SFと神さまのはざま

 著者がシミルボンに寄稿したコラム(#シミルボン)は、読書案内を意図したものが多め。この記事もSFの代表的テーマを作品に則して紹介したものです。(なるべく)電子書籍で入手可能なものが良い、という当時の編集部方針に配慮した内容になっています。以下本文。

 万物を創造した神さまは実在するのか。そんなことを真剣に悩む人は現代にはいない……とお考えだろうか。けれど、一方で神さまのために殉教する人がいるし、神さまの存在を疑わず、政治や倫理の基準だと考える人もたくさんいる。世界からとどくニュースには、神さまの影響力が顔をのぞかせているわけだ。科学不信があるとはいえ、おそらく物理的に存在しえない神さまが、なぜこんなに支持されているのだろう。

装幀:岩郷重力+T.K

 SFでは神さまのような存在がよく描かれる。アーサー・C・クラークの古典『幼年期の終わり(別題:地球幼年期の終わり)』(1953)では、人類を導く異星人が登場する。圧倒的なテクノロジーを持ち、進化の制御までできるのだから神とみなせる存在だろう。山田正紀『神狩り』(1974)に登場する神は、人類には理解不能の言語を持つ超越者だが、歴史に干渉する悪しき存在でもある。秘密を知った主人公は、神と対決する決意を秘める。そういう神々は人を越えたものでありながら、ある種の不完全さを残している。人間でもいつか同じレベルに手が届くかもしれない。だからこそ、対決を考える余地が生まれるのだ。

カバー装画:松尾たいこ

 人間が神さまになるお話もある。マッドサイエンティストが人工の宇宙を造るエドモンド・ハミルトンの古典「フェッセンデンの宇宙」(1937)(同題の短篇集に収録)や、機本伸司『神様のパズル』(2002)などだ。これらは箱庭のような閉じられた実験室内で、宇宙を物理的に製造する。ここまでのスケールはないが、ロバート・F・ヤング「特別急行がおくれた日」(1977)(短篇集『たんぽぽ娘』に収録)などもよく似た発想で書かれている。人間を神にスケールアップはできないので、逆に創造物を人間よりもはるかに(比喩的にも物理的にも)小さくするという考え方だ。しかし想像するまでもなく、しょせん人間が神なのだから崇高な創造者とはならない。心の弱さや残虐さをむき出しにした結果、宇宙もろとも破滅してしまう。

カバー:小阪淳

 グレッグ・イーガンの「祈りの海」(1998)(短篇集『祈りの海』の表題作)は、必ず奇蹟が体験できる異星の海を描き出す。住民たちは海の中での体験を経て、神の存在を確信する。しかし、科学者の研究により真相が明らかになる。我々が感じとる神というのは、高度な啓示によるものではなく、単なる生理的「現象」に過ぎないのかもしれない。ただ例えそうだとしても、当事者にとって神の実在が感じとれ、神を前提とした生活があるのなら簡単に逃れられはしないだろう。

カバー:岩郷重力 +WONDER WORKZ。

 テッド・チャンに「地獄とは神の不在なり」(2001)(短篇集『あなたの人生の物語』に収録)という作品がある。描かれているのは、キリスト教の天使がほんとうに降臨する世界である。天使の降臨は地上にさまざまな天変地異を引き起こし、罪もない人々が何人も亡くなる。逆に奇蹟が起こり、不治の病が治癒することもある。神は無慈悲な存在で、人の都合にはなんの配慮も払わない。畏怖すべき絶対的な神が存在するのに、人は祈りによって救われるとは限らない。まさに、今現在の現実をデフォルメした世界観だ。

 山本弘は長編『神は沈黙せず』(2003)でこんな物語を語る。主人公は幼いころ両親を災害で失う。それ以来、神の存在や神の意思について強い猜疑心を抱きながら成長する。やがて、フリーライターとなって、神に憑かれた人々の取材をはじめる。さまざまなカルト団体が奉じる神は、何の事実にも基づかない詐欺まがいの存在でしかなかった。しかし、合理的な説明のできない、奇妙な現象が主人公を襲う。やがて、神の実在を印象付ける、驚くべき事件が世界を揺るがす。本書では、UFO・UMA・超能力・超常現象の目撃例=あるがままの事件が膨大に提示される。超常的な現象と神の存在とには、何らかの共通点があるのかもしれない。物語は大ネタの解明で終わるのだが、神に人生を翻弄された人々はある種の諦観にたどり着く。神の定めた運命と、感情を持つ一個人との葛藤の結果ともいえる。

カバー:岩郷重力 +WONDER WORKZ。

 神林長平の長編『膚の下』(2004)では、視点が人類とは異なる。大戦争の結果、荒れ果て修復の目処も立たない地球では、全ての人類を火星に移して冬眠させ、地球再生を試みる計画が進んでいる。計画を推進するために、人造人間=アンドロイドであるアートルーパーが作られる。驚異的な生命力を持ち、知能は人類と同等の彼らは、荒廃した地上の管理者である。やがて、独特の自意識が芽生え、新たな救世主を育むものとなる。この物語は、多様性など顧みられずたった一つの目的で作られたアートルーパーの成長小説である。しかし「膚の下」に流れる血が人類と同じ人造人間は、全ての生物を救う存在となる。ここでは救世主=神を求める精神は、人間でなくても宿ると述べられている。

 後半の4つの物語の中では、神は人の思いと無関係なものとして描かれる。無関係ということは、存在しないに等しい。しかし、人はそれを自分に受け入れやすい形へと解釈し直す。悲しみや怒りを鎮め、自身の不遇さや人を亡くした苦しみを軽減する手立てにする。神さまの実在は問題ではない。単なる錯覚であっても、非科学的で人間に無関心な神であっても構わないのだ。実際、世界の人々が信じる神は、そういった心の中の存在なのである。

(シミルボンに2016年12月15日掲載)

森見登美彦『シャーロック・ホームズの凱旋』中央公論新社

装画:森優
装幀:岡本歌織(next door design)

 前作『四畳半タイムマシン・ブルース』から4年ぶりの長編である。中央公論新社の小説BOC(現在は文芸Webサイトとなっている)で、2016年から18年にかけて不定期に連載された作品を全面改稿したもの。一見シャーロック・ホームズもののパスティーシュのようで(もちろんそういう面もあるが)、本書のテーマは「スランプ」である。

僕の小説は「京都を書いている」のではなく、「京都というお皿に、自分の妄想を載せている」ということかもしれませんね。自分の妄想を「京都」に載せると、なんか様(さま)になる、と気づいただけであって、実際の京都とは距離があるんです。微妙なところですが、読者の皆さんにもぜひわかっていただきたい

2050MAGAZINEによるインタビュー記事より

 ホームズは深刻なスランプに陥っていた。あれほど完ぺきだった推理力がすっかり衰え、簡単な事件の解決もままならない。「ストランド・マガジン」に連載していたワトソンのホームズ譚も休止となった。スランプの原因を探るうちに同じ下宿の住人、物理学者のモリアーティ教授を尾行することになるが。

 舞台はヴィクトリア朝京都である。ホームズの下宿は寺町通221Bにあり、ワトソンは下鴨神社の近くにメアリと住んでいる。地名も神社仏閣も実在の京都と同じなのに、そこにロンドンを舞台としたフィクションが重なり合う。アイリーン・アドラーやハドソン夫人ら《シャーロック・ホームズ》の登場人物たちが、京都で生活しているのだ。まるでミエヴィルの『都市と都市』である。

 しかし、昔の翻案(原典のプロットだけを生かし、主人公や舞台を日本に改変した2次創作のような翻訳)などとは違って、本書に京都人(日本人)は出てこない。著者の言う「京都というお皿」(入れ物、背景)に、異国の料理(虚構)を盛ったのである。これによってホームズの世界(19世紀ロンドン)が、森見登美彦の世界(近世の京都)に違和感なく融合している。

 作家にスランプはつきものだ。著者も過去に大スランプに墜ち込み、すべての連載を投げ出し沈黙したことがある。スランプに苦しむ本書のホームズには、その体験が(脚色されながらも)反映されているのだろう。上記リンク先の『熱帯』(2018)は本書(の原型)と同時期に書かれたもので、第6回高校生直木賞を受賞した作品。これにもスランプが描かれていたが、中高生読者の共感を得た

 物語は後半、洛西にあるマスグレーヴ家で起こる心霊現象のような変異を起点に大きく動いていく。謎解きはホームズものほど明快ではないが、テーマに則した結末といえるだろう。『熱帯』の複雑な構造を語り直した、より虚構のモデルが分かりやすいバージョンともみなせる。コナン・ドイルと同じ登場人物を配しても「ぐーたらなホームズ」たちには独特の暖かみがある。本書はやはり森見流の京都(お皿)小説なのだ。

 なお、本書のホームズ(固有名詞の表記など)は、東京創元社から出ている深町眞理子訳の新訳版に依っている。

これが原点!『最後にして最初のアイドル』の元ネタをふりかえる

 シミルボン転載コラム(#シミルボン)で今回取り上げるのはステープルドンの『最初にして最後の人類』です。もう7年前になりますが、草野原々のSFコンテストデビューに絡めて書いたもの。以下本文。

この本の目的は単に芸術として言祝ぐべき絵空事を創造しようというのではない。成し遂げなくてはならないのは、ただの歴史でもなければ絵空事でもない。 神話なのである……

著者による「はしがき」より
装丁:妹尾浩也

 2017年第4回ハヤカワSFコンテスト特別賞と、同年の星雲賞日本短編部門をダブル受賞した草野原々「最後にして最初のアイドル」には(少なくとも標題に関して)元ネタがあります。それが、今回紹介するオラフ・ステープルドンによる特異な作品『最後にして最初の人類』です。

 残念ながら本書に限らず、ステープルドンは新刊では入手できません。しかし、姉妹編となる『スターメイカー』(1937)が復刊するとの朗報もあり、評判によっては本書を含めて見直される可能性はあります。内容をお話しするのも無駄ではないでしょう。

 『最後にして最初の人類』(1930)は並みの小説ではありません。哲学者としても知られるオラフ・ステープルドンが、人類の長大な未来史を描きだした長編です。著者初めての小説で、後の『シリウス』(1942)などよりも読みやすさでこそ劣りますが、堂々としたクラシックの風格があり、読み始めるとその果てしがないスケールに驚かされます。小説とは言えないのかもしれません。「登場人物」がおらず、たかだか数十万年のいわゆる人類史とは異なる、20億年の神話が物語られているからです。

 この本は「最後の人類」が「最初の人類」の口(頭脳)を借りて、人類の神話=本書を物語るという形式で書かれています。神話は近未来から始まります。(1930年当時の世界情勢がベースですが)連鎖的な覇権争いが起こり、英・仏、露・独、欧州対米国のそれぞれの戦争の後、疲弊したヨーロッパを離れ、遂に中国と米国の世界戦争を経て、アメリカ経済による世界国家の時代が訪れます。

 第1次世界国家は2000年にわたり繁栄します。しかし、エネルギーの浪費によって崩壊、資源が枯渇した反動で、以後10万年にもわたる長い暗黒時代が続くことになります。その後、南米に興ったパタゴニア文明は、500年にわたって緩やかに世界に浸透し、遂に核エネルギーの秘密に到達しますが、ある偶然から核の連鎖反応を起こし、環境は完全に破壊されてしまいます。こうして、第1期人類は滅亡し、1000万年に及ぶ暗黒時代が到来します。

縦軸は物語に合わせ、対数スケールで作られています。

 大陸は形を変え、生き残った数名の人類は、独特の進化を経て200歳の寿命を持つ巨人に姿を変えます。第2期人類です。彼らは高度な共感能力を持ち、35万年の間に消長を重ねながら、資源の乏しい中でようやく世界国家を築くことができました。ところが、ここで火星生命の侵攻が生じます。火星の知性は、大気や水が不足する中でウィルスのような微小な生命の集合体に進化し、1つの精神として機能しているのです。彼らは、地球の水を奪取するために、太陽風に乗って侵略してきました。戦争は断続的に5万年にわたって続けられ、末期には双方を滅ぼす生物兵器により、火星側が全滅し終結します。しかし、人類の文明も失われ、原始の状態に停滞したまま3000万年が流れすぎます。

 第3期人類は、小柄で寿命も50年ほど。6本の指を持ち、生命の改良に執着していました。そして数十万年にわたる文明は、ついに人工の生命、頭脳だけの人間の創造に至ります。巨大な脳と、脳を維持する装置/組織だけで成り立つ人類、第4期人類が誕生するのです。彼らは仲間を増やし遂に第3期人類を滅亡させますが、究極の真理を得るためには理想の肉体が不可欠であると結論し、第5期人類を創造します。彼らは火星由来の精神感応能力を有し、3000年の寿命を持ち、巨大脳人類が滅びた後、地球中を100億の人口で満たしました。繁栄は数千万年に及び、最後には寿命も5万年に延びます。けれど、月の接近による破滅は防げず、金星への移住を強いられるのです。

 金星のテラフォーミングを進める中で、第5期人類は固有生命を絶滅させ、ようやく根付きます。文明は原始に還り、知能を第1期並に復活させた第6期人類が蘇るまで2億年が過ぎていました。彼らから生まれた第7期人類は、蝙蝠のように空を飛ぶ小柄な人々でした。およそ1億年の歳月が、進歩の止まったまま続きます。第8期人類はまた地上に戻り、金星を工学的に作り変えていきました。しかし、太陽が白色矮星に変わる異変を察知し、遠く海王星への移住を決意します。

 ここまでで、10億年の歳月が流れすぎています。海王星に移住した人類は、大気が安定する頃には原始生物まで退化し、第10期人類と呼べるまで進化するのに3億年をかけていました。さらに3億年後、第16期人類は惑星軌道を変更する能力を持ち、やがて太陽の超新星化を待つ、寿命25万年という第18期人類を創造するのです。

 以上で分かるように、本書の人類というのは、厳密な意味での「人間」ではありません。ちょうど我々が、遠い昔の原始哺乳類の子孫であるように、人類の子孫は激変で何度も何度も退化し、再度知性を得て新しい「人類」となります。その過程が、20億年にわたって書き綴られているわけです。そしてまた各時代の「人類」たちが、何を求めて世界を営んできたかを、さまざまな観点で書き記したところに本書のキーポイントがあります。

カバーデザイン:山田英春

 本書や、宇宙規模で書かれた『スターメイカー』は、アーサー・C・クラークらへの影響(最初期の『銀河帝国の崩壊』『幼年期の終わり』、後の『2001年宇宙の旅』)など、一部に痕跡は認められますが、直系の子孫といえる作品は存在しないと思います。人類が異形のものへと変容していくさま、章を経るごとに100倍に拡大される時間スケールの壮大さは、SFやファンタジイを含め唯一ともいえる奇跡的な創造物でしょう。

 数千万年後の未来といえば、人類は滅亡していると考えるのが科学的にはまっとうかも知れません。ドゥーガル・ディクソンの『アフターマン』(1981)は5000年後の人類滅亡後、5000万年未来の地球の生物層を創造しています。そこでは、齧歯類が大型化して栄えているのです。その続編ともいえる『フューチャー・イズ・ワイルド』(2003)は、500万年後から2億年後の生物をCGで描き出したもの。最近でも『驚異の未来生物: 人類が消えた1000万年後の世界』(2015)などが出ています。ただし、これらは生物学的な進化がテーマなので、ステープルドンのような思索性は希薄です。

イラスト:TNSK

 受賞作と同題の『最後にして最初のアイドル』は草野原々の初作品集。人類ならぬアイドルが異形のものへと変容する表題作は、最初に単独の電子書籍、伊藤計劃トリビュートアンソロジイ収録、紙書籍化と3回出版された人気作です。さて、草野原々が誰も成しえなかったステープルドンの子孫となるか、異形進化となるのかは、これからの活躍しだいだと思います。

(シミルボンに2018年3月8日掲載)

 『スターメイカー』は1990年に初翻訳、その後2004年に新版、文中にある文庫版は2021年になってようやく出ました。ドゥーガル・ディクソンの諸作は、恐竜ものの変種として読み継がれた『新恐竜』を除けば、新版も含めて新刊入手はできないようです。

饗庭淵『対怪異アンドロイド開発研究室』KADOKAWA

装幀:大原由衣
装画:與田

 第8回カクヨムWeb小説コンテスト〈ホラー部門〉特別賞受賞作。ホラーだが、アンドロイドが主人公という変格派。同賞はカクヨム掲載作を対象とし、応募が1万作を越え最終候補でも1651作とある(既存文学賞とは比較にならない多さだが、特別賞まで含めれば入選者も多い)。それを、40レーベルに細分化されたKADOKAWA編集部が分担選考する(これも多いという印象)。8つある部門の中で、ホラーからは受賞作1編、特別賞2編が出ている(特別賞が10編以上の部門もある)。著者の饗庭淵(あえばふち)は1988年生まれのゲームクリエイター、イラストも手掛ける。過去に自身によるゲームのノヴェライズが出版されたこともある。

 物語は7つのエピソードから成る。「不明廃村」記録にはないが衛星写真で検出される山奥の廃村、「回葬列車」終電を過ぎた時刻に走り続ける無人の電車、「共死蠱惑」浮気調査で浮かび上がった正体不明の女、「餐街雑居」廃ビルの奥にある中華料理店をはじめとする各階の怪異、「異界案内」帰着した大学は煌々と灯を点けているのに誰もいない、「非訪問者」深夜のアパートに来るはずのない知人が訪ねてくる、「幽冥寒村」教授が育った村の記憶はどこか矛盾があった。

 主人公はアンドロイドのアリサ、近城大学・白川研究室で開発された人と見分けが付かない精巧なAIロボットだ。この研究室の目的は、怪奇現象に恐怖心を感じないアンドロイドを使って、怪異を科学的に検出し調査すること。しかし、研究室の教授にはどうやら別の意図もあるらしい。各エピソードは、存在しない村とか電車とか、顔の写らない女、廃ビル、無人の大学、深夜の訪問者など、いかにもな怪奇現象である。そこに深層学習された怪異検知AIが踏み込むのだ。

 ホラーで「怖がらないキャラを主人公にしたらどうなる?」という発想からアンドロイドにたどり着いたという。また、先行作品として宮澤伊織『裏世界ピクニック』(雰囲気が似ている)、AIの扱いについて山本弘『アイの物語』ホーガン『未来の二つの顔』などを挙げている。応募にSF部門はないのでホラーに寄せたわけだが、科学の対極にある怪異現象にについて(タネ明かしまではしないにしても)、それなりの理屈を通したところは一貫性が感じられてよい。なお、この作品はカクヨムで読むこともできる(書籍になる前の原型版)。

シン・ゴジラを見ました

 シミルボン転載コラム(#シミルボン)第3回目「ゴジラ-1.0」がアカデミー賞(視覚効果部門)候補になったという話題もあって、一つ前の「シン・ゴジラ」のコラムを選びました。「見ました」というタイトルで分かる通り、視聴直後の感想エッセイです。もう8年前になりますね。

要約すると、円城塔的な暗号文の解読を行なうSF大会スタッフのような組織が、無敵の怪獣ゴジラを伊藤アキラ的ガジェットの攻撃で停止させてしまう、というものです。

公式サイトより引用

 この映画は、エンドロール中至るところに庵野秀明の名前を見ることができます(音楽や美術関係など)。総監督以外でエンドロールに名前が出るのは、最終可否の判断だけではなく、実作業にも多く関わったという意味なのでしょう。

 アニメが本業で特撮が趣味なのか、その逆なのかは分かりませんが、庵野秀明にはDAICON FILM時代の自主製作映画「帰ってきたウルトラマン」(1983)から「巨神兵東京に現る」(2012)まで、精密に造られたミニチュアや怪物の造形=特撮が生み出した文化への独特のこだわりがありました。本作品では予算が潤沢にあるためか、特撮に隙がありません。庵野流の遊びが至るところに込められているようです。

 まず、ゴジラのような災害級のバケモノを、今の日本に現出させようとすると、社会的リアリティが重要になります。まだ誰もが憶えている、3.11を援用するというこの映画の方法は合理的でしょう。政府や役人の対応は、3.11に準じた、あるいは参考にしたシステムとなっています。同様に、大災害に対峙できる組織は軍隊以外にありません。自衛隊が主役となるのは物理的理由で、政治思想や有事立法とはあまり関係がないと思われます。ただし、特撮怪獣もののお約束は忠実に守られています。たとえ最新兵器であっても、人間の武器で怪獣を抹殺することはできないのです。したがって、自衛隊や米軍は敗退します。

 次に、ゴジラのリアリティは、社会的パートだけでは足りません。特殊であるにせよ、ゴジラにクリーチャー=生き物としての根拠を与えなければなりません。それを解明するのが、巨大不明生物特設災害対策本部(巨災対)という官庁横断型プロジェクトです。タテ割行政が主体の日本で、こんな組織がまともに機能するかどうかは分かりませんが、そこはSF映画なのでOKです。

カバーイラスト:開田裕治

 たとえば、山本弘が書いた『MM9』では、気象庁特異生物対策部=気特対という組織が登場します。なぜ気象庁なのかといえば、怪獣が自然災害(地震災害、台風災害)そのものだからです。怪獣出現の科学的根拠に多重人間原理(多元宇宙+人間原理)を設け、神話宇宙(物理的に成り立たない非科学的な怪獣が存在する世界)とビッグバン宇宙(我々の住む通常の物理法則が成り立つ世界)とのせめぎ合いを置き、怪獣を自然災害として出現させるという説明は、いかにもSFファン的な理屈で面白いでしょう。

 巨災対は不眠不休で働き、服も着がえず風呂にも入らず、現場に寝泊まりする組織です。ブラックなSEとか、事務局に寝泊まりするSF大会スタッフに近いのです(SF大会と限るわけではありませんが、イベントを主催するポランティアは、金銭的見返りがないのに妙にハイテンションになります。コンベンションハイですね)。ブラックな職場のモチベーションが高いはずはないので、ここは期日と目標が明白なSF大会スタッフのようなもの、と考えましょう。

 この映画は、過去のゴジラに一切準拠しません(設定上も、ゴジラの存在を知らない日本)。ただ、過去のゴジラ映画への明示的(伊福部昭の音楽など)、暗示的な言及は存在します。冒頭写真だけで登場する科学者は、原初の映画でゴジラの弱点を解き明かすマッド・サイエンティストを象徴していて、円城塔が書きそうな謎の図表で巨災対を挑発します。ゴジラ対策の答えは、その中にすでにあるのです。何十年かかってもおかしくない謎の究明を、わずか2週間で終わらせるための伏線がそういう形で置かれているわけです。

イラスト:中川 貴雄

 かくして、映画の終盤で謎は解明され、対ゴジラ最終作戦が発動されます。政府研究所内部ではなく、機密のないオープンソースで進めるのは今どきのグローバルIT開発風です。作戦に使われる機材は軍隊のものではありません。個々の具体的な名称は重要ではありませんが、ここでは伊藤アキラ(唄「はたらくくるま」に出てくるような)機材と呼んでおきましょう。ゴジラという巨大な虚構に対抗するためには、ありきたりな現実では不可能なので、荒唐無稽な組み合わせを用意したのではないでしょうか。間違って見に来たお子さま、ないしは準じる人向けサービスアイテムを兼ねているのかもしれません。

 ゴジラは完全生物であると劇中では語られます。無敵の怪物だったエイリアンも、最初の映画の中でそう呼ばれていました。人類は人類以外に負けたことはありません。人を越える絶対的な強者、殺すことができないものは、人より完全な存在と感じられます。映画でも、人間は勝ったように見えますが、エイリアンもゴジラもほんとうに殺すことはできないのです。彼らは「完全」なのだから、不完全な人とは比べものになりません。巨災対の勝利はもしかしたら幻なのかも、そういう畏怖感が残ったところがいいでしょう。

 さて、「シン・ゴジラ」は想定を超えたヒットとなっています。海外ではどうか。最近のハリウッド式映像は、動体視力を無視する超高速CGがあたり前です。セリフはそもそも最小限しかありません(アメリカの脚本の教科書には、セリフで表現するのは演劇で、映画は映像に語らせろと書いてあります)。ところが、この作品ではCGはむしろゆったりと動き、登場人物の倍速のセリフ回しによって物語が作られています。アニメでお馴染み、庵野流超早口ですね。そこをユニークと見るか、退屈と端折られるのか、どちらにしても直訳を字幕で読んでいては追い付けないスピードでしょう。

(シミルボンに2016年8月14日掲載)

 「シン」は海外であまりヒットしませんでした。上記のことよりも、登場人物が何者かが分かりにくかったからでしょう(異国の政治家や官僚がヒーローでは、いかにも共感がし難い)。その点「-1.0」の主人公は特攻帰りの目的を失った退役兵で、加えてアメリカンな紋切り型マッチョでないところが、ゴジラとの組み合わせにより新鮮と感じられたのだと思います。この見解はSF専門誌LOCUSでも書かれていました。戦争や核兵器の残虐さを象徴するゴジラの機微を理解しない(能天気な)アメリカ人はもうゴジラものを撮るべきではない」とも。

九段理江『東京都同情塔』新潮社

カバー写真:安藤瑠美「TOKYO NUDE」

 第170回芥川賞受賞作川上弘美が選考委員になって早や17年、円城塔が受賞して12年が過ぎ、高山羽根子からも3年半が過ぎているのだからSF的作品という意味では珍しくはない。むしろ並行世界の日本を舞台とし、生成AIを小道具に使った今風さが注目を集めた作品である。新潮2023年12月号に掲載された400枚を切る短い長編。

 その高層ビルは正式にはシンパシータワートーキョーと呼ばれる。しかし建築家の主人公は、言葉の意味を希釈するカタカナの羅列が気に入らない。やがて「東京都同情塔」と称するようになる。新宿御苑に建つタワーは、従来「犯罪者」と呼ばれ差別を受けてきた属性の人:ホモ・ミゼラビリスを収容する施設なのだった。

 この世界の東京には、ザハ・ハディドが設計した優美で巨大な国立競技場がある。オリンピックは予定通り実施され、結果として疫病の蔓延を招いたらしい(具体的には書かれていない)。建築家はコンペで、ザハ・ハディドの競技場のある風景と一体化する案を出し採択される。東京のど真ん中に刑務所を立てることには、傲然と反対運動が巻き起こる。それでも、犯罪者への同情を説く幸福学者の主張が容れられる。何しろこれにより、日本は世界の倫理基準を超えるのだ。

 中年に差し掛かった有能な女性建築家は、たまたま入った高級ブランドショップで15歳年下の美青年スタッフに声をかける。二人は付き合い始めるのだが、青年は他人を傷つけることに異様に気を遣う。いまどきの若者はみんなそうなのか、それとも彼だけなのか。かみ合うようでかみ合わない二人を巡ってお話は進む。

 本文中にはAIとの会話が頻繁に出てくる。とはいえ、そこでChatGPTが使われたとしても、小説をAIに書かせたとまではいえないだろう(NHKとのインタビューによると、応答の1行目だけを生かしたらしい)。想像ではなく本物のAIを使うことで、丁寧ながら事実を淡々と語るAIの無感情さ、冷徹さが際立つ。AIは独特の自己検閲機能を持っている。これは、感情を表に出さず、誰も傷つけないというこの社会(われわれの社会でもある)の風潮を反映する。

 本書には、情報過多が読者を選ぶのではないかとの指摘がある。しかし、特異なシチュエーションは、過剰なほどの説明がないとむしろ一般読者に受け入れられない。これはSFで設定・状況を説明する際によく使われる手法なのだ。リアルさを担保する上で意味がある。「とてもエンターテインメント性が高い」という印象もそこからくるのだろう。対する純文系作品では、説明が少なく謎めいているほど評価が高まる傾向がある(たとえば、結末を明瞭に語らず断ち切る、とか)。

 本音をカタカナで覆い隠してしまう社会、心の中に検閲者を抱えた人々、きっと同情も本性ではない。物語は近い将来の波乱を匂わせて終わる。

大図解!「ディレイ・エフェクト」に潜むボルヘス的時間

 シミルボン転載コラム(#シミルボン)の第2回目です。前回に引き続き「時間」がテーマです。宮内悠介「ディレイ・エフェクト」の内容に踏み込んでいますので、未読の方は読んでからどうぞ。以下本文。

時間はわたしを作り上げている実体である。時間はわたしを押し流す川である。しかし、わたしはその川である。それはわたしを引き裂く虎である。しかし、わたしはその虎である。それはわたしを焼き尽くす火である。しかし、わたしはその火である……

J・L・ボルヘス/木村榮一訳「時間に関する新たな反駁」より
装丁:城井文平

 「ディレイ・エフェクト」は、2017年10月に文芸ムック「たべるのがおそいvol.4」で発表された当初から話題を呼び、第158回芥川龍之介賞(2017年下半期)の候補作となったことで、さらに多くの読者の注目を集めた中編小説です。残念ながら受賞はなりませんでしたが、そこに描かれた重なり合う時間のありさまは、一般読者にも強烈なインパクトを与えるものでした。

 ディレイ・エフェクトとは、エフェクターなどを使って、音をわざと遅延させ現在の音に重ねる音楽の技法です。今現在という時間の一瞬は、過去の積み重ねによって出来上っています。しかし、われわれ個人に限れば、生まれる前の歴史的な過去を記憶しているわけではありません。単に伝承や記録、書物によって知るだけです。遠い過去は間接的にわれわれの今に影響を与えますが、実際の体験のように直接的なものではありません。そこに、76年前の歴史的な過去が実体験で加わるとどうなるのでしょう。

 5月のある朝、主人公は祖母がコメをつつく音で目覚めます。一升瓶に玄米をつめ、棒でつついて精米しているのです。祖母は少女の姿です。それは76年も前の出来事なのに、主人公の目の前に見えているわけです。

 2020年と1944年の東京がシンクロし、重なって見える現象が起こります。物理的にぶつかり合うことはなく、コンピュータで作られた拡張現実(AR)のように2つの世界が重なり合います。しかし、2020年から戦中の東京は見えても、逆はありません。影響は一方通行なのです。録画や録音ができないことから、物理的な実体はなく、意識の中だけにある存在だと示唆されます。

 目の前で生きる曾祖父夫婦や、一人娘である祖母の生活はリアルで、戦時下の日常が続いていきます。やがてくる翌年3月10日の東京大空襲により、自宅が全焼する日が迫ってきます。8歳になる自分の娘に歴史的な真実を見せるべきか、それとも疎開させるべきなのか。夫婦間の意見対立は、いつしか出口のない口論へと発展します。

 隔てられているといっても、2つの時間2020年と1944年は実在しています。仮想現実ではありません。本作で描かれるのは、一方的に影響を被る2020年です。主人公の生活や家族は、現在にないものに翻弄されます。1944年の時間は確定されていて、決まった運命に導かれます。過ぎ去った時間がディレイするだけなら、どこまでいっても決定された時間です。一方の2020年は、1944年の影響(エフェクト)を受けながらも、未来を選ぶことができます。

 2つの時間が重畳する先行作品はいくつかあります。小松左京「影が重なる時」では、ある日自分の影(自分そっくりの静止した像)が出現します。星新一「午後の恐竜」では、過去の地球の光景(恐竜が闊歩する姿)が現在につぎつぎと映し出されます。両作ともに、ある種の運命論のようです。現在が確定した未来に従属しているわけです。破滅につながる運命であって抗いようがありません。対する「ディレイ・エフェクト」のユニークさは、現在が能動的に変化していくところにあります。未来は確定していません。

 では、ディレイ・エフェクトとは何でしょうか。本書の中には、いくつかのキーワードがちりばめられています。主人公が子どもに話す「エネルギー保存則」、公安の調査官に語る「永劫回帰」「熱力学第2法則」などです。

 永劫回帰は、哲学者ニーチェの中枢をなす思想です。過去現在未来を含めて、全く同じ時間が何度も繰り返されるとするものです。全てが同じなので、輪廻転生とは違います。あとでも述べますが、エネルギー保存則はニーチェと関係します。熱力学第2法則は、一般的にはエントロピーの増大で知られるものです。例えばコーヒーにミルクを注ぐと、時間が経つにつれて完全に混じり合う。これは、より無秩序な状態、エントロピーが高い状態へと移行するからです。逆の現象(コーヒーとミルクが2つに分離する)は確率的に起こりません。現象が一方向にしか進まないため、これが「時間の矢(時間の向き)」を決めていると考えられています。

 キーワードを見る限り、作品の前半では「世界は決定的で、過去は寸分たがわず繰り返され」「時間は必ず過去から未来へと一方向に進む」と主張されているように読めます。ところが、東京大空襲3月10日が始まった深夜、突如時間は逆転を始めます。時間の逆転は、熱力学第2法則からはありえない。もちろん永劫回帰にもないものです。主人公はこれをリバース・エフェクトと名付けますが、設定すべてを否定する大きなどんでん返しといえます。


 ここで、作品構造を図解してみましょう。物語の始まりは5月。6月に公安調査庁の担当者が訪れ、現象に対する見解を求められます。主人公は信号処理の技術者で、会社のキーマンなのです。あとで分かりますが、主人公の経歴にも訪問の理由がありました。時期は不明確ですが、梅雨明け前の夏の初め(おそらく7月)頃に、妻と仲たがいし別居状態となります。以降、技術リーダーを管理職昇格という名目で解かれ、食べさせる相手もいないのに戦時食を作ってみるなど、さまざまなストレスに苦しみながら翌年の3月を迎えます。

 しかし、3月10日が過ぎ、リバース・エフェクトに入ると事態は一変します。秋になった10月ごろ、妻からの手紙を受け取るのです。そこには、妻の曾祖父が何を仕事にしていたかが書かれていました。主人公は、かつて反核運動に参加したことがありました。妻とはその際に知り合ったのです。けれど、曾祖父は戦時中に核開発に従事しており、空襲時もすぐに帰宅できず曾祖母を助けられなかった。妻はその事実に負い目を感じていたのです。

 図から分かるように、ディレイ・エフェクト期に妻が出ていった時期と、リバース・エフェクト期に手紙を受け取る時期は、3月10日を挟んで時間対称をなしています。手紙には、家族で起こった不和の原因が書かれていました。叙述上、原因(曾祖父の仕事)と結果(不和から別居)の逆転が起こるのですが、それが一般的な小説の技法としてだけでなく、ディレイとリバースという物語の設定と重なり合い、シンメトリーをより鮮やかに見せているのです。エントロピーの増大=緊張の高まり、エントロピーの減少=緊張の緩和・融和という関係もシンメトリーをなしています。

 アルゼンチンの作家ボルヘスは、ニーチェの永劫回帰を認めませんでした(「循環説」参照)。ニーチェはエネルギー保存則を根拠に、宇宙・時間には一定の大きさがあり、長大な時間を経ればいつか繰り返しが起こる、過去はそのまま回帰するとします。けれども、ボルヘスは宇宙・時間が無限に変化しており、繰り返しはないと考えます。現在が過去から未来へ移っていく瞬間ごとに、われわれは別のものに変化していく。同じものが成長進化するのではなく、常に変わっていくのです。冒頭の引用は、そのボルヘスの考え方をよく表したものです。

 この物語では、時間を物理ではなく、意識の問題だと解釈しています。だからこそ、時間はディレイしリバースする。その一つ一つが主人公たちの行動に影響を与え、主人公を別の存在、新たな存在へと変えていきます。主人公は過去の直接の影響下で考え方を変え、生き方を変えます。過去は繰り返されるだけの、固定的で動かしがたいものではなく、流動し反転もします。まさに、ボルヘス的な時間体験を描いているのではないでしょうか。

 ボルヘスは作家として、われわれの時間体験が運命論的なものであるという考え方は好みませんでした。本書の著者宮内悠介も、シンメトリーをなすユニークな時間の在り方を描きだしていますが、その背後に運命論に囚われない個人の意思があることに注目すべきでしょう。

 「影が重なる時」は自選ホラー短編集『霧が晴れた時』(1993)で入手できます。2003年にはTVドラマ化もされました。「午後の恐竜」は同題のロングセラー『午後の恐竜』(1977)に収められています。2010年に短編アニメーション化されています。またボルヘスの「循環説」はエッセイ集『永遠の歴史』に、「時間に関する新たな反駁」は『ボルヘス・エッセイ集』、または岩波版『続審問』でも読めます。

 ガジェットとしての「ディレイ・エフェクト」は、ボブ・ショウの「スローガラス」と同じ考え方です。スローガラスとは、光が通り抜けるのに数年がかかる(つまりディレイする)特殊なガラスのこと。人々はそこに、実在した過去を見ます。ボブ・ショウの場合、あくまで「窓」(空間ではなく平面)だというのが特長で、その制約が物語に生かされていています。これは旧サンリオ文庫の『去りにし日々、今ひとたびの幻』 (1981)にまとめられています。

(シミルボンに2018年5月29日掲載)

デイヴィッド・ウェリントン『妄想感染体(上下)』早川書房

PARADISE-1,2023(中原尚哉訳)

カバーデザイン:岩郷重力+A.T

 昨年『最後の宇宙飛行士』が好評だった著者の最新長編である。前作と同様ホラー味の濃い作品となっている。一見パンデミックもののようで、実はもっと観念的な病(バジリスクと呼ばれる)が描かれた作品だ。

 防衛警察の警部補は、通信が途絶した植民惑星パラダイス-1の調査を命じられる。宇宙船には民間パイロットと医師、AI(姿を自在に変えられる)がチームとして同乗する。だが、目的地の軌道上には無数の宇宙船がすでに周回しており、警部補らの活動を妨害しようとする。いったい何が起こっているのか。

 防衛警察の前局長は強権を振るう独裁者だった。警部補はその娘で、現在の局長とは折り合いが悪い。母親は引退し、パラダイス-1で快適な生活を送っているはずだった。医師はタイタンで起こったパンデミック唯一の生き残りである。生存理由は不明ながら、何らかの免疫を持っているらしい。パラダイスでは同じ病が蔓延しているようなのだ。

 見るだけで感染する伝染性の言葉、人を狂気に駆り立てる観念といえば、伊藤計劃『虐殺器官』が有名だ。それほどの大テーマではないが、本書は登場人物の個人的な記憶(タイタン壊滅に起因するPTSDとか、警部補の家庭内での精神的抑圧とか)という部分で、今日の問題に(いくらかは)つながっている。

 謝辞によると、本書のプロットやキャラクタは出版社(オービットUK)内のグループで創案されたようだ。果てしなく続くどんでん返し=危機また危機の連続は、一貫性よりも意外性に重点が置かれている。チームワークでアイデアを出し合った結果だろう(ネット系シリアルドラマ風でもある)。

 念のために書いておくと、本書は三部作の第1部(1巻目)にあたる。第2部(今夏刊行予定)の翻訳が出るのは早くても年明けになると思われる。軌道上の何百隻もの宇宙船、閉鎖された惑星上の住民の行方など、謎は残されたままだ。

 しかし、本書を読んで思い出すのは、宇宙を光よりも早く伝播する呪詛通信を描く田中啓文の「銀河を駆ける呪詛」。どちらもグロさが際立つホラーという共通点がありますね。

SFにおける「時間」の非実在性について

 今週からしばらく、過去にシミルボンに掲載したコラムを抜粋し、不定期ですが転載していこうと思います(カテゴリは「評論・ノンフィクション」、検索キーは「#シミルボン」です)。シミルボンは2016年8月から2023年10月1日まで開設されていたブックリスタ主催の読書系(メディア作品も含みます)ホームページです。プロアマを問わずたくさんのレビューやコラムが楽しめ、筆者も50余編を寄稿してきました(そこそこ書いてます)。2016年から19年の4年間のものになります。転載にあたって元の文章を修正した箇所もありますが、基本は変えていません。以下本文。

カバーデザイン:蟹江征治

 名のみ高かったマクタガートの原著論文『時間の非実在性』(1908)は、つい最近完訳された。時間関係の哲学書では、多くがこの論文について言及している。訳者永井均による詳細な注釈・論評も併録されている(論文自体のボリュームは、本の5分の1ほどしかない)。

時間の探求は、古くから哲学における重要なテーマだった

 それに伴って、文化や宗教、思想に至るまで、時間に対する解釈がたくさん生まれている。SFでは、さまざまな時間のありさまが小説という形で描かれてきた。並行に存在し別々に流れる時間、凍結して動かない時間、逆回りする時間、遅延する時間、不均一に流れる時間、ループする時間などなどだ。ここでは、その中でももっとも特異な時間を紹介しよう。

「昨日は月曜日だった」

 シオドア・スタージョン「昨日は月曜日だった」(1941)で、自動車修理工の主人公ハリー・ライトは、いつものように目覚める。だが、昨日が月曜日だったのに今日は水曜になっていることに気が付く。しかもあたりの様子がおかしい。何もかもが新しく、作り立てのように見えるのだ。仕事場に出ようとすると、見慣れぬ作業員たちが街路を古く見せようと懸命に働いている。こいつらは何ものなのか。そもそも自分の火曜日はどこに行ったのか。

「時間」と聞いて何をイメージするだろう

 通り過ぎた過去があり、今現在があって、これから未来がくる。多くの人は、川のような流れ(変化するもの)を思い浮かべるだろう。幼い頃の自分(過去)、今の自分、将来の自分(未来)というふうに、時間は一方向に流れていく。ところが、スタージョンが描くのは、とても奇妙な時間の姿である。ハリー・ライトが目覚めた世界は今日しかない。確かに昨日は既になく、明日はまだないのだから、今しかないという見方もできる。しかし、文字通り曜日単位に別々の世界が造られているのなら、昨日・今日・明日は連続しておらず、分断されることになる。ここに時間の流れなどない。つまり、われわれが知っている「時間」は実在しない。

「時間」がないとは、いったいどういう意味だろう

 「時間の非実在性」をとなえた、イギリスの哲学者ジョン・エリス・マクタガートの考えが参考になるかもしれない。マクタガートは、時間に関わる順序には、過去・現在・未来というA系列(たとえば、20世紀は過去、21世紀は現在、22世紀は未来)と、より前・より後というB系列(たとえば、20世紀は21世紀より前、22世紀は21世紀より後)の2つの系列があると説明する。A系列は変化する。未来もいつか過去になるからだ。23世紀から見ると、20-22世紀まですべてが過去になる。一方B系列では、たとえ23世紀になっても、20世紀は21世紀より前という関係は変わらない。変化しないB系列よりも、変化を伴うA系列こそ時間の本質なのだという。

過去・現在・未来は、お互いが矛盾する

 ところが、マクタガートは論文の中で、過去・現在・未来は、お互いが矛盾すると断じる。本質である過去・現在・未来が矛盾するのだから、時間(時の流れ)は人間の主観的な幻想にすぎないとする。この証明の要約は難しい。詳細は論文を見ていただくとして、解釈はさまざまにできる。証明自体が正しいか否かでも大きな議論を呼んだ。ただ、証明の是非はともかく、マクタガートの考えに従うなら、物事に並びはあっても時間的な順序はないことになる。奇想と思われるスタージョンの短編は(物語の基本アイデアに関して)マクタガートの考えに近いのかもしれない。未来はない、過去もない、実在するのはばらばらの現在だけなのだ。

「スロー・チューズデー・ナイト」

 もう1作、R・A・ラファティ「スロー・チューズデー・ナイト」(1965)を紹介しよう。脳から阻害要因を取り去った結果、人間の時間に対する感覚は大きく変貌する。1日は3つに分けられ、時間帯ごとに別々の集団が暮らしている。深夜族に属する男は、長い火曜の夜の8時間に一生分を働く。夜の始まりで乞食姿だった男は、わずか1時間半後には大金持ちになり、何度も結婚と離婚、倒産と成功を繰り返したあげく、夜が明けるころには元の乞食に落ちぶれる。

SFの産み出す奇妙な時間体験

 ラファティの主人公は、たった8時間で、生涯の体験を猛スピードで終えてしまう。一生と一晩では絶対時間が異なるはずだが、ここでは同等に描かれる。つまり、時間の長さという概念が壊れている。人の生理作用(脳内の反応速度)が加速されたとも、時間のありさまが変化したとも解釈できる。ゆっくりと流れる火曜の夜の世界では、一生のイベントは、マクタガートのいうB系列のようにただ並べられている。順番だけがあって長さがないのだ。これは、われわれが知っている(と思っている)時間とは違う。体験した記憶=過去だけなら、ビデオの早回しのような再生ができるかもしれない。しかし、未来を含めた全生涯の早回しはどうだろう。火曜の夜が終わったあと、主人公は次の日も同じになるとうそぶくが、毎晩一生が過ぎていく世界での時間体験は、われわれの日常とは全く違ったものになるだろう。

 SFにはこういう無秩序な時間が数多く含まれている。過去・現在・未来がでたらめに並んでいたり、未来が過去につながったりする。SFの産み出す奇妙な時間体験には、ノーマルな時間を否定する願望が内在されているのかもしれない。

 スタージョンの作品は時間テーマのアンソロジイ、大森望編『ここがウィネトカなら、きみはジュディ』(2010)に収録されている。よく似た作品に(かなり即物的に描かれてはいるが)スティーヴン・キング「ランゴリアーズ」(1990)などがある。ラファティの作品は、第1短編集『九百人のお祖母さん』(1970)に収録されている(現在なら『ファニーフィンガーズ ラファティ・ベスト・コレクションズ2』が入手しやすい)

(シミルボンに2017年5月10日掲載)

酉島伝法『奏で手のヌフレツン』河出書房新社

装幀:川名潤

 アンソロジイ『NOVA+ バベル』(2014)に書き下ろされた同題の中編を、1000枚弱ある大部の長編としたものが本書。舞台設定や異形の登場人物などは引き継がれ、内容はさらに豊かに膨らんでいる。2部構成で親子4代に渡る(主にはジラァンゼとその子ヌフレツンの)家族の物語が語られる。

 ジラァンゼの親であるリナニツェは、聖人式を経て太陽の足身聖(そくしんひじり)となった。一家はもともと太陽を失った霜(そう)から叙(じょ)の聚楽(じゅらく)への移住者だった。不吉な存在と忌避されたが、聖人ともなれば逆に敬われる。ジラァンゼは親の仕事である煩悩蟹の解き手となった。ヌフレツンはジラァンゼの2人目の子である。同じく解き手になることを期待されていながら、本人は奏で手を夢見ていた。

著者のX(twitter)から引用(『NOVA+』掲載時の直筆挿絵)。

 この世界は球地(たまつち)と呼ばれる地上と球宙の空から成っている。球地は文字通り球の内側であり、空の中心には毬森(まりもり)と呼ばれる無重力の森が浮かぶ。なにより奇妙なのは太陽で、地面の黄道に沿って、4つの太陽が足身聖108人の「人力」で動くのだ。主人公たちも人類(ヒューマノイド)ではなく、成長は早く単性で子をはらみ、子どもは器官を再生させることさえできる。

 エイリアンやポストヒューマンなどを描いた作品でよく問題になるのは、その存在の擬人化の程度にある。どんなに奇怪な外見でも、中の人が見えてしまっては興ざめだ。かといって、共感が不可能なほど非人間化を進めると今度は物語が維持できない(読み続けることができなくなる)。酉島伝法は漢字を駆使した造語の氾濫で、その問題を克服している。暗い過去を持つ頑固おやじと跡継ぎの息子、家業を捨て自らの道を探す孫と(山田洋次風の)結構ベタな人間ドラマなのに、造語で形成された異世界のインパクトに幻惑されるのか、それほど違和感なく共感できるのだ。

僕の小説における造語は、映画でいう美術や特殊メイクみたいなものだと思います。(中略)ぴたっとはまったとたんに世界が広がったり、物語が転がりだしたりする

奇怪な幻想世界を支えるSF的思考 酉島伝法さん「奏で手のヌフレツン」インタビュー

と述べているが、その言葉の威力は小説の成り立ちをも左右している。物語の第1部はイメージ(上記挿絵参照)に圧倒される聖人式に始まり、二転三転するもう一つの聖人式に終わる。第2部は衰えゆく太陽を救うための(『指輪物語』を思わせる)旅が描かれる。また、本書は『零號琴』のような音楽SFでもある。前後編となる第1部・第2部で、それぞれ見せ場があって読者を飽きさせない。

 ところで、上記インタビューによると本書には最初から骨格となるSF設定があった。それは巻末の「起」の章を読めばわかるだろう。