ペン・シェパード『非在の街』東京創元社

The Cartographers,2022(安原和見訳)

装画:引地 渉
装幀:岩郷重力+W.I

 著者はアリゾナ生まれの米国作家。多くのファンタジイ作品を含む創元海外SF叢書に相応しく、本書は地図(原題はカルトグラファーズ=地図制作者たち)をテーマとしたアーバン・ファンタジイである。複数のベストセラーリストに名を連ね、2023年のミソピーイク賞の最終候補作にもなった。

 主人公はレプリカの古地図を制作する小さな会社でくすぶっている。地図学者として将来を嘱望されながら、7年前にニューヨーク公共図書館で上司である父親との深刻なトラブルを引き起こし、業界に残ることができなくなったのだ。しかし、父の突然の死が知らされ、遺品のような形で古い道路地図が手に入る。ガソリンスタンドで売られた何の変哲もない地図が、なぜ厳重に保管されていたのか。その日を境に、奇妙な事件が立て続けに発生する。

 幼い頃に母を亡くし、主人公は図書館の地図に囲まれて育つ。トラブルも地図にまつわる出来事だった。やがて、道路地図を捜す謎の人物が見え隠れし、秘密結社のようなカルトグラファーズの存在を知る。地図には「非在の街」が載っているのだ。

 アメリカは車がなければどこにも行けない国である。国土の大半が茫漠とした田舎だからだ。今でこそGoogleマップのせいで廃れたが、折りたためる地図は当時の必需品であり、販売各社の競争も激しかった。そのため、地図会社は著作権を守るためコピーライト・トラップを入れる(詳細は著者あとがきに書かれている)。とはいえ、これは設定の一部に過ぎない。フィクションとファクトをつなぐ『夢見る者の地図帳』に憑かれた男女大学院生たちの青春ドラマが主眼なのであり、15年前の事件について一人一人が物語られていくことで、真相と今に至る犯人の目的が明らかになっていく。悪役の怖さがちょっと伝わり難いのが難点だが、当たり前の道路地図から展開する謎の解明はスリリングだ。ル=グイン(サンリオ表記)『天のろくろ』がヒントになる、といっても最後まで読まないと分かりません。

鈴木光司『ユビキタス』KADOKAWA

装画:Sarah Jarret 「Woodland Sleeper」
装幀:坂野公一(welle design)

 2022年2月から翌年3月まで電気新聞に連載後、約3分の1を書下し/改稿したものが本書。著者は、参考図書の筆頭に植物の知性を唱えるステファノ・マンクーゾを据え、「地球生命の歴史を植物視点で眺めたらどうなるか」という発想で書き始めたと述べている。

 帰還した南極観測船の自衛官は、友人たちに南極氷を贈った。余った氷の融通は問題ないからだ。その氷は地下3000メートルから採取された古代氷だった。同じころ一人の探偵が、元不倫相手の仲介で孫を捜す老夫婦の話を聞く。実在したかどうかも分からない孫なので成功はおぼつかないが、困窮するシングルマザーの探偵に破格の報酬を断る理由もなかった。

 前者は原因不明の死亡事件に、後者は15年前のカルト教団集団死事件となって結びつく。登場人物は、主人公の探偵、医学から物理に専攻を変えた大学准教授、教団のドキュメンタリーを書いたジャーナリスト、若手の週刊誌記者、事件の鍵を握る謎めいた女占い師らである。主人公は行動派の探偵だが、謎の解明を主導するのは准教授になる。ただ、舞台が2026年頃の割に、人物たちの考え方、家族観や倫理観などが現代的に思えないのは気になる。

 本書ではSFでおなじみのアイデアがたくさん投入されている。南極の氷に潜む「物体X」(キャンベルの古典「影が行く」あるいは、黒場雅人『宇宙細胞』など)とか、ヴォイニッチ手稿シモンズ『オリュンポス』)が出てくる。これをクトゥルーにしてしまうとコリン・ウィルスンの二の舞(『賢者の石』)だが、そこは遺伝子に絡め(グレッグ・ベア『ダーウィンの使者』)今日的なパンデミック風、植物の優位性を生かした社会形成の方向(津久井五木『コルヌトピア』)にまとめている。ただし、本書のエピローグは蛇足ぎみ。

 もっとも、本書は全構想の一部に過ぎず、「実は4部作を予定していて、もう大まかな構想はできているんですよ。第2部はアメリカが舞台で、第3部は大航海時代の物語。そして第4部では人類の宇宙進出を描く」とあるので、先々の展開は楽しみだ。

スチュアート・タートン『世界の終わりの最後の殺人』文藝春秋

The Last Murder at the End of the World,2024(三角和代訳)

カバー画像:iStock/Getty Images
装幀:城井文平

 著者は1980年生まれの英国作家。デビュー作のベストセラー『イヴリン嬢は七回殺される』(2018)は、新奇性のあるタイムループ×殺人事件ものとしてSFやミステリ界隈でも話題になった。本書はタートンの長編3作目にあたり、既訳の『名探偵と海の悪魔』(2021)を含め(広義の)クローズド・サークルもの3部作になるらしい。今回の舞台はアポカリプス後の島なので、確かに閉鎖された環境(第1作=時間の輪、第2作=洋上の船、本書=閉ざされた島)という点で共通する。

 ギリシャのどこかを思わせる閉ざされた島、周囲にはバリアが張り巡らされ、死の霧が侵入するのを押しとどめている。世界はその霧によって滅び、百人余りの村人がかろうじて生き残っただけなのだ。村は科学者の長老たちによって支配されている。村人の頭の中には助言者エービイが棲み、仕事や睡眠の時間まで指図をする。そんな秩序が保たれた島で、ありえない殺人事件が発生する。

 外見は若いのに村人の何倍も生きる長老たち、頭の中で聞こえる声、コントロールされた村の生活や山中に作られたドーム、このあたりの謎は物語の半ばまでで徐々に明らかにされる。そして、殺人事件の発生により、島の生活は一気に不安定化する。後半は、混乱の中での犯人捜しと犯行動機を探るミステリになる。SF的なガジェットを制約条件として巧く使い、不可解な殺人(=特殊設定)の謎を解きほぐしていくのだ。

 ウィンタース『地上最後の刑事』に始まる3部作は、破滅が目前に迫る中でのミステリなのでよく似た設定といえるが、こちらは謎めいた破滅後(ポストアポカリプス)の世界に、たたみ掛けるように第2の破滅が迫ってくる展開が予想外で面白い。

人間六度『烙印の名はヒト』早川書房

デザイン:有馬トモユキ(TATSDESIGN)
イラスト:まるい

 著者は第9回ハヤカワSFコンテストの大賞受賞と、第28回電撃小説大賞を同時受賞して以来、メディアワークス(KADOKAWA)などで楽曲のノベライズやコミック原作ものを書いてきた。また、昨年10月には、小説すばる掲載作を集めた短編集『推しはまだ生きているか』を集英社から一般読者向けに出して注目を集めた。本作はサイバーパンク+AIをテーマとする、オリジナル作品としては初の長編単行本である。

 2075年、主人公はケアハウスに勤める介護肢(ケアボット)と呼ばれるウェイツ(重い装備のロボット)だった。施設にはネオスラヴとの戦争で傷ついた兵士らが収容されている。武器と一体化した彼らは、暴走すると危険なのでケアボットが不可欠なのだ。その患者の一人、老齢の博士と主人公が絡む不可能犯罪の発生が大事件の始まりだった。

 ウェイツは独占企業ヨルゼンによって生産されている。老科学者は会社と繋がりがあるらしい。事件後、ウェイツに人権を与えよと叫ぶウェイツ主義者と、テロによる排斥を図る反擁護派ラダイトとが衝突する。登場人物は多く、片腕だけを武器化した傭兵、思いを寄せる同僚の介護肢、拳闘肢、秘書肢、改造人間ヨコヅナ、VTuberのような配信者などが入り乱れる。心象庭園(マインドパレス)とか、体の王国(フィジック・モナキー)とかの独特の用語も飛び交い、最後は月にまで舞台を広げ一大カタストロフという展開になる。

 物語としてはラノベのスタイルだろう。50年後の近未来が舞台でも、今現在の社会や政治を敷衍するリアルさを追求するのではなく、物語独自の規範・倫理観を重視しているように思える。ウェイツ=ロボットが人であるかどうかより、むしろこの世界のヒトがモンスターに見えてくるのが面白い。

赤野工作『遊戯と臨界 赤野工作ゲームSF傑作選』東京創元社

Illustration:飯田研人
Cover Design:森敬太(合同会社飛ぶ教室)

 架空ゲーム評の本『ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム』(2017)で知られる著者の最初の短編集である。副題にあるとおり、すべての作品が何らかのゲームにまつわるお話であるのが特徴だろう。全11編中6編はWebカクヨムで公開(現在は読めない)、4編が紙魚の手帖などの雑誌やNOVA掲載作、書下ろしが1編となっている。

 それはそれ、これはこれ(2021)ゲームの返金を求めるカスタマーがサービスと会話をする。しかし返ってくる質問はどこか的外れで、そんなことを訊く理由が読めない。
 お前のこったからどうせそんなこったろうと思ったよ(2018)フレーム単位で対戦相手を見切るゲーマーが、即時性の望めない月在住のライバルとあえて勝負をする。
「癪に障る」とはよく言ったもので(2022)海底ケーブル保守会社の入社式で、話し下手な幹部が語る会社発展の契機ともなったゲームソフトの特性とは。
 邪魔にもならない(2018)古典的なゲームのスペランカーをクリアするRTA(リアル・タイム・アタック)は、6分以内がタイムリミットだった。
 全国高校eスポーツ連合謝罪会見全文(2021)eスポーツ大会で退場処分を下した審判の判定を巡って、謝罪に追い込まれた理事長の説明と質疑応答の全容。
 ミコトの拳(2021)主人公は自分がゲーム中の仮想キャラクターだと思い込んでいた。その状況を越えるためには、大岩を正拳で打ち抜かねばならない。
 ラジオアクティブ・ウィズ・ヤクザ(2022)博打打ちの男が、放射性物質の違法所持で追われている。それは前代未聞のイカサマに関わるものだった。
 これを呪いと呼ぶのなら(2024)ネット発言が原因で業界から離れていた男が、久しぶりに仕事に復帰、呪いがかかると噂される中東を舞台にしたゲームをプレイする。
 本音と、建前と、あとはご自由に(2021)VTuberの主人公が裁判で尋問されている。配信したゲームが、反政府活動に関与したと認定されているからだった。
 〝たかが〟とはなんだ〝たかが〟とは(2024)1989年、ハンガリー国境からオーストリアへ逃れようとするロシア人科学者が手土産として持ち出そうとしたものとは。
 曰く(書下し)主人公は、孤独死したゼイリブ好き先輩ゲーマーに取り憑かれる。ひたすら般若心経を唱えて鎮めようとするのだが。

 表現が一人称とは限らないものの、多くの作品が一人称的な独白(一人の視点)で綴られている。Q&A、記者会見、尋問などの形式で、会話風に状況が明らかになるものもある。これらは、社会や世間に対してメッセージを叫ぶのではなく、とにかく聞いてくれる人(理解は求めない)に蘊蓄を語りたいというゲーマーの孤独感を象徴するかのようだ。

 小説のバランス的には、過度に執拗だったり逆に説明不足なものもあって、少しばらつきを感じる。ただ、それもまたゲーマー心理を反映しているのかもしれない。主人公がしだいに狂気に蝕まれていくホラー「これを呪いと呼ぶのなら」、頭のおかしい(褒めていません)諜報員と冷めた亡命科学者の対比が面白い「〝たかが〟とはなんだ〝たかが〟とは」が特に印象に残る。

村田沙耶香『世界99(上下)』集英社

装丁:名久井直子
装画:Zoe Hawk

 月刊文芸誌すばるの2020年11月号から24年6月号まで、休載を挟みながらも3年8ヶ月にわたって連載された著者最長(1500枚を超える)の大作である。もともとは既存短編「孵化」(2018)で描かれた「性格のない女性」を、とことん拡張・追求した内容を目指したものだという(ダ・ヴィンチ2025年4月号インタビュー記事)。しかし物語は半ばあたり(下巻)で様相を変え、著者の初期構想を超えた異形の世界が姿を現す。

 主人公は新興住宅街クリーン・タウンに住む少女だった。幼少の頃から空気が読め、その場その場で性格を変えられた。迎合するのではなく、無意識に周囲の感情を「トレース」し自分を分裂させるのだ。「からっぽ」だからできることだった。主人公は父の自己満足に「呼応」して高価なピョコルンを手に入れる。

 ピョコルンはガイコク(外国)の研究所で偶然生まれた人工動物で、飼い主に可愛がらなくてはいけないと強制する力を備えている。その一方で人にラロロリンDNAというものが見つかり、優れた才能があると優遇される反面、大多数の非保有者からはいわれのない差別を受ける。主人公はそういう社会で、そらちゃん、キサちゃん、そらっち、そーたん、姫、おっさんと、次々人格を変えて流されていく。しかし、ピョコルンに隠された驚くべき秘密が明らかになってから、自身の運命もまた大きく変貌するのだ。

 この物語は、まず社会のリアルを提示していく。DV(家庭内の言葉による虐待)、セクハラ・痴漢行為、男女間のあからさまな格差、ウエガイコク(欧米的なもの)とシタガイコク(それ以外)という差別、ラロロリン遺伝子保有者に対する暴力、そしてまた集団の同調圧力によるさまざまな苛めなど、今ある問題を凝縮化したもの、あるいはデフォルメといえる。

 しかし著者はそこにとどまらず、SF的な思考実験を投入する。性行為や生殖と婚姻の分離(これは初期作以来何度か描かれた)ができればどうか、哲学的ゾンビ(人間ではないのに見分けが付かないもの)とリアルな人とに違いはあるのか、個人記憶の改変と共有により人はどう変わるのか。後半は、もはやディストピアやアンチユートピアとかの分類には当てはまらないだろう。人間という存在の奥底、誰もが見たことのない(望みもしない)、異質かつ異様な世界が浮かび上がってくる。

ロブ・ハート『パラドクス・ホテル』東京創元社

The Paradox Hotel,2022(茂木健訳)

カバーイラスト:シマ・シンヤ
カバーデザイン:岩郷重力+W.I

 著者は1982年生まれの米国作家。ジャーナリスト、編集者などを経て、これまでちょっと変わったミステリを書いてきた。5年前にノンフィクション仕立ての小説『巨大IT企業クラウドの光と影』(2019)が翻訳されている。ベストセラーになった代表作『暗殺依存症』(2024)は、アルコール依存症のような暗殺依存症患者が主人公のお話で、今月翻訳が出たばかりだ。本書も、NPRベストブック2022年カーカス・レビューの2022年ベストSFFに選出された注目作である。

 時間旅行が民間にも開放された未来。主人公はアインシュタイン時空港(タイムポート)に併設されたパラドクス・ホテルの警備主任で、元時間犯罪取締局(TEA)の調査官だった。しかし、長年のTEA勤務で時間離脱症(アンスタック)を患い、仕事を変わらざるをえなくなった。症状は突発的に襲ってくる。過去や未来を不連続に幻視してしまうのだ。折しもホテルでは、時空港事業の売却をめぐる政治家を交えたサミットが開催されようとしていた。

 主人公には事故死した恋人がいた(どちらも女性)が、幻視で姿が見え声も聞こえる。それだけではない、触れられないはずの幻影が次第に実体を伴っていく。

 時間ものといっても、この作品はタイムトラベルに人を送り出す側(時空港外のバックヤードの人々)が描かれる。コニー・ウィリス《オックスフォード大学史学部》とか、ジョディ・テイラー『歴史は不運の繰り返し』などに近いだろう。時間旅行自体のリアルな描写はほとんどなく、個性的な登場人物たちの行動は、コミカルだったり風刺的(権威を振りかざす上院議員、高慢な大富豪など)だったりする。

 アンスタックはPTSDのフラッシュバックのような症状だが、それがホテルを不連続な時間の流れに巻き込んでいく。説明するのに(映画「インターステラー」とか「TENETテネット」的な)ブロック宇宙論(時間は離散的なもので、連続する流れは幻想だという)が援用されるものの、ロジカルに時間の謎を解明するのが本書のテーマではないだろう。

 本書の主人公には協調性がなく(常にけんか腰)、忖度もしない(尊大な宿泊客や議員を遠慮なく怒鳴りつける)。同情すべき過去はあるのだが、凄腕に一目置かれるとしても、ご一緒したくない危ないキャラである(設定上は仲間から好かれていることになっている)。荒れる主人公と相棒のAIドローン、それに死んだ恋人という組み合わせが面白い時間ものなので、このキャラに共感できるかがポイントになる。

林譲治『惑星カザンの桜』東京創元社

カバーイラスト:尾崎伊万里
カバーデザイン:岩郷重力+S.KW

 林譲治の書下ろし長編。創元SF文庫での書下ろしは初めてになる。これまで著者はハヤカワ文庫を中心に多くの宇宙ものを書き下ろしてきたが、どのシリーズ(あるいは単発もの)でも異星人(あるいはそれに相当するもの)とのファースト・コンタクトを主要なテーマとしてきた。本書も同様の流れをくむものだ。

 一万光年もの彼方にある惑星カザン、文明の兆候を認めた人類は調査チームを送り込む。しかし750名を有した専門家の一団は一切の消息を絶つ。第二次調査隊は総員を5倍近くに増やし、武装した巡洋艦を伴う2隻の体制で、万全を期して向かうことになる。第一次隊生存者の救出と、カザンに存在するであろう文明の調査のためだった。

 カザンの文明が観測の途上で沈黙したことは、残された無人探査機のデータで明らかだった。実際、惑星の表面は灰色の泥のようなもので覆われている。ところが、その中に都市のようなものや不自然な植生が発見される。さらに遭遇する異星人の姿は……。

 オビックとかオリオン集団、ガイナスなど、毎回趣向の異なる異星人を登場させる著者だが、今回はさらに非人類、非生物的な存在が出てくる。レム的なのである。人間と似ているように思えても、それは異星の存在が人を高度に模倣しているのかもしれない(ディック的でもあるのだ)。とはいえ、知性とはそういうものなのかも、とも思える。ここから人間とAIとの関係をも含む、哲学的な考察も読み取れるだろう。

 著者の作風は、論理的で理路を重んじるものだ。反面、情感に乏しいのだが、本作のタイトルのような感傷を愉しむこともできる(その意味は結末で明らかになる)。

小野俊太郎『P・K・ディックの迷宮世界 世界を修理した作家』小鳥遊書房

装幀:宮原雄太(ミヤハラデザイン)

 昨年末に出た本。著者は1959年生まれの文芸評論家。人文学、映画、特撮やアニメなど幅広い領域の著作を持つが、一人のSF作家の作品に絞った評論は本書が初めてになる。ディックに関しては、亡くなった1982年の翌年に評論/エッセイ集『あぶくの城 フィリップ・K・ディック研究読本』、4年後に『悪夢としてのP・K・ディック』が出るなど日本での関心は高かった(本書中でも言及されている)。評論の翻訳も複数あり切口もさまざまだが、ここでは網羅的な作家論にいきなり踏み込むのではなく、特定の作品から浮き上がってくる共通点を読み解くという手法が採られている。

第1章 ディックが始動する―中短編と三つの初期長編:初期中短編では各種アイデアが試された。西海岸的想像力、郊外化と連戦の日常化、遊戯性あるいはゲーム性、自動化と複製、という4つの特徴がある。さらに2つの普通小説と、3つの初期長編に注目する。
第2章 『宇宙の眼』における冷戦時代の悪夢:普通小説に近い設定で『オデュセイア』の形式が用いられる。バーブ教(イスラム教シーア派の一派)の世界、ピューリタン的清潔さと道徳の世界、陰謀論にまみれた孤独な独裁者の世界、隠れ共産主義者の世界を描く。
第3章 『高い城の男』における歴史の改変と記憶:4つに分割された改編アメリカで、裏返された冷戦体制(日独=米ソ)、ナサニエル・ウェストとユダヤ迫害との関係、ウォード・ムーアの歴史改編された南北戦争との対比、日本文化との関係を解き明かす。
第4章 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』における修理された世界:映画と小説との本質的な違い、自己言及されるジャンル小説(スペースオペラ)とオペラへの傾倒、『魔笛』との関連、他の作品でも登場するレイチェルの意味、聖なる愚者イジドア。
第5章 『流れよわが涙、と警官は言った』における涙と抱擁:第二次南北戦争後の世界が舞台だが、時間保存=時間結合(一般意味論からの流用)により人生は揺らぎ、ダウランドの歌詞〈流れよ、わが涙〉のままに、偽物となった者と本物との関係が問われる。
終 章 回帰する場所を求めて:神秘体験から生まれた『ヴァリス』作品群には政治、宗教、哲学、実生活すべてが融合している。さらに、カイヨワによる4分類による作品分析、ディックが好んだ形而上詩人ヘンリー・ヴォーン〈帰途〉との関係を述べる。

 著者はSFを専門とする研究者ではない。従って、ここで展開された議論の多くは、マニアックさを排した読み解きになる。ディックは個々の作品の出来にはこだわらず、ストーリーやキャラをリサイクルしながら、総体として(ディックなりの)本質に迫ったとする。普通小説としての価値や、文学(ディックはジョイスを好んだ)、歌劇(オペラやアリアが重要な意味を持つ)、詩(17世紀の詩からの引用が多い)などに関する指摘は、評者のようなジャンル読者には面白い。ディックの目指していたものは、われわれが思うよりずっと文学的だったとわかる。

カリベユウキ『マイ・ゴーストリー・フレンド』早川書房

装幀:坂野公一(welle design)
写真:(C)Adobe Stock

 第12回ハヤカワSFコンテストの優秀賞受賞作。この回では、カスガ(大賞)、犬怪寅日子(大賞)、カリベユウキと3人の受賞者が出たことになる。著者は1971年生まれ、10年ほど前の文学フリマ出品リストに名前が見つかるが、プロ出版はこれが初めてのようだ。最終候補に残った6人の中で、唯一の(他ジャンルを含むプロ経験のない)アマチュア作家である。

 主人公は売れない女優、紹介を受けた怪しい仕事を受けざるを得ない立場にあった。それは、都内の巨大団地にまつわる怪奇現象を追うドキュメンタリーで、スタッフがレポーターと学生バイトのカメラマンだけというチープな陣容だった。だが、用意された団地の部屋に泊まり聞き込みを始めると、奇妙な人物が次々と現れてくる。楽器で殴られた老人、激情に襲われる管理人、男を棒で叩きのめす女、望遠鏡でこちらを観察するウェイトレス、屋上で踊る女子高生たち。

 物語は都市伝説(人が消える団地)、怪談風に始まる。そこに不条理ホラー要素が加わり、伝奇小説の彩りが添えられ、最後はSFになって終幕する。背景にある「ギリシャ神話」との暗合が、徐々に明らかになっていく展開だ。どちらかといえば、下記リンクにある上條一輝や西式豊のジャンル・ミックス小説を思わせる。アガサ賞ならともかく、これまでのハヤカワSFコンテスト中ではかなりの異色作である。

 選考委員の評価(抜粋)は以下の通り。東浩紀:日常ホラーとして始まりつつ、徐々に話が大きくなり壮大な世界観につながる。(略)いささか中途半端な印象も残すが、複数ジャンルを横断しようとした意欲は評価したい。小川一水:(略)怪物が遠近にちらつき、次第に近づいてくる描写が秀逸だった。(略)神話のエピソードに則った儀式的な行動で怪異を鎮める流れが、コズミックホラーとして面白い。神林長平:現実的な導入部から、すっと異世界の存在が身近になる書き方がいい。だがラスト(略)が、ほとんど夢落ちに等しく不満だった。菅浩江:前半はホラーで描写に凄みがあります。(略)後半はアクション主体で一気に安っぽくなっています。(略)70年代の新書ノベルのように、とにかく活力で引きこまれる作品。塩澤快浩:安定感のある語りとシュアな描写が素晴らしい。(略)小泉八雲まわりのプロットが弱い点だけが惜しかった。

 さて、本作品はSFに収束する。ただ、述べられる理屈は科学的というより(コズミックホラーという評言もあったが)オカルトに近いものだろう。これはこれで面白みがあるものの、最近のSFではあまり見かけない大胆なスタイルと言える。