、追詰められ苦しみあがく。ただし、これは理不尽な社会に対する抵抗や革命の物語ではない。どれだけ残虐であっても、主人公たちにはそれが守るべき規範なのだ。強固に抑圧された社会では、社会それ自体が壊れない限り、組み込まれた人間側から制度を壊そうという意志は生まれてこない。そういう怖さを感じさせる。

 『わたしを離さないで』は、カズオ・イシグロの描くディストピア小説といえる。社会批判が一切書かれていないかわりに、仄かな恋と友情が淡々と描かれる。ストイックな情動で主張を代弁させているのだ。表紙のイラストは、主人公が偏愛する女性歌手のカセットテープを意味している。表題 Never Let Me Goも、実は歌の題名なのだ。

(シミルボンに2017年4月4日掲載)

一千年後の日本、バケネズミを使役する超能力者たち、新世界より
 第4回日本ホラー小説大賞作家、貴志祐介の2000枚を超える書き下ろし長編。過去にハヤカワSFコンテストで佳作入選したこともある著者だが、大賞受賞後は『天使の囀り』(1998)、『クリムゾンの迷宮』(1999)といったSF風のミステリも書いてきた。本書は、1000年後の日本を舞台とする本格的なSFである。2008年の第29回日本SF大賞を受賞した他、2013年には石浜真史監督によりTVアニメ化されている。

 1000年後、日本にはわずか9つの町が存続するのみ。それらもほとんど交流がなく、最小限の人口を維持しているだけだった。科学技術は大半が失われている。しかし、未来の人類には恐るべき力が発現していた。それは呪力と呼ばれる超常能力で、物理的な破壊を伴う強烈なパワーを持つ。そして、少ない人口を補うため、ハダカデバネズミを始祖とする知的な奴隷バケネズミたちを使役していた。そんなある日、主人公たちは、校外実習で世界の外に潜む脅威を知ることになる。

 呪力があまりに強大すぎるため、お互いを殺傷できなくする禁忌、そのタブーを破る悪鬼の存在。人間並みの知性を持ちながら生殺与奪を人に委ねるバケネズミは、虎視眈々と反逆の時を探る。本書では未来社会の成り立ち(封印された過去の歴史)が非常に精緻に考えられており、舞台そのものが物語の結末に至る伏線にもなっている。

 著者は、学生時代にコンラート・ローレンツの古典攻撃 悪の自然誌(1963)を読んで本書の着想を得たという。同書は脊椎動物の攻撃本能について書かれた論文だが、特に人類の同族攻撃に対する抑制のなさに注目したという。長年構想を温め、書き上げるまでに30年以上かかった。生物の進化が描かれるが、科学技術文明の遺跡が登場する関係で、舞台は数万年ではなく千年後の未来に置かれている。

 コリン・ウィルスンスパイダー・ワールド(1987)は、人類が蜘蛛の奴隷となって地下に棲むという設定である。虐げられた者(人間)が、蜘蛛への復讐に立ち上がる。また、超能力者はヴァン・ヴォクト『スラン』(1946)以来、少数で狩られる立場にある。多数派の人類が超能力を持たないのだから、発想としてはそうなるだろう。貴志祐介は既存の設定を逆さまにした。超能力を持つ人類が支配者になり、能力を持たない非人類を支配するのだ。そこが、本書の物語に対する印象の深さにつながっている。

(シミルボンに2017年4月6日掲載)

オタク宇宙飛行士のサバイバル、火星の人
 著者はプログラマーでSFファンの宇宙オタクである。いくら小説を書いても採用されず、やむを得ず自身のウェブサイトで無料公開、すると大きな反響を呼び、個人出版の電子書籍がまずベストセラーになる。次に、評判を聞いた大手出版社から待望のオファーを得る。すると、出した本は全米ベストセラーまで登りつめ、ついにはリドリー・スコット監督、マット・デイモン主演でメジャー映画『オデッセイ』(2015、日本公開は2016年)になる。嘘のように出世した作品である。

 有人宇宙船による第3回目の火星探査、地上で作業する彼らに猛烈な砂塵嵐が押し寄せる。このままでは帰還船が倒れてしまう恐れが出てきた。彼らは探査を中止し脱出を試みるが、1人が事故で取り残される。生命反応もない。やむを得ず帰還船は発進する。しかし、その1人は生きていた。残された食料を生かし、酸素と水は再生・生産し、電力や熱を作り出しながら、次の探査に使う無人の脱出船が着陸している山岳地帯まで旅立つのだ。

 着陸地点のアキダリア平原は、北の古代の海とされる平坦な地形、目標のスキャパレリ・クレーターは3200キロ離れた山岳地帯にある。火星探検の場合、人が降りる前にまず機材が先に送り込まれる。次の第4回調査隊のため、基地施設や衛星軌道までの帰還ロケットは既に目標に到着している。ただし、長距離の地上走行は危険で、何より想定外の使われ方をした機器の故障が、主人公の障害となって立ちはだかる。けれども、それは技術的な工夫で乗り越えられるものなのだ。

 本書を読んで、マーティン・ケイディン『宇宙からの脱出』(1964)を思い出した。グレゴリー・ペック主演で映画化(1969)もされ、アポロ13号(1970)の事故を予見したといわれる作品である。同じ宇宙事故としてキャンベルの『月は地獄だ』(1951)を挙げる人が多いが、組織的でシステム化された救出計画はアポロ計画以降のものだ。キャンベルの描くのは、19世紀的な「探検隊」なので助けは準備されていない。一度旅立つと自助努力せざるを得ないのである。一方、20世後半以降の宇宙では、国家レベルでの救援が行われる。宇宙とはリアルタイムにつながり、行動も厳密にシミュレーションされる。『宇宙からの脱出』では、初めてそういうシステムによる救出劇が描かれた。本書では火星が遠いため(+ある事情のため)、システム的救援と個人の創意工夫という両方の観点が楽しめる。

 さて、以上の科学的にも正確な宇宙計画に対し、人間ドラマ部分は火星でただ1人取り残された男が、1年半サバイバルするお話になっている。主人公はマッチョというより著者を思わせるメカオタク、ありあわせの機材を改造しまくりで生き残るのだが、泣き言はほとんど言わず冗談で乗り切ってしまう。地球帰還後、ヒーローになって本当に幸せなのかとちょっと心配になる。

(シミルボンに2017年4月8日掲載)