日本SF作家クラブ編『恐怖とSF』早川書房

カバーイラスト:緒賀岳志
カバーデザイン:岩郷重力+Y.S

 日本SF作家クラブ編のオリジナル・アンソロジー第6弾。このアンソロジーの特徴として、テーマが「時代を象徴する単語+SF」と、とてもシンプルで分かりやすい点があげられる。その分、著者の解釈も幅広く多彩になり、反面(読者にとって)とりとめがなくなる。サブテーマ的なキャプション(幽霊のゆくえ/身体のゆらぎ/侵食する獣/進化する人怖/物語の魔/異貌の歴史/地獄にて/彼岸の果て)で分類されているのは、小さなまとまりを作って内容にヒントを与える意図があるのだろう。

幽霊のゆくえ
  梨「#」幽霊を自動観測する機械がアーカイブした映像の数々。柴田勝家「タタリ・エクスペリメント」不審死が起こる土地で発見された磁性細菌は、タタリ細菌と呼ばれるようになる。カリベユウキ「始まりと終わりのない生き物」ダークウェブの奥底、そこに行ったまま帰ってこない女は幽霊となったらしい。
身体のゆらぎ
 池澤春菜「幻孔」自らを深層量子ダイブの実験台とした科学者に体の異変が生じる。菅 浩江「あなたも痛みを」痛みを体感する機械が作られ担当者は嗜虐的な実験を続ける。
侵食する獣
 坂永雄一「ロトカ=ヴォルテラの獣」中学校の夏休みに計画された「プロジェクト」は、狩るものと狩られるものの関係へと変貌していく。小田雅久仁「戦場番号七九六三」夫婦間の約束を果たそうと都心に出た主人公は街を飲み込む大変容に巻き込まれる。飛鳥部勝則「我ら羆の群れ」姉を「羆」に殺された男は猟師と共に獣を狩ろうとするが。
進化する人怖
 イーライ・K・P・ウィリアム「フォトボマー」DMで知り合った男は信頼できそうに見えたが、ある趣味が気になった。平山夢明「幸せのはきだめ」その連続殺人犯は、同一人物と思えるのに監視カメラの映像がそれぞれ違って見えた。
物語の魔
 小中千昭「現代の遭遇者 The Modern Encounter」動画投稿サイトの配信者は、ファンと称する男からUAPとの〈遭遇〉ネタを聞かされる。空木春宵「牛の首.vue」JavaScriptのフレームワークで書かれた怪談「牛の首」とLLMとの関係。牧野 修「初恋」大学で出会った気の合う彼女への告白は、予想外の答えを産み出した。
異貌の歴史
 溝渕久美子「ヘルン先生の粉」日本統治下の台湾では、製糖産業を発展させるための労働力が不足した。それには粉が有効だった。篠たまき「漏斗花」高天原の足踏み場と呼ばれる土地の出身者は、漏斗花を通じて故郷に帰還することができた。
地獄にて
 久永実木彦「愛に落ちる」学生時代に意気投合して共同研究者になった二人だが、実際は片方の天才的な能力に依存する関係だった。しかし重大な事故により二人は「落ちる」。長谷川京「まなざし地獄のフォトグラム」異界が現れる。そこには地獄が見え、まだ生きている者の罪が映し出される。
彼岸の果て
 斜線堂有紀「『無』公表会議」死のあとには「無」しかない。それを公表するか否かの議論が続く。飛 浩隆「開廟」〈破次元境界〉を越えて移住知性体が越境してくる。正体はまったく不明だったが、その言語により人類は大きな恩恵を受けていた。新名 智「システム・プロンプト」カーティスと親しく会話するミーコ+人工知能Curtisに対するプロンプトの関係。

 SFプロパーによるホラー、ホラー作家によるSFという、方向性の異なる2種類(厳密な区分けではない)の作品が読める。たとえば、「まなざし地獄のフォトグラム」での異界と「開廟」の境界、どちらも正体不明ながら、その根拠を宗教的な因果とするか物理的な不可知とするかの違いがある。他では「幻孔」「あなたも痛みを」が生理的な恐怖もの、「ロトカ=ヴォルテラの獣」「ヘルン先生の粉」は新たなゾンビものだ。IT業界の著者が多いのか、本文中にコードが書かれたものもある。

 「システム・プロンプト」では、共感とか感情とかの議論も含めて、今時点でのAIがストレートに描かれている。問いかける先(プロンプトの相手)は誰なのか、相手も/自分もAIではないとどうやって証明できるのか。きわめて現代的な恐怖(『AIとSF』でもいいけど)なので、順番として結末に置くにふさわしい作品だろう。

オラフ・ステープルドン『火炎人類』筑摩書房

The Flames and Other Stories,2025(浜口稔編訳)

カバーデザイン:山田英春

 本書は1947年に書かれた表題の中編に、未訳(未発表作を含む)短編9編、ラジオドラマ脚本や講演録(A・C・クラークが招請した英国惑星協会での講演)を併せた編者によるオリジナル作品集である。詳細な解説も付いているので、現代のエンタメ小説とは構造からしてまったく異なる、ステープルドンの思索小説を改めて堪能できるだろう。

 火炎人類――ある幻想(1947)友人から手紙が届く。山中を歩いているとき拾った石を、予感に駆られて暖炉に焼べたとき〈ほのお〉が呼びかけてきたという。それは太陽を起源に持つ超絶した種族であり、自身の由来と宇宙的な神霊について語りはじめる。 
 種と花(1916)男たちが兵士になり、さまざまに死んでいくありさま。救急哨所への道(1916)戦場の後方で救急車を駆る男の思い。現代の魔術師(1946)男は女の気を惹こうと、身につけた念動力をもてあそぶ。手に負えない腕(1947)爵位を持つ有力者の右腕が、なぜか意志に反して暴れ始める。樹になった男(未発表)ブナの木の根元に横たわった男は、肉体を離れ木と一体化していく。音の世界(1936)音の中に存在する生命に気がついたわたしは、その生態に驚異を覚える。東は西(1934)逆転した東洋と西洋の世界。東洋文化の影響下にある英国では、アジア人排斥感情が高まりつつあった。新世界の老人(1943)政治体制の大変革から時間が流れ、革命世代の老人は現代の風潮に反発を感じるようになる。山頂と町(1945頃)不案内の道をさまよい、たどり着いた町ではその繁栄ぶりを見て思案しながらも、わたしは町を離れまた歩き出す。 
 はるかな未来からの声(未放送の脚本)ラジオドラマの放送中に、20億年の未来から最後の人類がメッセージを送ってくる。惑星間人類?(1948)地球を離れた人類が落ち着く先はどこなのか、神霊的経験とは何か、自身の創作での留意点を交えながら語る。

 1916年に書かれた2作は、自身が経験した第1次大戦の前線を描いた掌編である。「現代の魔術師」は超能力を扱ったもので短編映画にもなった。潜在意識の暴走、植物的な共生、潜在意識、音波生命、並行世界、アンチユートピア、人類史的な寓話、これらをアイデア小説と見做せば(いわゆる「夢落ち」の類が多く)古臭さを感じるかもしれない。

 しかし、ステープルドンはアイデアをオチに使うのではなく、ものごとの本質/哲学的な意味を問うためのツールとして扱う。例えば「火炎人類」に登場する神霊(spirit)は、キリスト教的な聖霊(holy spirit)とも取れそうな言葉だが、これはクラークが『幼年期の終わり』で描くオーバーマインド(あるいはさらに上位)に相当する概念で、スピリチュアルな超常現象ではない。実際、『幼年期の終わり』はステープルドンの直系ともいえる作品だ。そこが並の小説との違いになる。

ウラジーミル・ソローキン『ドクトル・ガーリン』河出書房新社

Доктор Гарин,2021(松下隆志訳)

装丁:木庭貴信(OCTAVE)

 ソローキンの単著としては最長(約1200枚)の作品である。コロナ禍のただ中、翌年2月にはウクライナ侵攻が始まるという2021年に書かれたものだ。この作品には前日譚となる『吹雪』(2010)がある。そのエピソードも(夢のシーンなどで)出てくるが、主人公が共通する点をのぞいて、続編というわけではないようだ。

 8人の患者を収容するサナトリウム〈アルタイ杉〉があった。8人は尻を使って移動するpb(ポリティカル・ビーイング=政治的存在)で、G8の首脳と同じ名前で呼ばれている。ガーリンは精神科医で、患者の発作をブラックジャック(電撃棒)で抑えるという、いささか乱暴な治療を施している。ところが、隣国カザフとの国境紛争の巻き添えで、患者共々バイオロボットに乗り脱出することになる。

 ここに出てくるG8の首脳陣(トランプ、安倍晋三からプーチンまで)は、実際には揃ったことはない(そもそもロシアは2014年以降排除された)。とはいえ史実に意味はないのだ。何しろこの世界のソビエトーロシアーヨーロッパは、我々と異なる歴史を刻んでいる。ユーラシアは四分五裂、新たな中世を迎えており、ロシアもアルタイやモスコヴィア、ウラルなどなど複数の共和国に分裂し、核兵器をカジュアルに使う小競り合いを繰り返している。ドクトル・ガーリンは平穏を求め、比較的安全な極東共和国へと逃避行を試みる。

 物語が先に進むにつれ、奇妙な世界が拓けていく。小さな母を奉じる無政府主義者の収容所、兄弟伯爵の宮殿、アルタイの都市バルナウルのサーカスやアクアパーク、巨人族の女地主の館、麻薬製造者ビタミンダーの家、遺伝子操作で産まれた野人たちクロウドの都と、波乱に満ちた旅は続く。過去の自作に登場した特異な設定を、効果的に再利用している。

 断片的(本の切れ端や焼け残り)な物語が無数に埋め込まれている。枠小説というか、不完全な小説がばら撒かれているのだ。さらに麻薬による幻覚や、過去の記憶から来る悪夢などが挟まる。中でも、表紙に白いオオガラスを描いた(本書の表紙)15世紀の仔牛革の本は重要な役割を果たす。本書の中でのドクトル・ガーリンは、運命に流される受け身の人物ではなく、生き別れた恋人との再会を願う情動的な人として描かれる。『青い脂』(1999)の頃の非人間さを昇華し(猥雑さは残すが)人間に還ってきた印象を残す。

 さて、評者の場合、本書を読んで連想するのは(著者が意識した『ドクトル・ジバコ』ではなく)砂川文次『越境』だった。SF界隈ではまったく話題にならなかったが、本の雑誌による2024年ベスト長編に選ばれた作品だ。異界と化したロシアと北海道、奇想に満ちたロードノベルとしても読み比べられると思う。

眉村卓『幻影の構成』小学館

装丁:おおうちおさむ 山田彩純(ナノナノグラフィックス)

 P+D BOOKS版の眉村卓作品はこれで4冊目になる。原著は、1966年に早川書房の《日本SFシリーズ》の一環として書き下ろされたものだ。作家専業となった翌年に出たもので、著者の第2長編かつ3冊目の単行本になる。

 2020年の世界、主人公は第八都市の住人だった。市民はイミジェックスと呼ばれる情報端末に支配され、ふだんの行動や購買意欲までコントロールされている。不満を感じた主人公は、支配する側の中央登録市民に成り上がろうとする。しかし、ある事件をきっかけに、社会の隠された一面を知ることになる。

 (書かれた当時から)60年後が舞台。その社会は、複数のコンツェルン(財閥企業)によって支配されている。第八都市は、中央本社の統制下にある植民地的な地方都市である。その支配の要となるのがイミジェックスで、絶え間ない囁き(ツィート?)によって、コンツェルンの従順な生産者/消費者となるよう人々を操っている。しかも、より上位の支配者がいて……。

 煌びやかな中央と寂れた地方、情報を握る企業に権力が集中し、コンピュータによるネットが人心や欲望を制御する。形態こそ違うものの(上位の支配者もソフト的なバグだと思えば)、これらはすべて現実化したとみなせるだろう。主人公はイミジェックス・システムの破壊を試みるが、大規模な反攻にはイミジェックスを利用するしかないと悟るようになる。だが、それでは自由から遠ざかるばかりだ。単純な抑圧と革命の物語ではないところが、いかにも著者らしい。

笹原千波『風になるにはまだ』東京創元社

ブックデザイン:岩郷重力+WONDER WORKZ。
装画:竹浪音羽
装幀:小柳萌加(next door design)

 2022年の第13回創元SF短編賞受賞作「風になるにはまだ」を含む、著者初の短編集。6編の収録作品のうち半分は書下ろしで、その設定や登場人物を共有する連作短編集でもある。著者は高校時代に読んだ印象に残るSFとして『ハーモニー』を挙げ、『わたしたちが光の速さで進めないなら』に共感すると話す(ネット配信番組の「読んで美木彦」)。

 風になるにはまだ(2022)先方の希望する体型とあたしはぴったりだった。情報人格になった依頼主に体を貸し、現実世界のパーティに参加するというバイトなのだ。
 手のなかに花なんて(2023)好きだった祖母が情報人格になり、孫の主人公はアバターを使って訪問する。それは祖母の認知症のリハビリのためでもあったのだが。
 限りある夜だとしても(2025)カメラマンの主人公が高校時代からの友人と久しぶりに食事をする。不器用な自分に比べれば完璧すぎる友人だった。
 その自由な瞳で(書下し)瞳でしか意志を伝えられない彼は、仮想世界では自由に動ける。私は高校を出たあと引きこもり、家から出られなくなった。
 本当は空に住むことさえ(書下し)仮想世界に住む著名な建築家と手伝いをする設計士に、土地を管理する役所から思いがけない提案がなされる。
 君の名残の訪れを(書下し)仮想世界ができる黎明期、同居していた友と移住した主人公だったが、その友は散逸で亡くなってしまう。

 ある作品での主人公が次のお話にカメオ出演したり、あるいは脇役が主役になって出てきたりといった形での連作になっている。舞台は情報人格が住む仮想世界と、VRやディスプレイで結ばれた現実世界で、この設定は共通する。

 LLMが話題になるほんの少し前、全脳エミュレーションとかマインド・アップローディングの議論がいろいろ行われたことがある。人の脳さえ完全にデジタル化されれば、ネットのインフラ(あるいはロボットの肉体)がある限り永遠に生きられるのではないか、という考え方である。本書では、それが実現した(といっても大きな社会的変化のない)未来が描かれる。

 重い病や高齢だけでなく、さまざまな動機で人々は仮想世界への移住を決意する。しかし、万能に見えた世界にも限界がある。永遠のはずの情報人格に「散逸」という死が訪れるのだ。そのため、仮想世界はあまり現実世界と違いすぎないように作られている。味覚や触覚さえ再現される。

 人の機微を表現するのに最適な設定と文章だろう。中高年と若者、祖母と孫、男と男、体の病と心の病、師(女)弟(男)関係、女と女と、いかにも現代的な関係性が描かれている。標題の「風になるにはまだ」とは、まだ風になる(=散逸)を受け入れずに生きてみる、という意味になる。ただ、ここまで現実と相似形の仮想世界となると、SFである意義が薄れてしまう。そこがちょっと気になった。

西尾康之『不死』くま書店

表紙:陰刻鍛造、FRP、油絵具:西尾康之《古き心臓をうち捨てたり》2012
装丁:木村貴信+青木春香(オクターヴ)

 精神病理学者の斎藤環が「「とんでもないものを読んでしまった」という感慨は、あの劉慈欣『三体』に優るとも劣らない」と評した長編小説。西尾康之は1967年生まれの彫刻家で、その分野では名が知られているが、10年ほど前に健康を害するほど没頭して書いた小説が本書の原型になった。肉体労働を伴う彫刻家では物理的な制約を伴う(著者は全長6メートルあまりの彫像を作る)が、小説ならばその制約から解き放たれると考えたという(本書の跋より)。

 特進高校は、異能を発現した生徒を集めた施設である。教師の出自はさまざまだったが「不死」の研究者という共通点があった。その中の1人によって開発された腐敗防止体はある種のバクテリアで、その作用により人間は変異を遂げやがて死ぬことがなくなる。分子単位に分解しても蘇生するのだ(この不死のアイデアは、先週紹介した天沢時生の「墜落の儀式」とよく似ている)。

 光子コンピュータHC=Human Chrysalisは、人類を凌駕する不可視の存在となる。250歳の主人公の1人は不死探求の歴史を語る。不死者で満たされた世界では人口が増えない。生活はHCが管理するため人々は芸術/工芸に従事する。やがて「死」奪還の方法論が盛んになる。形態を変えることに執着するものが現れ、自身を本や自転車の姿に変えたりする。その一方、昔ながらの高校や海底都市があり、猫型や人と変わらないアンドロイドがいる。芸術を強要する暴走自治が現れ、外骨格の衣服などが流行り、やがて反HCを掲げて軍の反乱が起こる。

 物語は、KとSというアルファベットで呼ばれる2人が数百年、数千年を生きる物語である。とはいってもステープルドン的な叙事詩ではない。大原まり子『ハイブリッド・チャイルド』川上弘美『大きな鳥にさらわれないよう』などの未来史や、異形の進化を描く筒井康隆『幻想の未来』を思わせる連作とも趣を違える。不死化した人類には(旧来の意味での)時間は流れないからだ。そのためか、攪拌されたエピソードをランダムに取り出すような、おもちゃ箱めいた構成になっている。一貫した物語を読むというより、展覧会の絵画なり彫刻を個別鑑賞するのに近い愉しみ方が適切かもしれない。

『紙魚の手帖 vol.24 Genesis』東京創元社

カバーイラストレーション:カシワイ
ブックデザイン:アルビレオ

 東京創元社の「紙魚の手帖」(雑誌形式の単行本)による「夏のSF特集 Genesis」も第3弾となる。第16回創元SF短編賞受賞作(2作品)を含め収録小説数は8作と昨年比で変わらないが、今回は短いものが多く分量的にはずいぶんコンパクトになった。

 雨露山鳥「観覧車を育てた人」金沢の廃遊園地で巨大な観覧車を育てる育鉄士がいる。単独ではまず不可能な技だ。その噂を聞いた記者は取材を試みる。
 高谷再「打席に立つのは」高校野球のレギュラーだった主人公だが、肝心の所でイップスが出てしまう。それを見かねたマネージャは自分との入れ替わりを提案する。
 レイチェル・K・ジョーンズ「惑星タルタロスの五つの場景」10年に一度、惑星タルタロスに囚人たちを積んだシャトルが降りていく。
 宮澤伊織「ときときチャンネル#9【高次元で収益化してみた】」インターネット3の情報を検証するサンドボックスが使えなくなった。無料期間が過ぎたためらしい。
 稲田一声「モーフの尻尾の代わりに」感情調合師のところにクレームが入る。もともとの依頼主は老犬の感情を希望していた。創元SF短編賞受賞後第一作。
 天沢時生「墜落の儀式」ナノマシン未接種者の大半が死に絶えたあと、死なない接種者は高層ビルからのダイブを遊びにしていた。復活できるからだ。
 理山貞二「キャプテン・セニョール・ビッグマウス」文化遺産連続窃盗の容疑者が捕まる。しかし被疑者は事件を認めるも、別に依頼人がいるとうそぶくばかり。
 小川一水「星間戦艦ゴフルキルA8の驚嘆」文明の抹殺を使命とする殲滅者の前に一人の旅人が現れ、すべてを見て回れと忠告する。

 今回の創元SF短編賞は2作品が受賞している。
「観覧車を育てた人」飛浩隆「「アイディアとドラマをどうレイアウトするか」という、だれもが悩む課題への回答としてお手本にしたいくらいだ。アイディアの独創性、それを実装する手際、ロマンティシズム、モチーフ(観覧車)の必然性と効果を隅々まで行き渡らせた」、長谷敏司「こういう要素の取り合わせと情報配置と、描写の抑制の関係は、一作家として、自分も見習うべきものだと、感心しました」、宮沢伊織「架空の歴史における架空のファミリーヒストリーを聞かされるという、それだけならひどく退屈になってもおかしくない話が、観覧車を一周する流れに乗せて語られることでスムーズかつ面白く読めてしまう。静かな物語だが、ラストの解放感もよかった」
「打席に立つのは」飛浩隆「率直なストーリーとプレーンなテキスト、身近な題材や葛藤、前を向く結末。「SF」ラベルにはややもすると、マニアックさや晦渋さ、ある種の独善性、そうした印象がつきまとうことを考えれば、むしろジャンルの最もコアな場所からこの作品を送り出す意義があるだろう」、長谷敏司「青春らしい人間関係や、心情の揺れ動きが、丁寧に描かれていて、それがSFの仕掛けによってドライブしてゆく。よいヤングアダルトSFだと思います」、宮澤伊織「意識交換アプリの名前が〈torikaebaya〉であることからもわかる通り、高校野球を題材にした男女逆転SFである。(中略)フックを軸にしたストーリーテリングが巧みで、野球に詳しくない自分でも非常に面白く読めた」

 対照的な2作品といえる。説明中心で動きが最小限の前者と、キャラを立てた青春小説の後者である。どちらも小説としてよくできている。選考委員の講評にも詳しく書かれているが、奇想のスケール感(文明を左右する技術なのに、金沢、家族、遊園地という狭い領域にあえて限定)と新規性(ありふれたアイデアをテック的に応用)をうまく補っている。とはいえ、これらはテクニカルな面の指摘であって、もう少し新人賞らしいパワー=破天荒さもあれば、とは思う。

 前号に続く唯一の翻訳「惑星タルタロスの五つの場景」はまさに技巧の産物、《ときときチャンネル》シリーズは快調、「モーフの尻尾の代わりに」は前作の設定を踏襲して捻りを加えたもの。自死が自死でなくなったワイルドな世界を描く「墜落の儀式」、久々の登場が目を惹く理山貞二の宇宙SF「キャプテン・セニョール・ビッグマウス」は、主人公が宇宙盗賊かと思うとちょっと違う方向に持って行かれる。同じく宇宙SF「星間戦艦ゴフルキルA8の驚嘆」は、設定通りのバーサーカーものとならないのがベテランの旨みだろう。この他、入門者向けベスト短編を議論する座談会を収める。

エミリー・テッシュ『宙の復讐者』早川書房

Some Disparate Glory、2023(金子浩訳)

Cover Illustration:鈴木康士
Cover Design:岩郷重力+A.T

 著者は英国在住の作家で主にファンタジイを書いてきた。ラテン語や古代ギリシャ語など“死語”の専門家で、古典語の教師をしていたこともあるという。初のSF長編である本書は、グラスゴーで開催された世界SF大会にて2024年のヒューゴー賞長編部門を受賞した作品である。また、この物語はダイアナ・ウィン・ジョーンズの『クリストファーの魔法の旅』から強い影響を受けたと語っている(著者インタビュー)。

 異星人との戦争に敗れ、地球は140億の人々もろとも滅亡した。主人公は〈ガイア・ステーション〉で暮らす17歳の戦士候補生だった。そこはわずか数千人が住む小惑星要塞で、反攻により人類の再興を図る拠点だと説明されていた。ただ、軍事独裁下の候補生には選択の自由はない。主人公は意に沿わない配属先を命じられる。

 絶望的な状況、敵は強大で味方は少数、勝てる見込みは少ない。この設定は《宇宙戦艦ヤマト》みたいだが、日本的な意味での悲壮感はない。遺された人類はスパルタ式に鍛えられている。とはいえ、極端な役割分担や男女間の性差別がまかり通るテロ集団にすぎないのだ。主人公はたまたま鹵獲した宇宙船の異星人と知り合ったことで、次第に真相を悟っていく。物語は全部で5部に分かれ、ちょっと意外な仕掛けが施されている。

 クィアや移民(異星人)差別、女の役割(『侍女の物語』風)など、現代的なテーマが取り入れられている。ただ、読んでみると《フォース・ウィング》的な(軍隊組織の)魔法学園を思わせる要素が多い。ワープ航法、宇宙戦艦、AI、ハッカーなどが出てくるものの、それらは魔法的なガジェットの位置付けだ。その点を納得できれば、テロリストに洗脳された高校生(相当の年齢)たちが、力を合わせて支配層の嘘を暴き、呪縛からの解放を勝ち取るまでの冒険物語として楽しめるだろう。

エドワード・ブライアント『シナバー 辰砂都市』東京創元社

Cinnabar,1976(市田泉訳)

カバーイラスト:八木宇気
カバーデザイン:岩郷重力+S.K

 エドワード・ブライアントを知る人は少ないだろう。もともと(競作の《ワイルドカード》を除けば)短編が中心の作家だったので、日本では雑誌やアンソロジーでの断片的な紹介が多く、単著翻訳は本書が初めてとなるからだ。ディッシュによって勝手にLDG(レイバー・デイ・グループ。マーチン、ヴァーリイ、ビショップ、マッキンタイヤら、SF大会で群れるエンタメ志向の作家たちを揶揄した言葉)に分類されたあげく、辛辣な評価を受けたことで話題を呼んだりもした。《シナバー》は架空の都市を舞台とする連作短編集である。いわゆる「名のみ高い幻の本」の一つで、半世紀を経て翻訳が出るとはまったく思われていなかった。

 シナバーへの道(1971)砂漠を越えて1人の流れ者がシナバーの外れにあるバーにやってくる。そこで奇妙な撮影クルーを連れたTVディレクターと出会う。
 ジェイド・ブルー(1971)時間編集機械を開発中の発明家と、乳母を勤めるキャットマザーが会話し、いつ戻るのか分からない研究者両親の帰りを待つ。
 灰白色の問題(1972)セックススターは、パーティの席で関係を持とうとする男たちと、とりとめのない駆け引きを続ける。
 クーガー・ルー・ランディスの伝説(1973)庭師が死んで、警察署長は記憶を失う。その事件には3人の夫を持つひとりの女が関係していた。
 ヘイズとヘテロ型女性(1974)タイム・トローリング装置がタイムトラベラーを捕まえる。それは少年でデンバーから来たと言うのだが、時間旅行のことは何も知らない。
 何年ものちに(1976)かつて役者だった父親も今は老いている。そして、毎日妻を相手にさまざまな行為を試しているが。
 シャーキング・ダウン(1975)海洋科学者が海底で作業中、ありえないほど巨大なサメに殺されそうになる。そのサメの正体とは。
 ブレイン・ターミナル(1975)終末に向かうピクニックが試みられる。目的地は町の中心だったが、どのルートを通っても近づけない。コンピュータが妨害しているのか。

 いつともしれない未来(数十年のようでも数万年のようでもある)、シナバーは海に面した孤立都市で、隣接する町とは砂漠に隔てられ交流もない。町の中心部と周辺では、時間の経過速度が違っているらしい。奴隷以下のシミュラクラたち、そしてまた、ネットワークのセックススター、キャットマザー、問題を抱える番組ディレクター、好事家の科学者、時代錯誤のネオ・クリーリストと頽廃的な人物たちが登場する。政府はなく、町をコントロールするコンピュータがその代わりを務めている。

 全部で8つの中短編から成る。バラードの《ヴァーミリオン・サンズ》(1971年刊、9編を収録)にインスパイアされていて、確かにあの砂漠の架空リゾートをイメージさせる設定にはなっている。ただ、ヴァーミリオン・サンズと比べると、シナバーの世界は人物の奥行きが浅いという印象だ。「ヘイズとヘテロ型女性」とか「シャーキング・ダウン」など楽しい作品はあるものの、「コーラルDの雲の彫刻師」のような際立った作品がない。逆にバラードになかった「何年ものちに」などのホラー/スプラッタ的な要素が本書の方にはある。

 冒頭にタオイズムからの引用があり、人々はフリーセックス、ヴァーリイ的なカジュアルな性転換や、縛られない奔放な生き方を実践する。これは、60~70年代に提唱されたフラワーチルドレンの思想に近いのではないか。また、ニューサイエンス(疑似科学)とまではいえないが、それらを許容する時代を反映している部分はある。(対象は本書ではないけれど)ディッシュに酷評されたのは、そういう時代性もあるかもしれない。

キャメロン・ウォード『螺旋墜落』文藝春秋

Spiral,2024(吉野弘人訳)

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デザイン:城井文平

 著者は英国の作家。数学の学位があり、ITや出版業界で働いた経験がある。他にもペンネームを持ち、サスペンスやスリラーに分類される小説を書いている。本書はタイムループものなので読んでみた。物語は中年のシングルマザーと、その成人した息子との2つの視点で進む。

 ロンドンからロスに飛ぶ旅客機に母親が搭乗している。この便では息子が副操縦士を務めているが、自分が同乗することを告げていない。数ヶ月前に父親の消息を巡って深刻な対立があり、わだかまりが解けていなかったからだ。ところが、到着の間際になって異常事態が発生する。機体のコントロールが失われ、墜落は避けられないと思われた直前、時間が1時間巻き戻ってしまう。一回だけではなく何度も何度も。しかも、繰り返し間隔はあるルールに従って短くなっていく。

 この密室劇とは別に、息子のロスでの父親探しがエピソードとして挟まれる。その正体は、事故の原因ともなる意外な結末とも結びついていく。

 他でも書いたが、タイムループはもはや説明抜きのアイデアとなった。本書でも、タイムリミット・サスペンスにおける時限爆弾と同程度の扱いだ(言葉の意味を知らない人は少数なので)。ただ、ゲーデルの時間的閉曲線という考えをとり入れたのはSF的で面白いが、それならループ内側の機内と外の(すべての)世界は連動しているのではないか、この結末は多世界の一つに過ぎないのではないか、などちょっと気になる点はある。