ジェフ・ライマン『オムニセクシュアル』国書刊行会

Omnisexual,2026(鯨井久志編訳、中村融/古沢嘉通訳)

装幀:大倉真一郎

 国書刊行会による新たなSF叢書《オムニフィクション》の第1弾は、ジェフ・ライマンの日本オリジナル中短編集である。著者は1951年生まれのカナダ作家で英国在住、マンチェスター大学で創作講座を持っていた(現在は退職しており名誉講師扱い)。ライマンが日本で最初に注目されたのは、本書収録の中編「征たれざる国」が1989年に翻訳されたときだ。この作品は河出文庫のアンソロジーにも、80年代を代表する作品として収録されている。その後も、早川書房の叢書《夢の文学館》に『夢の終わりに…』(1992)が、単行本版の《プラチナ・ファンタジー》では『エア』(2005)が紹介され(どちらも評価は高かったものの)文庫化までには至らず18年が経った。SFやファンタジイとも現代小説とも読める多層な作風が、当時の読者には難しかったのかもしれない。

 バース・デイズ(2003)遺伝子操作で同性愛が「治療」できる時代、科学者となった主人公は、ついにホモセクシュアルな同性愛者の「生産性」を解消する手段を開発する。
 影たちは笑う(2016)並外れた能力を持つ女性だけの一族がいた。その一族はディズニーが運営するリゾートの島に密かに住んでいる。なぜ女性だけで生き存えるのか。
 オムニセクシュアル(1990)実在しない女は「わたしは本のようなもの」と言う。そこからさまざまなものが男に流れ込む。ハチドリが、遺伝情報が、そして記憶が。
 ポル・ポトの美しい娘(2006)護衛付きで贅沢な生活をする娘は出自を隠していた。しかし心を引かれる男と知り合ったあと、プリンタが死者の写真を出力するようになる。
 征たれざる国――ある一代記(1984)少女の村は貧しかった。血を売るか子宮で危険なものを育てるしかなかった。空を飛ぶ兵器によって故郷を追われ、進行してきた〈隣国人〉から逃がれながら〈反政府軍〉の村で生きる。ここは他民族に征服されたことのない〈征たれざる国〉なのだ。
 ロザリオとゴールデンスター(2013)英国の天文学者の家に外国の客人が訪れる。地動説と天動説の交錯する議論の場に、まだ若い役者のシェイクスピアもいた。
 ホーム(1995)駅の近くで少年が殺されていた。最近は異様な事件が当たり前のように起こる。老人である自分には理解できないことばかりだ。
 ぬくもり(1995)そのロボットとは生まれたときから一緒だった。思い通りにぼくを育てようとする実母よりも、ずっと母親らしかった。
 ぼくたちが見つけたもの(2011)ナイジェリアを舞台に、父親や祖母の異常行動に翻弄される兄弟たち。主人公は画期的な研究をするのだが重大な副作用が生じる。

 著者は早くからホモセクシュアルであることを公言してきた。そのことを逆手に取った「バース・デイズ」、今年の創元SF短編賞ともテーマが被る「影たちは笑う」、さらに性の問題を超越した「オムニセクシュアル」などは究極の深化と言える。デフォルメされた世代格差を描く「ホーム」、養育ロボットとの交流「ぬくもり」は最近の韓国SFでも見られる(AIの進歩とは無関係な)普遍的テーマだろう。「ぼくたちが見つけたもの」はマジックリアリズム的なテイストで、アフリカの大国ナイジェリアの家族を描き出す。

 ポル・ポトの娘というのは(本文でも書かれているとおり)実在の人物だ。生年も1986年と同じ、実生活が贅沢だったかどうかは不詳。死者がプリンタから語りかける展開はフィクションだが、生まれる前(虐殺は75から79年)で本人が直接携わらなくとも、死者の弔いはすべきという著者のいきどおりが感じられる(ここは編訳者と少し解釈が異なる部分だ)。「征たれざる国」の歴史も、架空の国のようで実在の国とほぼ同じになっている。中立の王国だった〈征たれざる国〉=カンボジアでは、ベトコン(南ベトナムの反政府組織)の補給ルートになっているという理由で、〈大国の民〉=アメリカ軍と〈隣国人〉=南ベトナム政府軍の支援を受けたロン・ノル将軍による軍事クーデターが勃発、その後ベトナム戦争の終結とベトナム統一、アメリカの撤退に伴う大混乱の中で〈反政府軍〉=ポル・ポト派が実権を握る。政権を担ったのはわずか4年弱だったがそこで大虐殺が起こるのだ(そのはじまりで物語は終わる)。翻弄される主人公の苦しみは、祖国の命運を象徴している。

 しかし、アジア人でもアフリカ人でもないジェフ・ライマンが、なぜカンボジアやナイジェリアの物語を書くのか。ポストコロニアリズムや文化の盗用が議論される中で、躊躇しつつも「書かなければ、(カンボジアの問題など)第3世界を無視してそこが存在しないかのように振る舞うことになってしまう」と述べている。欧米の読者にとってアジア/アフリカは遠い存在であるからだ。英米の価値観下にある日本のSF読者にも共通する課題といえる。人間としてどうでもよくはない、知らしめるために書く、とはなかなか言えない言葉である。ただ、著者も言っているように、この物語はカンボジア人自身が本来書くべきものだろう。