スタニスワフ・レム『地球の平和』国書刊行会

Pokój na Ziemi,1987(芝田文乃訳)

装訂:水戸部功

 スタニスワフ・レム・コレクション第2期2冊目(第1期を含めると8冊目)は、レム最後から2番目の長編である。《泰平ヨン》もので、《宇宙飛行士ピルクス》の『大失敗』と同じ年に出ているが、実際に書かれたのはこちらの方が早い。

 冒頭ヨンは半身の反抗に悩んでいる。何しろ右脳と意思が通じないのだ。右脳にあるはずの記憶も呼び出せない。原因は月面での事故にあった。人類は地球の平和を保つため、あらゆる軍事技術を月に封印した。しかしそれは欺瞞的なもので、月では各国の人工知能による軍事技術開発が依然として行われている。地球側は状況をモニタしていたが、最近になって偵察機がことごとく失われる事態が生じた。そのため、現地調査にヨンが赴いたのだ。

 『地球の平和』では、2つに分離された存在がいくつも重層的に登場する。脳梁切断で切り離されたヨンの右脳と左脳、本物の人体と遠隔人(リモート人体)、偽りの平和が訪れた地球(本書の表題の由来は小松左京「地には平和を」と同様、聖書のルカ福音書によるもの)と戦争に明け暮れる月、そして地球側組織間の拭いがたい不信感などなどである。

 それぞれに興味深い問いかけが出てくる。左右の脳が分離したとすると、自分(ヨン)の存在は2つに分裂してしまうのか。それとも、言語が使える理性的な左脳だけがヨンなのか。月のAIに支配された地域は国ごとに厳密に隔離され、別の地域に侵攻することは許されない。では、どうやって兵器を進化させるのか。その結果生まれる究極の兵器とは何か。そして、月から帰還したヨンの甦らない記憶を巡って、『浴槽で発見された手記』風の謎めいた騙し合いが繰り広げられる。

 レムは1982年から6年間、西ドイツの高等研究院やオーストリアの作家協会の招待など、オフィシャルな理由を付けて国外に脱出していた。不穏な国内情勢(戒厳令が敷かれるなどしていた)を嫌っての行動と思われるが、国を捨てる「亡命」までは踏み込まない。『地球の平和』は、そのころ(1984年5月)に書上げられたものだ。レムは認めてはいないものの、本書では当時の政治に対する疑念や揶揄が顔を覗かせている。

 本書の結末は、『インヴィンシブル』で仄めかされたウィルスの存在(下記リンクを参照)と直結したものといえる。月の各区画では、SUPS(スーパー・シミュレータ)が兵器を製造して、SEKS(セレクティブ・シミュレータ)がそれに対抗する仕組みが描かれている。これなどは、AIの機械学習方法であるGANとほぼ同じ考えだ。本書が書かれた1984年には、サイバーパンクを象徴するギブスン『ニューロマンサー』こそ出ているが、今日的なAIについては何も述べられていない。本書にある分散/離散化された雲のような存在は、クラウド上にあるニューロネットワークが生み出すAIを思わせる。しかも、それは実は「知能」などではなく「本能」、それも原始的な本能に近い制御不能の存在なのだ。まさに予言的な示唆である。