ニール・スティーヴンスン『ターミネーション・ショック』パーソナルメディア

Termination Shock,2021(山田純訳)

 キム・スタンリー・ロビンスン『未来省』に続く、坂村健が強く推す気候変動SFの大作(2段組680ページ)である。ニール・スティーヴンスンは『スノウ・クラッシュ』の先見性により注目された作家で、抜群のリーダビリティ+饒舌さに定評がある。『七人のイヴ』は設定が大きすぎた(月が7つに分裂し人類滅亡の危機に陥る)ためか饒舌さは抑えぎみだったが、本書ではその本領を地球スケールで発揮している。近未来サスペンスとしても読者を飽かせない。

 一機のプライベートジェットが高温の影響で目的地に降りられず、近隣の地方空港に着陸しようとする。ところが、滑走路に進入した巨大野ブタ(巨大鰐に追われている!)の群れと衝突し大破、どちらも気候変動と環境汚染が原因だった。一行の目的地は、テキサスの砂漠地帯に作られた巨大な施設にあった。一方、インドと中国の紛争地に一人の英雄が出現する。

 ジェット機の操縦をしているのがネーデルラント(オランダ)の女王、『白鯨』に準えられる野ブタを追う男、カナダ生まれのシク教徒(印加が対立するのは2023年のこと)の男はパンジャブに渡ってから自身の役割を知り、テキサスの億万長者は無能な政府に頼らず自ら温暖化抑制を手がけようとする。さらに彼らを取り巻くスタッフたちや、気候変動の影響を受ける中国、インドのエージェントたちが暗躍する。

 舞台はテキサスの砂漠、海抜以下のネーデルラント、消滅危機のヴェネチア、カシミールの実効支配線(2020年の中印衝突を背景にしている)、ニューギニア島の最高峰へと広がる。メインとなる気候制御のアイデアは、リアルに検討されているものだ(本書の解説や参考文献を参照)。一方、実効支配線でのパフォーマンス合戦とか、奔放な女王の行動とかのエンタメ要素も多い。これだけの伏線をどう収束させるかが読みどころになる。大団円にならないのは気になるが、もちろん温暖化に安易な解決手段などない。読書をじっくり愉しみたい方にお勧めできる濃厚な1冊である。

サラ・ブルックス『侵蝕列車』早川書房

The Cautious Traveller’s Guide to the Wastelands,2024(川野靖子訳)

カラーイラスト:富田童子
カバーデザイン:大野リサ

 著者は英国ランカシャー生まれの作家クラリオン・ワークショップに参加したことがあり、蒲松齢『聊斎志異』の研究で博士号を取ったという東アジア文化の研究者でもある。この物語は、シベリア鉄道(本線のウラジオストクからではなく、北京→モスクワのルート)でのリアルな旅体験と、専門の中国古典怪奇/怪異譚が混じり合って生まれたようだ。

 1899年、20両編成からなる長距離列車が北京を出発する。目指すはモスクワだが、旅程の大半は〈壁〉で隔てられた向こう側、シベリア大平原の〈荒れ地〉を走ることになる。外部からの侵入を防ぐ密閉構造の列車とはいえ、命の危険と隣り合わせだ。事実、前回の旅では気密が破れ、人命を失う事故が起きていた。しかし、欧州中国間の最短ルートという権益を鉄道会社が手放すはずがない。運行は再開された。

 未知の生命の侵入を防ぐために中華帝国とロシア帝国が共同で〈壁〉築く。史実の万里の長城はもちろん、映画の「グレートウォール」や「ゲーム・オブ・スローンズ」に出てくる北の壁を思わせるが、シベリアを囲むのだからこちらの方がスケール感はあるだろう。もっとも、本書は土木SFではないので、壁の構造とか鉄路敷設などの詳細描写は省かれている。

 その代わり、密室となる列車内にはクセのある人物が配されている。列車内で生まれ育ち乗務員をしている中国人少女、事故の真相を知ろうとする職人の娘、口うるさい伯爵夫人、荒れ地の生物に興味がある博物学者、教条主義的な言動の聖職者、行動が怪しい若い機関士、地図制作の日本人青年、乗務員を監視する鉄道会社の陰気な顧問(二人一組)、初代から乗車し責任者となった女性列車長、それぞれが別々の事情を抱えて動くのだ。

 ただ、本書はクリスティ風の鉄道ミステリというより、ジェフ・ヴァンダミアの《サザーンリーチ》など(下記リンク参照)得体の知れない世界を描く〈ゾーン〉ものに近い。さまざまな人々の思惑(その解決)を絡め〈荒れ地〉の意味を探っていくお話となっている。

レイ・ネイラー『絶滅の牙』東京創元社

The Tusks of Extinction,2024(金子浩訳)

カバーイラスト:鈴木康士
カバーデザイン:岩郷重力+W.I

 本書は今年8月のシアトルで開かれた、世界SF大会2025でヒューゴー賞を受賞(長中編=ノヴェラ部門)したばかりの旬な作品である。200ページ(250枚ほど)のコンパクトな一冊、勝山海百合の解説も公開されているので手に取りやすいだろう。著者は1976年にカナダで生まれ、カリフォルニアで育ったあと、ロシア、中央アジア、コーカサス、ベトナム、コソボと世界各地で働いた経歴(政府機関や国際機関)を持つ。その体験も作品に生かされている。

 野生の象が組織的な密漁により絶滅してから、百年を経た後の未来。ロシアではシベリアに巨大な保護区が作られ、マンモスを遺伝子操作で復活させるプロジェクトが進んでいた。温暖化が進むシベリアでは、生態系の頂点に立つ新たな生き物が必要なのだ。しかし、野生を知らない人工飼育のマンモスでは、繁殖どころか自身の身すら守れない。そこで、過去に象の保護活動に奔走した一人の生物学者のデジタルデータが、一頭の雌のマンモスに転送される。象は母系社会なので、この雌がリーダーになる。

 閉塞感が漂う死んだ生物学者の過去、保護区に侵入し密猟を生業とする親子、莫大な費用を負担してマンモス狩りにのめり込む富豪とパートナー、それをプロジェクトの必要悪と諦観する科学者などなど、中編小説とは思えないほどの人物が詰め込まれている。

 文明(特に欧米)は、環境破壊を引き起こした張本人である一方、絶滅危惧種の保護にも熱心という正反対の一面を持つ。その矛盾が、密猟者と保護レンジャー(どちらも欧米人ではない)の殺し合いに顕われる。動物を守るために人が死ぬのだ。本書ではそういう相反する立場の人物が、象の現在と復活マンモスの未来に登場し悲劇を生む。短いながらも奥深い物語だ。

  • 『マンモス』評者のレビュー(バクスターの擬人化マンモスもの)

トリスタン・ガルシア『7』河出書房新社

7 Romance,2015(高橋啓訳)

装幀:川名潤

 著者は、1981年生まれの哲学者兼作家。サルトルやボーヴォワールがいるので、フランスで哲学者と作家を兼ねるのは、さほど珍しくないのかもしれない。本書は、2016年のリーヴル・アンテル賞を受賞した文学作品だが、多くの奇想/SF要素(具体的な作家や作品名が出てくる)を取り入れたエンタメ作品ともなっている。2段組500ページを超える大作で、前半が6つの中短編+後半が7つの章からなる短い長編という、二重構造を持つ7つの物語(Romance)になっている。物語は独立しており、ごく緩く関連し合ってもいる。

 エリセエンヌ:偶然耳にしたLICNとは何か。パリの郊外にある元修道院で、主人公はそれが命の年齢という薬物だと聞かされる。木管:マイナーなバンドリーダーの元に、古いテープを持ったファンが訪れる。音はかつて自分が書いたヒット曲そのものだったが、録音はもっと古いのだという。サンギーヌ:療養のため訪れた村で、美貌のスーパーモデルは異様なまでに傷を負った男と出会う。やがて男との関係が明らかになり……。永久革命:彼女は2つの世界の狭間を揺れ動く。1つは1973年に左派革命が成就した世界、もう1つは運動が衰退し反動化した世界。宇宙人の存在:〈仮説〉を信じ宇宙人を探訪する兄に同行する弟は、ピレネーの森の奥深くにまで足を踏み入れる。半球:同じ思想の者だけが別々のドームに閉じこもった世界。そこでは〈普遍主義者〉だけが運用の可否を判定ができる立場だった。
 第七(全7章の長編):鼻血が止まらなくなってパリの病院に運ばれた少年は、若い医師からお前は不死の存在だと告げられる。不死と言っても実際は何度も死ぬ。記憶を伴ったまま生まれ変わり、人生を再びやり直すのだ。それも7回にわたって。

 ある種のタイムマシン、タイムパラドクス的なオーパーツ、美が内在する醜悪なバランス、並行世界、UFO/UAP、ドームによる分断社会、果てしのない生まれ変わりループ、と続く。ファンタジイだからと説明を切り捨てず、これらの奇想に疑似科学的な(あるいは哲学的な)理由付けをするのが面白い。SF読者には受け入れやすいだろう。また『第七』では、同様の設定を扱うクレア・ノース『ハリー・オーガスト、15回目の人生』がループの保守的な側面を描くのに対し、不死により社会が変えられるのか/改善できるのかが愚直に問われる。主人公の高揚/希望から、絶望/悪意へと激しく揺れ動く心理が印象深い。

ジェニファー・イーガン『キャンディハウス』早川書房

The Candy House,2022(谷崎由依訳)

扉イラスト:中山晃子
扉デザイン:早川書房デザイン室

 著者は1962年生まれの米国作家。ピュリッツアー賞をはじめ多くの文学賞を受賞したベストセラー『ならずものがやってくる』(2010)で知られる。本作は同書と設定や登場人物の一部を共有するが、未読であっても大きな支障はないだろう(訳者あとがき参照)。学生時代にスティーブ・ジョブズと付き合っていたという特異な経験があり、そのときのことを「テクノロジーは危険なものだと信じて疑わない私にとって(中略)しかし、彼と一緒にいたとき、私は純粋にユートピア的なヴィジョンを目の当たりにしていました」と述べている(Vogue誌でのインタビュー)。この危険さとユートピア感の対照は、本書にも大きく反映されている。

 ベンチャー企業マンダラは、個人の記憶をすべて(アンコンシャス=無意識を問わず)外部に取り出す技術=オウン・ユア・アンコンシャスでネット社会を席巻する。外部化すれば(匿名にされていたとしても)あらゆる人のあらゆる記憶と、自分自身の意識していなかった記憶にさえ自由に接続/検索ができるからだ。記憶データを使って人々の行動予測をするカウンター(=計算者)がいる一方、ネットからの離脱を叫ぶエルーダーたちの集団モンドリアンも活動する。

 創業者と子どもたち、マンダラの影響下にある社会で生きる三兄弟、技術基盤のアイデアを導いた人類学者(女性)と娘たち、元夫の音楽プロデューサーと異母兄弟たち、さらにその登場人物同士の結びつきなど、とても濃厚な人物像が描き出される。他人の記憶に入り込むというアイデア自体は、もう一人のイーガン門田充宏をはじめ多数あるが、本書ではそれ自体がテーマではない。他人の体験をリアルに知るということは、人の一生を拡張し関係性を攪拌/混乱させる。そういう複雑な絡み合いが読みどころになる。

 さまざまなスタイルが取り入れられていて、ツイッター小説風のスパイもの、SNS/SMS的なメッセージが往復するエピソード、人類学者が考えた人間行動のアルゴリズムとか、SFめいたカウンターの説明もある(あまり科学者的でもエンジニア的でもないが、まあそれはそれ)。作者の考える人を介したテクノロジーの陰陽が(人間関係が複雑すぎるきらいはあるものの)多様に愉しめる作品だろう。

日本SF作家クラブ編『恐怖とSF』早川書房

カバーイラスト:緒賀岳志
カバーデザイン:岩郷重力+Y.S

 日本SF作家クラブ編のオリジナル・アンソロジー第6弾。このアンソロジーの特徴として、テーマが「時代を象徴する単語+SF」と、とてもシンプルで分かりやすい点があげられる。その分、著者の解釈も幅広く多彩になり、反面(読者にとって)とりとめがなくなる。サブテーマ的なキャプション(幽霊のゆくえ/身体のゆらぎ/侵食する獣/進化する人怖/物語の魔/異貌の歴史/地獄にて/彼岸の果て)で分類されているのは、小さなまとまりを作って内容にヒントを与える意図があるのだろう。

幽霊のゆくえ
  梨「#」幽霊を自動観測する機械がアーカイブした映像の数々。柴田勝家「タタリ・エクスペリメント」不審死が起こる土地で発見された磁性細菌は、タタリ細菌と呼ばれるようになる。カリベユウキ「始まりと終わりのない生き物」ダークウェブの奥底、そこに行ったまま帰ってこない女は幽霊となったらしい。
身体のゆらぎ
 池澤春菜「幻孔」自らを深層量子ダイブの実験台とした科学者に体の異変が生じる。菅 浩江「あなたも痛みを」痛みを体感する機械が作られ担当者は嗜虐的な実験を続ける。
侵食する獣
 坂永雄一「ロトカ=ヴォルテラの獣」中学校の夏休みに計画された「プロジェクト」は、狩るものと狩られるものの関係へと変貌していく。小田雅久仁「戦場番号七九六三」夫婦間の約束を果たそうと都心に出た主人公は街を飲み込む大変容に巻き込まれる。飛鳥部勝則「我ら羆の群れ」姉を「羆」に殺された男は猟師と共に獣を狩ろうとするが。
進化する人怖
 イーライ・K・P・ウィリアム「フォトボマー」DMで知り合った男は信頼できそうに見えたが、ある趣味が気になった。平山夢明「幸せのはきだめ」その連続殺人犯は、同一人物と思えるのに監視カメラの映像がそれぞれ違って見えた。
物語の魔
 小中千昭「現代の遭遇者 The Modern Encounter」動画投稿サイトの配信者は、ファンと称する男からUAPとの〈遭遇〉ネタを聞かされる。空木春宵「牛の首.vue」JavaScriptのフレームワークで書かれた怪談「牛の首」とLLMとの関係。牧野 修「初恋」大学で出会った気の合う彼女への告白は、予想外の答えを産み出した。
異貌の歴史
 溝渕久美子「ヘルン先生の粉」日本統治下の台湾では、製糖産業を発展させるための労働力が不足した。それには粉が有効だった。篠たまき「漏斗花」高天原の足踏み場と呼ばれる土地の出身者は、漏斗花を通じて故郷に帰還することができた。
地獄にて
 久永実木彦「愛に落ちる」学生時代に意気投合して共同研究者になった二人だが、実際は片方の天才的な能力に依存する関係だった。しかし重大な事故により二人は「落ちる」。長谷川京「まなざし地獄のフォトグラム」異界が現れる。そこには地獄が見え、まだ生きている者の罪が映し出される。
彼岸の果て
 斜線堂有紀「『無』公表会議」死のあとには「無」しかない。それを公表するか否かの議論が続く。飛 浩隆「開廟」〈破次元境界〉を越えて移住知性体が越境してくる。正体はまったく不明だったが、その言語により人類は大きな恩恵を受けていた。新名 智「システム・プロンプト」カーティスと親しく会話するミーコ+人工知能Curtisに対するプロンプトの関係。

 SFプロパーによるホラー、ホラー作家によるSFという、方向性の異なる2種類(厳密な区分けではない)の作品が読める。たとえば、「まなざし地獄のフォトグラム」での異界と「開廟」の境界、どちらも正体不明ながら、その根拠を宗教的な因果とするか物理的な不可知とするかの違いがある。他では「幻孔」「あなたも痛みを」が生理的な恐怖もの、「ロトカ=ヴォルテラの獣」「ヘルン先生の粉」は新たなゾンビものだ。IT業界の著者が多いのか、本文中にコードが書かれたものもある。

 「システム・プロンプト」では、共感とか感情とかの議論も含めて、今時点でのAIがストレートに描かれている。問いかける先(プロンプトの相手)は誰なのか、相手も/自分もAIではないとどうやって証明できるのか。きわめて現代的な恐怖(『AIとSF』でもいいけど)なので、順番として結末に置くにふさわしい作品だろう。

オラフ・ステープルドン『火炎人類』筑摩書房

The Flames and Other Stories,2025(浜口稔編訳)

カバーデザイン:山田英春

 本書は1947年に書かれた表題の中編に、未訳(未発表作を含む)短編9編、ラジオドラマ脚本や講演録(A・C・クラークが招請した英国惑星協会での講演)を併せた編者によるオリジナル作品集である。詳細な解説も付いているので、現代のエンタメ小説とは構造からしてまったく異なる、ステープルドンの思索小説を改めて堪能できるだろう。

 火炎人類――ある幻想(1947)友人から手紙が届く。山中を歩いているとき拾った石を、予感に駆られて暖炉に焼べたとき〈ほのお〉が呼びかけてきたという。それは太陽を起源に持つ超絶した種族であり、自身の由来と宇宙的な神霊について語りはじめる。 
 種と花(1916)男たちが兵士になり、さまざまに死んでいくありさま。救急哨所への道(1916)戦場の後方で救急車を駆る男の思い。現代の魔術師(1946)男は女の気を惹こうと、身につけた念動力をもてあそぶ。手に負えない腕(1947)爵位を持つ有力者の右腕が、なぜか意志に反して暴れ始める。樹になった男(未発表)ブナの木の根元に横たわった男は、肉体を離れ木と一体化していく。音の世界(1936)音の中に存在する生命に気がついたわたしは、その生態に驚異を覚える。東は西(1934)逆転した東洋と西洋の世界。東洋文化の影響下にある英国では、アジア人排斥感情が高まりつつあった。新世界の老人(1943)政治体制の大変革から時間が流れ、革命世代の老人は現代の風潮に反発を感じるようになる。山頂と町(1945頃)不案内の道をさまよい、たどり着いた町ではその繁栄ぶりを見て思案しながらも、わたしは町を離れまた歩き出す。 
 はるかな未来からの声(未放送の脚本)ラジオドラマの放送中に、20億年の未来から最後の人類がメッセージを送ってくる。惑星間人類?(1948)地球を離れた人類が落ち着く先はどこなのか、神霊的経験とは何か、自身の創作での留意点を交えながら語る。

 1916年に書かれた2作は、自身が経験した第1次大戦の前線を描いた掌編である。「現代の魔術師」は超能力を扱ったもので短編映画にもなった。潜在意識の暴走、植物的な共生、潜在意識、音波生命、並行世界、アンチユートピア、人類史的な寓話、これらをアイデア小説と見做せば(いわゆる「夢落ち」の類が多く)古臭さを感じるかもしれない。

 しかし、ステープルドンはアイデアをオチに使うのではなく、ものごとの本質/哲学的な意味を問うためのツールとして扱う。例えば「火炎人類」に登場する神霊(spirit)は、キリスト教的な聖霊(holy spirit)とも取れそうな言葉だが、これはクラークが『幼年期の終わり』で描くオーバーマインド(あるいはさらに上位)に相当する概念で、スピリチュアルな超常現象ではない。実際、『幼年期の終わり』はステープルドンの直系ともいえる作品だ。そこが並の小説との違いになる。

ウラジーミル・ソローキン『ドクトル・ガーリン』河出書房新社

Доктор Гарин,2021(松下隆志訳)

装丁:木庭貴信(OCTAVE)

 ソローキンの単著としては最長(約1200枚)の作品である。コロナ禍のただ中、翌年2月にはウクライナ侵攻が始まるという2021年に書かれたものだ。この作品には前日譚となる『吹雪』(2010)がある。そのエピソードも(夢のシーンなどで)出てくるが、主人公が共通する点をのぞいて、続編というわけではないようだ。

 8人の患者を収容するサナトリウム〈アルタイ杉〉があった。8人は尻を使って移動するpb(ポリティカル・ビーイング=政治的存在)で、G8の首脳と同じ名前で呼ばれている。ガーリンは精神科医で、患者の発作をブラックジャック(電撃棒)で抑えるという、いささか乱暴な治療を施している。ところが、隣国カザフとの国境紛争の巻き添えで、患者共々バイオロボットに乗り脱出することになる。

 ここに出てくるG8の首脳陣(トランプ、安倍晋三からプーチンまで)は、実際には揃ったことはない(そもそもロシアは2014年以降排除された)。とはいえ史実に意味はないのだ。何しろこの世界のソビエトーロシアーヨーロッパは、我々と異なる歴史を刻んでいる。ユーラシアは四分五裂、新たな中世を迎えており、ロシアもアルタイやモスコヴィア、ウラルなどなど複数の共和国に分裂し、核兵器をカジュアルに使う小競り合いを繰り返している。ドクトル・ガーリンは平穏を求め、比較的安全な極東共和国へと逃避行を試みる。

 物語が先に進むにつれ、奇妙な世界が拓けていく。小さな母を奉じる無政府主義者の収容所、兄弟伯爵の宮殿、アルタイの都市バルナウルのサーカスやアクアパーク、巨人族の女地主の館、麻薬製造者ビタミンダーの家、遺伝子操作で産まれた野人たちクロウドの都と、波乱に満ちた旅は続く。過去の自作に登場した特異な設定を、効果的に再利用している。

 断片的(本の切れ端や焼け残り)な物語が無数に埋め込まれている。枠小説というか、不完全な小説がばら撒かれているのだ。さらに麻薬による幻覚や、過去の記憶から来る悪夢などが挟まる。中でも、表紙に白いオオガラスを描いた(本書の表紙)15世紀の仔牛革の本は重要な役割を果たす。本書の中でのドクトル・ガーリンは、運命に流される受け身の人物ではなく、生き別れた恋人との再会を願う情動的な人として描かれる。『青い脂』(1999)の頃の非人間さを昇華し(猥雑さは残すが)人間に還ってきた印象を残す。

 さて、評者の場合、本書を読んで連想するのは(著者が意識した『ドクトル・ジバコ』ではなく)砂川文次『越境』だった。SF界隈ではまったく話題にならなかったが、本の雑誌による2024年ベスト長編に選ばれた作品だ。異界と化したロシアと北海道、奇想に満ちたロードノベルとしても読み比べられると思う。

眉村卓『幻影の構成』小学館

装丁:おおうちおさむ 山田彩純(ナノナノグラフィックス)

 P+D BOOKS版の眉村卓作品はこれで4冊目になる。原著は、1966年に早川書房の《日本SFシリーズ》の一環として書き下ろされたものだ。作家専業となった翌年に出たもので、著者の第2長編かつ3冊目の単行本になる。

 2020年の世界、主人公は第八都市の住人だった。市民はイミジェックスと呼ばれる情報端末に支配され、ふだんの行動や購買意欲までコントロールされている。不満を感じた主人公は、支配する側の中央登録市民に成り上がろうとする。しかし、ある事件をきっかけに、社会の隠された一面を知ることになる。

 (書かれた当時から)60年後が舞台。その社会は、複数のコンツェルン(財閥企業)によって支配されている。第八都市は、中央本社の統制下にある植民地的な地方都市である。その支配の要となるのがイミジェックスで、絶え間ない囁き(ツィート?)によって、コンツェルンの従順な生産者/消費者となるよう人々を操っている。しかも、より上位の支配者がいて……。

 煌びやかな中央と寂れた地方、情報を握る企業に権力が集中し、コンピュータによるネットが人心や欲望を制御する。形態こそ違うものの(上位の支配者もソフト的なバグだと思えば)、これらはすべて現実化したとみなせるだろう。主人公はイミジェックス・システムの破壊を試みるが、大規模な反攻にはイミジェックスを利用するしかないと悟るようになる。だが、それでは自由から遠ざかるばかりだ。単純な抑圧と革命の物語ではないところが、いかにも著者らしい。

笹原千波『風になるにはまだ』東京創元社

ブックデザイン:岩郷重力+WONDER WORKZ。
装画:竹浪音羽
装幀:小柳萌加(next door design)

 2022年の第13回創元SF短編賞受賞作「風になるにはまだ」を含む、著者初の短編集。6編の収録作品のうち半分は書下ろしで、その設定や登場人物を共有する連作短編集でもある。著者は高校時代に読んだ印象に残るSFとして『ハーモニー』を挙げ、『わたしたちが光の速さで進めないなら』に共感すると話す(ネット配信番組の「読んで美木彦」)。

 風になるにはまだ(2022)先方の希望する体型とあたしはぴったりだった。情報人格になった依頼主に体を貸し、現実世界のパーティに参加するというバイトなのだ。
 手のなかに花なんて(2023)好きだった祖母が情報人格になり、孫の主人公はアバターを使って訪問する。それは祖母の認知症のリハビリのためでもあったのだが。
 限りある夜だとしても(2025)カメラマンの主人公が高校時代からの友人と久しぶりに食事をする。不器用な自分に比べれば完璧すぎる友人だった。
 その自由な瞳で(書下し)瞳でしか意志を伝えられない彼は、仮想世界では自由に動ける。私は高校を出たあと引きこもり、家から出られなくなった。
 本当は空に住むことさえ(書下し)仮想世界に住む著名な建築家と手伝いをする設計士に、土地を管理する役所から思いがけない提案がなされる。
 君の名残の訪れを(書下し)仮想世界ができる黎明期、同居していた友と移住した主人公だったが、その友は散逸で亡くなってしまう。

 ある作品での主人公が次のお話にカメオ出演したり、あるいは脇役が主役になって出てきたりといった形での連作になっている。舞台は情報人格が住む仮想世界と、VRやディスプレイで結ばれた現実世界で、この設定は共通する。

 LLMが話題になるほんの少し前、全脳エミュレーションとかマインド・アップローディングの議論がいろいろ行われたことがある。人の脳さえ完全にデジタル化されれば、ネットのインフラ(あるいはロボットの肉体)がある限り永遠に生きられるのではないか、という考え方である。本書では、それが実現した(といっても大きな社会的変化のない)未来が描かれる。

 重い病や高齢だけでなく、さまざまな動機で人々は仮想世界への移住を決意する。しかし、万能に見えた世界にも限界がある。永遠のはずの情報人格に「散逸」という死が訪れるのだ。そのため、仮想世界はあまり現実世界と違いすぎないように作られている。味覚や触覚さえ再現される。

 人の機微を表現するのに最適な設定と文章だろう。中高年と若者、祖母と孫、男と男、体の病と心の病、師(女)弟(男)関係、女と女と、いかにも現代的な関係性が描かれている。標題の「風になるにはまだ」とは、まだ風になる(=散逸)を受け入れずに生きてみる、という意味になる。ただ、ここまで現実と相似形の仮想世界となると、SFである意義が薄れてしまう。そこがちょっと気になった。