犬怪寅日子『羊式型人間模擬機』早川書房

装画:金井香凛
装幀:田中久子

 ダブル受賞だった第12回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作の2作目。犬怪寅日子は、コミカライズされた『ガールズ・アット・ジ・エッジ』の原作者でもある。カクヨムで小説発表をしているが、本書がデビュー作となる。

 主人公はユウ、ゆー、Uなどと呼ばれている。屋敷に住む一族に代々仕え、家事や雑用を一切切り盛りする不可欠の存在だった。中でも重要なのは羊に関する儀式だ。この一族では、家長が歳を取ると、ある日突然羊に変態するのである。

 物語はUの一人称で語られる。Uはアンドロイドであるらしい。とても長い間仕えてきたせいか、不調の兆しが散見される。また、一族の家系図が7代目まで遡って示されている。登場人物は多く、それぞれの人物の愛憎や特徴が描かれる。ただ、深くはなくスケッチのように淡々としている。一族やUの出自は、匂わされているが明らかにはならない。

 選考委員の評価(抜粋)は以下の通り。東浩紀:力作であるのはまちがいない。しかし筆者には読むのが辛く自己満足にも思われ、最低点となった。小川一水:今回もっともオリジナリティに富んだ一本だった。(略)文体の跳ねるようなリズムが好ましく、引き込まれた。神林長平:内容や描き方がぼくの個人的な琴線に触れたので最高点をつけた。選考会の議論中も、初読時に憶えた「凄み」の印象は揺らがなかった。菅浩江:とても好みの作品でした。語り口も世界観も、幻想文学になれている人には嬉しくなるたぐいです。塩澤快浩:オリジナリティは高く評価するが、(略)イメージの強さがプロットの弱さに勝っていないと感じられた。

 もう1つの作品に批判的だった選考委員2人だが、逆に本作を強く推している。本書には現代的な問題定義やSFガジェットはない(あっても薄い)。物語はフラットで、アンドロイド執事がえんえんとしゃべり続けるだけだ。なかなか読ませるが、その語りに没入できるか冗長と感じるかで評価は分かれるだろう。

 さて、表題では「人間模擬機」とあり、ここでの人間はわれわれの知っている人間ではなく、シミュラクラ=レプリカントという機械、あるいは人間もどきだと示唆される。また英題(表紙記載)はもっと直截的で「人間羊の畜殺アンドロイド」なのだ。だとすると、本書の一族は単なる羊の変種であって、つまり食肉家畜なのである。

カスガ『コミケへの聖歌』早川書房

装画:toi8
装幀:岩郷重力+R.M

 第12回ハヤカワSFコンテストの大賞受賞作。今回は『羊式型人間模擬機』とのダブル受賞である。作者のカスガは1974年生まれ、漫画家として複数の著作がありpixivでは小説も公開しているが、本書が作家デビュー作となる。

 イリス沢は僻地にある小さな村である。文明が滅びておよそ100年が経ち、多くの技術や文化が喪われていた。村も封建社会へと退行している。しかし村に住む少女たちは、遺されたわずかな本から知識を得て、廃屋を〈部室〉と名付け〈漫画同好会〉という〈部活〉をしていた。手描きマンガを回覧し、憧れの〈コミケ〉を目指すのだ。

 2030年代に気象の大変動と世界戦争が起こり、国内は文化を全否定をする強権政府(機械の破壊と焚書を行う)と反政府勢力との内戦で無政府状態となる。東京は致死性の赤い霧に包まれた《廃京》と化した。村人はバラックに住む小作人、豪農や中間層の農民、お屋敷の庄屋的な支配層に分かれる。村の外はノブセリ(野盗)が徘徊する危険地帯だ。ポストアポカリプス後の日本は、中世の身分制社会のようになる。登場人物の少女たち4人は、この社会的格差を象徴している。アンジェラ・カーター『英雄と悪党の狭間で』のような、60年代SFをを思わせるところもある。

 選考委員の評価(抜粋)は以下の通り。東浩紀:本作に最高点をつけた。(略)類型を利用して感動的な物語を破綻なく構築できている(略)。よいエンタメを読んだ。小川一水:絶望と希望の配分の妙により、今回一番の作品だと評価した。神林長平:(この設定でコミケに向かうのは)現実逃避を越えた自殺行為であって、それを救うのは真の創作活動しかない。だが、そこは描かれない。菅浩江:全篇、創作に向き合ってほしかった。(略)肝心の創作に対する熱意やより多くの同志への憧れ、が薄まってしまったと思います。塩澤快浩:SFコンテストの過去の大賞受賞作の中でも、完成度では最高レベル。

 神林長平、菅浩江は、もっと「創作」自体をテーマとすべき、と指摘する。たしかにこの少女たちはコレクターではなくクリエイターなのだから、死を賭した〈コミケ〉遠征には創作者としての動機づけが欲しい。だが、ディストピア(現実)の重みがそれを許さなかった、という著者の描き方も間違いではないだろう。主人公たちの問題意識が(ディストピア転生した)現代人で、暗黒期生まれたと思えないところがちょっと気になったが、なぜ「聖歌」なのかを問う結末は印象に残る。

眉村卓『EXPO’87』小学館

装丁:おおうちおさむ 山田彩純(ナノナノグラフィックス)

 『EXPO`87』はSFマガジンの1967年8月号から68年1月号に連載され、同年末に《日本SFシリーズ》の1冊として単行本化、その後1973年にハヤカワ文庫、78年に角川文庫版が出た眉村卓の初期長編である。1970年の(旧)大阪万博前に書かれ、長らく絶盤状態だったが《P+D BOOKS》(オンデマンドブックに近い廉価な装丁の叢書)で復刊した。舞台を執筆時の20年後に設定し、今でいう近未来サスペンスとした作品である。同シリーズの筒井康隆『48億の妄想』がブーアスティンの疑似イベントに材を採ったディストピア小説だったのとは対照的に、シリアスな社会派群像劇となっている。

 愛知県の安城市で開催される東海道万国博は、その17年前の大阪万博とは大きく意味合いを変えた博覧会だった。貿易自由化の圧力下でアメリカ巨大資本が日本市場に進出、残りのパイを財閥や非系列が奪い合うという構図が、そのまま会場のパビリオンに反映される異例の企業博となっていた。独立系の大阪レジャー産業は、万博を独自技術の実感装置をアピールするチャンスと捉え、身の丈を越える資金投入をしていた。

 政府は財閥の出身者に牛耳られ、女性主体の家庭党が台頭し発言権を増す。世界では核保有国が数十に拡大し不安定化が進み、外資に制圧された経済はネットワーク化が進む。街では電気自動車が主流となり、電話の代わりを映話が担う。群小のタレントは淘汰され、才能あるビッグ・タレントがオピニオンリーダーとなって万博反対を叫ぶ。一方、外資に対抗する秘密兵器、産業将校たちが姿を現す。

 もしこれを予言の書というのなら、1987年段階での的中率は高くないだろう(レトロ・フューチャー的な部分もある)。現代まで敷衍すれば、アメリカ政府が会社のCEOに支配され、日本の情報インフラは外資に制圧されたので、別の形で的中したと見なせるかもしれない。しかし、本書の本質は未来を予見することにはない。最大のポイントは「産業将校」の存在である。産業将校は(肉体、知能の)実務能力を極限まで高めたスーパーエリートなのだが、『ねらわれた学園』を支配するグループとよく似ている。合理的で無駄がないからと民を意図的に操り、独裁を目指すエリートはどんな社会からでも生まれてくる。それでいいのか、と眉村卓は警鐘をならすのだ。

馬伯庸『西遊記事変』早川書房

太白金星有点烦,2023(齊藤正高訳)

扉イラスト:月岡芳年
扉デザイン:水戸部功

 著者は1988年生まれの中国作家、昨年出た『両京十五日』(2022)は歴史ミステリ/冒険小説として一躍話題を呼んだ(『このミステリーがすごい!2025年版』の海外編1位)。代表作『長安二十四時』などのドラマもヒットしている。本書はちょっと変わった切口で書かれている。歴史ものではなく、誰もが知る『西遊記』で玄奘三蔵や孫悟空はもちろん出てくるが、(原題を見ても分かるように)主人公が神仙の太白金星(李長庚)なのだ。

 天庭に属する啓明殿の殿主、老神仙の李長庚に、玄奘が経典を持ち帰る旅を支援せよとの指示が下りる。これは玄奘の属する仏祖霊鷲山(りょうじゅせん)から、天庭の霊霄殿(れいしょうでん)に直々に依頼されたものだった。管轄外のはずの謎めいた指示書を見て李長庚は思案する。観音とともに玄奘に八十一の試練を与え、仏へと昇格する実績を積ませろというのだ。旅の供となる弟子、猪八戒や沙悟浄たちも、すべて有力神の後ろ盾を持つ曰わくものばかり。そして、天界を荒らした斉天大聖(孫悟空)が五行山から解き放たれる。

 主人公は天庭(道教)の官僚である。仏祖(仏教)は天界で同格の勢力であり、官位やその地位を巡ってそれぞれの思惑がひしめいている。玄奘に与えられる試練は箔付けのために仕組まれた茶番にすぎないが、利害を持つ他の組織から妨害や横やりが次々入ってくる。李長庚はそれらをうまくいなし、ミッションを成功させないといけない。自分の出世に関わるからだ。猿の身で天界に上がろうとする孫悟空にも背景となる裏事情があった。

 この作品を、著者は大長編を書いた後の筆休めに(1ヶ月余で)書いた、とうそぶいている。といっても、並の長編の(一千枚は切る)長さはあるし、複雑怪奇な天界の権謀術数を西遊記の記述に倣って描くという離れ業なので、とても書き飛ばしの作品とは思えない。一心不乱に書き進められる没入型の作家なのだろう。漢字だらけで登場人物多数、舞台となる唐帝国や『西遊記』が完成した明の時代(さらには現代まで)を反映した複合的な小説ながら、一気呵成に読み進められる。

T・キングフィッシャー『死者を動かすもの』東京創元社

What moves the Dead,2022(永島憲江訳)

装画:河合真維
装幀:岡本洋平(岡本デザイン室)

 T・キングフィッシャーは1977年生まれの米国作家、イラストやコミックで活躍するアーシュラ・ヴァーノンの筆名である。アンドレ・ノートン賞など多数を受賞したヤングアダルト向けの『パン焼き魔法のモーナ、街を救う』(2020)が、3年前に翻訳されている。本書は、ポーの短編「アッシャー家の崩壊」(1839)のオマージュというか、新解釈作品とでもいえるもの。原著の雰囲気を生かしながらも全く新しい作品にしている。2023年のローカス賞ホラー部門受賞作

 幼なじみの親友からの手紙を受け、退役軍人の主人公は友が住むという館を訪れる。そこは沼の畔に建つ大邸宅だったが、恐ろしいほど荒れ果てていた。出迎えてくれた双子の兄はひどくやつれており、妹は床に伏せっている。館には、他に滞在中のアメリカ人医師がいた。館の周りには奇妙なキノコが生え、熱心に観察する菌類愛好家と称する女性と知り合う。

 ポーの原著は謎が明らかにされないまま終わっているので、そこを補完する物語を書きたかったのだという(著者あとがき)。どういう話になったのかは、書名で見当がつくかもしれない。さらに、東欧か中欧かにある架空の国ガラシアの「宣誓軍人」を主人公に配している。それってなにと思った人は本編を読んでいただきたい(同一主人公の続編も既に書かれている)。キノコの専門家まで出てくるので、ホジスン池澤春菜を連想した人もいるだろう。

 結果として、本書は「怪奇な」ポーとは趣の異なる「ホラーな」作品となった。幽霊や呪いのような超自然現象ではなく、SF的で説明可能な(マニアックな)範疇に収めたところが本書の新たな視点といえる。

ジーン・シェパード『ワンダ・ヒッキーの最高にステキな思い出の夜』河出書房新社

Wanda Hickey`s Night of Golden Memories And Other Stories,1966/1971(若島正編訳、浅倉久志訳)

装画:MISSISSIPPI
装丁:森敬太(合同会社飛ぶ教室)

 ジーン・シェパード(1921~99)の初単行本となる。原著2冊から抜粋した日本オリジナル版。著者はラジオのパーソナリティや映画 A Christmas Story(1983)の原作者/脚本家としてアメリカでは有名なマルチタレントで、一方、スリック雑誌に掲載されるユーモア小説の書き手でも知られていた。本書に含まれる「スカット・ファーカスと魔性のマライア」は、ソフトなユーモア小説を好んだ浅倉久志の訳になる(もともと、新版《異色作家短篇集》の若島正編『狼の一族』に収録)。

 雪の中の決闘あるいはレッド・ライダーがクリーヴランド・ストリート・キッドをやっつける(1965)広告に載ったBB銃をクリスマスプレゼントに欲しい小学生の主人公は、あらゆる手段で両親にアピールするが失敗し続ける(映画原作の一部)。
 ブライフォーゲル先生とノドジロカッコールドの恐ろしい事件(1966)6年生の国語の授業では、毎週読書感想文を提出しないといけない。題材に困った主人公は、ある日両親の寝室で先生に受けそうな小さな活字の本を見つけ出す。
 スカット・ファーカスと魔性のマライア(1967)不良のファーカスのコマは無敵で、誰との勝負でも負けることはなかった。主人公は密かに手に入れたコマで競おうとする。
 ジョゼフィン・コズノウスキの薄幸のロマンス(1970)隣家のポーランド人の一家には、同い歳で美人の女の子がいて、なんと主人公をパーティに誘ってくれる。
 ダフネ・ビグローとカタツムリがびっしりついた銀ピカ首吊り縄の背筋も凍る物語(1966)憧れの転校生と知り合いになり映画に誘うことに成功したものの、相手は身分違いの富豪の娘で対応の仕方に戸惑うばかり。
 ワンダ・ヒッキーの最高にステキな思い出の夜(1969)高校生最後の夏に開かれるダンスパーティこそが、大人への通過儀礼だった。そう思い込む主人公たちだが、パートナーに誰を誘うかが問題になる。

 30~60年代頃のインディアナ州北部、製鉄所がある企業城下町ホウマンが舞台(現在ではラストベルトと呼ばれる衰退した地域だ)。煤煙にまみれながらも誰もそんなことは気にせず、多くの工員が活気にあふれた生活を送っていた。主人公は工場労働者家庭の子ども(前半3作では小学生、後半は高校生)。学校は富裕層や移民の子女とも共学で分断はなく、(プロテスタントに対する)カトリックが異文化的に揶揄されるくらいで、将来の希望を疑わせるものは何もない。一人称「わたし」が過去をふりかえる形で語るのは、クリスマスプレゼントや読書感想文、喧嘩ゴマにやきもきする子どもや、女の子で頭がいっぱいの(うぶでまぬけな)高校男子の物語である。

 編訳者若島正は、シェパードには言いようのないノスタルジアを抱く、と書く。編訳者はこの時代のアメリカに住んでいない。純粋な読書遍歴に基づく感慨なのだが、黄金期のアメリカTVドラマ(ホームコメディ)などを親しんだ世代ならば、シェパードの庶民的でユーモラスな家族に共感できると思う。もっとも、シェパードはホームドラマを体現した人物ではない。家庭を顧みない人だったらしく、自伝と称する本書でもフィクション=嘘を多数含めた。(人種問題もジェンダー問題も隠された)過去だからこそのユートピア感、幻想味を強く感じさせる。

 ところで、シェパードとSFとは関係がある。ラジオ番組中に話した架空の本Frederick R. Ewing 作 I, Libertine,1956(存在しないのに注文が殺到し、ベストセラーになったため急遽出版された) をゴーストライトしたのがシオドア・スタージョン(共著扱い)だったのだ。スタージョンは他にエラリイ・クイーン『盤面の敵』(1963)のゴーストライトもしていて(やむを得なかったのだろうけれど)そこそこは稼げたのかもしれない。

劉慈欣『時間移民』早川書房

时间移民,2024(大森望、光吉さくら、ワン・チャイ訳)

装画:富安健一郎
装幀:早川書房デザイン室

 早川書房から出ている『円』の姉妹編にあたる短編集。全部で13編を収録し(KADOKAWA版2冊を含めれば)これで著者の中短編はほぼ網羅された。既存3冊に含まれなかった作品にもかかわらず、残りもの的な半端感はない。軽重兼ね備えた内容があり『円』と併せれば、濃縮版劉慈欣として楽しむことができる。

 時間移民(2010)環境汚染と人口爆発から逃れるため、人工冬眠による未来への移民が実施される。計画人数は8000万人に及び、目覚めは120年後だった。
 思索者(2003)脳外科医の主人公は、急患が出た天文台で若い天文学者と出会う。彼女は恒星の瞬き(シンチレーション)を研究しているという。
 夢の海(2002)突然空中に現れた球体は、自らを異世界から来た「低温アーティスト」と名乗った。創作意欲に駆られたと称して、氷の収奪を強行するのだ。
 歓喜の歌(2005)国連最後の演奏会が開かれていた夜、夜空に異変が生じる。もう一つの地球が出現したのだ。正体を確かめるべくスペースシャトルが接近する。
 ミクロの果て(1999)世界最大の粒子加速器によるクォーク衝突実験が行われる。しかし、大統一理論の実証を企図した実験結果は思わぬ現象を生む。
 宇宙収縮(1999)宇宙の収縮が始まるらしい。それは遠宇宙で起こる現象に過ぎず、地球への影響はないと思われた。けれど、予測した教授の考えは違うようだった。
 朝(あした)に道を聞かば(2002)地球を一周する粒子加速器〈アインシュタイン赤道〉が突如消滅する。人の姿を模した非人類「リスク排除官」が理由を語る。
 共存できない二つの祝日(2016)青色惑星の誕生の日はいつなのか。惑星の生物が地球を離れた日こそ誕生日になるはずだった。
 全帯域電波妨害(2001)内戦の勃発とそれに呼応したNATO軍の侵攻により、ロシアは劣勢に立たされる。反攻のためには、圧倒的に不利な電子戦での挽回が必須だった。
 天使時代(2002)絶望的な飢餓を克服するため、アフリカの小国で倫理的に許されない技術が用いられる。アメリカは空母打撃群の軍事力により殲滅を図る。
 運命(2001)ワームホールに落ち込んだことに気づかなかった宇宙船は、衝突軌道にあった危険な小惑星を移動させるのに成功する。しかし、戻って見た地球の姿は。
 鏡(2004)そのターゲットは警察の内部情報ばかりか、リアルタイムの行動まで把握しているようだった。ターゲットは気象シミュレーションのエンジニアだという。
 フィールズ・オブ・ゴールド(2018)発射時の事故により帰還不能となった宇宙船に、冬眠状態で延命を図る1人の宇宙飛行士がいた。世界から救援の声が上がるが。

 冒頭から4作「時間移民」「思索者」「夢の海」「歓喜の歌」までは、いかにも劉慈欣らしい悲壮感と希望とが混ざり合う正統派SF作品だ。

 《三体》の主人公でもある天才科学者、丁儀または丁一(どちらも、発音はディン・イー)ものが「ミクロの果て」「宇宙収縮」「朝に道を聞かば」「共存できない二つの祝日」の4作品である。お話としての関連性はないが、初期(1999年)2作の集大成として3年後の「朝に道を聞かば」が書かれ、《三体》に発展していくと考えればつながってくる。その後の「共有できない二つの祝日」は(科学者といえば丁なので)スターシステム的に割り当てられたのだろう。

 劉慈欣のミリオタ的な嗜好と、親露的な価値観がないまぜとなった「全帯域電波妨害」、傲慢なアメリカを描く「天使時代」は他の国では書きにくいお話といえる。とはいえ、ウクライナに侵攻するロシアや、ガザを空爆するイスラエルとも相似するのだから、人類の醜い本質を突いた作品ともいえる。

 これらの中で最大の異色作は「鏡」だろう。気象エンジニアが見せるものはシャーレッド「努力」に出てくる装置と(理屈は違えど)同じものである。しかし、ここではもう一歩踏み込んで、あからさまな真実が常に正義なのかという疑問を問う。正義を貫くために社会が毀れても良いのか、という異論をあえて置いている。著者にしては珍しい政治的な主張である。

ロジャー・ゼラズニイ『ロードマークス』新紀元社

Roadmarks,1979(植草昌実訳)

装画:サイトウユウスケ
装幀:坂野公一(welle design)

 G・R・R・マーチンによるHBOドラマ化が契機でこの新訳が出たようだ(ただ、発表から4年が経ったが、《ハウス・オブ・ザ・ドラゴン》で佳境に入っている制作者マーチンの状況を見るに、直ちにドラマ化が始まるとは思えない)。サンリオ文庫版が出て44年になる。当時人気絶頂だった(が、1995年と早くに亡くなった)ゼラズニイの残香をよみがえらせながら読むのも好いだろう。

 この世界のどこかに〈道(ロード)〉がある。それはふつうの高速道路のように見えるけれど、さまざまな時間と空間を自在につなぐものだ。主人公はダッジのピックアップ・トラックに乗って、道路をひた走る運び屋。相棒は詩集の形をし、時に詩を朗読するコンピュータである。しかし彼には敵がいる。差し向けられた〈黒の十殺〉が隙を狙って命を奪いに来る。

 たしかにシリーズ化に向いた作品だと思う。時空自在のタイムトンネルのような設定ながら、旧式のピックアップ・トラックで走るというポップさがある。未来や過去、ギリシャや中世など行き先は自由自在、敵もガンマン、拳法の達人からロボット戦車、ティラノサウルス、マーチンが得意とするドラゴンまで(表紙イラスト参照)何でも出てくる。

 ゼラズニイには、文体やテーマも含めたスタイルへのこだわりがあった。とにかくかっこいいのだ。けれど、多くの翻訳が出た1980年代でも、スタイルだけでは長編は苦しいとの批判がくすぶっていた。本書もエピソードが短く小気味良い一方、全体を通した印象はかなり冗漫だ。つまり、ストーリーを追うのではなく、個々のスタイルを楽しむべき作家だったのである。

 ゼラズニイで新刊入手可能なのは、中短編集『伝道の書に捧げる薔薇』(1971)と、クトゥルーもの長編『虚ろなる十月の夜に』(1993)だけになった。解説でも書かれているが、最初に読むのならスタイリッシュさのテンションが切れない(往年の活力がある)中短編集の方を推奨したい。

 付記:今日届いたLOCUS誌の訃報欄で、ゼラズニイの息子でSF作家でもあるトレント・ゼラズニイが亡くなったことを知る。父親よりも若い48歳だった(父のトリビュート・アンソロジーなどを出していた)。

十三不塔『ラブ・アセンション』早川書房

カバーイラスト:シライシユウコ
カバーデザイン:伸童舎

 2020年の第8回ハヤカワSFコンテストで、竹田人造と共に優秀賞を受賞した十三不塔の書下ろし長編。竹田人造は2年前に受賞第1作を書き下ろしているので、これで両者とも並んだ形になる。受賞作ではキャラの造形に関する指摘があったのだが、それに応えたのか、本書ではキャラ主体の作品を仕上げてきた。

 軌道エレベーターを舞台とする配信番組、恋愛リアリティショー「ラブ・アセンション」が開催される。1人の男=クエーサーに対して12人の女性が自己アピールで競い合い、エレベーターの階層を上がるたびに脱落者が決まるというルールだ。女たちには特異なスキルがあり、それに劣らぬ個別の動機がある。さらにクエーサーには隠された過去が、またスタッフにも表に出せない思惑がある。しかも、正体不明の地球外生命まで関係しているらしい。

 各登場人物の独白やインタビュー、放送を意識した女たちの小競り合いや、裏方のスタッフ同士の軋轢などで物語は波乱含みで進む。地球外生命は、ミステリ要素を高める小道具として扱われる。この設定で書くのだからラブコメに違いない、と思い込むと意表を突かれる。

 リアリティショーは台本なしなので本物に見えても、実際は演出のある虚構(フィクション)にすぎない。それは出演者も視聴者も分かっている(が、あえて種明かしはされない)。本書の場合は、この作品自体が最初から最後までリアリティショーというのが特徴だろう。もちろん小説なのだから虚構は当然なのだが、登場人物(出演者だけでなく制作側まで)の心理描写やセリフ回しも、小説中に置かれたショーの一部のようになっている。ここまではショー=偽物、ここからはリアル=本物(配信番組の外)といった境界があいまいなのだ。不思議な印象を残す作品である。

市川春子『宝石の国(全13巻)』講談社

装丁:市川春子

 『宝石の国』は、月刊アフタヌーン誌の2012年12月号から2024年6月号まで、途中休載を挟みながらも12年間108話分連載された長大な作品である(単行本は2013年~24年)。2017年にはアニメ化がされ、本編完結後には第45回日本SF大賞最終候補作に選ばれている。少女戦士ものの学園ファンタジイに見えたお話が、最後には壮大なポストヒューマンSFとなっていく過程は他に類を見ない。硬質で乾いた地上や、曲面を多用する水中、ぬめぬめとした月世界の描写などはバンド・デシネの細密画を連想する。

 何の取り柄もなさそうな主人公フォスフォフィライトは、夜を担当し毒を分泌するシンシャやダイヤモンド属らと交流するが、襲来する「月人(つきじん)」が残した巨大なカタツムリに飲まれて、海中でその生き物の正体知り、海から帰還するも手足を喪う。
【以下はコンデンスされた要約(AIは使っていません)】
 月から次々と分裂する奇妙な生き物が来る。「先生」は何か知っているようだ。他の宝石たちと交わる中でフォスは成長するも、傷つき修復されるたびに人格が混ざり合い性格が変わっていく。「先生」には禁忌があり肝心のことを説明しない。月には内部からせり上がる金属で作られた都市がある。フォスは月人がどういうものかを知り、仲間の再生のために決断を迫られる。しかし、そうするには「先生」を自分に従わせる必要があるのだ。

 「先生」と呼ばれる僧侶姿の金剛と、28人の宝石である「生徒」たちは、草原のただ中にある「学校」に住んでいる。彼らは上半身が少年、下半身が少女の姿をしているが、性別はなく有機生命ですらない。硬度がさまざまな文字通りの無機物=宝石なのだ。硬さの反面砕けやすいが、つなぎ合わせることで元に戻せ、何万年も生きられる。地上には彼らしかいない。かつて人間だったものは、魂(月)と骨(宝石)と肉(海中)に分かれ別々に生きるようになった。しかし、フォスの登場でその関係は不安定になる。

 物語は終盤近くになって凄惨さを増し大きく流転する。(詳細は読んでいただくとして)第12巻では、人類が滅びた後なぜ彼らが分離し、何を目的に生存してきたのか、世界の秘密と始まりが明らかになる。宝石たちの物語はそこで終わっている。2年後に出た最終の13巻は、これまでとは一変する。神と(人形を有しない)無機物たちの黙示録めいた会話(といっても、形而上の難しいものではない)だけで成り立っているからだ。つまり、現世を超越したステープルドン的な神話となって終わる。