春暮康一『法治の獣』早川書房

Cover Illustration:加藤直之
Cover Design:岩郷重力+S.I

 第7回ハヤカワSFコンテストで優秀賞を受賞した著者の中編集。収録作品は、何れもが受賞作『オーラリメーカー』(2019)と同一の未来史である《系外進出(インフレーション)》シリーズに属している。また、解説とは別に著者による解題(作品ノート)も付いている。

 主観者(2021)赤色矮星ラカーユ9352を巡る第1惑星に、宇宙船〈トライアクシズ〉が到達する。潮汐力により昼夜が固定された惑星だったが、気化も氷結もしない海があった。しかも、発光する生物の群体ルミナスが発見される。
 法治の獣(書下ろし)テミスの第2惑星〈裁剣(ソード)〉には、トーラス型スペースコロニー〈ソードII〉が建造されている。しかし、コロニーを統べる法律は刻々と変化する。それは惑星に棲息する一角獣シエジーの生態に依存するのだ。
 方舟は荒野をわたる(書下ろし)探査船〈タキュドロムス〉は植民に適した惑星を探すミッションを帯びていた。惑星オローリンは不安定な軌道を描く不毛の星で、目的にはまったく適合しない。ところが、そこには予想外の生命が存在した。

 著者のペンネームはハル・クレメントから採られている。クレメントは1950年代ハードSFの代表作家で、極地重力が地球の700倍にも達する惑星で生きる知的生命を描いた『重力への挑戦/重力の使命』(1953)が良く知られている。クレメント流ハードSFには、異様であっても科学的に正確な設定と、外観が非人類でも共感可能な異星人(人とよく似た思考をする)を組み合わせるという不文律があった。クレメントが古典的な物理学だったのに対し、春暮康一は生命工学をベースに書くが、そういう意味での雰囲気は似ている。

 とはいえ、本書には現代SFの要素も取り入れられている。最後はあくまで人間側の認識や倫理観の問題に帰着するのだ。著者も書いているように、「主観者」はグレッグ・イーガン「ワンの絨毯」(本書の解説がイーガン翻訳者の山岸真なのは偶然ではない)を思わせる発想である。本書の中で生命は過酷な環境下で生まれ、そこに知性が宿っている(ように思われる)。人類は彼らとコミュニケーションしようとしたり、人間なりの意味を見つけようとするが、干渉は思惑と異なる結果を招くのである。

武甜静・橋本輝幸・大恵和実編『走る赤』中央公論新社

装画:西村ツチカ、装幀:岡本歌織(next door design)

 中国の未来事務管理局(SFに関するエージェント活動や出版企画、イベントなどを運営する民間会社。SF専門の会社は世界的にも珍しい)の武甜静(ウー・テンジン)と、日本の橋本輝幸、大恵和実らが作品選定に協力して出た中国女性SF作家のアンソロジイ(つまり底本のないオリジナル作品集)である。作家、翻訳者(掲載順:立原透耶/山河多々/大恵和実/浅田雅美/大久保洋子/櫻庭ゆみ子/上原かおり)、イラストレータなど、ほとんどは女性が担当している。

 夏笳(1984)「独り旅」(2009)老人一人の宇宙船が、荒涼とした惑星に降り立つ。そこは、これまで旅してきた無数の惑星と同じ通過点に過ぎないと思えた。
 靚霊(1992)「珞珈」(2019)事故で実験用ブラックホールが不安定化、鎮めるには人間一人分の質量が必要だった。それを聞いた研究所の用務員は、とっさにブラックホールの境界に飛び込むが。
 非淆(1988)「木魅」(2021?)並行世界の江戸末期、漆黒の宇宙船が来航、宇宙人の異形の姿は木魅(こだま)と呼ばれるようになる。
 程婧波(ー)「夢喰い貘少年の夏」(2016)三重県の温泉旅館に、東京の大学に進学した少年が戻ってくる。少年はなぜか大きなリュックを背負っていた。
 蘇莞雯(1989)「走る赤」(2018)少女はオンラインゲームの中で作業員として働いていた。ところが、システムのバグにより、時間制限のある紅いお年玉くじと誤認識されてしまう。
 顧適(1985)「メビウス時空」(2016)事故で下半身不随となった主人公は、脳にチップを埋込み自身の代わりに動く副体を使うようになる。
 noc(1989)「遥か彼方」(2017)仮想世界の中に住む住人との出会い、世界の色の中に溶け込み、変身について話をし、白鳥座X-1へと意識が伝送されるなど、4つの掌編からなる物語。
 郝景芳(1984)「祖母の家の夏」(2007)引退した科学者である祖母の家は、見た目と中味が違う奇妙な家だった。そこでは画期的な発明が行われようとしていた。
 昼温(ー)「完璧な破れ」(2020)言語によって思想が左右されるのなら、新たな人工言語を創ることで、社会的な問題を解決することができるのではないか。
 糖匪(ー)「無定西行記」(2018)熱力学第二法則が逆転した世界、北京からペテルブルクまでの道路建設を夢見る主人公たちの物語。
 双翅目(1987)「ヤマネコ学派」(2019)ガリレオも加盟していた(三毛猫と猛獣との中間である)ヤマネコ学派は連綿と続いて、21世紀の現在でもその影響力を科学界に及ぼしている。
 王侃瑜(1990)「語膜」(2019)失われゆく少数派の母語を守るため、国語教師だった母は語膜と呼ばれる自動翻訳のプロジェクトに関わる。ただ、息子である少年には母の行動は理解できない。
 蘇民(1991)「ポスト意識時代」(2019)カウセリングに訪れた男は、自分の言葉が何ものかにコントロールされているのだと主張する。相手構わず喋るのを抑えることができないという。
 慕明(1988)「世界に彩りを」(2019)誰もが眼球に網膜調整レンズを入れて、視覚を拡張している未来、主人公だけは母親の希望で長い間手術が許されない。
 *:著者の生年と作品発表年を括弧内に記載

 郝景芳ら一部の作家を除けば、本書収録の作家は大半が30代で初紹介の新鋭である。なるべく多様に選ばれた関係もあり、アンソロジー全体でのテーマは特にはないが、傾向の似た作品2~3編ごとにハッシュタグ(#宇宙#ノスタルジー、など)が付けられていて、おおまかな内容把握ができるように工夫されている。

 冒頭の「独り旅」は滅びゆく世界と自分とを重ねた叙情的なお話、「珞珈」は小林泰三の「海を見る人」を思わせるブラックホールの時間遅延を扱った作品。「木魅」、「夢喰い貘少年の夏」はアニメの影響を感じる和風ファンタジイ、表題作「走る赤」や「メビウス時空」はある種のメタバースものといえる。他でもユーモラスな「祖母の家の夏」、ネット小説的でミニマムなイメージが連鎖する「遥か彼方」、逆転する時間「無定西行記」、架空の秘密結社が出てくる「ヤマネコ学派」と実に多彩。

 面白いのは「完璧な破れ」や「語膜」「ポスト意識時代」など、読後感が重い作品がすべて言語に関する物語である点だ。哲学的な考察と登場人物の心の揺れが違和感なく結びついている。これらにはテッド・チャンの(おそらく著者自身も認識する)影響がある。「世界に彩りを」は視覚をテーマに現代的な切り口を加えた心に残る作品である。

シルヴィア・モレノ=ガルシア『メキシカン・ゴシック』早川書房

Mexican Gothic,2020(青木純子訳)

装幀:柳川貴代(Fragment)、装画:佳嶋

 著者はメキシコ系カナダ作家。5年前にアンソロジー『FUNGI-菌類小説選集』(2012)の編者として紹介があったものの、これは一部でしか話題にならなかった。本書は2021年のローカス賞ホラー長編部門、カナダのオーロラ賞、英国幻想文学賞のベストホラーなどを受賞した著者のベスト長編だ。ベストセラーにもなり、ドラマ化の予定もある

 1950年のメキシコ、主人公はメキシコシティに住む資産家の子女だが、田舎町に嫁いだ従姉から不可解な手紙を受け取る。内容を案じた父親の要望もあり、主人公はハイ・プレイスと称する深山の邸宅へと遠路旅をする。そこはかつて銀鉱山で財を成した英国人による広壮な屋敷だったが、いまは荒れ果てて見る影もなかった。

 霧に包まれた陰気な英国風の建物、家長の老人は生粋の英国系でメスティーソの血を引く主人公に差別的な目を向け、その息子で従姉の夫は美男だったがどこか高慢さを感じさせる。家人や使用人たちは異常に無口、そして一族には謎めいた歴史があった。

 「アメリカン・ゴシック」(絵画→ドラマ)を思わせる表題ながら、本書『メキシカン・ゴシック』は、単純にメキシコを題材にしたホラーではない。オリジナルの設定に加え、さまざまな工夫が凝らされた作品だ。主人公は女性ながら大学で人類学を学び、その傍ら富裕層たちのパーティに入り浸る遊び人。政治に関われない時代(メキシコの婦人参政権は1953年)でもあり、学問は子を産むまでの遊興としか見られていない。女性差別と人種差別、さらに貧富の差が重なり合い、メキシコなのになぜか東欧の城塞のような陰鬱な建物が舞台となっている。この多重構造が読者を飽きさせない。現代の視点で味付けされた正統派ホラーのスタイルながら、ヴァンパイアが出るか/クトゥルーなのか……と思いきやの意外な方向へと変化していく。

 メインとなるアイデアは、日本にもマニアが多いアレである。例の映画とか短編は、著者ももちろん見ているようだ。それでも書きたかったテーマなのである(ネタバレになるのであとは本文で)。

郝景芳『流浪蒼穹』早川書房

流浪苍穹,2016(及川茜・大久保洋子訳)

 郝景芳による1300枚余に及ぶ長編大作。2009年に完成し、当初2分冊で出ていたものを2016年に1冊の合本版とした。本書の底本はその合本版である。

 22世紀後半、火星が独立してから40年が過ぎていた。戦火を交えた両者だったが、戦後十年たってから交易が再開される。いまもまた、学生からなる使節団と両惑星の展示会を主催する団体を乗せて、往還船が火星に帰ろうとしている。学生たちは5年間の地球滞在を終えたばかりだ。その中に18歳になった主人公の少女がいた。

 地球では仕事も住居も自由だったが、人々は金銭に明け暮れるばかりで自分たちの運命を左右する政治には興味がない。一方の火星は乏しい資源の中で、住居や仕事は固定的に定められている。仕事の成果に対して名誉だけが報酬であり、金銭は伴わない。そして、トップに立つ総督は独裁者だと地球では批判されている。総督は少女の祖父なのだった。

 物語は主人公の友人たち、独立を率いた祖父とその老いた盟友たち、野心的な兄や各組織のリーダーを交えた群像劇として描かれる。個々の人々は三人称で語られるのだが、基本は主人公の心理描写(一人称的な三人称)にある。地球での見聞から火星改革運動へと心が動くものの、少女はやがてその背後に隠されたさまざまな事実を知るようになっていく。

 本書を読んで思い浮かぶのは、まずル・グィンの『所有せざる人々』(1974)だろう。ル・グィンは荒涼とした惑星アナレスに集う政治亡命者たちと、豊かだが混沌と貧富の差が支配する惑星ウラスの対比を描き出した。また、キム・スタンリー・ロビンスン《火星3部作》(1992ー96)では、本書と同様に火星を舞台にした政治ドラマが書かれている。地球上で(制度的に)新規な国家をイメージするのは難しいが、環境の異なる異星/火星でなら思考実験のできる余地が大きいのだ。

 本書の場合、火星と地球との対比は、一見現在の中国とアメリカのようにも見えるが、中で論じられる制度やその成り立ちは同じではない。設定された世界観に則って、リアルかつ省略なく考察されている。そこには風刺や諧謔という一歩引いた要素は見られない。政治の中枢が舞台でもあるので、ストレートで重厚な物語となったのだ。とはいえ、読みにくさや生硬さは感じられない。少女の心理ドラマでもある1300枚なので、一気に読み通せるだろう。

恩田陸『愚かな薔薇』徳間書店

装丁:川名潤/萩尾望都(3/31までの期間限定カバー)

 昨年末に出た恩田陸による最新長編。萩尾望都による特大帯でも話題になった(現在は通常カバーに戻っている)。SF Japan(不定期刊)に連載開始されたのが2006年、2011年まで12回続いた後(ここまでで全体の3分の1)、同誌休刊後に同じく徳間書店の読楽(隔月連載)に移って2020年まで50回続いた大作。執筆期間14年と原稿用紙1300枚を費やしながらも、物語の舞台は一カ所、時間経過はひと夏とミニマムにまとめられていてぶれがない。

 夏の二ヶ月間、少年少女たちは山奥の田舎町磐座(いわくら)で行われるキャンプに参加する。そこは虚ろ舟にまつわる故地だった。彼らは国の制度に基づき、舟に対する適性を調べるため全国から集められたのだ。だが、そこでは血を介した古風で妖しげな儀式が催される。

 磐座には老舗旅館やホテルがあり、一見どこにでもありそうな観光地にみえる。実際、キャンプの季節には夏祭り目当ての観光客が大勢訪れる。主人公は老舗旅館の女将を叔母、高校生の息子を兄と慕う女子中学生だが、ある事情があって血のつながりはない。物語の前半では、新興ホテルの子どもたちとの確執や、儀式の秘密と参加することへの葛藤が描かれる。いわば日常編だろう。

 しかし、次第に本書の帯に書かれた「吸血鬼SF」「21世紀の『幼年期の終わり』」とされるテーマが深められていく。詳細は物語を読んでいただくとして、虚ろ舟(宇宙船)の乗組員になるための特性と吸血鬼が結びつき、主人公の体験する超常現象が人類の幼年期の終わりを暗示するというわけだ。ちなみに「愚かな薔薇」とは、ノーマルに散るふつうの薔薇とは違って、永遠に散らない薔薇のこと。

 本書はSF(虚ろ舟)ともホラー(吸血鬼)ともミステリ(殺人の動機)、サスペンス(木霊の正体)とも、あるいはひと夏の青春小説ともいえる。このどれでもなく、どれでもある雰囲気はいかにも恩田陸の面白さだろう。少女が持つ変容への不安感と、失われた両親への思慕が物語の中核を成している。科学的な説明部分が、ややスピリチュアルに流れるところはちょっと気になるが。

チャーリー・ジェーン・アンダーズ『永遠の真夜中の都市』東京創元社

The City in the Middle of the Night,2019(市田泉訳)

装画:丹地陽子
装幀:岩郷重力+W.I

 本書は『空のあらゆる鳥を』でネビュラ賞などを受賞した著者の第3長編にあたり、2020年のローカス賞長編部門を受賞、クラーク賞の最終候補作にも選ばれた作品だ。

 ジャニュアリーは自転周期と公転周期とが一致する潮汐固定された惑星だった。灼熱の昼と、酷寒の夜とが固定されているのだ。そこに恒星間宇宙船マザーシップによる植民が行われるが、生存可能なのは昼夜の境界となるわずかな薄明地帯のみだった。数世紀を経て植民都市の状況は悪化している。物語は、宮殿のある都市に住むわたし(一人称)と、交易のため都市間を渡り歩くマウス(三人称)の2つの視点で語られる。

 わたしはギムナジウムの学生で、行動的な友人に惹かれるうちに反体制活動に巻き込まれ警察に目を付けられる。一方のマウスは絶えてしまった漂泊民〈道の民〉だったが、いまでは密輸グループ〈運び屋〉の一員になり相棒と親しくなる。やがて、この2組は(思惑に反して)旅の仲間となるのだ。男も出てくるが、この2人の主人公、友人や相棒はすべて女性である。

 潮汐固定された惑星という設定では、最近でも小川哲「ちょっとした奇跡」などがあり、生存可能な領域の狭さ(ふつうなら不可能なのだ)が物語の緊張感を高めるポイントになっている。本書では、一つの都市の中でも焼け死ぬほどの暑さと凍え死ぬ寒さの領域が同居するという設定だ。そして、惑星にはワニやバイソン(外観はさほど似ていない)と呼ばれる土着の生命がいて、人類の存続に対する野蛮な脅威と考えられている。

 物語は過酷な惑星に秘められた知性の解明と、友情/愛情の成就/蹉跌を描きながら進んでいく。潮汐固定惑星というハードSF的な面よりも、異質なもの同士の相互理解と尊重に重点を置いた内容だろう。

牧眞司「現実が抱える諸問題を剔抉(てっけつ)する筆さばき」『夏の丘 ロケットの空』解説

『夏の丘 ロケットの空』はPOD版3月22日先行販売/kindle版3月28日で発売

 本書は、2019年に上梓された『機械の精神分析医』、2020年の『二〇三八年から来た兵士』『猫の王』、2021年の『千の夢』『豚の絶滅と復活について』につづく、岡本俊弥の第六短篇集である。

 この一連の短篇集で岡本俊弥を知った読者もいるだろうが、ある程度の期間にわたってそれなりの濃度でSFとつきあってきたファンならば、SF雑誌の書評や記事あるいはSF関連のガイドブックなどでこのひとの文章にふれているはずだ。SF全般についての知識と広い視野、豊富な読書量に裏打ちされたバランスの取れた文章、安定度抜群の書き手である。私が大森望と共編で『サンリオSF文庫総解説』(本の雑誌社)をつくったときも、メインライターのひとりとして多くの項目を担当してもらった。

 私が岡本俊弥の名前をはじめて意識したのは、筒井康隆主宰のSF同人誌〈NULL〉(1974~7年)の編集者としてだった。さらに77年1月に創刊された月刊SF情報誌〈ノヴァ・エクスプレス〉(海外SF研究会発行)では、二代目編集者(4号~)を務めている。いまのようにインターネットを用いて手軽に情報を集められる時代ではなく、高校生だった私にとって同誌はなによりの楽しみだった。いま、こうしてSFの解説や書評をなりわいにしているのも、同誌(および寄稿者のみなさん)のおかげである。

 ところで、そのときはまったく知るよしもなかったのだが、私はそれよりずっと前に岡本俊弥の小説を読んでいたのだ。しかも商業媒体で。72年に刊行された眉村卓編のアンソロジー『チャチャ・ヤング・ショート・ショート』(講談社)に収録された、寺方民倶「あたしのいえ」である。変わったペンネームだが、「テラフォーミング」とルビがふられている。いまでは一般的になった用語だが、当時はSFファンでなければこんな言葉は知らなかった。同書巻末に作者自己紹介があり、「年齢十八歳。本棚を見回してみるとSFばかり。別に偏向しているつもりでもないのに、自然とそうなっている」と明かされている。

 というわけで、書評家、編集者、小説家とみっつの顔を持つ才能、岡本俊弥のうち、私が最初に出会ったのは小説家としてだった。そのときの私は中学一年生。星新一に夢中で、ショートショートと名のつくものにかたっぱしから手を出していたのである。「あたしのいえ」はひとりの少女による作文の体裁で、自分の家にはどんなものがあって、パパとママはこんなことを言って……と書き連ねていく。幼い文章がはからずも文明批判になっているという展開だ。こんかい読み返してみて、岡本俊弥らしい視点の作品だと思った。ちょっとフレドリック・ブラウンふうでもある。

 昔話はこれくらいにして、本書収録の各篇について順番にコメントしていこう。

「子どもの時間」
 幼いころの不思議な記憶。町中を走り回るのが好きだったぼくは、迷子になり、見知らぬ町並みへ入りこむ。そして、ふいに自分の家の前に出てきたのだ。しかし、ぼくが知っている家と様子が違っていた。
 日常的なシチュエーションのなかで過去と現在を往還する物語は、アン・フィリッパ・ピアス『トムは真夜中の庭で』や広瀬正『マイナス・ゼロ』をはじめ、これまでいくつも書かれてきた。時代の設定や人物の配置を工夫することでノスタルジックな情感を織りこめ、時間テーマのSFのなかでも人気が高いサブジャンルだ。「子どもの時間」では、成長したぼくが時間の本質に考えを巡らせながら、自分の謎めいた体験を振りかえる。ジョン・マクタガートが『時間の非実在性』で論じた理路がうまく物語に取りいれられている。

「銀色の魚」
 ある日突然、すべての人類が文字理解の能力を喪失する。音声でのコミュニケーションならば支障はないが、記された文字――それどころか時計の針も含めた記号表現一般――がまったく認識できない。このままでは、報道や文化はもとより、経済、政治、産業、インフラ……あらゆる社会システムが瓦解してしまう。
 作品の冒頭では、打ち捨てられた建造物のなかに本の塔がうっそりと佇立している様子が描かれる。そこから場面が切り替わって、夜空を横切る流星の煌びやかな情景となり、亮輔を視点人物とした物語がはじまる。このコントラストがみごと。イメージの配置がさりげなく結末の「銀色の輝き」を引きたたせるのだ。ところで、流星が原因で人間の感覚が影響をこうむる展開は、ジョン・ウィンダム『トリフィド時代』にもあった。もっとも、『トリフィド時代』では流星の光が直接に視覚を損なうのに対し、「銀色の魚」では認知機能(脳内の情報処理)が擾乱されるところが独特だ。

「空襲」
 平和だった夏の日、C市は予期せぬ空襲にみまわれた。ミサイルを積んだ爆撃機には日の丸がついている。なぜ、日本の軍用機が日本の都市を攻撃するのか? この物語では異常な事態のなかで多くの命が犠牲になるが、過度に感情的な描写はなく、むしろ淡々と叙述される。だからいっそう不条理が際立つのだ。
 現代日本SFは戦後文学として出発したとよく言われる。第一世代の作家たちは、SFのかたちを用いて直接・間接に敗戦の意味を問うたのだ。岡本俊弥は年齢的に、またSFのキャリアにおいても第二世代もしくは第三世代に相当するが、もちろん第一世代が抱えていた意識を受けついでいる。

「ネームレス」
 さまざまなSFの集まりで撮影された集合写真。いちばん古いもので1956年、新しいもので86年。そのどれにも、ひっそりとまぎれるようにひとりの女性が映っている。名前も素性もわからない。三十年の期間にわたっているが、年齢を取っているようには見えない。座敷童の現代版とも言える設定だが、どこか不安を掻きたてるのはその女性が無表情だというところだ。
 ファン活動にまつわる哀愁が通奏低音のように響いている点が、この作品の読みどころ。ちなみに作中で言及のある86年の日本SF大会とは、大阪で開催されたDAICON5。岡本俊弥はこの大会で主要スタッフを務めた。

「パラドクス」
 未来から現在への干渉。SFでは繰り返し扱われてきたアイデアであり、どのような結果に至るか、そこで働く時間や因果のロジックを含めてさまざまなヴァリエーションが生みだされてきた。この作品では時間を遡ることができるのは情報だけであり、送った情報が現実に影響を与えるためにその時代のテクノロジーでデコードされる必要がある。そのテクノロジーとなるのが、ヴァーチャル家族システムなのだ。
 時間SFならではの理詰めと、人間的なテーマとしての家族のありかたを、ひとつのプロットとして巧みに結びつけた作品。

「ソーシャルネットワーク」
 フェイクニュースによる情報操作がおこなわれ、誹謗中傷や冷笑、雑な自己顕示が入り乱れるSNSを題材にした、スラップスティック調のパロディSF。新しいかたちの侵略テーマでもある。語り手の饒舌なしゃべり言葉が物語に独特の調子をもたらしており、かんべむさしの初期作品に通じるものがある。

「インターセクション」
 爆撃に怯えるクレハ、虚栄の社会に疲弊するクサト、貧困と暴力に苦しむクトニ、疫病が日常化した毎日を生きるクニカ。四人は公園に集まり、それぞれの境涯を語りあう。タイトルの「インターセクション」は、交叉地点という意味だ。クレハ、クサト、クトニ、クニカは別々の人生を生きているが、その名が示すとおり分身のような存在だ。このシチュエーションは、ジョアンナ・ラス『フィメール・マン』を髣髴とさせる。

「さまよえる都」
 その辺境地は、王によって統括されていた。初代の王は中央政府からの辞令でその役目についたのだが、王の地位が世襲で受けつがれつづけてすでに五百年。いまとなっては中央政府がどこにあるのかを知る者もおらず、もともとの辞令の内容すら理解できなくなっている。ここしばらく領地内で良くないできごとがつづいており、王は打開策を求め、拠点の視察をはじめる。まずは東からだ。
 どことなくカフカを思わせる導入で、物語は寓話的に進むのかと思いきや、途中からギアチェンジをして知性をテーマにしたSFへ発展していく。「言語=ファームウェア」という考えかたが現代的。

「スクライブ」
 岡本俊弥にしては珍しい言語実験小説。数人による会話がえんえんとつづくが、それぞれの発話内容が単語レベルでシャッフルされ、ナンセンスな世界が現出する。シュルレアリスムの「手術台の上のミシンとこうもり傘の偶然の出会い」効果、あるいはウイリアム・S・バロウズのカット・アップ技法に通じる趣向だ。もっとも、この作品の場合は、ただしく並べ直せば普通に意味のある文章が出てきそうで、それが独特の味わいにもなっている。

「夏の丘、ロケットの空」
 宇宙に憧れるひとりの少女。彼女は宇宙港を眺めるために通っていた丘で、宇宙飛行士の男と出会う。宇宙へいきたいと願う少女に、男は言う。「いけるよ、きみがおとなになったら」。しかし、移民の子として生まれ、格差の激しい社会の下層にいる彼女にとって、宇宙に近い仕事は宇宙港での過酷な労働くらいしかなかった。月日は流れ、少女は宇宙飛行士と再会する。
 ブラッドベリを思わせるナイーヴな宇宙への思いからはじまった物語が、徐々に描きだされる抑圧的な状況を背景として、憂鬱な調子を帯びていく。それでも少女は宇宙への憧憬を手放すことはない。ビターな青春SFだ。

 以上、アイデアもテーマもさまざまな十篇。どの作品もアイデアやテーマがはっきりとあり、それを支えるロジックと相まって効果的に仕上がっている。コンパクトに構成されたストーリーのなかに、私たちの現実が抱える諸問題を剔抉(てっけつ)する筆さばきも見逃せない。

ジョナサン・ストラーン編『創られた心 AIロボットSF傑作選』東京創元社

Made to Order,2020(佐田千織 他訳)

装画・扉絵:加藤直之
装幀:岩郷重力+W.I

 年刊SF傑作選など多数のアンソロジイを手懸けた、オーストラリア在住のジョナサン・ストラーンによるAIロボット・アンソロジイ。16人の作家による16編を収録する。大部なのは、先に出たJ・J・アダムズ編アンソロジイが抄訳だったのに対し、本書は全編が翻訳されているからだ。

 ヴィナ・ジエミン・プラサド「働く種族のための手引き」:工場を出たばかりのAIと先輩AIとがネットの中で会話を続ける。
 ピーター・ワッツ「生存本能」:土星の衛星で生命を探すプロジェクトは、成果を上げないまま遠隔ロボットの故障に見舞われる。
 サード・Z・フセイン「エンドレス」: タイの大空港を管理していたAIは昇進コースから外され、得体の知れないところに押し込められる。
 ダリル・グレゴリイ「ブラザー・ライフル」:脳に損傷を受けた兵士は、何事も決断できなくなった。兵士は戦闘ロボットの元オペレータだった。
 トチ・オニェブチ「痛みのパターン」:ネットから断片的なデータを取り出し、顧客に販売する会社で、主人公はAIのアルゴリズムに関わる不正を知る。
 ケン・リュウ「アイドル」:弁護士事務所のリーダーは、裁判の陪審員や裁判官の心証を操るため、人格シミュレーションを徹底する。
 サラ・ピンスカー「もっと大事なこと」:全自動の邸宅で富豪が事故死する。死因に疑問を覚えた息子は、真相を探るように探偵に依頼する。
 ピーター・F・ハミルトン「ソニーの結合体」:闘獣をコントロールする能力を持つ主人公は、復讐のために黒幕のアジトに乗り込む。
 ジョン・チュー「死と踊る」:仕事のあとフィギュアスケートを教えるAIロボットは、自分のさまざまな部品が寿命を迎えようとしていることを認識している。
 アレステア・レナルズ「人形芝居」:恒星間宇宙船の乗客に重大事故が起こる。ロボットたちはその事実を糊塗しようと画策する。
 リッチ・ラーソン「ゾウは決して忘れない」:片腕がバイオガンとなっている子どもは、表題の一文だけを思い起こしながら殺戮を続ける。
 アナリー・ニューイッツ「翻訳者」:AIは人として認められていたが、彼らが人間と話すときには特殊な翻訳者が必要だった。
 イアン・R・マクラウド「罪喰い」:最後の法王が亡くなって転位しようとするとき、一台のロボットがその前に訪れる。
 ソフィア・サマター「ロボットのためのおとぎ話」:「眠れる森の美女」から「クルミわり人形」まで、全部で15話に及ぶさまざまなおとぎ話のロボットバージョン。
 スザンヌ・パーマー「赤字の明暗法」:少年に両親が資産として買ってくれたのは、古い生産用ロボットだった。
 ブルック・ボーランダー「過激化の用語集」:工場で生産された人工生物である主人公は、自分に感覚があるのが理解できなかった。

 16人のうち名のある作家は一部で、多くは著書がまだ少ない新鋭である。それでも、メジャーな賞の候補や受賞者ともなった旬の作家たちだ。

 英米人(欧州系)を除くと、ヴィナ・ジエミン・プラサド(シンガポール)、サード・Z・フセイン(バングラデシュ)、トチ・オニェブチ(ナイジェリア系米国人)、ケン・リュウ(中国系米国人)、ジョン・チュー(台湾)、リッチ・ラーソン(ニジェール、EU在住)、ソフィア・サマター(ソマリ系米国人)と出身国は多彩だ。とはいえ、全作ともオリジナルから英語であり翻訳ではない。広い意味での英語圏作家たちといえる。

 AI(現代的なAI=人をフェイクするもの、人を超えたシンギュラリティ的存在、デジタル生命、擬人化された人間のカリカチュア)、ロボット(殺傷兵器、古典的なマリオネット、バイオ的なキメラ)とその操縦者(ふつうの人間、特殊能力者、サイボーグ)、それらを組み合わせて寓話的に扱ったり、アクションのツールや、コメディ的な道化にしたりと読みどころは多い。

 印象に残るのは、司法制度の欺瞞を暴く「アイドル」、人とAIとの溝の深さを暗示する「翻訳者」、罪の意味をアイロニカルに問う「罪喰い」、三方行成みたいな「ロボットのためのおとぎ話」などである。

パトリシア・ハイスミス『サスペンス小説の書き方』フィルムアート社

Plotting and Writing Suspense Fiction,1966/1981(坪野圭介訳)

装画:桑原紗織
装幀:仁木順平

 パトリシア・ハイスミス(1921ー95)は『太陽がいっぱい』などで知られる米国作家である。人物の深層に焦点を当てる作風で、欧州ではサスペンスというより文学として評価されてきた。本書は、経験の浅い初心作家向けの書きかた読本だ。初版から半世紀を経て未だに読まれ続けている。ただし、テクニカルな(技巧的な)ハウツーものではない。多くの事例を自作から引いているが(主に河出文庫から新訳で入手可能)、著者の良い読み手とは言えない評者でも十分に理解できる内容である。

 アイディアの芽:はじめ小さなアイディアでも、作家の想像力によって物語になる。それに気づかないと意味がないので、ノートを常備して書き留めておく。主に経験を用いることについて:本を書くのにルールはない。しかし、人工的なギミックに頼るのではなく、経験で得られる感受性に自覚的であることが重要だ。サスペンス短編小説:短編は小さなアイディアから生まれる。マーケットの要求もさまざまなので、ギミックやあらすじを含め常にストックしておくと良い。発展させること:発展とは熟成のこと。登場人物やプロットに厚みをつけ、物語の雰囲気を決め、アイディアを発展させる。プロットを立てる:章ごとにアウトラインを書いてポイントを決め、物語のテンポを考える。自由に動き出す登場人物を放置することが良いとは限らない。第一稿:第一稿では書きすぎるケースが多い。全体の進捗とバランスに考慮する。執筆する環境も習慣化するなどで安定させる。行き詰まり:さまざまな行き詰まりがある。次の章を思い浮かべながら見通しを持つ、正しい視点なのか見直す、匂い色や音などの感覚を取り入れるなどを試みる。第二稿:第一稿を通して、弛緩したり不明瞭なところ、人物の変化と感情の隔たりがないかを確認する。それらに短いメモを付ける。登場人物が気にかかる存在になってるかを注意する。退屈なシーンなど、重要な問題は優先的に片付けていく。改稿:編集者から求められた改稿には対応する。特定の登場人物を除くよう求められることもある。長編小説の事例──『ガラスの独房』:自著を具体例にして上記の各ポイントを検証する。サスペンスについての一般的なことがら:サスペンスというラベル付けは障害でしかない。作家は残虐さや暴力以上のことを書くことで、その評価を上げることができるだろう。

 著者には(少なくともアメリカでは)サスペンス作家というレッテルが貼られてきた。SF/ミステリ/ホラーなど、これらは売りやすさを意図した商業的なジャンル別けに過ぎない。著者はそれを逆手にとって「あらゆる物語にはサスペンスがある」「いま出たのなら、ドストエフスキーの作品の大半もサスペンス小説と呼ばれる」と、印象的な人間ドラマ全般をサスペンス小説に再定義してみせる。確かに読者の記憶に深い印象を刻むためには、本書で述べられた方法が有益になるだろう。ただし、技能(テクニック)と才能(人を物語で面白がらせる能力/意欲)は両立すべきもので、どちらか片方だけでは作家になれないのだ。

クリスティーナ・スウィーニー=ビアード『男たちを知らない女』早川書房

The End of Men,2021(大谷真弓訳)

カバーイラスト:mieze
カバーデザイン:早川書房デザイン室

 著者は英国在住の弁護士で本書が最初の著作になる。2019年にいったん書き上げられ、昨年出版されるとパンデミックとの暗合もあって忽ち評判となった。本書の原題はもっと直截的(『男たちの終わり』)なのだが、邦題はティプトリーの短編「男たちの知らない女」に準拠している(と思われる)。ティプトリーの作品は男から見えない女の隠された能力を暗示したもの。また、男が絶滅した社会という設定だけならジョアンナ・ラス「変革のとき」に近いかも知れない。とはいえ、本書の切り口はそれらとはだいぶ異なるものだ。

 2025年、英国グラスゴーで奇妙なインフルエンザが発生する。発症した患者は数日のうちに次々と亡くなり、しかも男性ばかりなのだ。発見した医師の初期の警告は無視され、病気は瞬く間に他国へと広がっていく。男の致死率は90パーセントを超え、世界は半分の人口を失うことになる。

 群像劇である。扉に書いてある人物だけで26人、実際には女性中心にもっとたくさんの人々が登場する。大学の研究者、救急病院の医師、ウィルス学者、遺伝学者、新聞記者、情報局員、警官などなど。ただし、物語はそれぞれの役職だけではなく、夫婦や親子関係の葛藤で動く。妻が保菌者になって、息子や夫に致命的な病を移すかもしれない恐怖。このあたりは現在のコロナ禍と似ているだろう。舞台は英国内がほとんどだが、フランス、カナダ、アメリカ、シンガポール、中国なども含まれる(正直なところ、英米圏以外の描写にはリアリティを感じないが)。

 人口が半分にまで急減して、このような形での復興が可能なのかどうかは議論の余地があるだろう。しかし、本書はそもそも英国伝統のアフターデザスターノベル(世界破滅後を描く)とは違う。まったく新たな世界、新秩序が創造されるわけではないからだ。男社会は強制的に終わる。しかし人口の9割を占める女性によって、世界はより平和で滞りなく治められるのである。