評論や最新海外SFの紹介で知られる新鋭、橋本輝幸による初のアンソロジイである(『2010年代ー』が続刊)。編者は英語だけでなく中国語も読めるので、本書には劉慈欣の作品も含まれている。しばらく途切れていたが、小川隆+山岸真編『八〇年代SF傑作選』(1992)や山岸真編『九〇年代SF傑作選』(2002)に続く、10年区切りの年代別海外SFアンソロジイの一環でもある。
エレン・クレイジャズ:ミセス・ゼノンのパラドックス(2007)二人の女がカフェで語り合う。その内容には矛盾が混じり一貫性もないように見えて……。
ハンヌ・ライアニエミ:懐かしき主人の声(2008)違法クローン作成容疑で南極の霊廟都市に収められたご主人を奪取しようと、飼い犬と猫が活躍する。
ダリル・グレゴリイ:第二人称現在形(2005)ドラッグ・ゼンの中毒で「死んだ」少女の体には「別人」であるわたしがいる。両親は少女が蘇ったと喜ぶのだが。
劉慈欣:地火(2000)古い炭鉱の町出身の主人公は、炭鉱をガス田に変貌させるプロジェクトのリーダーとなった。だが、大胆な実験の結果は予想を裏切る結果を招く。
コリイ・ドクトロウ:シスアドが世界を支配するとき(2006)夜中にサーバーダウンの急報を受けてデータセンターに駆けつけた主人公は、そこに他のサーバーのシスアド(システム管理者)たちが詰めかけているのを知る。世界的な異変なのだった。
チャールズ・ストロス:コールダー・ウォー(2000)冷戦下の時代、ソ連で密かに進むコンチェイ計画に動きが見られた。それがもし無制御で動き出せば世界は滅ぶ。
N.K.ジェミシン:可能性はゼロじゃない(2009)なぜかニューヨークだけで、大当たりが偏在して起こっている。良いことだけじゃなく悪いことも。
グレッグ・イーガン:暗黒整数(2007)数学的な公理が異なる宇宙が、この宇宙と重なって存在している。そこでは抽象的な数学の証明が他の宇宙への攻撃になるのだ。
アレステア・レナルズ:ジーマ・ブルー(2005)惑星規模の芸術家が最後の作品を発表するという。主人公は単独インタビューに成功し、芸術家の秘密を知る。
ニューウェーヴやサイバーパンク相当の大きなムーヴメントは、ゼロ年代には起こらなかった。すれ違う会話をしゃれた文体で魅せる「ミセス・ゼノンのパラドックス」や、電脳クローンを動物もので書いた「懐かしき主人の声」、21世紀のヴァーミリオン・サンズ「ジーマ・ブルー」は、複合化されたアイデアをいかに料理するかというテクニカルな面白さがある。一方、社会的には9.11事件(2001年)が起こり、世界同時テロの時代が訪れた。ニューヨークが舞台の「可能性はゼロじゃない」には、そういう得体の知れない不安感がバックにある。また、ネット社会の台頭が「シスアドが世界を支配するとき」の奇妙なアフター・ホロコーストもの、「暗黒整数」(「ルミナス」の続編)の情報戦争に姿を見せる。「コールダー・ウォー」も面白いが、これはもはや普遍的テーマなのでこの傑作選でなくてもよいと思う。
本書の中では「地火」が異色だろう。1970年代の炭鉱が舞台で、書かれた1990年代末の中国は、2020年比10分の1の経済力しかない貧しい時代だ。日本で同等の(経済10分の1)時期は1950年代後半なのだから、他の欧米SFとは時間経過のスピードが異なる。科学技術がもたらす危険性や、未来に対する希望などに独特の思いが感じられる。(英米SFではなく)海外SFと称する限り、今後はこういう英米外の別の文化、別の時間軸にあるSFを取り入れていく必要があるだろう。