アレステア・レナルズ『反転領域』東京創元社

Eversion,2022(中原尚哉訳)

カバーイラスト:加藤直之
カバーデザイン:岩郷重力+W.I

 アレステア・レナルズの長編としては17年ぶりの翻訳となる。かつては文庫の製本限界を試すボリューム本(1000ページ)で名を挙げたが、最近ではJ・J・アダムズジョナサン・ストラーン編のアンソロジイや、橋本輝幸編『2000年代海外SF傑作選』に収められた「ジーマ・ブルー」(2021年の星雲賞海外短編部門)など、中短編のイメージが強かった。昔の長編は現代スペースオペラだったが、近作ではどう変わったのだろう。

 19世紀、帆船デメテル号はノルウェーの沿岸を北に向かって航行している。船にはロシア人富豪が雇った探検隊が乗っており、沿岸のどこかにある亀裂を目指しているのだ。そこには未知の建造物があり、発見することで名声ばかりか富が得られるらしい。しかしようやくたどり着いたフィヨルドで思いがけない事態が発生する。何が起こったのか。

 雇われたばかりの船医(主人公)、傲慢な富豪の探検隊長、頑健できまじめな警備担当、観測にのめり込む若い地図担当、職務に忠実な船長、博学をひけらかす貴族の言語学者など、登場人物は多いが性格付けを含めてとてもシンプルといえる。多少謎めいているとはいえキャラに関しては複雑な背景はないようだ。しかし、標題が『反転領域』なのだから、お話までもシンプルというわけではない。

 北極を舞台にした帆船ものとなると、古くはフランケンシュタインとか、TVドラマにもなったダン・シモンズ『ザ・テラー』とかを思い浮かべる。ただ、ネタバレをしない範囲で書くと、本書は(そういう要素もあるものの)ホラーではない。帯に「超絶展開SF」と書いてあるとおり、途中からSFに回帰する。結果として二転三転どころか四転五転するわけだが、さてこのうちどれが「本物」だったのかと振り返って悩むのも、本書の楽しみ方かもしれない。

灰谷魚『レモネードに彗星』KADOKAWA

装画:咸鱼中下游
装丁:坂詰佳苗

 表題作は、第9回カクヨムWeb小説コンテスト短編小説部門の特別賞「円城塔賞」の受賞作品である。「「なにか語りえないことを語ろうとしている感覚」を一番強く受けた」と円城塔は記している。この他にもキノ・ブックスの第3回ショートショート大賞を受けた「スカートの揺れ方」など、自身のnoteに発表した作品や書下ろし1編を含む7編を収録。

 かいぶつ が あらわれた(2015)怪物が世界を壊し始めて60日、紀世子が空に浮かび上がり始めてから57日になる。わたしは紀世子と電話して会話する。
 純粋個性批判(2017)周囲すべてをクソと軽蔑し、尊敬できる人物は架空の世界にしかいない。そんな主人公が、唯一気の合う友と作った小冊子が「純粋個性批判」だ。
 宇宙人がいる!(2014)宇宙人を捕まえたと言う旧友の家に行くと、20年前のアイドルの姿をした宇宙人がいる。自在に形を変えられる宇宙人に俺が望んだものは。
 火星と飴玉(2019)キラキラネームを持つクラスメイトにフードコートで出会ってしまった僕は、本人の好きな千人の名前をつぎつぎと聞かされる。
 新しい孤独の様式(書下ろし)27歳になった主人公はバイト先が潰れて失業状態だったが、中高で短期間同級生だった女性と再会し、おかしな要求を受けることになる。
 レモネードに彗星(2023)私が14歳だった頃、叔母は43歳だった。いまは196歳の美しい老婆になっている。私はこの15年間叔母と2人で暮らしている。
 スカートの揺れ方(2014)スカートが脱げなくなった。スカートと一体化してしまったのだ。私は学友に相談を持ちかける。

 表題作の「レモネードに彗星」にしても「スカートの揺れ方」にしても、ショートショートの長さしかなく(後者の方が短い)、基本的に2人の人物のやりとりで話が進む。表題作について円城塔は「謎が提示されているのかどうかも不明で、しかしところどころに現れる単語や一文が、奇妙な説得力を発揮します」とする。設定の説明は特になくオチもないのに、もやもやを残さずにすっきり終わる(ように読める)。説明なしの説得力というのは、著者の感性というより計算なのだろう。

 一方、書き下ろされた「新しい孤独の様式」の方は、主人公の同級生(帰国子女でエキセントリックな性格)、ビデオ屋の老店主(古い映像ソフトだけを扱う)、VR/ARゲームのキャラと、本来独立した3つの物語があり得ない形で結びついていく。最初のエピソードだけならアニメ的な性格付けだが、あとに行くほど、それぞれの登場人物は(ありがちな)予定調和を裏切る行動を見せる。これだけ広げると、並の手腕では収束が難しいだろう。ところが、老店主のスマートグラス→ARキャラ→同級生という謎の展開でも、整合性があるように読めてしまうのだ。主人公があくまでサブで、自由なキャラの不条理さに翻弄される設定が効いているのかもしれない。これは他の作品とも共通する。中短編クラスでも、短い作品で見せた「単語や一文の説得力」に相当する力を発揮できるようだ。

中野伶理『那由多の面』/大庭繭『うたた寝のように光って思い出は指先だけが覚えている熱』ゲンロン

表紙:山本和幸
ゲンロンSF文庫ロゴ:川名潤

 2024年の第7回ゲンロンSF新人賞大賞受賞作品(2作同時受賞)である。受賞してからまずゲンロン(17号/18号)に掲載され、その後出版(電子書籍)となるため少々時間がかかっている。伝統工芸である能面の制作とAIを結びつけた作品(父と子)と、昏睡状態の親の記憶との接触を描く物語(母と子)という並びは面白い。

那由多の面:文化財の修復を専門とする大学院生の主人公は、ある日幼い頃に母と離婚した父親の死を知らされる。唯一残されたアトリエには能面の下絵が残されていた。依頼を受けて制作する途上だったのだろうが、その絵には亡くなった母の面影が刻まれていた。

 父に代わって面を作ろうとする主人公だが、依頼した能楽師はその要望を無下に拒絶する。曲目と合わないのか、何が問題なのか。表情データから人の感情を測定するセンサーとAI「ペルソナ」の助けを借りながら、主人公は課題に取り組んでいく。

 この作品の場合、能という(マニアックな)世界に対する蘊蓄の部分と、AIやセンサー、脳科学に関する部分の融合が気になる。印象として、前者が重く後者がかなり軽い(読み手の興味にもよる)。主人公、父親、母親、能楽師と、人間関係の壁を切り崩すキーがテクノロジーなので、もう少し後者と前者の相似性を(たとえ虚構でも)明確化して良かったのではないか。著者はSF創作講座の常連(第4~7期生)で、伝統芸/工芸テーマを極めているようだ。

うたた寝のように光って思い出は指先だけが覚えている熱:出産を控えた主人公の母親は脳梗塞で入院している。意識はなく症状の改善は期待できない。亡くなってしまうかもしれない。しかし、新しい技術「うたたね」を利用すれば、昏睡状態でも母の記憶に入っていくことができる。母親が自分と同い年だった25年前の記憶に。

 母親はホステスをしていた。25歳ではまだ身籠もってもいない。母から主人公は透明な幽霊のようにしか見えないが、眠っているときだけ(ホステスなので昼は寝ている)その体を借りて出歩くことができる。

 この作品でも親と子どもを結ぶのはテクノロジーである。記憶へのダイブというかジャックインなのだが、確定した記憶=過去を(映画のように)見せるのではなく、歴史改変が可能なタイムマシンのように作用する。ただし、それはあくまで個人の記憶の範囲に過ぎないので、現実が変わるわけではない。選考会での議論を聞くと、この設定の整合性(解釈)についてさまざまな意見が出ていて面白い。結末が夢なのか現(うつつ)なのかは、注意深く読まないと分かりにくい。

ユキミ・オガワ『お化け屋敷へ、ようこそ』左右社

Welcome to Haunted House,2025(吉田育未訳)

装画:カワグチタクヤ
装幀:島田小夜子(KOGUMA OFFICE)

 日本在住の日本人でありながら英語で作品発表を行い年刊傑作選に収録されるなど高い評価を受けているオガワユキミの日本オリジナル短編集(類例がないわけではないが)。本書の11編はすべて英文だが(本人ではなく翻訳者により)和訳されたものである。

 町外れ(2013)結婚相談所にやってきた古風な女は、マスクで耳元までを覆い「雄が必要なのだ」と繰り返した。仕方なく相手を探す相談に乗るのだが。
 
煙のように光のように(2018)決められた段取りに従って大きな納屋の空間に入り、大旦那のところに行くと、そこで召喚された若い幽霊、母親と男の子の姿を見る。

 お化け屋敷へ、ようこそ(2019)お化け屋敷にはさまざまな妖怪がいる。人形や傘、リュート、何枚かの皿などのモノが化けている。ただ、記憶は朝にはリセットされる。
 
つらら(2013)つららは半分人間で半分雪女だった。心臓が氷柱でできていた。ひとりで海を見に行く決心をし家を出ることにした。
 
童の本懐(2018)家に取り憑いた妖怪は、そこに住む女と祖母、娘のために力を盗み出す。しかし、自分から力を盗んだことで何もかもが緩慢に悪くなる。

 NINI(2017)宇宙ステーションに設けられた高齢者施設では、やさしい外観をしたニニが医療AIとの仲立ちをしている。餅を分解して非常食とする機能さえ持っていた。

 手のひらの上、グランマの庭(2021)父親が進学資金を使い込んだため、わたしは異形の生き物グランマの、ワームホールの先にある家で働くことになった。

 パーフェクト(2014)変色したマグノリアのドレスを着たわたしは、出会う人々から完璧なもの、頬や手や目玉、肉体を次々と手に入れていく。

 千変万化(2016)島の呉服店で働く主人公は、爪先の色を自在に変化させる有名なモデルと知り合いになる。ところが、偶然ポリッシュを手に入れたことで。

 巨人の樹(2014)夢の中で共に過ごした巨人との暮らしは、ふるさとの校庭にあるケヤキの巨木とつながっている。

 アウェイ(書下ろし)「ナミ様」はさまざまなものになって生き返ってくる。今度は空だった。そして甦るたびに、元の世界から何かを連れ帰ってくるのだ。

 日本の妖怪もの(たとえば《しゃばけ》とか)のユーモラスな雰囲気を感じさせる。だが、結末は少しダークになる。舞台も日本とはいえないどこか(日本的な幽霊とトウモロコシ畑が共存する)、無国籍の設定となっている。発表誌の多くはホラー/ファンタジー系が多い。

 物語では、現実に近い世界と夢の世界/異世界とがシームレスに置かれている。「アウェイ」では、何にでも姿を変えるナミ様が存在する世界(ファンタジイ)に、元の生々しい世界(リアル)が垣間見える(現実の方がアウェイなのだ)。異世界もまた単純ではない。「煙のように光のように」では大旦那様の納屋の中に、さらに霊界を呼び出す2段階目の異世界が現出する。こういう、一筋縄でいかない構造の精妙さがユキミ・オガワの面白さなのだろう。

海猫沢メロン『ディスクロニアの鳩時計』泡影社

人物画:東山翔
背景画:富田童子
装丁:川名潤

 2012年4月のゲンロンエトセトラ#2から始まり、ゲンロン通信を経て2021年9月のゲンロン#12まで連載された千枚越えの長編小説である。しかし単行本にはならず、2024年5月にまず私家版を作成し頒布、好評を受けて自ら「泡影社」を興し1年後に一般書籍として出版するに至る。それでも扱う書店は限られるので、入手はBOOTHの直売が早道だろう(Amazonでは転売品しか買えない)。

 3.11を連想させる異変を経て、日本はARデバイス・カクリヨが普及し、AI〈IXANAMI〉によりコントロールされる国になる。そのカクリヨを開発した〈AIR〉が所有する復興特区で、奇怪なバラバラ殺人事件が発生する。犯人を追ううちに、時間収集家である大富豪時彫家にまつわる大きな謎が浮かび上がる。

 頭に鳩時計を被った17才のハッカー少年、同様にアナログTVを被る富豪当主、ゾンビ人形を持ち歩く女性警部、隻眼隻足で中性的な容姿の探偵、エプロンドレスで小学生くらいの姿をしている現場分析ロボット、などなど。登場人物に「ふつう」の人間は(ほとんど)見当たらない。エロゲー、ラノベ、ノワール、犯人捜しのミステリに、オナニー、快楽殺人やロリコン(ペドフィリア)といった危険な因子が混じり合う。しかし、最大の特徴は物語の骨格が時間SFである点だろう。

 購入者向けの動画チャンネル(youtube)によると、著者は青山拓央の『タイムトラベルの哲学』(2002、新版2011)からインスピレーションを受けたようだ。参考文献にも、マクタガートの時間(下記リンク参照)や、中島義道、木村敏、ハイデッカーら哲学者の論考、ロヴェッリやホーキングら物理学者の時間論の名前が挙がる(といっても、読者に予備知識は必要ない)。また、影響を受けたフィクションとして、京極夏彦、森博嗣、竹本健治、村上春樹らの他に、ベイリー『時間衝突』、テッド・チャン「商人と錬金術師の門」、観念的な時間SFでもある神林長平『猶予の月』、ウェルズ「タイム・マシン」のリニューアル版スティーヴン・バクスター『タイム・シップ』、結末と直接関係するある短編(ネタバレ注意)を挙げる。いまやSFプロパーの作家でも、複雑な(既知のアイデアの使い回しではない)タイムパラドクスに挑む作家は少ないので、そこだけでも注目に値する。

円城塔『去年、本能寺で』新潮社

装画:山口晃 當世おばか合戦─おばか軍本陣圖 2001 カンヴァスに油彩、水彩 185×76cm(C)YAMAGUCHI Akira, Courtesy of Mizuma Art Gallery
所蔵:高橋龍太郎コレクション/撮影:長塚秀人
装幀:新潮社装幀室

 本書は、新潮の2023年1月号から24年11月号に(おおむね)隔月に連載された11編の短編集である。シン歴史撃誕!と煽られてスタートした歴史連作小説なのだが「人間ならこんな法螺が吹けるぞ、お前には吹けまい、という気持ちです。もちろん、AIにも同じようなことはできるのでしょうが、それは誤生成として再教育の対象となる。本当の意味で法螺が吹けるのは人間だけかもしれません」(著者インタビュー)と円城塔がうそぶくように、意志なき嘘つきのAIをしのぐ、意図的フェイクに満ちた作品集となっている。

 「幽斎闕疑抄」軍事AI かつ文事AIとしても名高く『古今和歌集』の秘義伝授を受けた細川幽斎という存在。「タムラマロ・ザ・ブラック」8世紀、陸奥=蝦夷(ガリア)に侵略戦争を仕掛けた朝廷の征夷大将軍坂上田村麻呂は金髪の黒人だった。「三人道三」自身のやってきたことが親子2人分であったと光秀から知らされた斎藤道三は面白くない。本当は3人なのだが。「存在しなかった旧人類の記録」まだ文字もなく記録もない石器の時代に殺人事件が起こる。犯人は巨大な石斧を操る何ものかだ。「実朝の首」13世紀、源実朝は宋に渡ろうとして唐船を建造する。しかし、南都大仏殿再興勧進から記されるその歴史は「未来記」にすでに書かれている。「冥王の宴」爆発から始まる宇宙創成、地球創世の頃にまで遡るノブナガの歴史とは。「宣長の仮想都市」デジタルのデータセットとして重要なのは古態を残す『古事記』である。「天使とゼス王」日本人通訳としてザビエルに同行するアンジェロは本能寺を幻視する。同じころゴアの奴隷だった安寿にゼス王(キリスト)への帰依を説く。「八幡のくじ」主人公をくじで決め「義円」と決まる。そこから足利義教の物語が組み立てられていく。「偶像」善鸞は伝説のアイドル親鸞の実子でその再来だった。歌で教えを説くその技法と思想はとても異質なものだった。「去年、本能寺で」信長は死んでも滅びなかった。人気とともにさまざまな形で増殖し、そのありようは安定しない。

 歴史家は文献調査が基本で、書かれていないことを歴史と称することはできない。一方、作家は文献に書かれていない空白を捜し出し、そこを拡大解釈した異説で埋めて小説にする。円城塔の場合は、明らかな(トンデモな)フェイクを本当のことと取り混ぜて書いた。こうなると、何が史実なのかが逆に分からなくなる。

 細川幽斎の振る舞いが機械のようだからAIと見做し、都市伝説のような田村麻呂黒人説を持ち出し、漢字のルビを英語のカナ書きにしてみたり、東北をガリアに準えたり、登場人物が現代の知識を前提とした会話をし、AI(のような)本居宣長はデータ分析で古事記解釈をする。「未来記」があってこれは後生の歴史書なのだが、なぜか過去の登場人物の手元に既にある。かと思うと石器時代や、地球創世(地質的にも痕跡の残っていない冥王代)にまで視野は及ぶ。奇想に次ぐ奇想が襲来する円城ワールドが歴史小説に展開する。信長=ノブナガと本能寺が何度も登場するのが印象的だ。さて、新潮の読者はこれをどう読んだのか。AI時代のSFはこうなるのか、と喜んだのか/呆れたのか。

ラヴァンヤ・ラクシュミナラヤン『頂点都市』東京創元社

The Ten Percent Thief,2020/2023(新井なゆり訳)

カバーイラスト:緒賀岳志
カバーデザイン:岩郷重力+W.I

 著者はインドの作家、ゲームデザイナーでインド南部にあるハイテク拠点都市ベンガルール(旧名バンガロール)に在住インド系米国作家米国在住作家の本はこれまでもあったが、インド在住の作家が書いたSF単行本(文庫)は、これが本邦初紹介となる。2021年のタイムズ・オブ・インディアのオーサー・アワード新人賞(女性作家が対象)やバレー・オブ・ワーズ賞を受賞し一躍注目を集めた作品だ(当時の書名はAnalog/Virtual)。2024年にはアーサー・C・クラーク賞の最終候補にもなった(この再編集バージョンThe Ten Percent Thiefが本書)。目次もなく短編集とは書かれてはいないが、「頂点都市(Apex City)」を舞台とする20の短編を集めた連作短編集である。

 大規模なな気候変動のあと旧来の国家は崩壊し、世界にはエリートが支配するいくつかの都市が点在するのみ。都市は外部と境界シールドで隔てられている。「頂点都市」はベル機構が支配するデジタル・ユートピアだった。市民はヴァーチャル民と呼ばれるが、そこは激しい競争社会でもある。特権階級である上位2割に食い込もうと、7割の市民がソーシャルメディア・スコアを競っているのだ。残り1割のアナログ民はネットから切り離された奴隷階級だった。

 この物語には共通の主人公はいない。1割のアナログ民のためにヴァーチャル民から盗みを繰り返す怪盗、上位民になんとか這い上がろうとする中間民の男、地下に潜み逆転を画策するレジスタンス、失業でアナログ民への転落におびえる中間民の女、アナログ民の貧困を社会見学するツアーガイド、シェア数に左右されるインスタスナップのインフルエンサーなどなど。いく人かの重複はあるものの、それぞれの短編のなかで個性的な人物が次々登場する。

 (独立後の憲法で禁止されたとはいえ)インドのカースト制は社会差別の源泉だった。IT産業はその悪しき伝統を実力(個人の能力)で克服するはずだったが、本書では皮肉にもヴァーチャル(=IT化の恩恵を受ける階層)とアナログ(=受けられない階層)の格差となって甦っている。本書で描かれるのは、インドとは限らないデフォルメされた現代の競争社会である。ベル機構は今風テック企業に近い組織で、生産性を下げる意見は許されず、ランクが落ちるとネットワーク(生活そのもの)からはじき出されてしまう。それが恐怖政治となって市民は従わざるをえないのだ。異国風エキゾチックさを強調せず(国外の読者におもねることなく)、近未来ディストピア(からの脱却)SFとして自然に読み通せて面白い。

森下一仁『エルギスキへの旅』プターク書房

装丁:中島久功
植物写真:中谷次郎

 本書は、もともと7編の連作短編として、SFマガジン1991年6月号から94年12月号にかけ、不定期に掲載された作品である。その後書籍にならないまま埋もれていたが、2024年11月~25年1月のクラウドファンディング(支援者177人)を経て4月に単行本化、現在は版元のプターク書房で一般購入が可能になっている。

 〝騒乱〟により世界の政治や経済の体制が激変してから10年弱が経っていた。主人公の少年は父親に促され、自転車に乗って北の町エルギスキに向かう。〝騒乱〟時に行方不明になった母親の手がかりが得られるかもしれないのだ。日本海側にあるエルギスキには、シベリア、極東ロシアから移り住んだ人々が暮らしている。少年は、そこでサキとユリというエヴェンキ族の2人の少女と出会い、思いもかけなかった自身の秘密を知る。

 途中までの舞台は未来の日本、東京湾岸はまだ十分に復興しておらず混沌としている。高校生になった少年は、祈祷師めいた老女が開く治療院でユリと再会し不思議な体験をする。やがて物語はロシアへと広がり、エヴァンキのルーツに迫ることになる。

 SFマガジン掲載当時の内容がほぼ保たれている(小見出しは新たに追加されている)。エヴァンキ族のシャーマンが登場し、薬物による幻覚描写も出てくる。1991年のソビエト連邦崩壊、オカルトめいた(ニューエイジを含む)スピリチュアル・ブーム、祈祷師は「ミヤコ教団」(『AKIRA』)を思わせるなど、1980~90年代頃の雰囲気が色濃い。ただ、狩猟民であるエヴァンキのシャーマンとの精神交感、自然と文明との接点は、最近の松樹凛の作品にも受け継がれる古くて新しいテーマといえる。ファンタジイではなく、あくまでSFなのは著者のこだわりだろう。主人公がこういう形で「入れ替わる」結末には、ちょっと意表を突かれた。

キム・チョヨプ『惑星語書店』早川書房

행성어 서점,2021(カン・バンファ訳)

装画:カシワイ
装幀:albireo

 キム・チョヨプによる14編から成る掌編集。平均すれば1作あたり10頁足らずだが、20頁の短編も含まれる。全体は「互いに触れないよう/気をつけながら」と「ほかの生き方も/あることを」の2つの章に分かれている。他者を尊重しそれぞれのありようを認め合おう、という著者の考えを反映しているようだ。

互いに触れないよう
気をつけながら

 サボテンを抱く:いかなるものにも触れられない主の家には、なぜかいっぱいのサボテンがある。#cyborg_positive:アイボーグ社からのオファーに悩み抜く主人公。メロン売りとバイオリン弾き:市場の入り口に立つのに、誰の注意も引かないメロン売り。デイジーとおかしな機械:デイジーとの会話は機械を介して行われる。惑星語書店:その書店の本はすべて惑星固有の言語で書かれている。願いコレクター:2030年への「願い」をいっぱいに集めた部屋。切ないラブソングはそれぐらいに:音楽のバラードはなぜ20年ごとに流行るのか。とらえられない風景:その惑星の風景はカメラに正常に写すことができない。
ほかの生き方も
あることを

 沼地の少年:沼地に棲むわたしたちのところに瀕死の少年がやってくる。シモンをあとにしながら:旅行者は、シモンの誰もが仮面を付けている理由を教えられる。みんなのココ:3年の空白を経て目覚めるとココは世界中に広がっていた。汚染区域:派遣者も禁じられているほど危険な汚染地帯がある。外から来た居住者たち:寂れたサービスエリアにぽつんとある店には、超味覚者を名乗る店長がいた。最果ての向こうに:派遣者の調査報告書に断片的に残るメッセージの記録。

 「沼地の少年」「汚染地帯」(短編相当)「最果ての向こうに」には繋がりがあり、『派遣者たち』の枝編といえるもの。それ以外は独立した掌編になる。触覚が痛みに眼が人工のものになり、人の存在感とコミュニケーション、忘れられつつある言語、未来への希望、流行歌のサイクル、記録できない風景、超感覚者の孤独などが点景として描写される。軽快ではあるけれど、どこか人の心の深みも感じさせ、主人公たちに自然に共感できる著者らしい小品集だろう。

日下三蔵『断捨離血風録』/小山力也『古本屋ツアー・イン・日下三蔵邸』本の雑誌社

カバー写真:中村則
カバーデザイン:金子哲郎

 本書はとても不思議な本だ(もっとも「本の雑誌」の読者からすればふつうなのかも)。13万冊の蔵書を誇る日下三蔵が、3年かけてその4分の1を処分するドキュメントである。だが、埋もれた稀覯本(主に戦前戦後のミステリ)の発掘とか著者の急病とか以外、ひたすら同じ描写(本の荷詰め、移動、選別、棚入れ)が繰り返される。文筆家の日記にはならず、修行僧の日報のような極めてストイックな中味なのだ。2008年、15年の編集部による前日譚と当事者日下三蔵の連載(本の雑誌2021年11月24年11月号)を含む『断捨離血風録』、古本系ジャーナリスト小山力也『古本屋ツアー・イン・日下三蔵邸』の2つの視点から成る。

 著者は本を何冊持っているのかさえ把握できていなかった(21年には7から8万冊と称していた)。毎月100冊以上の本を買い(既読未読は関係なく)背丈を超えるほど周りに積み上げていく。結果として寝場所はなくなり、立ち入ることができない部屋や、通れない廊下など生活に支障を来すようになる。仕事部屋だけではない。両親と暮らす自宅の1階部分全体、書庫専用の2LDKのマンション、庭の物置などすべてがそんな状態となっていた。そこで書肆盛林堂の小野店主と、関係者だった小山力也の協力を得て、すべての本をデフラグ(作業空間が必須なのでアパートを借りる)し増設した大量の書棚(カラーボックス250個弱)を組み立てて収容、選別した不要本は古書店へ売却するサイクルが始まる。

 コレクターといってもさまざまである。書架ありきの(棚を埋めるために買う)水鏡子のような人もいれば、(入る棚がないので)ひたすら平積みする人もいる。しかし複数の山が重なるまでの平積みをすると、底に積まれた本は二度と(あるいは一度も)読まれることなく埋もれてしまう。日下三蔵のように書誌に関する記憶力が完璧な天才でも、肝心の本がどこにあるかが分からなければ(再購入という手段はあるものの)活用は不可能なのだ。

 この断捨離は、マンガや同人誌(最初のコミケ以来の膨大なもの)の一部、ダブった本(多数)、仕事で使うことはないと判断した稀覯本類など、累計2万5千冊を処分することで目的が達成される。(写真で見る限り)ゴミ屋敷同然だった魔窟が昭和の古書店並みに改善している。あと、本書の意図とは違ってくるだろうが、断片的に語られる著者自身の考え方、なぜミステリを集めアニメ主題歌を集めるのかなど、自叙伝的な部分をもうちょっと読んでみたかった。