長谷敏司『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』早川書房

使用作品=フォード・マドックス・ブラウン
    《ペテロの足を洗うキリスト》1852ー1856
装幀:山本浩貴+h(いぬのせなか座)

 長谷敏司による『BEATLESS』以来の最新SF長編。その間《ストライクフォール》などシリーズものの出版はあったものの、本格SF長編としては10年ぶりとなる。もともと、コンテンポラリーダンスの大橋可也&ダンサーズのために書き下ろされた同題の中編(2016)がベースとなっている(このダンスカンパニーは『グラン・ヴァカンス』でも話題になった)。

 2050年代の日本、主人公はコンテンポラリーダンス界の新星で、所属するカンパニーのエースと目される存在だった。しかし、バイクの事故で右足を失ってしまう。この時代の義肢はIT化されており、装着者の負担を大きく軽減する。日常生活をこなす程度なら問題はない。だが、激しい運動を伴うダンスには十分ではなかった。そんな中で、彼はAIと人との関係性をテーマとする新しいカンパニーに誘われる。

 この物語には2つのテーマがある。1つは表題にもあるヒューマニティ(=人間性)のプロトコル(=手続き)で、舞踏における人と人(演者同士、観客と演者)とのつながりを指す。では、ロボットとならどうか。肉体を有しないAIロボットでは、本来持ちようがない感覚だが、主人公はそれを模索していく。

 もう1つは父子のつながりだ。主人公の父親はコンテンポラリーダンス界のベテランで、老齢になっても現役の舞踏家だった。ところが、ある事件から認知症を発症する。体力はあるのに記憶をすぐに無くし、日常生活をこなせなくなる。兄と父親は仲が悪く、介護は主人公が担わざるを得ない。新たな舞踏の創造と、威厳の失せた肉親の介護の両立は困難だった。

 AIの進化はめざましい。絵画から映像まで自在に創造できるまでになった。舞踏であっても、過去のパフォーマンスを学習し、人を凌駕する物理的な動きを再現するくらいなら可能だ。ただ舞台は違う。コンテンポラリーダンスでは、人間同士の対峙によってパフォーマンスは変化していく。そういう身体性は、ふつうのAIにはない。必要とされないからである。

 AIの死角を、舞踏という切り口(「距離」と「速度」)で捉える試みは面白い。そしてまた、同じ視点が「介護」に注がれる。この分野にこそ、本書が主張する人間的な関係性が必要になるのだろう。二重の意味が大きくクローズアップされる。

石川宗生 小川一水 斜線堂有紀 伴名練 宮内悠介『ifの世界線』講談社/西崎憲『本の幽霊』ナナロク

イラスト:メト
デザイン:長﨑綾(next door design)

 講談社タイガから出た「改変歴史SFアンソロジー」である。小説現代2022年4月号の特集「もしもブックス」をベースに、斜線堂有紀の中編を加えたもの。

 石川宗生「うたう蜘蛛」イタリア南部の町タラントで蜘蛛を媒介した奇病が発生する。スペイン人のナポリ総督はこれを鎮めようと手を尽くし、怪しい噂に満ちたパラケルススの力を借りることにする。
 宮内悠介「パニック――一九六五年のSNS」1965年の日本で、国産大型コンピュータを介した最先端のネット社会が実現する。カナ文字のみの簡素なネットだったが、そこで世界初の炎上事件が発生する。
 斜線堂有紀「一一六二年のlovin’life」後白河天皇の皇女である式子内親王は、御所の歌合では沈黙を保たざるを得ない。なぜなら親王は詠語に自信が持てず、和歌は詠語での朗唱が必須だからだ。
 小川一水「大江戸石廓突破仕留(おおえどいしのくるわをつきやぶりしとめる)」明暦三年、関東代官の長男と親しい小者は、江戸から西十里ほどにある玉川上水の見回りで薬売りの一行を助ける。それは大事件の先触れだった。
 伴名 練 「二〇〇〇一周目のジャンヌ」国家主義時代が終わり第六共和制が成ったフランスで、国家主義者が賛美したジャンヌ・ダルクの再検証が行われる。量子コンピュータ上でシミュレーションが実行されるのだ。否定的な結果が出るまで何千回、何万回も。

 事件/事象やキーパーソンの意志決定に干渉し、歴史の流れを変えるという旧来の意味での「改変歴史」とは、ちょっと違ったニュアンスの作品が多い。宮内悠介の発想はもともとの定義に近いが、岸信介や開高健ら、実在した人物を批評的に解釈する手段に使っている。小川一水のアイデアは壮大(なぜ江戸は石造建築ばかりなのか)で、結末の付け方も伝統的なSFスタイルに準拠する。

 一方、石川宗生、斜線堂有紀は歴史的な事件と言うより、組み合わせの奇抜さ(ナポリの音楽タランテラやタランティズムと錬金術、和歌の名手である式子内親王と英語)の上にフィクションを築くという荒技だ。そうなる理由などは示されない。

 伴名練はシミュレーションと人間の違いはあるが、「アラスカのアイヒマン」を思わせる作品である。この作品では、状況説明の中で設定の意味が明らかになり、さらに歴史的英雄の本質に踏み込むという周到な伴名練節が味わえる。

装画作品:桃山鈴子
装幀:大島依提亜

 今週はもう1冊、西崎憲の短編集を読んだ。新書版の上製本で、カバーはなく帯もミニマルという凝った造本になっている。短編1本(電子書籍で発表済)と、ショートショート4本(書下ろし)からなるコンパクトな内容。

 本の幽霊:海外から届く古書のカタログで、ぼくは長年探していた本を見つけるのだが、その本のことをマニアの友人も知らない。
 あかるい冬の窓:長いつきあいの知人は、転職を考えグラフィックデザインの勉強をしている。ところがある日、スターバックスの二階の窓にどこか見知らぬ街の風景を見る。
 ふゆのほん:詩人が主催する参加型読書会の案内を見つけた。それは街を歩きながら行うイベントのようだった。ぼくはいつもの読書サークルの友人を誘って参加する。
 砂嘴の上の図書館:大雨の後、川の砂嘴に建物が現われる。不審に思った町長はそこを訪れるが、図書館とあるのに本は見当たらない。
 縦むすびの ほどきかた:今度の読書会は京都で開かれる。東京在住でその気もなかったぼくだが、思い立って日帰り参加することを決める。
 三田さん:歌唱を教える一般講座に、三田さんが参加してくる。三田さんには歌いたい事情があったのだ。

 寓話的な「砂嘴の上の図書館」だけは三人称で、あとは一人称のぼくや、ぼくの知人友人たちの体験したこと、聞いたことのお話になっている。読書家と自分を変えたいと思っている人たちの物語である。その両方というのもあるが、どれも強迫観念とまではいえず(著者の視点のためか)柔らかくふんわりしている。思いは叶うこともあれば、叶わないこともあって、人の日常そのものでもある。

 どれも短い。1~2時間もあればすべて読んでしまえる。けれど、それではもったいなくて、この本の場合は1日1編がちょうど良い分量だと思う。ほぼ1週間は楽しめる。

『Genesis この光が落ちないように』東京創元社

装画:カシワイ
装幀:小柳萌加・長﨑綾(next door design)

 《Genesis 創元日本SFアンソロジー》はこの第5集にて最終巻となる。第4集の9編から比べると、中編が多いためか作品数はかなり減った。次回からは、東京創元社の綜合文芸誌「紙魚の手帖」の特集号(Vol.12と号数まで決まっている)に統合されるようだ。

 八島游舷「天駆せよ法勝寺[長編版]序章 応信せよ尊勝寺」かつてテルマ(埋蔵経)を期待された童子は、その兆候を失い小僧となった。そして、星寺である尊勝寺の駆動部実験で思わぬできごとに遭遇する。来年前半に刊行予定の長編の一部。 
 宮澤伊織「ときときチャンネル# 3【家の外なくしてみた】」景色を映像から隠すだけだったはずのスクランブラーが意外な効果を見せる。マッドサイエンティストの超発明を、動画配信するシリーズ第3作。
 菊石まれほ「この光が落ちないように」階層化された世界で殺人が起こり、罪を着せられた主人公は廃棄処理となる。やがて、目覚めるとそこは見知らぬ世界だった。
 水見稜「星から来た宴」
木星の衛星タイタンを巡る電波望遠鏡搭載探査機は、深宇宙から届く電波から異星文明の兆候を探していた。
 空木春宵「さよならも言えない」デザイナーチームのリーダーである主人公は、あるときファッションのスコアを無視して遊ぶ少女と出会う。 
 笹原千波「風になるにはまだ」第13回創元SF短編賞正賞受賞作。主人公は肉体を棄てたデジタル移民に、体を貸すアルバイトをする。クライアントはアパレルデザイナーで、リアルで行われる大学同窓生のプライベート・パーティーに出席したいというのだ。

 「応信せよ尊勝寺」は、第9回創元SF短編賞作品(1万ダウンロードという電子書籍のベストセラー)に連なる佛理学世界の物語。仏教用語を科学技術用語、ハードSFガジェットに擬する特異な文体が特徴だ。「ときときチャンネル」はマッド系You Tuberのようなお話。標題作「この光が落ちないように」は、2つの舞台と2種類の知性を対比的に描いている。「星から来た宴」は宇宙から来る電波信号と地上の音楽とが絡み合い、併せて孤立した宇宙空間と、災厄に苦しむ地球とが対比される。「さよならも言えない」は、あらすじからは想像できない、酉島伝法的な非人類が主人公のファッション小説である。

 今年の受賞作「風になるにはまだ」は、3人の選考委員が一致しての受賞となった。

すでにして「ミニマリスムSF」の完成形、と言っていいような作品であるように思えた。これまでにもファッションを扱ったSF作品はないではなかったが、衣服の生地の手ざわり、その裁断の優劣を、テーマの中心に据えた作品は皆無だったように思う。

山田正紀

小説が群を抜いてうまく、読者自身が肉体を借りているかのように、衣装の色や形、テクスチャの手触り、食べ物のにおいや食感など、時にはふたりの間にずれや違和感を挟みつつ様々な知覚を鮮やかに体感させてくれる。

酉島伝法

同時代の感性をSFとして再現できる、万人に愛される作風だと思う。選評の執筆のため再読してさらに評価が増した。

小浜徹也(編集部)

 山田正紀の言う「ミニマリスムSF」とは、SF部分を最小限まで切り詰め、違和感のない日常に溶け込ませた作品を指す。これまで、デジタル化された人格に肉体を貸すお話は、ブラックで否定的になりがちだった(たとえば『代体』)。「風になるにはまだ」では、それがふつうの体験として描かれる。借り手(中年女性)と貸し手(若い女性)の間で、五感に基づくコミュニケーションが生まれていく過程も面白い。第2の(10年単位とすれば第5の)「SFの浸透と拡散」が進むここ数年は、こういうナチュラルでリアルなSF作品が好まれるのだろう。

ペ・ミョンフン『タワー』河出書房新社

타워,2009/2020(斎藤真理子訳)

装幀:森敬太(合同会社 飛ぶ教室)
作品:elements「STACK AND BIND, your thoughts unwind」
撮影:ただ(ゆかい)

 1978年生まれの韓国SF作家ペ・ミョンフンの代表作。2009年に書かれ、長らく絶版状態だったが2020年に全面改訂版が出た。本書はその最新版を底本としている。674階建て(高さは2キロを超え、各フロアも数百メートル幅)の超高層ビルであり国家でもある「ビーンスターク」(「ジャックと豆の木」に出てくる天に届く豆の木)を舞台とした連作短編集である。

 東方の三博士――犬入りバージョン:タワーは階層社会である。縦方向は輸送力の限られるエレベータしか移動手段がないからだ。そこでの権力構造を明らかにするため、研究所の3人の博士がある方法で社会実験を行う。
 自然礼賛:作家Kは政治批判をやめ、自然礼賛ばかりを主張するようになる。だが、作家はタワーの外に出たことがない。あるとき、遠隔ロボット付きのリゾートという奇妙な贈り物をもらう。
 タクラマカン配達事故:ビーンスタークの市民になるため、民間警備(軍事)会社のパイロットとなった元恋人が砂漠で行方不明になる。政府は関与を否定し捜索に乗り気ではない。どうすれば広大な砂漠で墜落機を見つけ出せるのか。
 エレベーター機動演習:交通公務員は、あり得ない想定の演習で無理難題の解決に苦しんでいた。エレベータを制御して、いかに短時間で軍隊を目的地に展開するかを訓練するのだ。しかし、演習中に爆弾テロ事件が発生したことで事態は大きく変わってしまう。
 広場の阿弥陀仏:タワーの騎馬隊に入隊した義兄は、なぜか象の担当にされてしまう。象を使ってデモ隊の鎮圧に乗り出すのだという。騙されているんじゃないの、と義妹は心配するが。
 シャリーアにかなうもの:情報局は不穏な情報を察知する。テロ組織がタワーを狙ってICBMを打ち込もうとしているらしい。ビーンスタークはその組織に対し死傷者を伴う攻撃を仕掛けてきたから、報復される危険性はあった。
付録
 作家Kの「熊神の午後」より:「自然礼賛」に出てくる作家Kが書いた作中作。温暖化する氷原に棲む白熊の困惑を描く。
 カフェ・ビーンス・トーキング:タワーでは口コミが大衆を誘導する。水平派の動向を探るため、520階のカフェに潜入した研究員の話。
 内面表出演技にたけた俳優Pのいかれたインタビュー:人間のタレントより多く稼ぐ犬の俳優が、その成功の秘訣を語るインタビュー記事。

 タワーがどこにあるのかは書かれていない。50万人の人口があり、厳格な入管と軍隊組織の警備室を備えた事実上の都市国家である。現代社会のデフォルメでもあり、直截的な政治批判はあまり感じないが、もちろん無関係ではない。

 今はだいぶ廃れたとはいえ、東アジアに旧来からある贈答文化は、良くいえばコミュニケーションツール悪くいえば賄賂=収賄の温床である(「東方の三博士」)。タワーは法の支配で成り立つが、法を厳密に適用すれば誰でも検挙されうる。執行は恣意的なのだ(「自然礼賛」)。タワー社会にはエレベータを支配する垂直派と、各階の水平方向を支配する水平派がいる。垂直派はインフラを持っていて強力だが人数的には少数だ。そこに対立の芽が生じる(「エレベーター機動演習」「カフェ・ビーンス・トーキング」)。こういう、文化や社会(政治的な)パワーゲームに対する批評も大きなファクターとして入っている。政治への関心が薄い日本では見当たらないタイプのSFだろう。風刺/諧謔/アイロニーのバランスが良く、重すぎず軽すぎず軽快に読めて楽しめる。

大森望編『ベストSF2022』竹書房

カバーデザイン:坂野公一(welle design)
カバーイラスト:カヤヒロヤ

 大森望単独編集の竹書房版年刊SF傑作選《ベストSF》も3年目に入った。

 酉島伝法「もふとん」無人になった実家の桐箱から動物の毛皮のようなものが出てくる。まるで生きているかのようだった。
 吉羽善「或ルチュパカブラ」親戚の酒屋には杉玉が下がっている。あるときそこから奇妙な生き物が這い出てきて……。
 溝渕久美子「神の豚」感染症対策で家畜が消え失せた近未来の台湾で、兄が豚になったという連絡が入ってくる。
 高木ケイ「進化し損ねた猿たち」ボルネオの密林でマラリアの熱に浮かされ彷徨う日本兵は、木の洞に酒が溜まっているのに気がつく。
 津原泰水「カタル、ハナル、キユ」「カタル、ハナル、キユ」とは、ハナルの伝統楽器イムについて言語学者が書いたノンフィクションである。
 十三不塔「絶笑世界」致死性の笑いが蔓延する世界で、全く売れない漫才コンビがその対策担当に抜擢されるのだが。
 円城塔「墓の書」物語の中で死んだ人の墓はどこにあるのか。本を閉じられたあと宙に浮いた屍者たちはどこに葬られるのか。
 鈴木一平+山本浩貴(いぬのせなか座)「無断と土」天皇制など、さまざまな虚実を引きながら語られる、論文なのかゲームなのか分らない長大で得体の知れない論考。
 坂崎かおる「電信柱より」電信柱を撤去する仕事に就く女は、路地の奥に取り残された木製の電柱に惹かれるようになる。
 伴名練「百年文通」異人館の古びた机の引き出しから、百年前に書かれた手紙が出てくる。しかも、こちらから返事を送ることもできるのだ。

 全10編と昨年版より1編少ないのは、200枚に及ぶ伴名練の中編を収めたからだろう。内訳はゲンロン系の同人誌から3編、SFマガジンから2編、文芸誌(文藝、新潮)から2編、アンソロジイ(ハヤカワ、創元)から2編、コミック誌連載から1編である。昨年比で単行本(短編集など)が減り、新人によるセミプロ級同人誌が台頭といった感じ。

 年刊傑作選の常連作家円城塔は別格として、「もふとん」は著者得意のブラック職場とソフトな生き物が登場、「神の豚」は豚のいない世界に豚が再降臨、「或ルチュパカブラ」はアル中とチュパカブラという連想、「進化し損ねた猿たち」もオランウータンの酔っ払いが出てくる。反お笑い「絶笑世界」や非生物百合「電信柱より」の世界は、ありそうであり得ないその落差が面白い。一方「カタル、ハナル、キユ」「無断と土」は高度な架空の論文として楽しめる。「百年文通」についてはこちらに書いた

 酉島伝法は文藝に載ったものだ。SFマガジン掲載作も、SFというより純文系の実験色が濃い。前年と同様ながら物語の奇想性は高まり、一方、ストーリー重視となる中間小説誌は選ばれなくなった(リコメンド作品には小説すばる掲載作がある)。つまり、先鋭化しているのだ。ニッチな分野だったSFと純文は、融合することで小説のメジャーとなるのか、それとも一時のブームに過ぎないのか?