不破有紀『はじめてのゾンビ生活』KADOKAWA/篠谷巧『夏を待つぼくらと、宇宙飛行士の白骨死体』小学館

 KADOKAWA電撃文庫と小学館ガガガ文庫から、最近話題になった2作品を取り上げた。前者は異色のゾンビ年代記、後者はロングセラーSFをキーワードとした学園ものである。

イラスト:雪下まゆ
デザイン:藤田峻矢(草野剛デザイン事務所)

 『はじめてのゾンビ生活』は、電撃ノベコミ+に掲載されたのち単行本となった不破有紀のデビュー長編だ。

 26世紀、女子高生がゾンビ検査で陽性となるところから物語は始まる。この時代ではゾンビ化が人類の4割まで進んでいるものの、親子間でも差別意識がまだ消えていない。月や火星の開発には、過酷な環境に耐えるゾンビが欠かせなかった。やがて、ゾンビたちは新人類と呼ばれるようになる。

 2151年から(3068年の人類滅亡を経て)3149年まで、千年を超える間のさまざまなエピソードが、地球、月、火星、新世界と地域ごとにシャッフルされて並ぶ。全編が50余の短い章に分かれ、関連のある物語もばらばらになっている(単独の章もある)。例えば、2519年の次が3068年、2315年、2445年と目まぐるしく入れ替わる。ただ、数百年~千年もの未来なのに社会やテクノロジー、人間(ゾンビ)関係に至るまで21世紀とあまり変わりがない。なので、読み手の混乱は最小限に抑えられる。

 腐ったものを好み、鉱物まで平気で食らうゾンビの生態は、一般の生物と相容れないと思えるが、本書の中では人種や民族、性差という今日的な差異と同等に表現されている。実際、そういう趣旨の啓蒙パンフレットが本書の巻頭に置かれている。ここだけならコメディに見える。後に行くほど、ゾンビ=新人類は、紅い目をしたふつうの人間と変わらなくなっていく。とはいえ、一般名詞化した(題材的にありふれた)ゾンビを描き出すためのユニークな切り口には違いないだろう。

イラスト:さけハラス

『夏を待つぼくらと、宇宙飛行士の白骨死体』は、2024年の第18回小学館ライトノベル大賞《優秀賞》作品である(『星を紡ぐエライザ』を改題)。篠谷巧は、エブリスタの2021年『この文庫がすごい!』大賞を受賞しデビュー、ゲーム翻訳者の経歴があり、本書でも英語慣用句を直訳(青天の霹靂を「青から突然」とか)でしゃべる母親が登場する。

 高校生活最後の夏、友人と共に夜の学校に忍び込んだ主人公は、中学生の頃に旧校舎にひそかに貼り付けた呪いのお札の様子を見にいこう誘われる。旧校舎はもう取り壊されるのだ。途中、そのとき仲間だった1人も加わり、離れた場所にある木造旧校舎に向かう。だが、隠し場所にあったのは、お札ではなく宇宙飛行士の白骨死体だった。

 宇宙飛行士はチャーリーと名付けられる引用したレビューは初紹介当時のもの)。はたしてこの人骨は本物なのか、宇宙服は実物なのか、なぜここにあるのか……中学生時代に仲間だったもう1人を加えたチームは謎の解明に奮闘する。その中で、メンバーの個人的な秘密や思いが次第に明らかになる。ホーガンなどのSFネタを程よくちりばめながらも、ファンタジーではなく王道の学園ドラマに着地しているのは良い。

安野貴博『松岡まどか、起業します』早川書房/柞刈湯葉『幽霊を信じない理系大学生、霊媒師のバイトをする』新潮社

 今週はSFコアではない(ほぼ現代小説である)ものの、共にとてもSF的でロジカルな書かれ方をしている2作品をとりあげる。AIが一つの要素を占めている点も(今どきの)共通点だろう。

扉イラスト:丹地陽子
扉デザイン:鈴木大輔・江崎輝海(ソウルデザイン)

 都知事選で一躍時の人となった著者だが、『松岡まどか、起業します AIスタートアップ戦記』は、その本業の知見を凝集した「起業小説」である。デビュー作『サーキット・スイッチャー』と同様、本書中の起業もまたAIがらみだ。

 主人公は大学4年生、内定先の人材関連大手リクディード社でインターンとして働いていた。配属先は超多忙な事業企画室で、切れ者リーダーの指導を受けながら仕事を覚えていく。この会社はAIの利用規定がとても保守的だった。ところがある日、主人公まどかは事業部長に呼び出され、内定取り消しを告げられる。

 同じころ、起業するなら投資をするという甘い誘いがある。破れかぶれになった主人公は契約を結ぶが、契約書には1年以内に企業価値が10億円にならなければ、会社側が莫大なペナルティを負うという落とし穴条項が仕掛けられていた。目標達成の目途は全く立たない。それでも、あの厳しかったリーダーが(なぜか)離職してまで参画してくれる。

 リーダーのサポートを受け、資金を得るためのピッチをスタートアップと投資家のマッチングイベントで披露、頼りになる技術者も仲間になり、何よりまどかにはAIを使いこなすセンスがあった。しかし、最初の資金調達は何とか成功するも、競合するリクディードからのさまざまな妨害と、出資者からの突き上げがまどかを翻弄する。

 PDCAとかの会社用語だけでなく、スタートアップ特有のタームが飛び交う。スピードが重要なため、会社方針のピボットが行われたり、まずは資金を得るためのセル・ビフォア・ビルドをする、などなどだ。お金が必要なAIの技術開発最前線は(金融工学などと同様)アカデミアではなく企業で生まれる、とも書かれている。

 物語は、ITにまつわる世間を騒がせたトラブルも取り入れ、わずか1年のレンジで起こる危機また危機の連続や、一歩間違えば黒字でも倒産する紙一重の資金調達(時間勝負なので資金をストックする余裕がない)と、クリフハンガーな展開になる。とはいえ、結末はなかなかリアルである。決してありえないものではない。最後には(いまでもこのようなサービスはあるのだが)、ちょっとSF的でエモーショナルなシーンがある。

カバー装画:さけハラス   カバーデザイン:川谷康久(川谷デザイン)

 『幽霊を信じない理系大学生、霊媒師のバイトをする』は、新潮文庫nexから出た、柞刈湯葉の書下ろし長編である。nexはキャラ重視のレーベルなのでJKも出てくる。ラノベ風味をあまり感じないのは、他人の気持ちが分からない理系男子が主人公のせいもある。

 地方に住む大学生の主人公が、バイトで霊媒師の助手になる。真夏なのに黒紋付の和服を着こむその霊媒師は、百歳で亡くなった曾祖母(ひいばあちゃん)の学友だと称するのに、母親より若く中年女性としか見えない。

 バイト代の気前はよいが、仕事は不可解で不条理なものばかり。道路でエアバックを膨らませ、航空券のeチケットを燃やし、空き地で糸を焼き、増水した川に浮き輪を投げたりする。霊媒師が見えるという霊を、主人公はまったく見ることができないのだ。ただ、霊が残ることには何がしかの根拠があって、嘘ばかりだとは言えない。そのメカニズムの解明に興味が向く。

 主人公は中高と学年トップで勉強がよくできた。遠方の難関校に興味はなく、地元大学を選び自分で文献を調べ勉強する。舞台は地方都市、両親の家から通学し、曾祖母や祖母が暮らしていた古い本家もすぐ近所にある。曾祖父母はかつては町の名士だった。霊媒師も近くに住んでいる。おどろおどろしいというより、どこにでもある地方の町と思える。

 意図的に超常的なホラー臭を消した設定だ。そこに文学部の女性講師(この講師と、上記『松岡まどか』の冷静なリーダーは立ち位置が似ている)や女子高生が絡み、町の「埋蔵金」が明らかになるなどミステリぽくなっていく。物語は2019年に始まり、コロナ禍を経た2024年にエピローグとなる。結末にはちょっとだけAIが出てくる。続編があるのなら、生かされるのかもしれない。

キャサリン・M・ヴァレンテ『デシベル・ジョーンズの銀河オペラ』早川書房

Space Opera,2018(小野田和子訳)

カバーデザイン:坂野公一+吉田友美(welle design)
カバーイラスト:jyari

 ヴァレンテは1979年生まれの米国作家。邦訳はファンタジーの《孤児の物語》(2006~07、全2巻)、《妖精の国》(2009~16、既訳は全5巻中の2巻まで)や『パリンプセスト』(2009)などがあるが、SF長編ではこれが初めてとなる。書かれた動機がちょっと変わっている。

 著者はユーロビジョン・ソング・コンテスト(USC)にどハマリ、年1回のイベントを熱心に実況ツィートしていた。USCは欧州放送連合(中東の一部を含む)の視聴者なら誰でも知っている超有名な音楽イベント(およそ70年の歴史がある)である。しかし、域外の国(アメリカを含む)ではあまり知られていない。そこに、フォロワーからのコメント「SF/ファンタジーのユーロビジョン小説を書くべきだ」がくる。さらに著者史上最速で、編集者からのオファーもあったという(本書の「ライナーノーツ」など)。

 一瞬ヒットしてたちまち忘れられてしまったロックバンド〈絶対零度〉のボーカル、デシベル・ジョーンズの前に、身長7フィートでウルトラマリン色のフラミンゴ+チョウチンアンコウの物体が現れる。彼の前だけではない、すべての家庭に同時に現れたのだ。そして〈絶対零度〉が銀河系グランプリの人類代表に選ばれたのだと告げる。銀河のすべての知的生命が参加するそのグランプリで最下位になると、人類は知的水準未達で丸ごと抹消されてしまう。

 異形の宇宙人たちが多数登場する(表紙イラストも良いのだが、ファンがレゴで作ったキャラがなかなかかわいいのでご参考に)。脱力系+皮肉の効いたギャグ満載で、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の影響を強く受けたというのもよく理解できる。万能の宇宙人が同時多発的に現れご神託(メッセージ)を下すとか、ダメ人間がありえない人類代表に選ばれてしまうとかのパターンは、SFアニメやコミックでもお馴染みだろう。ある種の定番ネタから物語は成り立っている。

 しかし、本書からはヴァレンテ独特のこだわりが濃厚に立ち昇ってくる。各章の冒頭に(わずかな引用なのだが)USC発表曲の歌詞が掲載され(そのため、たくさんの著作権表示がある)、お気に入りの曲名が章題になっている。そして、登場人物たちの境遇や主張の描写が、物語のバランスを崩すほどやたらと執拗で長い。まだ、いくらでも書けるという表明だろう(続編が今秋には出る)。なんといっても、このノリこそが読みどころなのだ。

えたいのしれない怖さ、3冊の絵本から

 1月から続けてきたシミルボン転載コラムですが、今回が最終回になります。まだ数編は残ってはいるものの、その時々の出来事に合わせて書いた記事もあり、おさまりが悪いのでまたの機会に。最後は、ちょうどいまのシーズンに合う、3冊のホラー絵本紹介で締めくくります。以下本文。

 世の中には「えたいのしれない怖さ」というものがあります。しっかりと見えたわけではないのに、けれど何かがいるような気がする。いつまでたっても正体がわからず、もやもやとしたままなので怖い。ひとめで化けものとわかる、怪物や妖怪がでてくるわけではありません。ただ、よく知っているものが不気味な形に見えたり、形のないものが無性に怖くなることがあります。そんな世界をのぞいてみたいのなら、この3冊の絵本がぴったりかもしれません。1つには見えないともだちが、1つには見えないものの正体が、さいごの1つには見えなかった本心があらわれてくるからです。

おともだち できた?
 おんだりく恩田陸)がかきおろしたえ本です。子どもむけの本で「こわいものはよくない」といううごきに、はんぱつしてかいたということです。それだけに、とてもこわい本になっています。

 小さな女の子が、あたらしいいえにひっこしてきます。そこはたくさんのうちがたちならぶ町ですが、女の子はひとりであそんでいます。しんぱいになったおとうさんやおかあさんは、女の子にきいてみます。

「おともだち できた?」

 人によってさまざまですが、小さなときにくうそうのともだちをつくる子どもはいます。それが「見えないともだち」です。子どもにとっては、ようせいやせいれい、ゆうれいやおばけ、うちゅうじんやかいじゅうだったりします。おともだちがやさしければよいのですが、生きものですらない「なにか」だと、ちゅういしないといけません。うっかりしりあったことで、そのせかいにさらわれてしまうかも。この本のいしいきよたか石井聖岳)のえは、あかるい町のけしきが、くらいどこか、うらがわのどこかにかわっていくようすをえがいています。

はこ
 『はこ』は、東雅夫の編集で10巻まで出た《怪談えほん》の1冊です(註:最終的に14巻まで出ています)。《十二国記》シリーズや『残穢』を書いた小野不由美の本です。

 ある日、女の子が小さな「はこ」を見つけます。何のはこか分かりません。あけることができず、中からコソコソ音がします。あめのふる日に、はこは開きますが、なかみはからっぽ。するとこんどは、メダカのえさが入っていたはこが開かなくなります。しかも、メダカがいなくなってしまいました。そのあとも、はこが開くと何かがなくなり、また次の少し大きなはこが閉じていくのです。

 「はこ」の中にはいったい何がいるのか。しだいに大きくなる(成長している)中身は、「えたいのしれない怖さ」そのもの。知りたいけれども、知ってしまうときっと不幸になるもの。正体がわからないものは、無用な想像をかきたてます。考えれば考えるほど、怖さは大きくなっていきます。たのしい想像ではなく、不安な思いをふくらませていくようです。どんな家にも、さがしてみれば開かない「はこ」が見つかるかもしれません。nakabanの描く絵は、クレヨン主体で、お話全体を夕暮れのようなくらさでおおっています。

駝鳥
 この絵本は、作者の筒井康隆がデビュー間もないころに書いた、『欠陥大百科』(1970)に収められたショート・ショートをもとにしています(のちに短編集『笑うな』にも収録されました)。動物園でよく見かける、飛べない大きな鳥、駝鳥(だちょう)が登場します。

 ひとりの旅行者が砂漠をさまよっています。旅行者の後ろには、なぜか大きな駝鳥がいて、あとをついてきます。最初のうちは食べものをわけ与えていた旅行者でしたが、いつまでたっても砂漠を出られないと分かると、ひとり占めしようとします。ある日、旅行者は自分が大事にしていた金時計が、なくなっていることに気がつきます。きっと駝鳥が飲み込んでしまったに違いない。そう思い込んだ旅行者は……。

 砂漠にまよい込んだ旅行者と駝鳥、ふだんの生活ではおそらくめぐり会うことのない、とてもおかしなコンビが描かれます。旅行者は、駝鳥と仲よくなります。ただ駝鳥の感情をあらわさないひとみを見ても、相手が何を考えているのかよく分かりません。何のためについてくるのか、駝鳥はもちろん説明してくれません。このお話で「えたいがしれないもの」は駝鳥です。

 ところが、旅行者はわがままに、駝鳥を利用するようになります。最初は旅のなかま、次に食べものをへらすやっかい者、その次は自分が生き残るための道具と、だんだんエスカレートしていきます。さいごになって「えたいがしれないもの」をもてあそんだ旅行者に罰がくだされるわけですが、それは自分のしでかしたことの裏がえしにすぎません。福井江太郎の絵は、駝鳥のコミカルなようす、反対側にあるぶきみさ、影と光を、とてもていねいに描きだしています。

(シミルボンに2017年7月4日掲載)

アン・マキャフリー『歌う船[完全版]』東京創元社

The Ship Who Sang,1969/1977/1999(嶋田洋一訳)

カバーイラスト:丹地陽子
カバーデザイン:岩郷重力+W.I

 連作短編集『歌う船』が翻訳されたのは1983年のこと、当時マキャフリー(1926~2011年没)は人気作家で、13作出た《パーンの竜騎士》や、7作(原案のみや共作を含む)の《歌う船》など多数が翻訳されていた。本書は全編新訳(各作の標題も変わっている)の新版である。原著が出たあとの短編集『塔の中の姫君』やアンソロジイのために書下された2編を加え、日本オリジナルの「完全版」としている。いま新刊で入手可能な唯一のマキャフリーである。

 船は歌った(1961)16歳になった外殻人ヘルヴァは、パートナーである〈筋肉〉を選び順調に実績を重ねていった。だが、惑星住民の救出を図る任務で事故が起こる。
 船は悼んだ(1966)感染症で多数の死者が出た惑星では、少数の生存者も四肢を動かすことができないようだった。意思疎通を図る方法はあるのか。
 船は殺した(1966)放射線のフレアにより生殖能力を無くした人々に、大量の保管精子と卵子を届ける任務では、経歴にいわくのある探索員が同乗する。
 劇的任務(1969)メタン=アンモニア大気の惑星に高度な知的生命がいる。科学情報を取引するため、そこに少人数のシェイクスピア劇団を送り込むことになる。
 船は欺いた(1969)頭脳船の失踪が相次いでいる。しかも、折り合いの悪い〈筋肉〉の判断ミスで、事件の元凶を呼び込む羽目になる。
 船はパートナーを得た(1969)記録的なスピードで債務を完済できたヘルヴァだが、フリーとなっても将来は白紙だった。中央司令部は蠱惑的な提案をしてくる。
 ハネムーン(1977)新たな機体とパートナーを手に入れたヘルヴァは、再びメタン=アンモニア惑星へと飛行し、別れた劇団員たちとも再会する。
 船は還った(1999)パートナーを得てから80年近くが過ぎたある日、汚染物質をまき散らしながら航行する武装船団を見つける。行く手には無防備な植民惑星があった。

 主人公は一隻のサイボーグ宇宙船=頭脳船である。すばらしい歌声の持ち主なので「歌う船」と呼ばれている。物語の世界では、赤ん坊は生まれる前に厳格な検査が行われ、致命的問題があると誕生が許されない。ただ、脳が正常ならば外殻人として生きられる。肉体の成長は止められ〈頭脳〉のみで生きるのだ。宇宙船(あるいは都市の制御施設)が身体になる。ただ、高価な宇宙船は中央司令部の所有物であり、指示された任務を果たさなければ自由は得られない。そして、手足となる〈筋肉〉を同乗させるのだが、彼ら/彼女らにとってもパートナーは生涯の仕事となる。

 解説にあるが『歌う船』は20世紀末時点でいろいろ批判されてきた(『サイボーグ・フェミニズム』では主にジェンダーについて)。今の価値観から見れば、さらに相容れない部分がある。肉体が正常でなければ生きられない社会とか、植民継続のため代理母を当然とする考え方とかだ(これらについては人によって意見の相違があるかもしれない)。そもそも〈頭脳船〉のシステムは個人に負債を背負わす年季奉公だし、修理にまで自己負担(借金)を強いるなど、奴隷労働そのものである。

 とはいえ、マキャフリーが描きたかったのは、そういうところではないだろう。金属の体を持つスーパーロケット少女が、胎内に収めた恋人(プラトニックな関係しか結べない)と、共に宇宙を飛ぶ冒険の物語なのである。バトルシーンなどほとんどなく、少女とさまざまな同乗者との出会いと別れ、友情や助けがそれぞれのエピソードとなっているのだ。

映画の原作を読んでみる、その3

 シミルボン転載コラムの映画原作シリーズも今回で3回目、これで最後になりますのでよろしく。大作というより、ちょっと渋めの3作品を紹介しています。作家も渋いですが、じっくり書き込まれた読み応えのある作品ばかりです。以下本文。

映画も公開、SNSの闇に迫る『ザ・サークル』
 トム・ハンクス、エマ・ワトソン主演で映画化され話題になりました。海外では公開済み、遅れていた日本でもようやく2017年11月に公開されます。IT社会を風刺した作品で、twitterやLINEなどのSNSを使っている人ならなるほどと思うエピソードの先に、全体主義社会の影が見えてくるという内容。とても怖いですね。特に今のSNS社会で困るのは、ほっといてくれないことです。黙っていれば発信しないやつだと怒られ、発言すると執拗につきまとわれ、善意であっても挙動を逐一見張られる。どうせ秘密が持てないのだから、世界中みんなが秘密を持たなければ良い、という発想の果てに本書があるわけです。

 著者は、1970年米国生まれの作家、編集者、出版業、脚本家、社会活動家(移民家族のために読み書き支援を行うなど)です。本書は、架空のインターネット企業「サークル」を扱った作品。リアルの世界で苦労の多かった著者の経歴もあってか、スマートなIT会社が暗く変貌していく様子を描かれています。本書の内容について、日本のITギーク系の雑誌WIREDは高評価でしたが、米国版WIREDは内容をやや批判的に紹介していました。

 「サークル」は巨大なIT企業です。主人公は旧態依然の地元に飽き飽きし、友人の紹介を伝手にサークルに入社します。そこには開放的なオフィス、先端的な仕事、自由な社風、厚い福利厚生制度があり、若い就職希望者が羨望する環境が用意されていました。彼女へは社内外SNSへの参加や、さまざまな情報発信が半ば義務付けられます。けれど、世界と繋がり合うほどに、自身のプライバシーは失われていきます……。

 本書中に「秘密は嘘、分かち合いは思いやり、プライバシーは盗み」というスローガンが出てきます。これは、オーウェルが書いた『一九八四年』の「戦争は平和、自由は隷属、無知は力」に対応するように置かれています。サークルのガラス張りのオープンなオフィスも、ザミャーチン『われら』に現われるプライバシーのないガラスの建物を思わせます。とすると、本書はITがもたらす全体主義を風刺する小説のようです。

 ただし、米国WIREDは、その批判は少し的外れではないかと指摘しています。SNSが持つ特性、秘密やプライバシーの排除は、裏で行われる不正や談合をなくし、過去の時代では知りえなかった真実を暴露する面もあるからです。とはいえ、見知らぬ他人からの干渉や、恣意的な誘導という暗黒面も存在します。

 本書は前半でポジティブな面を強調し、後半でネガティブさを曝け出すように書いています。確かにtwitterやLINE、facebookなどでは、成り立ちが善意であっても、悪意で運用することで、窮屈な社会ができてしまう可能性があります。現実に起こった政府機関による干渉疑惑などを見ると、SNSによる大衆扇動がありえないとは言えません。一方向だけの発言が称賛されて、異論が許されず、ただ同一化が求められるなら、それは全体主義そのものとなってしまうでしょう。

(シミルボンに2017年10月5日掲載)

映画「アナイアレイション―全滅領域―」に見る、彼岸世界は徒歩圏内?
 そのむかし、あの世とこの世は地続きであると考えられていました。つまり歩いてあの世に行けるわけですね。生と死が身近で、隣り合わせだった時代を反映しています。神話や伝承にある黄泉の国の入り口は、いまでは地名だけになって残されています。人が増え、宗教心が薄れ、世界が狭くなると、そういった地続きの異世界は顧みられなくなりましたが、物語の中では別のかたちで蘇っています。

 その一つが、今回紹介する三部作です。パラマウント版「アナイアレイション―全滅領域―」は、誰もが生還できず「全滅する」という、何だか怖い題名になっています。「エクス・マキナ」「わたしを離さないで」のアレックス・ガーランド監督、「ブラック・スワン」のナタリー・ポートマンの主演で、2018年2月下旬から3月にかけて世界21か国で公開される作品ですが、三部作はその原作にあたります。

 著者ジェフ・ヴァンダミアは1968年生まれの米国作家、アンソロジストで、チャイナ・ミエヴィルらが提唱する「ウィアード・フィクション」(気味の悪い小説)と同様の、「ニュー・ウィアード」と呼ばれる幻想ホラー小説の書き手であり編集者です。世界幻想文学大賞を3度受賞していますが、そのうち2度はアンソロジイの編者としての受賞でした。そういうジャンル小説をよく知る書き手が、今回は少し変わったアプローチで三部作を書いたのです。

『全滅領域』:自然豊かな海岸部のどこか、エリアXと呼ばれる領域に調査チームが入る。11回に及ぶ調査はことごとく失敗し、隊員は不可解な死を遂げたり正気を失っている。何が原因なのか、条件を変えるため12回目の探査では女性だけが選ばれる。メンバーはお互いを名前で呼ばず、職種名で呼ぶ。隊員は地下へと降りる〈塔〉の中で、壁面を覆いつくす文字を見つける。

『監視機構』:エリアに隣接して、〈サザーン・リーチ〉という監視研究機関が設けられている。前所長が行方不明となり、新任の所長が着任する。しかし、非協力的な副所長や言動が奇妙な科学部のメンバーなど、所内の様相は混沌としている。前所長は何をしようとしていたのか。新任所長に与えられた、本当の目的とは何か。

『世界受容』:エリアXが拡大を始める。エリアの中では、失われた隊員から変異した何者かが見え隠れる。新任所長はエリアへの潜入を試みるが、そこでは異形の生き物がうごめき、過去の記憶と偽りの未来が混交する。時間の流れさえ均一ではない。エリアの正体は、果たして明かされるのか。

 最初の『全滅領域』だけを読むと、エリック・マコーマック『ミステリウム』(1993)のような印象を受けます。固有名詞を持たない登場人物と正体不明の世界、解き明かされない謎など、ある意味典型的な幻想小説のスタイルともいえるでしょう。『監視機構』では、そこに〈サザーン・リーチ〉という外形が設けられ、(得体は知れないながら)組織的な背景や、人間関係が明らかにされます。『世界受容』に至っては、今度はエリアXという世界の本質にまで踏み込んでいます。語り手の視点には、いくつかの工夫があります。第1部は一人称、第2部は三人称、第3部は一人称、二人称、三人称をパートごとに交えているのです。個人の狭い視点による歪められた世界が、三人称で客観化されたかのように見えて、最後にまた混沌へと戻っていくわけですね。謎は解明されたともされていないとも取れます。

 ウェブ雑誌The Atlanticの長い記事の中で、著者はこの三部作の顛末について記しています。2012年に、まず『全滅領域』の草稿が書かれ、上記のような3つの視点から成る《サザーン・リーチ》三部作として売り込むと、SFやファンタジイなどのジャンル小説以外の出版社からオファーを得ます。文藝出版の老舗FSG社(大手出版社マクミラン・グループの一員)は、1年内で3作一挙刊行を提案してきました。条件は「読者は謎の解明を求めるだろうから、きっちりそこまで書くこと」。著者も、第1部(ある種の不条理小説)だけで終わるより、3部作を通して人智を超えるものを表現する方が重要と考えました。残りを書き上げるまで18か月、出版は2014年になってから、2月・5月・9月と連続して出ました。最近のメジャーな出版では、三部作を間髪を入れずに出せることが前提のようですね。

 物語の中には、著者の体験がさまざまに取り入れられています。車の中の潰された虫、家に忍び込む体験、フロリダ北部に似せたエリアXの自然、トレッキング中に膝をひどく痛めたことや、ミミズクの生態に触れたことなどなど。それらがない交ぜとなって、まるで超現実的な旅をしているようだったといいます。

 歩いて行ける異界を扱ったSFと言えば、ストルガツキー兄弟が書いた『ストーカー』が元祖でしょう。危険なものが潜む異界にはお宝もあり、密漁者(ストーカー)たちが命を懸けて忍び込みます。

 その『ストーカー』のオマージュともいえるのが宮澤伊織『裏世界ピクニック』です。異世界と実話系怪談を両立させた、新しい表現が注目を集めました。ご存じのように大人気となりシリーズ化、コミック化やアニメ化もされています。

(シミルボンに2018年2月20日掲載)

荒れ果てた未来の海で、なぜ都市は移動するのか
 2019年3月1日に日本公開された、クリスチャン・リヴァース監督、ピーター・ジャクスン製作・脚本の映画『移動都市/モータル・エンジン』は、未来の干上がった海の上を巨大都市がキャタピラで走り回るという迫力ある映像が話題になりました。本書はその原作です。

 原著者のフィリップ・リーヴは英国の作家です。《移動都市クロニクル》は、2001年から2006年にかけて出版され、第4部『廃墟都市の復活』がガーディアン児童文学賞を受賞しました(その後、短編集なども出ました)。そうか児童文学だったのかと納得する人、意外に思う人もいるでしょう。もともとファンタジイ小説は、児童文学やヤングアダルト文学での出版が多いのです。

 ただし、東京創元社などでは、大人でも問題なく読める作品として紹介されてきました。例えば、スーザン・プライス『500年のトンネル』や、パトリック・ネス《混沌の叫び三部作》などもそうです。他では、ハインラインの長編の多くも、もともとジュヴナイル(例えば、『ラモックス』、『銀河市民』、『宇宙の戦士』などなど)だったのですね。あえて区分けする必要はないのかもしれません。なお、シリーズ第1作の『移動都市』は、2007年の星雲賞海外長編部門を受賞しています。

 舞台は30世紀を過ぎたいつかの時代。60分戦争で世界は滅び、生き残った人類は巨大な移動都市の上で暮らしています。無数のキャタピラや車輪で、文字通り移動する都市ロンドンでは、科学ギルドが戦争前の失われた技術の修復に成功します。激しい生存競争を繰り広げ、都市同士が喰い合うことを認める移動派、そういう海賊的な移動都市と対立する反移動都市同盟、空を自由に飛ぶ飛行船乗りたち。陰謀と隠された過去の秘密を交えながら、物語は最後の対決シーンへと進んでいきます。

 発表当時から、どことなく初期の宮崎アニメを思わせる雰囲気がありました。とてもヴィジュアルな移動都市や兵器の描写、デフォルメされた小道具の数々と、戦いのむなしさに対する思想がそういう連想を誘うのでしょう。主人公は見習い士トム、悲惨な過去を背負った娘ヘスター、美貌のギルド長令嬢らを絡めた波乱万丈なお話です。戦闘シーンが豊富にあるのに、陰惨さはほとんどなく、明快な筋立てで分かりやすい。物語では主人公のトムや、対するヘスターはともに(児童文学なので)少年少女なのですが、映画ではもう少し年上の設定となっています。

 本シリーズは、2010年に第3部まで翻訳された後、長い間紹介が滞っていました。映画化を機に9年ぶりに第4部完結編まで出たのは喜ばしいことです。

(シミルボンに2019年3月6日掲載)

石ノ森章太郎・原作『サイボーグ009トリビュート』河出書房新社

カバー装画:石ノ森章太郎
カバーデザイン:坂野公一(welle design)
カバーフォーマット:佐々木暁

 最初のコミック版掲載から60周年になるのを記念して企画されたオリジナルアンソロジーである。人気のシリーズだけにこれまでも10年ごとの記念制作はあった。ただ、小説で全編書下ろしは初めてだ。トリビュートを掲げているが、「歴史的なキーワードとしてのサイボーグ009」を、新たに解釈し直したテーマアンソロジーと捉えるべきだろう。

 辻真先「平和の戦士は死なず」小国の王女が隣国の大統領と結婚する。しかしその背後には大国の影があった。そして、過去の同僚からの挑戦状がギルモア博士の下に届く。
 斜線堂有紀「アプローズ、アプローズ」002と共に、宇宙から流れ星となって落ちたはずの009が目を覚ます。なぜ生き残ることができたのか、その方法とは。
 高野史緒「孤独な耳」003がバレエの国際コンクールに出場する。ソビエト連邦のレニングラードで開催されるのだが、そこは001の故国でもあった。
 酉島伝法「八つの部屋」隔離された秘密基地の中で、空中を自在に飛べるよう下半身を複雑に改造される002。同様の改造を受ける数人と共に適応能力を競うのだ。
 池澤春菜「アルテミス・コーリング」バレエ公演で来日した003は1人の少女と出会い、何でも話せるようになる。ただ、少女は何かに怯えていた。
 長谷敏司「wash」今でも兵器のアップグレード試験を続ける004に、旧式サイボーグによる襲撃が行われる。しかし、その正体は予想外のものだった。
 斧田小夜「食火炭」006の中華飯店は繁盛していたが、なりすましの偽チラシを契機に、サイボーグに改造され日本へと流れてくる前の過去が浮かび上がってくる。
 藤井太洋「海はどこにでも」火星軌道上で立ち往生する先遣隊を救難する船で、陰謀が企てられているらしい。宇宙でも活動可能な008が捜査のために潜入する。
 円城塔「クーブラ・カーン」成層圏プラットフォームの情報を盗み出そうとするスパイ、得体のしれないサイボーグ工場の存在、次々と浮かぶ事件の背後にあるものとは。

 石ノ森章太郎(98年没)が手掛けたコミック版は、1964年から66年にメインとなる部分が、以降1986年頃まで続編や枝編がさみだれ的に描かれた。本人の作画ではないが、未完成の遺稿をもとにした2012年の新作もある。アニメ版は、劇場用が1980年までに3回、TVも2002年まで3シリーズ、2010年代になってCGのオリジナルアニメが3種類作られた。後者しか知らないファンが多数派かも知れない。

 これだけ歴史があっても、大半のコンテンツはいまでも読めて視聴ができる(電子書籍や映像配信の環境が整っている)。反面、現代ならではの倫理的な不都合(特に、人種などの人権意識)が気になる点もあるだろう。今回の執筆者は(当事者だった1932年生まれの辻真先は別格として)、1960年代生まれが1人、70年代が5人、80-90年代が各1人と、リアルタイム世代より(平均)20歳は若い。企画が決まるまで(知ってはいても)読んだことはなかった、と正直に語る著者もいる。肯定的に捉えれば、マニアックで懐古趣味のファンはいない。より独創的/客観的な作品が期待できるのだ。

 「平和の戦士は死なず」は、アニメの最終回脚本(1968)を自らノヴェライズしたもの。当時の社会背景(米ソ冷戦のただなか)を伝える貴重な新作でもある。「アプローズ、アプローズ」はいったん終わったはずのお話(『地下帝国ヨミ編』)と断絶のある続編とをシームレスに橋渡しする、「孤独の耳」「アルテミス・コーリング」は引き立て役003を主役に押し立ててジェンダーの偏りを正し、「八つの部屋」は仕組みが謎だったブラック・ゴーストのサイボーグ基地を詳細に解明、「食火炭」はコミカルな脇役006の過去を生々しく再現する(中国が文革前後で荒れていた時代)、中編の長さがある「wash」「海はどこにでも」「クーブラ・カーン」は、いまサイボーグ009を矛盾なく書くならこうなる、という換骨奪胎のサスペンスになっている。元々の主役である009は相対的に出番が少ないが、登場人物のバランスを考えればこの点はやむをえない。

 どの物語も原作を丹念に読み込み、ちょっとした事件やエピソードを拾ってお話を豊かに膨らませている。丁寧さと大胆さを併せ持つところが面白い。

映画の原作を読んでみる、その2

 シミルボン転載コラムは、映画原作を読んでみようという企画の2回目です。今回はノーベル文学賞作家のTVドラマ、日本SF大賞作品のアニメ化、無料ウェブ小説からの映画化と、内容も経緯も異なる3つの作品を紹介しています。以下本文。

カセットテープから聞こえる、わたしを離さないで
 2016年に森下佳子脚本、綾瀬はるか主演でTVドラマ化されたので、(視聴率は振るわなかったようだが)ご覧になった方もおられるだろう。舞台を日本に移しながら、原作の雰囲気をよく伝える内容だった。また、2014年には蜷川幸雄演出で舞台化、2010年にはマーク・ロマネク監督による映画化もされている。

 カズオ・イシグロは、英国を代表するベスト20作家にも選ばれた、寡作で天才肌の作家である。英連邦での最高文学賞であるブッカー賞を含め、多数の受賞歴がある(註:この記事のあと、ノーベル文学賞を受賞した)。本書も、タイム誌が選ぶ1923年から2005年までのオールタイムベスト小説100(ちなみに、SFではスティーヴンスン『スノウ・クラッシュ』、ギブスン『ニューロマンサー』、ディック『ユービック』等が入っている)に選ばれるなど、各方面から絶賛を浴びた話題作だ。

 英国のヘールシャムに寄宿制の学校がある。男女の生徒たちは閉ざされた学園の中で、幼い頃から思春期まで一貫して育てられる。不思議なことに彼らには苗字がない。決められたイニシャルが与えられているだけ。そして、「提供者」となる自分たちの運命を知っている。

 この作品では、学園生活を送る寄宿生たちや、卒業生がたどるその後の人生が描かれている。寄宿生がどのような存在かは、SFファンでなくとも気がつくだろう。舞台は(われわれから見れば)倫理的に許されない残酷な未来社会(あるいは、並行世界の現代)である。主人公たちもどこか閉塞感を感じ、追詰められ苦しみあがく。ただし、これは理不尽な社会に対する抵抗や革命の物語ではない。どれだけ残虐であっても、主人公たちにはそれが守るべき規範なのだ。強固に抑圧された社会では、社会それ自体が壊れない限り、組み込まれた人間側から制度を壊そうという意志は生まれてこない。そういう怖さを感じさせる。

 『わたしを離さないで』は、カズオ・イシグロの描くディストピア小説といえる。社会批判が一切書かれていないかわりに、仄かな恋と友情が淡々と描かれる。ストイックな情動で主張を代弁させているのだ。表紙のイラストは、主人公が偏愛する女性歌手のカセットテープを意味している。表題 Never Let Me Goも、実は歌の題名なのだ。

(シミルボンに2017年4月4日掲載)

一千年後の日本、バケネズミを使役する超能力者たち、新世界より
 第4回日本ホラー小説大賞作家、貴志祐介の2000枚を超える書き下ろし長編。過去にハヤカワSFコンテストで佳作入選したこともある著者だが、大賞受賞後は『天使の囀り』(1998)、『クリムゾンの迷宮』(1999)といったSF風のミステリも書いてきた。本書は、1000年後の日本を舞台とする本格的なSFである。2008年の第29回日本SF大賞を受賞した他、2013年には石浜真史監督によりTVアニメ化されている。

 1000年後、日本にはわずか9つの町が存続するのみ。それらもほとんど交流がなく、最小限の人口を維持しているだけだった。科学技術は大半が失われている。しかし、未来の人類には恐るべき力が発現していた。それは呪力と呼ばれる超常能力で、物理的な破壊を伴う強烈なパワーを持つ。そして、少ない人口を補うため、ハダカデバネズミを始祖とする知的な奴隷バケネズミたちを使役していた。そんなある日、主人公たちは、校外実習で世界の外に潜む脅威を知ることになる。

 呪力があまりに強大すぎるため、お互いを殺傷できなくする禁忌、そのタブーを破る悪鬼の存在。人間並みの知性を持ちながら生殺与奪を人に委ねるバケネズミは、虎視眈々と反逆の時を探る。本書では未来社会の成り立ち(封印された過去の歴史)が非常に精緻に考えられており、舞台そのものが物語の結末に至る伏線にもなっている。

 著者は、学生時代にコンラート・ローレンツの古典攻撃 悪の自然誌(1963)を読んで本書の着想を得たという。同書は脊椎動物の攻撃本能について書かれた論文だが、特に人類の同族攻撃に対する抑制のなさに注目したという。長年構想を温め、書き上げるまでに30年以上かかった。生物の進化が描かれるが、科学技術文明の遺跡が登場する関係で、舞台は数万年ではなく千年後の未来に置かれている。

 コリン・ウィルスンスパイダー・ワールド(1987)は、人類が蜘蛛の奴隷となって地下に棲むという設定である。虐げられた者(人間)が、蜘蛛への復讐に立ち上がる。また、超能力者はヴァン・ヴォクト『スラン』(1946)以来、少数で狩られる立場にある。多数派の人類が超能力を持たないのだから、発想としてはそうなるだろう。貴志祐介は既存の設定を逆さまにした。超能力を持つ人類が支配者になり、能力を持たない非人類を支配するのだ。そこが、本書の物語に対する印象の深さにつながっている。

(シミルボンに2017年4月6日掲載)

オタク宇宙飛行士のサバイバル、火星の人
 著者はプログラマーでSFファンの宇宙オタクである。いくら小説を書いても採用されず、やむを得ず自身のウェブサイトで無料公開、すると大きな反響を呼び、個人出版の電子書籍がまずベストセラーになる。次に、評判を聞いた大手出版社から待望のオファーを得る。すると、出した本は全米ベストセラーまで登りつめ、ついにはリドリー・スコット監督、マット・デイモン主演でメジャー映画『オデッセイ』(2015、日本公開は2016年)になる。嘘のように出世した作品である。

 有人宇宙船による第3回目の火星探査、地上で作業する彼らに猛烈な砂塵嵐が押し寄せる。このままでは帰還船が倒れてしまう恐れが出てきた。彼らは探査を中止し脱出を試みるが、1人が事故で取り残される。生命反応もない。やむを得ず帰還船は発進する。しかし、その1人は生きていた。残された食料を生かし、酸素と水は再生・生産し、電力や熱を作り出しながら、次の探査に使う無人の脱出船が着陸している山岳地帯まで旅立つのだ。

 着陸地点のアキダリア平原は、北の古代の海とされる平坦な地形、目標のスキャパレリ・クレーターは3200キロ離れた山岳地帯にある。火星探検の場合、人が降りる前にまず機材が先に送り込まれる。次の第4回調査隊のため、基地施設や衛星軌道までの帰還ロケットは既に目標に到着している。ただし、長距離の地上走行は危険で、何より想定外の使われ方をした機器の故障が、主人公の障害となって立ちはだかる。けれども、それは技術的な工夫で乗り越えられるものなのだ。

 本書を読んで、マーティン・ケイディン『宇宙からの脱出』(1964)を思い出した。グレゴリー・ペック主演で映画化(1969)もされ、アポロ13号(1970)の事故を予見したといわれる作品である。同じ宇宙事故としてキャンベルの『月は地獄だ』(1951)を挙げる人が多いが、組織的でシステム化された救出計画はアポロ計画以降のものだ。キャンベルの描くのは、19世紀的な「探検隊」なので助けは準備されていない。一度旅立つと自助努力せざるを得ないのである。一方、20世後半以降の宇宙では、国家レベルでの救援が行われる。宇宙とはリアルタイムにつながり、行動も厳密にシミュレーションされる。『宇宙からの脱出』では、初めてそういうシステムによる救出劇が描かれた。本書では火星が遠いため(+ある事情のため)、システム的救援と個人の創意工夫という両方の観点が楽しめる。

 さて、以上の科学的にも正確な宇宙計画に対し、人間ドラマ部分は火星でただ1人取り残された男が、1年半サバイバルするお話になっている。主人公はマッチョというより著者を思わせるメカオタク、ありあわせの機材を改造しまくりで生き残るのだが、泣き言はほとんど言わず冗談で乗り切ってしまう。地球帰還後、ヒーローになって本当に幸せなのかとちょっと心配になる。

(シミルボンに2017年4月8日掲載)

宇津木健太郎『猫と罰』新潮社

装画:はやしなおゆき
装幀:新潮社装幀室

 日本ファンタジーノベル大賞2024大賞受賞作。著者は1991年生まれで、2020年に第2回最恐小説大賞(エブリスタ+竹書房の合同企画)を受賞した経歴がある。

 どこかの地方都市に北斗堂という名前の古書店がある。そこでは、魔女と呼ばれる三十半ばの女が主を務めている。店の周りには何匹もの猫がいて、己(おれ)もまたその中の1匹である。まだ子猫だが、すでに『9つめ』の命を迎えていた。

 猫は9つの命を生きるので、この物語は9つの章に分かれて、それぞれの(必ずしも安閑ではなかった)運命が語られる。それと並行して、現在(=9つめ)の古本屋での主人と他の猫たちとの生活が描かれる。それぞれの猫は、前世で文豪たちに飼われてきた。己もまた、あの文豪と共に生きたのだ。しかし古本屋に入りびたる小学生の生活を知り、魔女の運命を聞いてから物語は大きく動き出す。

 恩田陸「タイトルがいい。シンプルながら、内容ともバッチリ合っている。(最終候補作)四作中、唯一、ユーモアが感じられた作品で、淡々とした文章に引き込まれた」
 森見登美彦「語り手の設定が面白いし、罰を受けた神様が営んでいる古書店という舞台も魅力的である。店に住みついている他の猫たちの来歴など、いくらでも膨らみそうな要素がちりばめられている」
 ヤマザキマリ「(物語の猫は)知性や理性に栄養をあたえるために働く“作家”という種がいることを知っている。(中略)人間社会だけではなく自分たちにも安寧と豊かさをもたらすという可能性を見通しているようでもある。(中略)時にはこうした内的な考察を促してもらえるファンタジーに出会えると心地よい」
(小説新潮2023年12月号)

 今回は選考委員の間で意見が割れた。特に物語の後半で、時を越えるお話のスケールが個人の問題に縮退してしまうのが難点だった。最終的には、温かさを感じさせるファンタジーであり、改稿の余地も考慮して本書が受賞作に選ばれる。実際、加筆訂正された本書では、そのバランスは良くなったように感じられる。

 現代的なDVや過去の人々が経験してきた苦難の歴史、そしてまた神の罰も描かれるが、それらは物語を紡ぐことで超越可能だと説く。人との関係を警戒し斜に構える主人公の猫(おれ)が、小学生(~大人)や店主と交流し気持ちを少しずつ変えていく過程も楽しめる。「文豪と猫」という一方的(作家は猫を溺愛するが、猫がどう思っているかは分からない)かつ情緒的なテーマに、新たな切り口を設けた点は評価できるだろう。

ワールドコン ビギンズ 1939年のソフトボール

 今年も、毎夏の行事である日本SF大会は62回目を無事終了しました(わたしは参加していませんが)。一方、世界SF大会=ワールドコンは第82回を数え、8月に英国のグラスゴーで開催されます。ではその80余年前、第1回ワールドコンはどんな集まりだったのでしょう。今回はシミルボン転載コラムではなく、1986年8月に開催された第25回日本SF大会のプログラムブック(スーベニアブック)掲載記事からの抜粋(一部修正)です。以下本文。

 1939年7月2~4日にニューヨーク市で行われた、第1回世界SF大会の主催者として、本年大阪で第25回日本SF大会を開く、あなた方の高揚感は大変によく理解できます。第1回大会は、アメリカ、そしてカナダ、イギリス、西ドイツで開かれた世界大会の伝統を方向づけました。

 当時、SF大会や会合を開いたことのある国は、イギリスだけでした。私たちは、自らの大会に「世界」とつけたことで、海外からわざわざ参加するほど魅力があるか疑わしいと批判されたものでした。

  日本は遙かに離れて遠く、アメリカとは言葉も全く違い、相違点の大きな文化を持つ国で、火星SFの舞台並みに「ファンタスティック」な世界と表現されてきました。その日本でSFが活発化し、1939年の「スペクタクル」が小さく思えるぐらいの大会が開かれるなど、ほとんど誰も考えなかったでしょう。

 今から思えば、昔からの素地はあったと思います。私はいま、1921年に日本で出版されたイギリス作家ジョージ・ グリフィスの箱入上製本 A Honeymoon in Space註:大正10年版の黒岩涙香訳『破天荒』と思われる。最初の版は明治43年に出ている)を見ています。宇宙地図の載っている星系への宇宙旅行を描くロマンティックな小説です。この作品は、アメリカでは未だハードカバーでは出ていません。それでも日本の出版者の誰かは売れると考えたのです。翻訳権を買い、手間のかかる造本としたのですから。

 もし、アメリカの黎明期に行われた大会の感激が普遍的なものであるなら。 第25回日本SF大会は主催者にとっても、そしてほとんどの参加者にとっても、大成功を収めるのは間違いないでしょう。

サム・モスコウィッツから大会に宛てた祝辞より抜粋

 このメッセージとともに小冊子が送られてきた。第1回世界SF大会(NYCON1)、つまり 47年前(註:現在からなら85年前)のプログラムブック(オフィシャル・スーベニア・ジャーナルとある)現物である。金色の厚紙に、スクリプト風の文字で飾られた表紙。アート紙の本文は、現在でもほとんど変色していない。ちょっとクラシックで、 ちょっと豪華な雰囲気がある。

 記録を捜すと、当時の参加者は200名足らず、これは初期の日本SF大会と変わりのない数字である。世界SF大会が参加者千名の大台を越えるのは、1967年のニューヨーク大会(NYCON3)から。戦争で中断された4年間(1942~45年)を除いても、四半世紀の時間が必要だった。

 まずこんな調子の挨拶文が入る「やあ、みなさん! 世界SF大会にようこそ。もしここで楽しめなかったとしたら、それは、 あなたにも責任があるんです……」。自己責任とかではなく、みんなで盛り上げましょうという意味だろう。

 広告も文字だけのものが多い(活版印刷の図版は高価だった)。スペ―スをたっぷりとった本文はとてもシンプルだ。同じ年にアシモフ、ハインライン、ライバー、スタージョンらが続々デビューしているが、当時はまだ無名だった。この冊子に近影のある作家では、D・H・ケラー註:代表短編「地下室のなか」はここで読める)、オーティス・ クラインマンリー・ウェイド・ウェルマンヘンリー・カットナーらがいた。ほとんどは、もはや歴史の中に埋もれている。

 その一方、 Sciencefictionistsとある参加者名簿(下図)を拡大してみれば、翌月19歳になるブラッドベリや、32歳のハインラインなどの名前が見つかる。一覧にはないが19歳のアシモフも当日参加していた。『アシモフ自伝』などを読むと、大会のあった1930年代の雰囲気がよく分かる。

 1日目(日曜日)のプログラムは、公式には午後2時から始まっている。キャンベル(アスタウンディング誌編集長)、パウル(画家), モスコウィッツらの講演が中心。まだパネルディスカッションは、一般的ではないのだろう。サイレント映画「メトロポリス」(1926)の上映もある。(ちなみにアシモフは、映画はひどかったと感想を述べている)。夕食をはさんで夜10時まで一応のプログラムは組まれている。アメリカの大会は、第1回からホテルでの合宿形式だった。時間的にエンドレスなのである。日曜日から始まっているのは、3日目に独立記念日の休日があるからだ。

 2日目(月曜)もほとんど同じ形式で進む。 開始2時は1日目と変わりない。2日目は、深夜まで続く。顔ぶれに新味はないけれど、 SFの夏の熱気が単調さを補っていたのだろう。大会参加者の多くが、その後プロになっていった。同様の状況が日本でもあった。草創期の夏は、あらゆる世界あらゆる年代を越えて存在する。祝辞にもあるが、世界SF大会はアメリカから外に出て、イギリス、西ドイツ、カナダ、オーストラリアなどで開かれた。日本人の参加者も最近は増えた。逆に今年のように、海外参加者が多数日本を訪れるようにもなった(註:この年、約40名がツアーを組んで来日した)。

 ワールドコンを名乗る以上、やがて欧米圏を離れ日本で開かれる日も来ることだろう(註:ようやく日本でワールドコンが開かれたのは2007年のことである。21年後のことだ)。 なお、モスコウィッツは、初期から中期にかけてアメリカSF界で活躍した評論家で『無限の探求者』Explorers of the Infinite (1963)などの著書がある。その一部はSFマガジン1967年5月、9月号に訳載されている(註:1997年に76歳で亡くなっている。第1回大会を主催した当時は19歳のティーンエイジャーだった)。

 さて、第1回世界SF大会の3日目(火曜)には、プログラムが尽きたのか、ふしぎな企画が記されている。SFプロフェッショナルズ対SFファンズ、SFソフトボール対抗戦。その勝敗は明らかではない。