R・F・クァン『バベル オックスフォード翻訳家革命秘史(上下)』東京創元社

Babel Or the Necessity of Violence: An Arcane History of the Oxford Translators’Revolution,2022(古沢嘉通訳)

装画:影山徹
装丁:岩郷重力+W.I

 著者は1996年に中国で生まれたアメリカ作家。中国研究や東アジア言語学のエキスパートだが、本書には、英国のケンブリッジやオックスフォード(ユニヴァーシティ・カレッジ)で修士号を得た際の経験が加味されている(学士はジョージタウン大学、博士号はイェール大学)。余計な忖度でヒューゴー賞は逃したものの、2023年のネビュラ賞ローカス賞を受賞、他にもブリティッシュ・ブック・アワードや中国の第15回華語科幻星雲賞を受賞、ニューヨークタイムズ・ベストセラー・リストに挙がるなど、幅広い支持を集めた作品だ。翻訳も刊行後忽ち重版と好評。

 1829年、清朝末期の広東の下町で、母を喪った身寄りのない少年のもとに教授が訪れ、英国本土に連れ出そうとする。慈善などではない。それには功利的な意図があった。オックスフォードに設けられた王立翻訳研究所のためなのだった。

 翻訳研究所は、オックスフォード(大学は町中に点在する複数のカレッジ=コレッジの集合体)のバベルと呼ばれる8階建ての塔にある(実在はしない)。19世紀の大英帝国は、銀の力により覇権を唱えていた。銀の棒はパワーの源だった。取り付ければ船足が上がり砲弾の飛距離を増す。棒には2種類の文字が刻み込み込まれる。この2つ(ひとつは原語、もうひとつはそれを翻訳した英語)の差異の大きさによって棒のパワーが決まる。つまり大きく異なる言語、中国語の遣い手には価値があった。翻訳研究所は有力な文字の組み合わせを研究開発する。さまざまな言語の翻訳に関する蘊蓄が一つの読みどころとなる。

 少年は名前を英語名のロビンと改め、厳しい語学の勉強を経てオックスフォードに入学する。同期にはインド人男性、ハイチ出身の黒人女性、学びを疎んじられた白人女性がいた。この目的がなければありえない仲間だった(白人男性以外は、学問に適さないとみなされていた)。研究に従事する限り十分な生活が保障される。しかし、この研究所の真の意味が分かるようになったとき、4人の運命は大きく変わっていく。

 解説にもあるが、本書は《ハリー・ポッター》風の魔法学園ものでもある。はじめ打ち解けなかった4人の仲間が、友情を深め力を合わせる展開は既存の学園ファンタジイを思わせる。やがて、出自に伴う差別や偏見が生まれ、学園にまつわる暗黒面、教授たちの政治的な策謀が明らかになっていく。ここで《ハリー・ポッター》などと異なるのが、リアルな英国を舞台に設定したことだろう。

 この時代の大英帝国は、まさに「悪の帝国」だった。銀の棒は蒸気による産業革命のアナロジーである。そこで生まれた生産性は善に結びつかず、極端な貧富の差と富者の強欲を産み出した。麻薬流通の自由化を名目に戦争を仕掛けたアヘン戦争(1840~42)、飢餓のアイルランド(当時は英国領)にろくな援助もせず人口を半減させた大飢饉(1845~49)、何より生産革命で生じた自国の余剰労働者(女性や子どもを含む)を過酷な仕事に従事させ、マルクスが『資本論』(イギリスの工場労働者の状況を詳しく分析)を書く動機となったことなど、世界紛争の火種が19世紀英国にはある。そういうダークな背景は、本書の物語に深い陰影与えている。作者が付ける原註が、客観的というよりかなり主観的なのも、著者の考えが分かって面白い。

A・J・ライアン『レッドリバー・セブン:ワン・ミッション』早川書房

Red River Seven,2023(古沢嘉通訳)

カバービジュアル+デザイン:岩郷重力+M.U

 著者は1970年生まれの英国作家。10年ほど前にアンソニー・ライアン名義で『ブラッド・ソング』(3部作の第1部)が紹介されている。著作の大半はファンタジイだが、その執筆の合間にあえてペンネームを変えて出したSF長編が本書。

 ふと目覚めると、主人公たちは船の上にいる。しかし断片的な記憶はあるものの、自分の名前すら思い出せない。剃られた頭には覚えのない手術痕があり、そして、デッキには死亡後間もない死体がある。ここは一体どこなのか。

 レッドリバーとは文字通りの赤い川のこと。セブンとは主人公たち7人を指し、なぜか著名な作家名(ハクスリー、コンラッド、ジーン・リース、ゴールディング、シルヴィア・プラス、ディキンスン、ピンチョン)がコードネームのように割り当てられている(作家名と登場人物の役割には、深い関係はないようだ)。男女7人(冒頭で1人は亡くなっている)が、一つの使命を担って赤い川を遡っていく物語なのだ。

 一見デスゲームを思わせる滑り出しで、帯にはサバイバル×ディストピアとあり、両方の要素は確かにあるが、どちらともちょっと異なる展開になる。『最後の宇宙飛行士』や、《サザーン・リーチ》に近いお話だろう。得体の知れない異形の世界を、限られた情報だけを頼りに手探りで進んでいくところが似ている。しかも、この謎のチームには(終幕であきらかになる)重大なミッションが与えられている。2023年に読んだ中では一番と訳者が推奨する、一気読みエンタメ作品である。

マンガ 森泉岳士/原作 スタニスワフ・レム『ソラリス(上下)』早川書房

SOLARIS,1961(森泉岳士 マンガ、スタニスワフ・レム 原作、沼野充義 監修)

扉デザイン:鈴木成一デザイン室

 森泉岳士によってハヤコミに連載され(現在、冒頭の3話までは無料で読める)、ハヤカワコミックスから刊行されたマンガ版『ソラリス』である。底本はハヤカワ文庫SFに入っている同題のポーランド語版による。

 惑星ソラリスにある観測ステーションに心理学者のケルヴィンが到着する。しかし、内部は装備が散乱する状態で、先任の科学者たちは姿を見せない。ここでは一体何が起こっているのか。やがて、ケルヴィンの前に一人の女性が現れる。それは19歳で自殺したかつての恋人ハリーだった(この物語の詳細については下記コラムを参照)。

 原著発表から64年、初翻訳(ロシア語からの重訳)が出てから60年を経て、いまだにオールタイムベストの1位に選ばれる傑作である。タルコフスキーによる映像化も有名で(その解釈についてレムは不満だったようだが)これを越えるのは困難と思われてきた。森泉岳士は、ビジュアルを意識しないレムの描写を絵にするには、漫画家なりの読解力が必要だとインタビューで述べている。丁寧な読み込みの結果、ソラリスの海で起こる現象が、オリジナルの絵として細密に表現された。映画では表面的な「ソラリス学」の部分も省略されておらず、この出来ならレムも納得するだろう。

 一番印象に残ったのは、「残酷な奇跡の時代はまだ過ぎ去ったわけではない」という巻末の有名なフレーズが、本書では違った意味に感じられたことだ。小説版の持つ「人類の叡智」のようなニュアンスが薄れ、もっと個人の感性に近い感慨のように読めた。

デュナ『カウンターウェイト』早川書房

평형추,2021(吉良佳奈江訳)

カバーイラスト:Rey.Hori
カバーデザイン:岩郷重力+S.I

 著者は1994年から活動を続ける韓国の作家、映画評論家。顔や経歴などを一切出さない覆面作家でもある。これまで短編の翻訳はあったが、本書は長編初紹介となる(最初から文庫SFで出る韓国作家としても初)。軌道エレベータを巡る巨大企業内の暗闘を描きながら、200ページ余(400枚)とコンパクトにまとまった作品だ。

 インドネシアに近い島国パトゥサンに、韓国のLKグループが軌道エレベータを建設する。主人公はグループ会社の対外業務部長だが、実際の仕事は事業の妨げとなる人物を排除する汚れ仕事だった。先住民のパトゥサン解放戦線が活動しているのだ。そんな中、目立たない経歴の一人の新入社員が気になる動きをする。

 カウンターウェイトとは、軌道エレベータの(地上側とは)反対に置かれたバランス錘のこと。エレベータ側のワイヤ重量を支えるため、それなりの質量を要する。本書では文字通りの意味と、暗喩が込められている。主役は実は軌道エレベータではなく(という点では、十三不塔『ラブ・アセンション』と同じ)、それを取り巻くLKグループのキーマンたちなのである。

 対外業務部は、同じ荒事が仕事の保安部と仲が悪い。逆に社外のセキュリティ会社とは相互依存の関係にある。そこに現会長や社長、研究所所長、故人となった会長やその娘が絡み、やがて過去の事件の真相が明らかになっていく。この時代(150年後?)では、社員は〈ワーム〉と呼ばれるナノボットを脳内に保持していて、業務の補助とセキュリティ保持に使っている(会社に操られている)。創業者一族の権力が強い韓国の財閥でのパワーゲームと、こういうガジェットの組み合わせが面白い。ソフトさが特徴だった既訳の韓国SFとはひと味違う、韓流エンタメドラマの雰囲気がある。

犬怪寅日子『羊式型人間模擬機』早川書房

装画:金井香凛
装幀:田中久子

 ダブル受賞だった第12回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作の2作目。犬怪寅日子は、コミカライズされた『ガールズ・アット・ジ・エッジ』の原作者でもある。カクヨムで小説発表をしているが、本書がデビュー作となる。

 主人公はユウ、ゆー、Uなどと呼ばれている。屋敷に住む一族に代々仕え、家事や雑用を一切切り盛りする不可欠の存在だった。中でも重要なのは羊に関する儀式だ。この一族では、家長が歳を取ると、ある日突然羊に変態するのである。

 物語はUの一人称で語られる。Uはアンドロイドであるらしい。とても長い間仕えてきたせいか、不調の兆しが散見される。また、一族の家系図が7代目まで遡って示されている。登場人物は多く、それぞれの人物の愛憎や特徴が描かれる。ただ、深くはなくスケッチのように淡々としている。一族やUの出自は、匂わされているが明らかにはならない。

 選考委員の評価(抜粋)は以下の通り。東浩紀:力作であるのはまちがいない。しかし筆者には読むのが辛く自己満足にも思われ、最低点となった。小川一水:今回もっともオリジナリティに富んだ一本だった。(略)文体の跳ねるようなリズムが好ましく、引き込まれた。神林長平:内容や描き方がぼくの個人的な琴線に触れたので最高点をつけた。選考会の議論中も、初読時に憶えた「凄み」の印象は揺らがなかった。菅浩江:とても好みの作品でした。語り口も世界観も、幻想文学になれている人には嬉しくなるたぐいです。塩澤快浩:オリジナリティは高く評価するが、(略)イメージの強さがプロットの弱さに勝っていないと感じられた。

 もう1つの作品に批判的だった選考委員2人だが、逆に本作を強く推している。本書には現代的な問題定義やSFガジェットはない(あっても薄い)。物語はフラットで、アンドロイド執事がえんえんとしゃべり続けるだけだ。なかなか読ませるが、その語りに没入できるか冗長と感じるかで評価は分かれるだろう。

 さて、表題では「人間模擬機」とあり、ここでの人間はわれわれの知っている人間ではなく、シミュラクラ=レプリカントという機械、あるいは人間もどきだと示唆される。また英題(表紙記載)はもっと直截的で「人間羊の畜殺アンドロイド」なのだ。だとすると、本書の一族は単なる羊の変種であって、つまり食肉家畜なのである。

カスガ『コミケへの聖歌』早川書房

装画:toi8
装幀:岩郷重力+R.M

 第12回ハヤカワSFコンテストの大賞受賞作。今回は『羊式型人間模擬機』とのダブル受賞である。作者のカスガは1974年生まれ、漫画家として複数の著作がありpixivでは小説も公開しているが、本書が作家デビュー作となる。

 イリス沢は僻地にある小さな村である。文明が滅びておよそ100年が経ち、多くの技術や文化が喪われていた。村も封建社会へと退行している。しかし村に住む少女たちは、遺されたわずかな本から知識を得て、廃屋を〈部室〉と名付け〈漫画同好会〉という〈部活〉をしていた。手描きマンガを回覧し、憧れの〈コミケ〉を目指すのだ。

 2030年代に気象の大変動と世界戦争が起こり、国内は文化を全否定をする強権政府(機械の破壊と焚書を行う)と反政府勢力との内戦で無政府状態となる。東京は致死性の赤い霧に包まれた《廃京》と化した。村人はバラックに住む小作人、豪農や中間層の農民、お屋敷の庄屋的な支配層に分かれる。村の外はノブセリ(野盗)が徘徊する危険地帯だ。ポストアポカリプス後の日本は、中世の身分制社会のようになる。登場人物の少女たち4人は、この社会的格差を象徴している。アンジェラ・カーター『英雄と悪党の狭間で』のような、60年代SFをを思わせるところもある。

 選考委員の評価(抜粋)は以下の通り。東浩紀:本作に最高点をつけた。(略)類型を利用して感動的な物語を破綻なく構築できている(略)。よいエンタメを読んだ。小川一水:絶望と希望の配分の妙により、今回一番の作品だと評価した。神林長平:(この設定でコミケに向かうのは)現実逃避を越えた自殺行為であって、それを救うのは真の創作活動しかない。だが、そこは描かれない。菅浩江:全篇、創作に向き合ってほしかった。(略)肝心の創作に対する熱意やより多くの同志への憧れ、が薄まってしまったと思います。塩澤快浩:SFコンテストの過去の大賞受賞作の中でも、完成度では最高レベル。

 神林長平、菅浩江は、もっと「創作」自体をテーマとすべき、と指摘する。たしかにこの少女たちはコレクターではなくクリエイターなのだから、死を賭した〈コミケ〉遠征には創作者としての動機づけが欲しい。だが、ディストピア(現実)の重みがそれを許さなかった、という著者の描き方も間違いではないだろう。主人公たちの問題意識が(ディストピア転生した)現代人で、暗黒期生まれたと思えないところがちょっと気になったが、なぜ「聖歌」なのかを問う結末は印象に残る。

眉村卓『EXPO’87』小学館

装丁:おおうちおさむ 山田彩純(ナノナノグラフィックス)

 『EXPO`87』はSFマガジンの1967年8月号から68年1月号に連載され、同年末に《日本SFシリーズ》の1冊として単行本化、その後1973年にハヤカワ文庫、78年に角川文庫版が出た眉村卓の初期長編である。1970年の(旧)大阪万博前に書かれ、長らく絶盤状態だったが《P+D BOOKS》(オンデマンドブックに近い廉価な装丁の叢書)で復刊した。舞台を執筆時の20年後に設定し、今でいう近未来サスペンスとした作品である。同シリーズの筒井康隆『48億の妄想』がブーアスティンの疑似イベントに材を採ったディストピア小説だったのとは対照的に、シリアスな社会派群像劇となっている。

 愛知県の安城市で開催される東海道万国博は、その17年前の大阪万博とは大きく意味合いを変えた博覧会だった。貿易自由化の圧力下でアメリカ巨大資本が日本市場に進出、残りのパイを財閥や非系列が奪い合うという構図が、そのまま会場のパビリオンに反映される異例の企業博となっていた。独立系の大阪レジャー産業は、万博を独自技術の実感装置をアピールするチャンスと捉え、身の丈を越える資金投入をしていた。

 政府は財閥の出身者に牛耳られ、女性主体の家庭党が台頭し発言権を増す。世界では核保有国が数十に拡大し不安定化が進み、外資に制圧された経済はネットワーク化が進む。街では電気自動車が主流となり、電話の代わりを映話が担う。群小のタレントは淘汰され、才能あるビッグ・タレントがオピニオンリーダーとなって万博反対を叫ぶ。一方、外資に対抗する秘密兵器、産業将校たちが姿を現す。

 もしこれを予言の書というのなら、1987年段階での的中率は高くないだろう(レトロ・フューチャー的な部分もある)。現代まで敷衍すれば、アメリカ政府が会社のCEOに支配され、日本の情報インフラは外資に制圧されたので、別の形で的中したと見なせるかもしれない。しかし、本書の本質は未来を予見することにはない。最大のポイントは「産業将校」の存在である。産業将校は(肉体、知能の)実務能力を極限まで高めたスーパーエリートなのだが、『ねらわれた学園』を支配するグループとよく似ている。合理的で無駄がないからと民を意図的に操り、独裁を目指すエリートはどんな社会からでも生まれてくる。それでいいのか、と眉村卓は警鐘をならすのだ。

馬伯庸『西遊記事変』早川書房

太白金星有点烦,2023(齊藤正高訳)

扉イラスト:月岡芳年
扉デザイン:水戸部功

 著者は1988年生まれの中国作家、昨年出た『両京十五日』(2022)は歴史ミステリ/冒険小説として一躍話題を呼んだ(『このミステリーがすごい!2025年版』の海外編1位)。代表作『長安二十四時』などのドラマもヒットしている。本書はちょっと変わった切口で書かれている。歴史ものではなく、誰もが知る『西遊記』で玄奘三蔵や孫悟空はもちろん出てくるが、(原題を見ても分かるように)主人公が神仙の太白金星(李長庚)なのだ。

 天庭に属する啓明殿の殿主、老神仙の李長庚に、玄奘が経典を持ち帰る旅を支援せよとの指示が下りる。これは玄奘の属する仏祖霊鷲山(りょうじゅせん)から、天庭の霊霄殿(れいしょうでん)に直々に依頼されたものだった。管轄外のはずの謎めいた指示書を見て李長庚は思案する。観音とともに玄奘に八十一の試練を与え、仏へと昇格する実績を積ませろというのだ。旅の供となる弟子、猪八戒や沙悟浄たちも、すべて有力神の後ろ盾を持つ曰わくものばかり。そして、天界を荒らした斉天大聖(孫悟空)が五行山から解き放たれる。

 主人公は天庭(道教)の官僚である。仏祖(仏教)は天界で同格の勢力であり、官位やその地位を巡ってそれぞれの思惑がひしめいている。玄奘に与えられる試練は箔付けのために仕組まれた茶番にすぎないが、利害を持つ他の組織から妨害や横やりが次々入ってくる。李長庚はそれらをうまくいなし、ミッションを成功させないといけない。自分の出世に関わるからだ。猿の身で天界に上がろうとする孫悟空にも背景となる裏事情があった。

 この作品を、著者は大長編を書いた後の筆休めに(1ヶ月余で)書いた、とうそぶいている。といっても、並の長編の(一千枚は切る)長さはあるし、複雑怪奇な天界の権謀術数を西遊記の記述に倣って描くという離れ業なので、とても書き飛ばしの作品とは思えない。一心不乱に書き進められる没入型の作家なのだろう。漢字だらけで登場人物多数、舞台となる唐帝国や『西遊記』が完成した明の時代(さらには現代まで)を反映した複合的な小説ながら、一気呵成に読み進められる。

T・キングフィッシャー『死者を動かすもの』東京創元社

What moves the Dead,2022(永島憲江訳)

装画:河合真維
装幀:岡本洋平(岡本デザイン室)

 T・キングフィッシャーは1977年生まれの米国作家、イラストやコミックで活躍するアーシュラ・ヴァーノンの筆名である。アンドレ・ノートン賞など多数を受賞したヤングアダルト向けの『パン焼き魔法のモーナ、街を救う』(2020)が、3年前に翻訳されている。本書は、ポーの短編「アッシャー家の崩壊」(1839)のオマージュというか、新解釈作品とでもいえるもの。原著の雰囲気を生かしながらも全く新しい作品にしている。2023年のローカス賞ホラー部門受賞作

 幼なじみの親友からの手紙を受け、退役軍人の主人公は友が住むという館を訪れる。そこは沼の畔に建つ大邸宅だったが、恐ろしいほど荒れ果てていた。出迎えてくれた双子の兄はひどくやつれており、妹は床に伏せっている。館には、他に滞在中のアメリカ人医師がいた。館の周りには奇妙なキノコが生え、熱心に観察する菌類愛好家と称する女性と知り合う。

 ポーの原著は謎が明らかにされないまま終わっているので、そこを補完する物語を書きたかったのだという(著者あとがき)。どういう話になったのかは、書名で見当がつくかもしれない。さらに、東欧か中欧かにある架空の国ガラシアの「宣誓軍人」を主人公に配している。それってなにと思った人は本編を読んでいただきたい(同一主人公の続編も既に書かれている)。キノコの専門家まで出てくるので、ホジスン池澤春菜を連想した人もいるだろう。

 結果として、本書は「怪奇な」ポーとは趣の異なる「ホラーな」作品となった。幽霊や呪いのような超自然現象ではなく、SF的で説明可能な(マニアックな)範疇に収めたところが本書の新たな視点といえる。

ジーン・シェパード『ワンダ・ヒッキーの最高にステキな思い出の夜』河出書房新社

Wanda Hickey`s Night of Golden Memories And Other Stories,1966/1971(若島正編訳、浅倉久志訳)

装画:MISSISSIPPI
装丁:森敬太(合同会社飛ぶ教室)

 ジーン・シェパード(1921~99)の初単行本となる。原著2冊から抜粋した日本オリジナル版。著者はラジオのパーソナリティや映画 A Christmas Story(1983)の原作者/脚本家としてアメリカでは有名なマルチタレントで、一方、スリック雑誌に掲載されるユーモア小説の書き手でも知られていた。本書に含まれる「スカット・ファーカスと魔性のマライア」は、ソフトなユーモア小説を好んだ浅倉久志の訳になる(もともと、新版《異色作家短篇集》の若島正編『狼の一族』に収録)。

 雪の中の決闘あるいはレッド・ライダーがクリーヴランド・ストリート・キッドをやっつける(1965)広告に載ったBB銃をクリスマスプレゼントに欲しい小学生の主人公は、あらゆる手段で両親にアピールするが失敗し続ける(映画原作の一部)。
 ブライフォーゲル先生とノドジロカッコールドの恐ろしい事件(1966)6年生の国語の授業では、毎週読書感想文を提出しないといけない。題材に困った主人公は、ある日両親の寝室で先生に受けそうな小さな活字の本を見つけ出す。
 スカット・ファーカスと魔性のマライア(1967)不良のファーカスのコマは無敵で、誰との勝負でも負けることはなかった。主人公は密かに手に入れたコマで競おうとする。
 ジョゼフィン・コズノウスキの薄幸のロマンス(1970)隣家のポーランド人の一家には、同い歳で美人の女の子がいて、なんと主人公をパーティに誘ってくれる。
 ダフネ・ビグローとカタツムリがびっしりついた銀ピカ首吊り縄の背筋も凍る物語(1966)憧れの転校生と知り合いになり映画に誘うことに成功したものの、相手は身分違いの富豪の娘で対応の仕方に戸惑うばかり。
 ワンダ・ヒッキーの最高にステキな思い出の夜(1969)高校生最後の夏に開かれるダンスパーティこそが、大人への通過儀礼だった。そう思い込む主人公たちだが、パートナーに誰を誘うかが問題になる。

 30~60年代頃のインディアナ州北部、製鉄所がある企業城下町ホウマンが舞台(現在ではラストベルトと呼ばれる衰退した地域だ)。煤煙にまみれながらも誰もそんなことは気にせず、多くの工員が活気にあふれた生活を送っていた。主人公は工場労働者家庭の子ども(前半3作では小学生、後半は高校生)。学校は富裕層や移民の子女とも共学で分断はなく、(プロテスタントに対する)カトリックが異文化的に揶揄されるくらいで、将来の希望を疑わせるものは何もない。一人称「わたし」が過去をふりかえる形で語るのは、クリスマスプレゼントや読書感想文、喧嘩ゴマにやきもきする子どもや、女の子で頭がいっぱいの(うぶでまぬけな)高校男子の物語である。

 編訳者若島正は、シェパードには言いようのないノスタルジアを抱く、と書く。編訳者はこの時代のアメリカに住んでいない。純粋な読書遍歴に基づく感慨なのだが、黄金期のアメリカTVドラマ(ホームコメディ)などを親しんだ世代ならば、シェパードの庶民的でユーモラスな家族に共感できると思う。もっとも、シェパードはホームドラマを体現した人物ではない。家庭を顧みない人だったらしく、自伝と称する本書でもフィクション=嘘を多数含めた。(人種問題もジェンダー問題も隠された)過去だからこそのユートピア感、幻想味を強く感じさせる。

 ところで、シェパードとSFとは関係がある。ラジオ番組中に話した架空の本Frederick R. Ewing 作 I, Libertine,1956(存在しないのに注文が殺到し、ベストセラーになったため急遽出版された) をゴーストライトしたのがシオドア・スタージョン(共著扱い)だったのだ。スタージョンは他にエラリイ・クイーン『盤面の敵』(1963)のゴーストライトもしていて(やむを得なかったのだろうけれど)そこそこは稼げたのかもしれない。