死後8年、なおインパクトを残す作家 伊藤計劃

 シミルボン転載コラム、今回は比較的新しい作家を取り上げます。1930年前後生まれを第1世代とすると、伊藤計劃は第5世代になりますね。ただ、残念なことに34歳の若さで亡くなりました。下記の記事は、コラムと『屍者の帝国』レビューを併せたものです。以下本文。

 1974年生。2007年に長編『虐殺器官』でデビュー、2008年には小島秀夫によるゲームのノヴェライズである『メタルギア ソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット』及び『ハーモニー』を出版、翌2009年34歳で亡くなる。プロとしての活動期間はわずか2年あまり、生前に出した単行本は3作のみである。しかし、夭折の作家、闘病生活の傍ら書かれた作品、現代を映し出す特異なデビュー作、没後の星雲賞、日本SF大賞やフィリップ・K・ディック賞特別賞受賞(『ハーモニー』)など、そのインパクトは同世代作家や若手をまきこみ広範囲に及んだ。死後8年が経た今でも、余波は“伊藤計劃以後”と称され残っている。

カバー:水戸部功

 『虐殺器官』はこんな話だ。世界中でテロが蔓延している。第3世界に巻き起こった大量虐殺の連鎖は、とどまるところを知らず拡大を続けている。主人公は米国情報軍の特殊部隊に所属する。彼の任務は、虐殺行為の首謀者/各国の要人を暗殺することだ。しかし、その途上で奇妙な人物が浮かび上がる。要人の傍らには必ず一人の米国人が控えている。無害なポジションにあるように見えて、その男は複数回の襲撃を逃れ、常に紛争国に姿を現すのだ。

 この作品は第7回小松左京賞(受賞作なしで終わった)の最終候補作になった。「9.11をリニアに敷衍した悪夢の近未来社会」であり、小松左京の理念とは異なるという理由から受賞は逃したのだが、本書の完成度は内容や文章ともに初応募作とは思えないほど高かった。圧倒的な火力と情報力で、幼少兵からなる途上国の軍隊を蹂躙して任務を遂行する米兵は、まさに今の対テロ戦争そのもの。その上“虐殺器官”というネタ=表題になっていながら、読者を飽かさずに読ませるリーダビリティ、しかも曖昧な結末ではなく、SFとして納得できる解決が書かれている。

イラスト:redjuice

 『ハーモニー』は『虐殺器官』の未来を描いた続編ともいえる作品。ただし、硬質な文体で暗いテロの前線を描いた前作から一転して、本書の舞台は「福祉社会」である。

 2075年、大災禍と呼ばれる大規模な核テロの時代を経て、世界は高度な生命至上主義社会へと変貌している。国家は複数の「生府」から成り、ナノテク Watch Meにより傷病や不健康なものを一切排除していた。主人公は、未開地域で活動する世界保健機構の査察官である。だが、ある日、世界同時多発の自殺が発生、健康社会の基盤を揺るがす騒乱へとつながっていく。それは、13年前にシステムを出し抜いて自殺を図った少女たちの事件と似ていた。主人公は事件の生き残りなのだった。

 物語の最後は、ある意味グレッグ・イーガンが追及したものと似ている(このアイデア自体は、別の作家も使っている)。〈SFマガジン2009年2月号〉の著者インタビューでは、よりサイエンス寄りのイーガンに比べて、社会的インパクトに対する興味が強かったことが語られている。本書では、誰もが死なない理想社会と、肉体を改変することによる極度な均一社会の矛盾が、明快に描き出されている。もう一つのポイントは、主人公の感情が、そのまま文中にマークアップランゲージとして書き込まれていること。例えば、怒っているなど。これは、物語の結末と密接に関係する重要な伏線である。文体実験を試み、同時に仮想社会の真相をあぶり出した、きわめて野心的な作品といえるだろう。

装丁:川名潤

 伊藤計劃の著作では円城塔との合作『屍者の帝国』があるが、伊藤計劃が書いたのは冒頭のプロローグのみだ。ある種のトリビュート小説といえる。第31回日本SF大賞・特別賞、第44回星雲賞日本長編部門受賞作。

 そのプロローグは、死後〈SFマガジン2009年7月号〉に未完のまま掲載された。ここで出てくる“死者の帝国”という言葉は、前年の〈ユリイカ2008年7月号〉に掲載された、スピルバーグ映画評(『伊藤計劃記録』所収)に現れている。21世紀以降に作られたスピルバーグの映画には、彼岸から我々を支配する“死者の帝国”の存在が見えるのだという。

 19世紀末、大英帝国の医師ワトスンは諜報機関の密命を帯び、第2次アフガン戦争下の中央アジアに派遣される。この世界では、産業革命の担い手は屍者たちである。彼らは死後、無償の労働者/ある種の機械装置として働き、世界を変貌させている。またバベッジの開発した解析機関は、世界を同時通信網で結んでいる。やがてワトスンは、アフガンの奥地にある屍者の帝国の存在を知る。しかしそれは、世界を舞台とする事件の始まりに過ぎなかった。

 出てくるものすべてがフィクションに由来している。もちろん本書は小説だからフィクションなのだが、登場する物/者たちが過去のフィクションに関連しているのである。冒頭の《シャーロック・ホームズ》《007シリーズ》メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』、スチームパンク社会を鮮やかに描き出したスターリング&ギブスン『ディファレンス・エンジン』(あるいは山田正紀『エイダ』)、ドフトエフスキー『カラマーゾフの兄弟』キム・ニューマン『ドラキュラ紀元』など、無数の既作品からの引用に満ちている。伊藤計劃がプロローグで提示した暗号を解くというより、小説のなかで小説について書いた=自己言及(self-reference)したものといえる。つまり、謎をもう一段抽象化した深みへと引きずり込んだのだ。

 本書は3年間をかけて、伊藤計劃の着想を円城塔が長編化したものである。インタビュー記事を読むと、小松左京賞落選の同期で、厳密に言えば友人とまではいえない関係ながら、伊藤の構想を物語の枠組み(制約条件)に置き換え、何度もの中断を経てようやく書き上げられたとある。仕掛け的にはきわめて円城塔らしく、なおかつ波乱万丈のエンタメ小説になっている。完成までの間に伊藤計劃は国内外での評価が高まり、円城塔も芥川賞作家を得て広く名を知られるようになった。その変転も本書の中に反映されている。

カバー:水戸部功

 派生作品集として、同年代作家、若手作家による『伊藤計劃トリビュート』『伊藤計劃トリビュート2』が多彩な顔ぶれで楽しめる。それ以外にも、雑誌、同人誌、ウェブサイトなどから短編やエッセイを集めた『伊藤計劃記録』(2010)『伊藤計劃記録 第弐位相』(2011)がある。これは文庫化にあたり再編集され、短編集『The Indifference Engine』(2012)『伊藤計劃記録I』『同 Ⅱ』(2015)の3分冊になった。また、ホームページなどに載せていた映画関係の、短いながら切れ味の鋭いコメントを集めた『Running Pictures―伊藤計劃映画時評集1』『Cinematrix: 伊藤計劃映画時評集2』(2013)も出ている。

 なお映像関係では、一時製作がストップしていた村瀬修功監督『虐殺器官』が2017年2月にようやく公開された。それに併せ、2015年12月公開のなかむらたかし/マイケル・アリアス監督『ハーモニー』と、2015年10月公開の牧原亮太郎監督『屍者の帝国』が、それぞれ深夜枠でテレビ放映されている。

 この映画公開とコラボする形で、いくつかの書店で『虐殺器官』オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』ジョージ・オーウェル『動物農場』『一九八四年』を並べるディストピア小説フェアが行われたのだが、まるで呼応するかのように世界情勢は不穏さを増してきた。伊藤計劃の夢想した冥い世界は、衰えることなくいまでも拡大を続けているようだ。

(シミルボンに2017年2月9日/11日掲載)

 「伊藤計劃後」の世界はこの後しばらく続きましたが、小川哲『ゲームの王国』の登場により終わったとされます(もともとの提唱者である早川書房塩澤部長の見解ですが)。しかし、その後も世界の状況がますます伊藤計劃的になりつつあるのは、皆さんもご承知のとおりでしょう。