人間六度『スター・シェイカー』/安野貴博『サーキット・スイッチャー』早川書房

COVER DESIGN:有馬トモユキ(TATSDESIGN)
COVER ILLUSTRATION:ろるあ/ROLUA
装画:Rey.Hori
装幀:早川書房デザイン室

 第9回ハヤカワSFコンテストの大賞『スター・シェイカー』と優秀賞受賞作『サーキット・スイッチャー』である。大賞が出たのは第5回(2017年)以来4年ぶり。柴田勝家、小川哲、樋口恭介らを輩出した賞だが、ここしばらくは停滞が続いていた。

 スター・シェイカー:21世紀末、世界は空前の〈テレポータリゼーション〉時代を迎える。空間を乗物を使って移動する〈線動時代〉は終わったのだ。ただし、重大事故を招くテレポートは厳密に区画されたワープボックス間に限られ、認定された能力者だけが運用できる。主人公は事故により第一線を退いていたが、業務中に麻薬密売組織に追われる一人の少女と出会ったことから、大きな陰謀の渦に巻き込まれてしまう。

 テレポートが運送業になる未来というのは面白いが、放棄された高速道路を走る「空走族」が登場すると物語は一変、次第に超能力バトルものに変貌し、最後は宇宙的なスケールアップを遂げる。最後を除けばライトノベル風だ。相対崩壊=梵我一如がキーワードになる(と書いても、仏教用語に対する独特の解釈なのでネタバレにならない)。

 著者は1995年生まれの現役大学生。第28回電撃小説大賞の受賞作『きみは雪をみることができない』もまもなく出る。本作は構成に難があり、優秀賞に比べ完成度は劣ると指摘された上で、「ネタひとつひとつが輝いていたから」(東浩紀)、「圧倒的な熱量とパースペクティブがある」(小川一水)、「作者の物や人の見方などについては、確かに魅力的だ」(神林長平)とあり、「多少の欠陥はあっても、とにかくスケールの大きな作家を送り出したい」という選考委員の一致した見解で選出された。構成やお話の一貫性については、応募時より相当改善されていると思われる。とはいえ、数秘術めいたキーワードの扱いはSF的というよりオカルト的、説明不足感はまだ残っている。

 サーキット・スイッチャー:2029年、東京ではレベル5の自動運転車が走るようになっている。そんな車の一台が、首都高速でカージャックされる。乗客はベンチャー企業の創業者で、自動運転技術の要を握る男だった。同乗する犯人の要求を容れない場合、車は自爆する。しかも車速が90キロ以下になっても爆発は起こるのだ。どうすれば爆破プログラムを解除できるのか、そして犯人の要求とは何か。

 著者は1990年生まれのソフトエンジニア。こちらは対照的な評価となった。「たいへんアクチュアルな舞台と問題設定で、サスペンスあり社会的な問いかけありで楽しく読むことができる」(東浩紀)、「近未来の自動運転車の構造と挙動、その悪用がもたらす効果と害悪、さらにそれをテーマとして物語の起伏を作ることに成功している(大意)」(小川一水)、「よくできた刑事物の2時間ドラマを思わせる抜群の完成度だ」(神林長平)とあって概ね好評である。エンタメ性を考慮した編集部の評価でも本書がトップだった。しかし、出来上がりすぎ/飛び抜けていない点は、逆にマイナスポイントとも取られる。プログラムにまつわるアイデア、自動運転技術やトロッコ問題(八島游舷「Final Anchors」岡本俊弥「衝突」)あるいは映画「スピード」など、書かれているテクニカルな部分のほとんどはいま現在既にある。舞台も今から7年後なので、文字どおりの近未来サスペンスだ。ただその点で言えば、警察や自動車メーカなど組織描写のリアリティはちょっと気になる。アメリカならともかく、スタンドプレーの通じにくい日本の業界だとこうはならないだろう。

 第8回でも同様の傾向だったが、エンタメ作品を応募するのなら、たとえSFであっても間口が広いアガサ・クリスティ賞の方が良さそうに思える(『同士少女よ、敵を撃て』が入った昨年は厳しいものの)。ハヤカワSFコンテストでは「スケールの大きな作家」が求められている。しかし、それがどういうものか判然としない。分からないからこその新人賞だとしても、なかなか難しさを感じる。

R・A・ラファティ『とうもろこし倉の幽霊』早川書房

Ghost in the Corn Crib and other stories,2022(井上央編訳)

カバーイラスト:unpis
カバーデザイン:川名潤

 全編初訳作品で編まれた、編者オリジナルのラファティ短編集である。「ボルヘスにあやかって『ラファティの伝奇集』と題したい」(編訳者あとがき)とする幻想性の強い内容だ。編訳者は古くからのラファティ研究家で、これまで『子供たちの午後』『蛇の卵』などを青心社から出してきたが、本書は(旧シリーズを含めて)初の新☆ハヤカワ・SF・シリーズ版になる。既存作品のベスト選だったハヤカワ文庫SFの《ラファティ・ベスト・コレクション》と対を成す作品集だろう。

 とうもろこし倉の幽霊(1957)老犬だけにしか見えない幽霊が、とうもろこし倉に出るらしい。2人の少年はその幽霊の正体を確かめようとする。
 下に隠れたあの人(1960/67)舞台の箱から人を消すマジックが得意なマジシャンは、あるとき予定していなかったみすぼらしい男を呼び出してしまう。
 サンペナタス断層崖の縁で(1983)その断層崖は、羽の生えたウミガメなど変異生物の源だった。6人の大学研究主任と12人の天才少年少女たちが激論を交わす。
 さあ、恐れなく炎の中へ歩み入ろう(1971)イクチオ人別名〝奇妙な魚たち〟は地球最初の知的存在であると自称している。彼らは秩序の担い手なのだった。
 王様の靴ひも(1974)アメリカ・ゴジュウカラ及び類縁鳥類観察者連盟(NRBWA)の会合で、主人公はテーブルの下に小さな人々がいるのに気がつく。
 千と万の泉との情事(1975)世界中を巡る男は、万を越える泉を訪れてはいた。しかし、完全な自然はどこにもないと語る。パターンがあるものは完璧ではないのだ。
 チョスキー・ボトム騒動(1977)チョスキーの川窪にすむ〝せっかちのっそり〟はハイスクールのアメフトで圧倒的な活躍をするが、ある日突然姿を消してしまう。
 鳥使い(1982)鳥を自由に操る少年の姿をした鳥使いと〝血の赤道化師〟の集団とが儀式のような奇妙な秋祭りで争い合う。
 いばら姫の物語(1985)世界は10世紀に終わっている。実は5世紀にラクダに呑まれ、8世紀には魚に呑まれ、さらに昔には異教の神の脳内に吸収されていたらしい。
 *括弧内は執筆年(ラファティの作品は、売れるまでに時間を要したものが多い)

 「サンペナタス断層崖の縁で」(作品選定時点では執筆年不詳だった)を除けば、基本的に執筆年代順に並べられている。ハヤカワ文庫でセレクトされた作品と比べると、さらに奇想度が増していることがわかる。冒頭の標題作にしても、田舎の古いとうもろこし倉にお化けがでるというありふれた怪談の体裁だが、大人たちが話す(食い違った)伝承を交えながら、あくまで少年の(不確かな)体験として描かれるのだ。

 以降、とても奇妙な登場人物たちが続々と出てくる。頭文字が小文字の名前を持つ男、変異動物=モンスターズ、奇妙な魚たち、ゴジュウカラと小人たち、泉の精、ねじれ足=せっかちのっそり、鳥使いなどなど。ラファティ得意の超知能を持つ1ダースの子供たちや、《不純粋科学研究所》のロボットであるエピクトらも登場する。

 「千と万の泉との情事」や「鳥飼い」などには、ラファティの根源的な考え方、(神によってもたらされた)秩序と、秩序を持たない混沌という二項対立の関係が鮮明に描かれている。異様な世界を描きながらも、これらは無秩序を肯定するものではない。ラファティの根底にはキリスト教に基づく世界観が常にあるからだ。イエスに笑みを浮かべさせようとするジョーク(編訳者あとがき)という独特の解釈が面白い。

スタニスワフ・レム『地球の平和』国書刊行会

Pokój na Ziemi,1987(芝田文乃訳)

装訂:水戸部功

 スタニスワフ・レム・コレクション第2期2冊目(第1期を含めると8冊目)は、レム最後から2番目の長編である。《泰平ヨン》もので、《宇宙飛行士ピルクス》の『大失敗』と同じ年に出ているが、実際に書かれたのはこちらの方が早い。

 冒頭ヨンは半身の反抗に悩んでいる。何しろ右脳と意思が通じないのだ。右脳にあるはずの記憶も呼び出せない。原因は月面での事故にあった。人類は地球の平和を保つため、あらゆる軍事技術を月に封印した。しかしそれは欺瞞的なもので、月では各国の人工知能による軍事技術開発が依然として行われている。地球側は状況をモニタしていたが、最近になって偵察機がことごとく失われる事態が生じた。そのため、現地調査にヨンが赴いたのだ。

 『地球の平和』では、2つに分離された存在がいくつも重層的に登場する。脳梁切断で切り離されたヨンの右脳と左脳、本物の人体と遠隔人(リモート人体)、偽りの平和が訪れた地球(本書の表題の由来は小松左京「地には平和を」と同様、聖書のルカ福音書によるもの)と戦争に明け暮れる月、そして地球側組織間の拭いがたい不信感などなどである。

 それぞれに興味深い問いかけが出てくる。左右の脳が分離したとすると、自分(ヨン)の存在は2つに分裂してしまうのか。それとも、言語が使える理性的な左脳だけがヨンなのか。月のAIに支配された地域は国ごとに厳密に隔離され、別の地域に侵攻することは許されない。では、どうやって兵器を進化させるのか。その結果生まれる究極の兵器とは何か。そして、月から帰還したヨンの甦らない記憶を巡って、『浴槽で発見された手記』風の謎めいた騙し合いが繰り広げられる。

 レムは1982年から6年間、西ドイツの高等研究院やオーストリアの作家協会の招待など、オフィシャルな理由を付けて国外に脱出していた。不穏な国内情勢(戒厳令が敷かれるなどしていた)を嫌っての行動と思われるが、国を捨てる「亡命」までは踏み込まない。『地球の平和』は、そのころ(1984年5月)に書上げられたものだ。レムは認めてはいないものの、本書では当時の政治に対する疑念や揶揄が顔を覗かせている。

 本書の結末は、『インヴィンシブル』で仄めかされたウィルスの存在(下記リンクを参照)と直結したものといえる。月の各区画では、SUPS(スーパー・シミュレータ)が兵器を製造して、SEKS(セレクティブ・シミュレータ)がそれに対抗する仕組みが描かれている。これなどは、AIの機械学習方法であるGANとほぼ同じ考えだ。本書が書かれた1984年には、サイバーパンクを象徴するギブスン『ニューロマンサー』こそ出ているが、今日的なAIについては何も述べられていない。本書にある分散/離散化された雲のような存在は、クラウド上にあるニューロネットワークが生み出すAIを思わせる。しかも、それは実は「知能」などではなく「本能」、それも原始的な本能に近い制御不能の存在なのだ。まさに予言的な示唆である。

アンドレアス・エシュバッハ『RSA(上下)』早川書房

NSA,2018(赤坂桃子訳)

カバーデザイン:土井宏明(POSITRON)

 久々に紹介されるドイツ作家アンドレアス・エシュバッハによる、2019年クルト・ラスヴィッツ賞受賞長編。著者は同賞を1997年から2021年までに12回も獲る常連人気作家だ。多くの著作があり、日本では『イエスのビデオ』(1998)や『パーフェクト・コピー』(2002)などの翻訳があったものの、2004年以降17年の空白ができてしまった。

 この世界のドイツでは第1次大戦後にコンピュータやテレビ、携帯電話が普及し、現在とよく似た情報化社会になっている。それらを巧みに操りナチスは政権を掌握した。やがてヨーロッパ全土で戦争が拡大、ソ連とは泥沼の消耗戦となる。NSAに勤務するアナリストは、個人的復讐に情報を悪用するつまらない男だったが、天才的な女性プログラマと出会ったことで、蓄積された個人情報の恐るべき活用法を提案することになる。

 NSAとはNationales Sicherheits Amt=National Security Agency(国家安全保障局)のこと。スノーデンが実態を暴露したことで明るみに出たアメリカの実在組織がモデルである(本書で書かれたような情報収集をしてきた)。外国人だけではなく、自国民の私的な通信まで傍受し(非公表の)諜報活動に利用するのだ。

 改変歴史ものでは大胆な「もし=If」が用いられる。もし帰趨を制する作戦や兵器開発競争で枢軸側が逆転勝利していたら、歴史はどう変わっていたのか。ただ、本書での「IT革命が戦前に起こっていたら」という設定では、不思議なことに歴史は大きく損なわれず、結末にはひと捻りがあるものの概ね史実をなぞっていく。おそらく著者は、過去の全体主義体制と、デマに脆弱で付和雷同に陥りやすい現在の情報社会とは相似している=ほぼ同じものと考えたのだ。

 ティムール・ヴェルメシュ『帰ってきたヒトラー』(2012)が、映画化を契機に日本でも評判を呼んだのが2014年のこと。ナチスドイツ/ヒトラーや、その後の分断国家/東ドイツが甦ってくるという悪夢は、例えば東ドイツが存続する現在を描くジーモン・ウルバン『プランD』(2011)が評価されるなど、ドイツ人にとって忘れてはならないテーマのようだ。さらに、高度に情報化された監視社会も注目されている。本書と同じくクルト・ラスヴィッツ賞を受けたマルク=ウヴェ・クリング『クオリティランド』(2017)ではあらゆるものにAIによる格付けが成されるし、これも同賞受賞作のトム・ヒレンブラント『ドローンランド』(2014)では、ドローンを使った超監視社会が描かれる。これらは近未来(≒現在)に仮託された全体主義社会である。本書は過去と現在の2つの要素を、巧みに組み合わせた作品といえる。

 同じような全体主義体制下にあった日本だが、戦前の翼賛体制が今でも続くというディストピア小説は(一部の短編を除けば)もうほとんど見かけない。体験世代が失われつつあるいま、忘れっぽい日本人には遠い戦前/戦中など、もはや関心の埒外だ。だが、もしほんとうにディストピアが来るなら、それは目先の小事の延長線上にはないだろう。国民が熱狂的に支持し、戦争に興奮したあの翼賛体制に近いものになる。だれも恐ろしいと思わなくなったところに、ディストピアは出現するのである。

アンディ・ウィアー『プロジェクト・ヘイル・メアリー(上下)』早川書房

Project Hail Mary,2021(小野田由利子訳)

カバーイラスト:鷲尾直広
装幀:岩郷重力+N.S

 昨年5月に出たばかりのアンディ・ウィアー最新作(第3長編)である。アメリカでは出版忽ちベストセラーの話題書、出版前から映像化の話も進んでいる。標題の「ヘイル・メアリー(ヘイルメリー)」とは、アメフト用語で一発逆転のパスのこと。僅差ゲームでのギャンブル技で、確率はかなり低いのだが成功すれば勝てる。いかにもアメリカンスポーツらしいドラマチックな逆転サヨナラを生みだすのだ。

 さてしかし、本書には重要な仕掛けが何カ所かあり(ネタバレを嫌う昨今の風潮からしても)あまり詳しくは書けない。あらすじなどは本書カバー(及び冒頭部分の公開)で記載された内容までとするが、気になる方は本書読後にお読みください。

 主人公は奇妙な部屋で目覚める。ここがどこなのか分からない。ロボットの音声らしきものが執拗に問いかけてくる。何のためか分からない。だが、刹那に断片的な過去の記憶が甦ってくる。最初に思い出したのは、友人の科学者との会話だった。太陽から延びる未知の帯状の雲が、太陽の出力(エネルギー)を奪っているのだという。それも地球環境に重大な影響を及ぼすレベルで。

 なぜ野尻抱介が(下巻の)帯文を書いているかというと、共通点を持つ先行作品のためだろう。冒頭の設定がこうなら、ハードSF的にはむしろ必然的に「このテーマ」になる。同じ要素があるからこそ似てしまう。もちろん、その先行作品と本書とは、お話的にまったく異なるのだが。

 例外はあるものの、本書の主な登場人物は科学者とエンジニアである。ある種の(地球的規模の)デザスター小説なのに政治家はほとんど出てこない。肝心の科学者たちは目的に対しては極めて有能であるが、およそ常識外れで奇矯な振る舞いをする。世間体や人間関係には無頓着、主人公もそんな一人だ。人類存亡を賭けたミッションに巻き込まれるのに、犠牲精神とか崇高な倫理観とかは持ち合わせていない。まあつまり、至ってふつうの理系人間なのである。しかし、理科系特有の探究心と真因をどこまでも追求する執念は備えている。それがないと科学者は務まらないからだ。

 主人公は理系のオタクでたった一人、舞台は地球から遠く離れた異世界、救援は物理的に困難/自力解決以外に方法はない、という状況は『火星の人』と同じである。前作『アルテミス』は人間ドラマが半分程度を占めた。悪くはないけれど、それはウィアーの本領ではないだろう。本書は原点に復帰した作品といえるが、一つ大きなポイントを追加している。「このテーマ」を「こういう関係」で爽やかに描くのは本書が最初ではないだろうか。
(註:宇宙ものに限らず類似作品はありますが、ここまで深くはない)

大森望編『ベストSF2021』竹書房

カバーデザイン:坂野公一(well design)
カバーイラスト:日田慶治

 いろいろな事情により刊行が3ヶ月余遅れた(昨年比)、竹書房の年刊日本SF傑作選2021年版である。なんとか年内に読むことができた。本年も2020年版と同様11編を収録している。

 円城塔「この小説の誕生」僕は文章を書き、機械翻訳にかける。それは英語であったりヒンディー語であったりするのだが、揶揄ために試みているわけではない。
 柴田勝家「クランツマンの秘仏」信仰が重量を持つ、という仮説をスウェーデン人の学者が思いつく。それは日本のとある秘仏に由来する。異常論文ブームの嚆矢となった作品。                               
 柞刈湯葉「人間たちの話」地球外生命の研究者で、人間に関心のなかった主人公のところに、甥にあたる少年が転がり込んでくる。
 牧野修「馬鹿な奴から死んでいく」魔術医の男は、街中で偶然1人の少女を助け出す。少女には因縁があり、思わぬ暴力に振り回されてしまう。
 斜線堂有紀「本の背骨が最後に残る」その世界では「本」は一人一人のの口承で伝わっていく。しかし「誤植」のある本は焼かれるのだ。
 三方行成「どんでんを返却する」ワンルームの部屋を片付けようとしたとき、どんでんが転がり落ちてきた。借りて使われないままだった。
 伴名練「全てのアイドルが老いない世界」人間の歴史の裏側でひっそりと生きてきた不死人たちは、いまは永遠に死なないアイドルとなって生き続けている。熱狂的なファンの生気を吸い取りながら。
 勝山海百合「あれは真珠というものかしら」海辺に作られた学校には不思議な生徒たちが集まる。1人は海馬なのだが、勉強がよくできる。
 麦原遼「それでもわたしは永遠に働きたい」主人公が育った地域では人はめったに働かない。ただ、望めばいくらでも働けるのだと教育相談官は話す。
 藤野可織「いつかたったひとつの最高のかばんで」非正規雇用だった社員が行方不明になる。誰も良くは知らなかったが、住んでいた部屋から膨大な量のかばんが見つかる。
 堀晃「循環」主人公は長年続けてきた会社を終わらせようとしている。毛馬閘門から淀川左岸を歩きながら、その仕事の契機となった小さな部品の由来を想起する。

 昨年と重なっている作家は冒頭の円城塔のみ。雑誌から4編(一般文藝誌・SFマガジン各2)、ネットから2編、残り5編はアンソロジイや短編集から採られている。前年はかなり時事的なテーマが多かったのだが、今回は一転して(より)観念的な奇想が目につく。

 小説はどのようにしてできるのか、信念は(アンドレ・モーロワ「魂の重さ」のように)重さを持つのか、生命の定義から外れた地球外生命とあまりにも人間的な甥とのつながりの対比、魔法的な人造人間たちが存在する世界、文字通り人間化され焚書される本、どんでんという言葉が生き物になり、メトセラものの現代的新境地が拓かれ、在原業平の句を巧みに取りこんだ掌編へと続く。末尾の3作は仕事を象徴する作品である。その暗黒面が「それでもわたしは永遠に働きたい」となり、別の何かに相変化したものが「いつかたったひとつの最高のかばんで」で、古い碑文を読み解くような「循環」へと繋がる。どれにも、既成のSFを緩やかに逸脱する面白さがあるだろう。

 ところで堀さんの「循環」に登場する会社は実在していて、今年出た『眉村卓の異世界通信』の協賛企業にもなっています(奥付参照)。

ヘンリー・カットナー『ロボットには尻尾がない』竹書房

Robots have no tailes,1952(山田順子訳)

装画:まめふく
デザイン:坂野公一(welle design)

 ルイス・パジェット名義で出版された同題の短編集である。翻訳にあたり、著者名がカットナーに、収録順序が発表年代順に並べ替えられている。ルイス・パジェットはカットナー&C・L・ムーア共同ペンネームの一つだが、本書はカットナー単独で書かれたものらしい(原著のムーア序文による)。カットナーは1915年生まれ、多彩なペンネームを使い分けブラッドベリらを指導するなど活躍するも、1958年に若くして亡くなっている。日本で単行本や文庫が出たのは1980年代までで、あとは散発的に短編が紹介されるのみだった。本書は人気シリーズ《ギャロウェイ・ギャラガー》をまとめたものだ。

 タイム・ロッカー(1943)酔いが覚めると実験室の片隅にロッカーが置かれていた。それには入れたものの形を変形させる効果があるらしい。
 世界はわれらのもの(1943)二日酔いで目覚めると、窓の外でうさぎのような小さな生き物が叫んでいた。「入れてくれ! 世界はわれらのものだ!」
 うぬぼれロボット(1943)テレビ会社のオーナーと称する男が、一週間前に依頼した仕事の成果を求めてくる。何かを提案したはずだが、まったく覚えがない。
 Gプラス(1943)裏庭に巨大な穴が空いている。実験室には得体の知れない機械があり、しかも警官までが会いに来ているという。
 エクス・マキナ(1948)* ギャラガーがいつものように酒を呑もうとすると、未知の生き物がその酒をさらっていく。動きが速すぎて目にも停まらない。
  *…初訳、他の作品も改題新訳

 主人公ギャロウェイ・ギャラガーは天才科学者なのだが、酔っ払わないとその才能(潜在意識)が目覚めない。ただ、酔いに任せて作った驚くべき発明品は、しらふだと動作原理どころか目的も分からないのだ。物語は、なぜこれを発明したのかを(しらふに戻った)自分が解明していくという倒叙型スタイルで書かれている。「Gプラス」などは、1つの謎だけでなく、何段階にもわたる重層的な謎が潜んでいる。どうなるか、予測不能のアイデアストーリーである。

 すべて、キャンベル編集長時代のアスタウンディングSF誌に掲載されたもの。カットナーが大量のペンネームを駆使して書いていたのは、専門誌の原稿料が安く、かつSF作家が単行本を出せない時代だったせいもあるだろう。多作ながら早逝したカットナーは、本国では高い評価を得られなかった(近年になって回顧的な傑作選は出ている)。草創期の1960年代からたくさんの翻訳がなされてきた日本でも、作品集となると総集編的なオリジナルの3冊だけである。36年ぶりに出た本書はとても貴重だ。

 本シリーズのキャラクタ(酔っ払いのマッド・サイエンティスト、同じく酔っ払いの父親、マスコットのような火星人、ケチな欲望に駆られる弁護士や金満家、シースルーのボディを持つナルシストのロボットなど)はとてもコミカルだ。サブスク方式のテレビとか、書かれた当時(TV普及以前の戦前)からすれば、かなり先進的なアイデアも含まれている。それでも、サイバーパンクとまではいかない。アメリカの60年代アニメを見ているようなレトロな気分になる。どこにも存在しない、懐かしい未来のコメディなのだ。

R・A・ラファティ『ファニーフィンガーズ ラファティ・ベスト・コレクション2』早川書房

Best Short Stories of R.A.Lafferty,2021(牧眞司編 伊藤典夫・浅倉久志・他訳)

カバーデザイン:川名潤

 ラファティ・ベスト短編集の第2弾。編者のコンセプトによると「カワイイ編」らしいが、いったい何がカワイイのだろうか。確かに、登場人物にはかわいい(と記載された)少女や子どもたちが出てくる。とはいえ、言動も行動も破天荒、正体は人類ですらない(のかもしれない)。

 ファニーフィンガーズ(1976/2002)* 養女として育てられた少女は、ある日、自分が何ものなのか疑問を抱くようになる。
 日の当たるジニー(1967/79)4歳の娘ジニーは、永久に年を取らなくなったと言う。だが、世界一美しいはずの姿は、実はほんとうではないのだ。
 素顔のユリーマ(1972/74)物覚えが悪い子だった。賢い子どもだらけの中で最後の愚鈍とまで罵られたが、驚くべき発明によって欠点を克服する。
 何台の馬車が?(1959/2002)* 9歳の少年は、毎晩何台もの馬車が西に向かって走って行く音を聞く。そこは古い馬車道だったが、馬車が通っていたのは大昔のことだ。
 恐るべき子供たち(1971/71)* ナイフの血を落とすにはどうしたらいいか知ってる? 9歳の女の子カーナディンが巡査に質問する。
 超絶の虎(1964/84)カーナディンは7歳の誕生日に赤い帽子をもらい、精霊から贈られたものと説明する。実際、その日から霊力が顕われる。
 七日間の恐怖(1962/68)9歳の少年が消失器を発明した。目についたものを、何でもかんでも消してしまうのだ。
 せまい谷(1966/74)19世紀末、その地で最後のインディアンが自分の土地に魔法をかけ、よそ者から見えないようにしてしまう。
 とどろき平(1971/93)その郡のあらゆる町には影となる第二の町があった。たとえば、ブーマーにはブーマー(とどろき)平(だいら)がある。
 レインバード(1961/67)18世紀末に生まれた発明家レインバードには、数々の業績がありながらまったく知られていない。
 うちの町内(1965/78)うちの町内にはおかしなやつがうようよいる。彼らの住む小さなバラックからは、あり得ない数の荷物が積み出されたりするのだ。
 田園の女王(1970/81)自動車とローカル鉄道、どちらに将来性があるかを思い悩んだ若者は、全財産を一方に投資する。
 公明にして正大(1982/83)お互い親友同士の野心家と内向的な若者がいた。内向的な若者に遺産話が転がり込んできてから状況が変わる。
 昔には帰れない(1981/86)〈まいご月の谷〉でムーン・ホイッスルを吹けば、ホワイトカウ・ロックがその音に反応して動き出す。
 浜辺にて(1973/2007)* 4歳の少年は浜辺で珍しい貝、チリガク芋貝をみつける。それを耳に当てるだけで聡明さを得ることができるのだ。
 一期一宴(1968/81)港町の酒場に奇妙なお客がやってくる。みすぼらしい身なりをしているが、際限なく食べて酒をあおり、女遊びをしたあげくまた食べはじめる。
 みにくい海(1961/75)港の酒場でピアノを弾く少女がいた。気を惹かれた男は女の好みに合わせるため船乗りとなり、いつか添い遂げようと思うがなかなか成就しない。
 スロー・チューズデー・ナイト(1965/72)一日を三交代で生きる世界。しかもその短い一日の時間の間に、一生分の絶頂とどん底を何度も繰り返す。
 九百人のお祖母さん(1966/78)不死だと称する人々を探る調査員は、九百人の祖母がいるという話を聞きだす。
 寿限無、寿限無(1970/80)宇宙創造の妨害をした咎をうけ、1人の下級神に時間の壮大さを認識させる刑罰が処せられる。
 (原著発表年/初翻訳)*…短編集初収録(雑誌、アンソロジイ収録作)

 今回は20編が収められており、うち4編が著者の短編集では初収録となる。日本でのラファティ初紹介作「レインバード」(1967年のSFマガジン掲載)や、50年代に書かれた初期作「何台の馬車が?」が含まれている。

 実際に「カワイイ」子どもが主人公なのは、冒頭の「ファニーフィンガーズ」から「七日間の恐怖」までと「浜辺にて」の8作品。なぜか、4歳と9歳が多くて10歳以上はいない。ラファティ的な意味で、大人との境界を越えてしまうからかもしれない。子どもの特性として、相手の都合や人格など忖度せず(時には残忍に)自分の我を通そうとする。非力な子どもだからこそ抑えられるが、超常的な力を持てば誰も止められない。ラファティの描くかわいさの裏には、そういう怖さが潜んでいるわけで、カワイイと喜べるのは重度のラファティアンだけだろう。

 ラファティを1テーマにまとめるのは難しい。本書には定番のベストも数多い。空間のスケール感を描く「せまい谷」「うちの町内」「昔には帰れない」や、時間のスケール感を描く「とどろき平」「一期一宴」「スロー・チューズデー・ナイト」や「九百人のお祖母さん」「寿限無、寿限無」は、いかにもSF的なアイデアを、ラファティでしか書けないユーモアたっぷりの短編に仕上げた傑作である。一方「公明にして正大」や「みにくい海」は、人の数奇な一生をアイロニー一杯に描いた忘れがたい作品だ。

 今回のラファティ再発見文庫は、本書で完結となる。ラファティもの第3弾となる、井上央編ラファティ新訳短編集は《新☆ハヤカワ・SF・シリーズ》で出るようだ。

劉慈欣『円 劉慈欣短篇集』早川書房

刘慈欣科幻短篇小说集Ⅰ&Ⅱ,2015(大森望、泊功、齋藤正高訳)

装画:富安健一郎
装幀:早川書房デザイン室

 著者自身が日本向けに編んだ自選短編集である(底本は著者の短編全集のようだ)。1999年のデビュー作「鯨歌」から、第50回星雲賞海外短編部門受賞作で日本でも好評を得た「円」までの13編を収める。

 鯨歌(1999)南米の麻薬王は密輸を目的に一人の科学者と接触する。麻薬探知の技術が進み、並の方法では突破できないからだ。科学者はクジラを使う奇策を提案してくる。
 地火(1999)かつて炭鉱の街で育った男が、石炭ガス化プロジェクトの実証実験のために帰ってくる。それは事故や粉塵にまみれた過酷な探鉱労働を一掃するはずだった。
 郷村教師(2000)* 貧しい農村出身の教師は、村の教育のために身を捨て打ち込むが、成果はなかなか現われない。だが、子供たちに伝えたある教えが思わぬ結果を生む。
 繊維(2001)米国人パイロットが訓練から帰還中に未知の空間に迷い込む。そこは繊維乗り換えステーションと呼ばれ、見える地球はぜんぜん地球らしくなかった。
 メッセンジャー(2001)名声を博した老科学者がヴァイオリンを弾いていると、いつも一人の青年が聞いている。青年には不可思議な能力があるようだった。
 カオスの蝶(2002)* ほんの小さな変動が大きな気象変化を生じる。カオス理論を応用することで祖国を救えるかも知れない、そう考えた主人公は大胆な行動に出る。
 詩雲(2003)* 恐竜文明の食料に堕した人類だったが、より高位な神に近い文明と接触することで転機が訪れる。それは古代の詩なのだった。
 栄光と夢(2003)* 戦乱と制裁により疲弊した国で、かつてのスポーツ選手たちが集められる。彼らはある競技会に参加するらしいのだが、その目的は驚くべきものだった。
 円円のシャボン玉(2004)乾燥化が進み、砂に埋もれようとする辺境の都市で育った娘は、やがて巨大なシャボン玉を生成させる技術を開発する。
 二〇一八年四月一日(2009)遺伝子改造により、人は300歳まで生き延びることができた。それを享受できるのは一部の金持ちだけだ。主人公はヒラ社員だったが、上手く画策すれば金はなんとかなると考えた。
 月の光(2009)主人公の男に未来から電話が架かってくる。将来の地球の運命に関わる重大な内容なのだという。しかも、話しているのは未来の自分だと称している。
 人生(2010)母親が、胎内で育つ赤ん坊と会話をしている。しかし、その子は母親のことなら何でも知っているのだ。
 円(2014)燕の国から降伏のしるしを献上した使者は、秦の始皇帝に対して天の言葉を伝える「円」の秘密について語る。それを極めるためには300万人の兵士が必要なのだ。
 *:初訳。他も改訳あり。

 デビューからといっても1999年から2014年まで、15年のスパンである。その間日本は停滞していたが、中国は激変した。1999年での中国のGDPはアメリカの1割足らず、2014年時点ではその10倍、6割に達している(2020年では15倍、7割)。日本がアメリカの1割だったのは1960年頃のこと、最初期作はそのイメージで読むべきだろう。「地火」や「郷村教師」で描かれる地方の厳しさや困窮ぶりは、閻連科や残雪らの作品とも共通する。日本でも1960年前後、昭和30年代の田舎生活は決してバラ色ではなかった……といっても、現代からは想像は厳しいかも。ちなみに、日本が1960年比でGDP10倍となったのはバブル末期の1995年である。

 ユーゴスラビア紛争や湾岸戦争を間接的な題材とした「カオスの蝶」や「栄光と夢」は、欧米先進国とは反対側(敵側)で暮らす、一般庶民の苦悩を語るという(われわれから見て)ユニークな作品だ。背景に圧倒的な力の差があるにもかかわらず、公正さがあるように取り繕う国際社会への批判も込められている。

 一方、地球環境問題を扱う「円円のシャボン玉」や、遺伝子改変にまつわる「二〇一八年四月一日」「人生」は最新のトレンドに乗っている。未来の自分が現在の自分に干渉する話はさまざまにあるものの、「月の光」は環境をコントロールする困難さを描いてスケール感がある。「繊維」はラファティ調のマッドな平行宇宙もの。100万ゲート相当のLSIを描く「円」は中国ならではの題材の勝利である。一方「詩雲」は文字通り詩的な物語で、詩で作られたクラウドが登場するのだ。

小田雅久仁『残月記』双葉社

装画:釘町彰「snowscape 蒼茫」
ブックデザイン:鈴木成一デザイン室

 小田雅久仁9年ぶりの単行本かつ中編集。本書に収録された3作の中編(400枚を超える長編クラスを含む)は、2016年から19年にかけて小説推理に掲載(分載)されたものだ。アンソロジイ『万象』『Genesis 時間飼ってみた』を含めると、5年前から毎年インパクトのある中~長編を発表してきたことになる。

 そして月がふりかえる(2016)苦労したあげく大学に職を得、それなりの有名人ともなった主人公は、ファミリーレストランで家族と食事をする。だが、窓から見えた満月から得体の知れない違和感を覚える。
 月景石(2017)主人公は、断面が月面の風景に見える石を持っている。月面のようなのに、大樹が生えている不思議な模様だった。それは20代で亡くなった叔母の形見なのだ。枕に挟むと夢を見るというのだが、もらったまま実家の引き出しの奥で忘れられていた。
 残月記(2019)月昂症と呼ばれる感染症がある。満月が近づくと発症者は興奮し、衝動を抑えられなくなる。その反面、常人には真似の出来ない芸術的直感、肉体的な異能が表われることもある。治療法がないという理由で、独裁体制を敷く政府は非人道的な隔離政策を施行する。しかし体力に秀でた者だけは、密かに選別され異様な仕事が与えられるのだ。

 本書の3作品には、設定などに明確な共通点はない。ただ一点「月」が異世界とつながるキーワードになる。「そして月がふりかえる」は『夢の木坂分岐点』や『夕焼けの回転木馬』を思わせる作品だが、月の記憶を契機に入れ替わりが発生する。「月景石」では、月世界を夢見るたびに現実が際限なく変容していく。「残月記」の月昂症は、狼憑き(満月の夜に狼男に変容する)そのものだろう。

 各作のアイデア部分に新規性はそれほどない。月世界もリアルというより象徴的な存在だ。本書で注目すべきなのは長編相当の「残月記」のように、狼男+パンデミック(コロナ前の2019年に書かれた)+全体主義的ディストピア+古代ローマ+一途なラブロマンスなどなどの相容れない要素を、破綻なくまとめあげる小田雅久仁の筆力にある。

 とても緻密な文体である。省略のない明晰な文章で、登場人物たちの半生/一生がきわめて丹念に描き出されている。どこに生まれ/どんな親に育てられ/だれと出会い/どんな生活をしているのか、それらが有機的に結びつき、それぞれが生き生きとした物語になっている。容赦のない筆致は、9年前の『本にだって雄と雌があります』の軽快さとは対照的に重量感を有するものだ。ディストピアと化した日本で、古典的な恋愛譚を描くのによく似合っている。