自然災害としての怪獣たち、《モンスター・マグニチュード9》 山本弘

 シミルボン転載コラムは、訃報が報じられた山本弘さんを取り上げます。評者が初めて山本作品と出合ったのは、デビュー前の1975年のこと。「シルフィラ症候群」という短編で、第1回問題小説新人賞の最終候補作でした。受賞はしなかったものの(同賞の選考委員だった)筒井康隆さんの推しを受け、同人誌NULL No.6(1976)に掲載されました(後に『ネオ・ヌルの時代 Part3』に収録)。一読、未成年(当時)とは思えない著者のストーリーテリングに驚嘆した憶えがあります。コラムでは代表作《MM9》を取り上げています。以下本文。

 《ウルトラ・シリーズ》の歴史は半世紀を越えており、現在50代後半から60代、中年から老年世代の原点といえば、やはりこれら特撮シリーズになるだろう。《ゴジラ》《ガメラ》などの映画は年に数作だったが、誰もが家庭で見られ、週1回放映されるTVのインパクトは大きかった。

装画:開田裕治

 『MM9』は連作短編集である。ウルトラマンの科学特捜隊=科特隊ならぬ、気象庁特異生物対策部=気特対が主人公。どうして「気象庁」なのかといえば、怪獣が自然災害(地震や台風など)であるからだ。

 潜水艦を破壊した巨大な海中生物の正体、岐阜山中に出現した身長10メートルの少女、遠く地球の裏側から日本を目指して飛んでくる怪獣の目的、気特対に密着取材するテレビクルーから見た活動のありさま、瀬戸内海の孤島で目覚めようとする巨龍には9つの頭が!など5編を収録している。

 本書には、さまざまな怪獣や、マイナーなSFに対するオマージュとパロディがちりばめられている。「危険! 少女逃亡中」が、大昔に翻訳されたコットレルのSF短編のパロディだなんて、おそらく誰も気がつかないだろう。登場人物名にも、伴野英世=天本英世とか、稲本明彦=平田明彦など、特撮映画の常連俳優に対する思い入れが感じられる。極めつけは、怪獣出現の「科学的根拠」として多重人間原理(多元宇宙+人間原理から創った造語)を提唱したことだ。神話宇宙(怪獣の存在が許される)と、ビッグバン宇宙(我々の物理法則が成り立つ)とのせめぎ合いが、怪獣を自然災害として出現させるという説明で、怪獣ものの弱点だった物理的な非科学性がうまく回避されているのだ。

装画:開田裕治

 『MM9』には続編があり、長編『MM9 invasion』(2011)と、『MM9 destruction』(2013)として出版されている。2つの作品は、エピソードとしては独立しているが、物語が一連の時間軸上にあるので、この順番に読むほうが良い。

 巨大な少女の姿をした怪獣を移送するヘリが青い火球と衝突、それ以降少女には宇宙人の精神寄生体が棲みつき、少年と精神交感できるようになる。そこで少年は、異星の神話宇宙の宇宙人たちが、怪獣を連れて侵略を試みていることを知る。まず東京スカイツリーを目指し首都圏を蹂躙(invasion)、続いて怪獣の神を伴って再び襲来する(destruction)。追い詰められた少女は、かつての仲間の巫女や日本土着の怪獣たちとともに、異星の怪獣に立ち向かう。

装画:開田裕治

 ウルトラマンへのオマージュと、怪獣大決戦が描きたかった、という著者の願望そのものが長編になっている。ガメラ風、ゴジラ風、モスラ風(そのものではない)怪獣対宇宙怪獣も、夏休み・冬休み東宝・大映特撮の定番だったものだ。怪獣ものが全盛だった頃に小中学生だった世代にとっては、特に説明不要なサービス満載の作品となっている。頼りない少年と、少女の姿をした怪獣、恋人を自称する同級生、超常能力を持つ巫女など、コミック風の三角関係ネタが新味だが、(怪獣ブームから時代は下る)高橋留美子へのオマージュなのかもしれない。

(シミルボンに2017年4月13日掲載)

 このコラムは『創元SF文庫総解説』に寄せた原稿の元記事にもなっています。著者には同じ設定で書かれた『トワイライト・テールズ』もありますのでご参考に。

坂崎かおる『噓つき姫』河出書房新社

装幀:名和田耕平デザイン事務所(名和田耕平+小原果穂)
装画:はむメロン

 著者は1984年生まれ、本書が初の著作になるが、これまでに多くの受賞歴を持つ。表題作は第4回百合文芸小説コンテスト大賞作品である。他にも日本SF作家クラブの小さな小説コンテスト日本SF作家クラブ賞、第1回かぐやSFコンテスト審査員特別賞受賞作などが収められている。さらに収録作以外に広げると、第6回阿波しらさぎ文学賞受賞(後に主催者側の問題により辞退)、第28回三田文学新人賞佳作、第1回幻想と怪奇ショートショートコンテスト優秀作、第14回創元SF短編賞最終候補作などなどがある。どこでも常に高評価を得てきた。また、スピン、文學界、小説現代、『SFアンソロジー 新月/朧木果樹園の軌跡』、『乗物綺譚』(《異形コレクション》)などの文芸誌やアンソロジイに複数の作品を発表している。にもかかわらず、坂崎かおるはコンテストへの応募を止めない。その持続する執念にも注目が集まっている。おそらくどの賞も、チャンピオン(正賞受賞)がゴールなのだろう。

 ニューヨークの魔女(2023/6)19世紀末のニューヨークで魔女が見つかる。発見者はこれが金にならないかと算段を巡らせ、ある見世物を思いつく。
 ファーサイド(2021/6)
1962年、キューバ危機下のアメリカにDたちがいた。少年は下層労働に就くその1人と知り合いになる。
 リトル・アーカイブス(2022/8)若い兵士は、まるで二足歩行ロボットを庇うようにして死んだ。戦死の原因を追究する裁判の過程で見えたものとは。
 リモート(2020/7)6本足のリモートロボットで通学する少年がいた。やがて、級友たちと馴染むようになったが。
 私のつまと、私のはは(書下し)同性のパートナーと同居するデザイナーに、AR下で成長する赤ん坊の仕事が来る。本体はのっぺらぼうのロボットなのだ。
 あーちゃんはかあいそうでかあいい(2023/2)親知らずの治療のために訪れた患者は、小学校時代の同級生だった。その子には歯についての思い出がある。
 電信柱より(2021/1)電信柱を切るのは女性の仕事である。だが、地方都市に赴任した主人公は、一本の電信柱に魅せられてしまう。
 嘘つき姫(2022/3)1940年のフランス、ドイツ軍から逃れ避難する中で、親を失った二人の少女がいた。孤児院での生活には幾重にも重ねられた嘘がまとわりつく。
 日出子の爪(書下し)枯れたホウセンカの代わりに、クラスでは爪が植えられるようになる。そこから生えてきたものは。

 読者を驚かせる奇想に溢れている。といってもガジェットやアイデアが斬新、というだけの意味ではない。表題作の魔女や、D、異形のロボット、同級生の歯、電信柱、お伽噺から始まる嘘、何の変哲もない爪に至るまで、すべてが日常の中に現れた特異点あるいはブラックホールのように作用する。なぜブラックホールなのかというと、物語の中でその正体が観察できず、逆に周囲の現実を吸い込んでしまう存在だからである。SFと文藝をハイブリッドする謎になっているのは、今風の先端スタイルといえる(マシュー・ベイカーの作品を評した下記リンクを参照)。

 もう一つの特徴は、お話がハッピーに終わらない点だろう。虐げられしものの解放者は現れないし、信じていた友は不穏/不可解な行動をとる。主人公は諦観しているのかもしれないが、読者は不安を抱いたまま取り残される。その綱渡りのような絶妙のバランスが、余韻を残すテクニックになっている。

 なお、収録されていない著者のあとがき(作品の解題でもある)がこちらで読める。本書には「玄関」と「勝手口」を設けたそうだ。

死後8年、なおインパクトを残す作家 伊藤計劃

 シミルボン転載コラム、今回は比較的新しい作家を取り上げます。1930年前後生まれを第1世代とすると、伊藤計劃は第5世代になりますね。ただ、残念なことに34歳の若さで亡くなりました。下記の記事は、コラムと『屍者の帝国』レビューを併せたものです。以下本文。

 1974年生。2007年に長編『虐殺器官』でデビュー、2008年には小島秀夫によるゲームのノヴェライズである『メタルギア ソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット』及び『ハーモニー』を出版、翌2009年34歳で亡くなる。プロとしての活動期間はわずか2年あまり、生前に出した単行本は3作のみである。しかし、夭折の作家、闘病生活の傍ら書かれた作品、現代を映し出す特異なデビュー作、没後の星雲賞、日本SF大賞やフィリップ・K・ディック賞特別賞受賞(『ハーモニー』)など、そのインパクトは同世代作家や若手をまきこみ広範囲に及んだ。死後8年が経た今でも、余波は“伊藤計劃以後”と称され残っている。

カバー:水戸部功

 『虐殺器官』はこんな話だ。世界中でテロが蔓延している。第3世界に巻き起こった大量虐殺の連鎖は、とどまるところを知らず拡大を続けている。主人公は米国情報軍の特殊部隊に所属する。彼の任務は、虐殺行為の首謀者/各国の要人を暗殺することだ。しかし、その途上で奇妙な人物が浮かび上がる。要人の傍らには必ず一人の米国人が控えている。無害なポジションにあるように見えて、その男は複数回の襲撃を逃れ、常に紛争国に姿を現すのだ。

 この作品は第7回小松左京賞(受賞作なしで終わった)の最終候補作になった。「9.11をリニアに敷衍した悪夢の近未来社会」であり、小松左京の理念とは異なるという理由から受賞は逃したのだが、本書の完成度は内容や文章ともに初応募作とは思えないほど高かった。圧倒的な火力と情報力で、幼少兵からなる途上国の軍隊を蹂躙して任務を遂行する米兵は、まさに今の対テロ戦争そのもの。その上“虐殺器官”というネタ=表題になっていながら、読者を飽かさずに読ませるリーダビリティ、しかも曖昧な結末ではなく、SFとして納得できる解決が書かれている。

イラスト:redjuice

 『ハーモニー』は『虐殺器官』の未来を描いた続編ともいえる作品。ただし、硬質な文体で暗いテロの前線を描いた前作から一転して、本書の舞台は「福祉社会」である。

 2075年、大災禍と呼ばれる大規模な核テロの時代を経て、世界は高度な生命至上主義社会へと変貌している。国家は複数の「生府」から成り、ナノテク Watch Meにより傷病や不健康なものを一切排除していた。主人公は、未開地域で活動する世界保健機構の査察官である。だが、ある日、世界同時多発の自殺が発生、健康社会の基盤を揺るがす騒乱へとつながっていく。それは、13年前にシステムを出し抜いて自殺を図った少女たちの事件と似ていた。主人公は事件の生き残りなのだった。

 物語の最後は、ある意味グレッグ・イーガンが追及したものと似ている(このアイデア自体は、別の作家も使っている)。〈SFマガジン2009年2月号〉の著者インタビューでは、よりサイエンス寄りのイーガンに比べて、社会的インパクトに対する興味が強かったことが語られている。本書では、誰もが死なない理想社会と、肉体を改変することによる極度な均一社会の矛盾が、明快に描き出されている。もう一つのポイントは、主人公の感情が、そのまま文中にマークアップランゲージとして書き込まれていること。例えば、怒っているなど。これは、物語の結末と密接に関係する重要な伏線である。文体実験を試み、同時に仮想社会の真相をあぶり出した、きわめて野心的な作品といえるだろう。

装丁:川名潤

 伊藤計劃の著作では円城塔との合作『屍者の帝国』があるが、伊藤計劃が書いたのは冒頭のプロローグのみだ。ある種のトリビュート小説といえる。第31回日本SF大賞・特別賞、第44回星雲賞日本長編部門受賞作。

 そのプロローグは、死後〈SFマガジン2009年7月号〉に未完のまま掲載された。ここで出てくる“死者の帝国”という言葉は、前年の〈ユリイカ2008年7月号〉に掲載された、スピルバーグ映画評(『伊藤計劃記録』所収)に現れている。21世紀以降に作られたスピルバーグの映画には、彼岸から我々を支配する“死者の帝国”の存在が見えるのだという。

 19世紀末、大英帝国の医師ワトスンは諜報機関の密命を帯び、第2次アフガン戦争下の中央アジアに派遣される。この世界では、産業革命の担い手は屍者たちである。彼らは死後、無償の労働者/ある種の機械装置として働き、世界を変貌させている。またバベッジの開発した解析機関は、世界を同時通信網で結んでいる。やがてワトスンは、アフガンの奥地にある屍者の帝国の存在を知る。しかしそれは、世界を舞台とする事件の始まりに過ぎなかった。

 出てくるものすべてがフィクションに由来している。もちろん本書は小説だからフィクションなのだが、登場する物/者たちが過去のフィクションに関連しているのである。冒頭の《シャーロック・ホームズ》《007シリーズ》メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』、スチームパンク社会を鮮やかに描き出したスターリング&ギブスン『ディファレンス・エンジン』(あるいは山田正紀『エイダ』)、ドフトエフスキー『カラマーゾフの兄弟』キム・ニューマン『ドラキュラ紀元』など、無数の既作品からの引用に満ちている。伊藤計劃がプロローグで提示した暗号を解くというより、小説のなかで小説について書いた=自己言及(self-reference)したものといえる。つまり、謎をもう一段抽象化した深みへと引きずり込んだのだ。

 本書は3年間をかけて、伊藤計劃の着想を円城塔が長編化したものである。インタビュー記事を読むと、小松左京賞落選の同期で、厳密に言えば友人とまではいえない関係ながら、伊藤の構想を物語の枠組み(制約条件)に置き換え、何度もの中断を経てようやく書き上げられたとある。仕掛け的にはきわめて円城塔らしく、なおかつ波乱万丈のエンタメ小説になっている。完成までの間に伊藤計劃は国内外での評価が高まり、円城塔も芥川賞作家を得て広く名を知られるようになった。その変転も本書の中に反映されている。

カバー:水戸部功

 派生作品集として、同年代作家、若手作家による『伊藤計劃トリビュート』『伊藤計劃トリビュート2』が多彩な顔ぶれで楽しめる。それ以外にも、雑誌、同人誌、ウェブサイトなどから短編やエッセイを集めた『伊藤計劃記録』(2010)『伊藤計劃記録 第弐位相』(2011)がある。これは文庫化にあたり再編集され、短編集『The Indifference Engine』(2012)『伊藤計劃記録I』『同 Ⅱ』(2015)の3分冊になった。また、ホームページなどに載せていた映画関係の、短いながら切れ味の鋭いコメントを集めた『Running Pictures―伊藤計劃映画時評集1』『Cinematrix: 伊藤計劃映画時評集2』(2013)も出ている。

 なお映像関係では、一時製作がストップしていた村瀬修功監督『虐殺器官』が2017年2月にようやく公開された。それに併せ、2015年12月公開のなかむらたかし/マイケル・アリアス監督『ハーモニー』と、2015年10月公開の牧原亮太郎監督『屍者の帝国』が、それぞれ深夜枠でテレビ放映されている。

 この映画公開とコラボする形で、いくつかの書店で『虐殺器官』オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』ジョージ・オーウェル『動物農場』『一九八四年』を並べるディストピア小説フェアが行われたのだが、まるで呼応するかのように世界情勢は不穏さを増してきた。伊藤計劃の夢想した冥い世界は、衰えることなくいまでも拡大を続けているようだ。

(シミルボンに2017年2月9日/11日掲載)

 「伊藤計劃後」の世界はこの後しばらく続きましたが、小川哲『ゲームの王国』の登場により終わったとされます(もともとの提唱者である早川書房塩澤部長の見解ですが)。しかし、その後も世界の状況がますます伊藤計劃的になりつつあるのは、皆さんもご承知のとおりでしょう。

虚無の先に人間を見た作家 光瀬龍

 今回もシミルボン(#シミルボン)作家紹介コラムから。作家は亡くなってしまうと、一部の例外を除けば、本の入手が難しくなってしまいます。その点光瀬龍は初期作の電子化が進んでいるので、まだ読むことが可能でしょう。以下本文。

 光瀬龍は1928年生、1999年71歳で亡くなった。年齢で言えば、大正生まれの星新一・矢野徹・柴野拓美らと、1931年以降の小松左京・筒井康隆・眉村卓らとの中間になるが、そこまでを含めて日本の現代SF第1世代とされる。第2次大戦を挟んだ時代に青春、子ども時代を生きた経験はほぼ共通するし、同人誌〈宇宙塵〉(1957年創刊)や〈SFマガジン〉(1959年12月創刊)との出会いも同じ時期になる。

装丁・デザイン:中村高之

 大橋博之編『光瀬龍SF作家の曳航』(2009)によると、少年時代の光瀬の記憶は、東京空襲に始まる。東京に生まれ、私立中学に通う光瀬は、突発的な空襲で級友が亡くなって行くという理不尽な体験をする。やがて焼夷弾による大空襲後に岩手県(母親の実家)に疎開。終戦を経て3年後に東京に帰り、大学の入退学を繰り返した後、旧制最後の高校生活を送る。その後、東京教育大学(現筑波大)で生物、哲学を学び、女子高の教師となる。狂騒的な昭和20年代(1946-1955)が終わり、このままの生活に疑問を感じはじめたころ、SFと出会うことになる。

 なぜ光瀬が“東洋的無常観”(王者であれ誰であれ、すべてのものは滅び去る運命を内在している)とする考え方で宇宙ものを書き始めたのか、なぜ『ロン先生の虫眼鏡』(1976)(後に〈少年チャンピオン〉でコミック化もされた)など生物の生態にフォーカスしたエッセイを書いたのか、時代物(後述)に興味を惹かれるのか、そういった背景は光瀬の経歴の中におぼろげではあるが見ることができる。

 デビューは1962年に書いた「晴れの海一九七九年」で、この年代を冠した宇宙ものが《宇宙年代記》と呼ばれる連作になる。『墓碑銘二〇〇七年』(1963)は、著者初の短編集である。表題作の主人公は宇宙探検隊員で、他に生存者がいない任務でも彼だけが生還するため、英雄なのか卑怯者なのかと疑惑を呼ぶ。気を許せるのはペットの砂トカゲのみ。しかし木星への探査の途上で、不可解な事故が発生しカリストへの不時着を余儀なくされる。過酷で逃れようのない運命と、それを受け入れ共存する主人公という構図は《年代記》ものに共通するテーマだ。

 宇宙ものの代表的長編に、初長編でもある『たそがれに還る』(1964)がある。39世紀の太陽系全土が舞台だ。主人公は、シベリア、金星、辺境星区、冥王星と各地域の異変を調査する中で、隠されたメッセージや遺構の存在を知る。やがて、1200万年前に起こった大異変の真相が明らかになる、そんな壮大なお話だ。青の魚座(存在しない星座名)など、独特のタームを駆使して悠久の時を描いたもので、著者の世界観を余すことなく伝えてくれる。

カバー:萩尾望都

 引き続き書かれた『百億の昼と千億の夜』(1967)では、さらにスケールが広がる。プラトンが滅びゆくアトランティスで見た光景に始まり、シッダールタ(仏陀)、ナザレのイエス(キリスト)、阿修羅王という象徴的な主人公たちが、未来のトーキョーや銀河を超えて絶対者と闘うという作品だ。今でも日本SFの代表作に数えられている。宇宙ものの虚無感と、著者の哲学や宗教に対する考え方とが結びついた比類のない傑作といえる。後に萩尾望都がコミック化している。

 宇宙ものを書くのと同時期に、光瀬龍はジュヴナイルSFを書いた。これは、もともと〈中一時代〉などの学年雑誌に掲載されたものが多い。少年が江戸時代にタイムスリップする『夕ばえ作戦』(1967)は、後にNHK少年ドラマシリーズでTVドラマ化され人気を呼んだ。他にも、学園ミステリー『明日への追跡』(1974)など10作あまりがある。

デザイン:岩剛重力+WONDER WORKZ。

 著者の死後にまとめられた『多聞寺討伐』(2009)は、短編集『多聞寺討伐』(1974)『歌麿さま参る』(1976)などから抜粋された時代SF短編の傑作選である。初期の宇宙SFを書いたあと、著者の興味は時代・歴史ものに移る。本書に収録された作品は、後年の本格的な時代小説とは異なり、SF味を色濃く残している点が特徴である。表題作「多聞寺討伐」は多聞寺周辺の村で、死体が自分の首を持って歩くという奇怪な事件が発生する顛末。「歌麿さま参る」は、東京の美術商に希少な刀剣や浮世絵が次々と持ち込まれるが、売り手の正体をさぐるうちに歌麿の正体が見えてくるお話。捕り物帳のSF的解釈というスタイルを創出したのは光瀬龍である。登場人物が生き生きと活躍するさまが印象に残る作品だ。

 SFと歴史をからめた長編には、徳川家光の時代に与力と隠密が暗闘する『寛永無明剣』(1969)、日露戦争を扱った『所は何処、水師営』(1983)や太平洋戦争で日本が優勢になった世界を描く『紐育(ニューヨーク)、宜候』(1984)などがある。どの作品も、歴史改変とタイムパトロールが絡む話になっている。

 この後、著者の興味は本格的な歴史小説に向かい、『平家物語』(1988)『宮本武蔵血戦録』(1992)、遺作となった『異本西遊記』(1999)などを書いている。虚無的な宇宙SFでスタートした関係で、作品に対する先入観を持たれてしまった光瀬だが、一方で人間に対する強い興味が背後にあることを見逃してはいけない。晩年の時代小説は、その雰囲気を良く伝えているといえるだろう。

(シミルボンに2017年3月1日掲載)

 このコラム掲載後に、評伝となる立川ゆかり『夢をのみ 日本SFの金字塔・光瀬龍』が出ています。著者の人となりを知るには好適でしょう。また2018年には初期の宇宙SF短篇を集めた日下三蔵編『日本SF傑作選5 光瀬龍 スペースマン/東キャナル文書』も。

スラプスティックSFから最先端文学へ 筒井康隆

 シミルボン転載コラム、今回は眉村卓と同世代の筒井康隆です。著名人でもあり、経歴を中心とした詳細なものはあるものの、何に重点を置くかで観点は変わってきます。ここでは主に作品の流れについての概要を記しています。以下本文。

 1934年生。中学校時代には学校に行かず、映画やマンガに熱中した。そのあたりは自伝『不良少年の映画史』(1979-81)などに詳しい。同志社大学卒業後、主催した〈NULL〉は〈宇宙塵〉がタイプ印刷だった時代に活版で印刷され、(当初)家族のみで作られた同人誌だと評判になった。そこに載せたショートショートが、江戸川乱歩編集の〈宝石1960年8月号〉に転載されデビューする。

 初短編集『東海道戦争』(1965)、続く『ベトナム観光公社』(1967)『アフリカの爆騨』(1968)、ショートショート集『にぎやかな未来』(1968)など最初期の作品には、シュールさと猥雑さの同居、際限のないエスカレーション、時代風俗や流行の織り込みといった特徴がある。当時の筒井康隆は、若いファンにとってカルトヒーローだった(始まったばかりの星雲賞を、第1回からほぼ毎年受賞していた)。この人気は、1960年代後半から70年代にかけて、著者が多数の作品を一般小説誌に発表していく過程で形成されたものだ。

 初長編『48億の妄想』(1965)は、カメラがすべての有名人に設置された未来、人々がカメラを意識した演技をするため、何が本当で何が嘘なのかわからなくなった社会を描いている。もともとのカメラはTVカメラだが、これを監視カメラやスマホのカメラに置き換えても十分成り立つだろう。嘘が現実を変える今の社会を予見しているのだ。

イラスト:貞本義行

 光瀬龍や眉村卓と同様、筒井康隆はこの時期にジュヴナイルを書いた。ラベンダーの香りで時をさかのぼる、『時をかける少女』(1967)は、TVドラマ・映画・アニメなど8回の映像化がされた代表作だ。これ以外にも『緑魔の町』(1970)『三丁目が戦争です』(1971)、入門書である『SF教室』(1971)などがある。

 『家族八景』(1972)『七瀬ふたたび』(1975)『エディプスの恋人』(1977)はテレパス火田七瀬の登場する3部作である。特に第3部では、超能力をタイポグラフィック(文字の組み方)で表現するなど新しい試みを取り入れている。最初の作品では、家政婦七瀬が家庭内の闇を見てしまい、次作では別の超能力者との出会いから危機が迫り、最終巻では奇妙な能力を持つ少年と遭遇する。著者はこれ以降シリーズものは書いていないが、超能力もののバリエーションとして、夢に潜入できる能力者が登場する『パプリカ』(1993)を書いている。これらはTVドラマやアニメになった。

 1970年代後半より後、筒井康隆の活動の舞台は純文学でのより実験的な作品群へと移っていく。第9回泉鏡花文学賞を獲った『虚人たち』(1981)では、登場人物が虚構(小説)内にいると知って行動する。高度成長がなかったかわりに映画の全盛期が続く、もう一つの昭和を描いたユートピア小説『美藝公』(1981)や、人類史のカリカチュアでもある知的なイタチが住む惑星と、生きている文具とが戦う『虚航船団』(1984)などは、どれも単純な筋書きで成り立つお話ではない。物語構造や設定を含めた仕掛けの精緻さに驚かされる。

 短編集『エロチック街道』(1981)の表題作は、どことも知れぬ田舎町で、裸の美女に導かれるまま温泉に迷い込む作品。映画化もされた「ジャズ大名」は、江戸時代に地方の城主がジャムセッションを開くお話だ。「遠い座敷」では、どこまでも無限に続く畳部屋を通り抜けていく。「遍在」は改行のない高密度の文体で書かれている。『串刺し教授』(1985)は、『虚構船団』の前後に書かれた、短編17編を収録。お互いかみ合わない会話、夢の風景、現実と虚構との混交などを描く作品が中心だ。

 第23回谷崎潤一郎賞受賞作の『夢の木坂分岐点』(1987)では、主人公がやくざの夢を見るシーンから始まる。覚醒すると、彼はプラスチック製造会社の課長である。ただ、この現実は、小説の進行とともに、微細に変質していく。名前が変わり、社名が変わり、地位が変わり、年令が変わる。舞台は、会社でのサイコドラマから、夢の屋敷 (どこまでも長い廊下が延び、閉じられた襖が連なる)に、夢の下町(老いた運転手の操る路面電車が、軒先を掠める)に、夢の木坂へと連なっていく。途中から、この小説には覚醒はなくなる。どこまでも落ちていく、奈落だけがある。ここに描かれるのは、無数に多重化された夢である。

 『薬菜飯店』(1988)神戸のとある路地裏に、薬菜飯店がある。薬菜とは、文字通り薬になる料理のこと。食べればたちまち体の毒素が溢れ、肺、内臓、血液から、とめどなく流れ出す。夢こそが現実、虚構こそが真実という著者のテーマが語られた「法子雲界」、第16回川端康成文学賞を得た「ヨッパ谷への下降」、サラダ記念日の一首一首を精密にパロディ化した「カラダ記念日」、スプラッタ小説「イチゴの日」「偽魔王」、また、正統派SFスタイルで書かれた「秒読み」など、この時期を代表する多様な作品を収めている。

 第12回日本SF大賞受賞作『朝のガスパール』(1992)は朝日新聞の連載小説で、当時普及しつつあったパソコン通信「電脳筒井線」を用いて、リアルタイムに読者の意見を吸収しながら物語を進めるという斬新な試みだった(お話自体でも、コンピュータゲームと現実との壁がなくなる)。ジャズのセッションのように、物語を読者と共作しようとしたものだ。そこで起こるトラブル(誹謗中傷事件など)が、逆に物語を形成する要素となっていた。記録は『電脳筒井線(全3巻)』(1992)にまとめられている。

 筒井康隆は、1993年に表現の自由をめぐり断筆を宣言、以降、和解と出版契約が整う1996年までが空白期間となる。これは今でもたびたび起こる、小説で差別表現がどこまで認められるか、という議論に対する一つの考え方になるだろう。

 第51回読売文学賞受賞作『わたしのグランパ』(1999)中学生の少女のもとに、かつて殺人事件を犯して刑務所に入れられていた祖父が帰ってくる。彼女の周りにはさまざまな波紋が広がる。祖父は飄々としてその全てを解決していき、やがて無くてはならないおじいちゃん(グランパ)となっていく。物語の長さは中篇、ここで思い出すのは「わが良き狼」(1969)である。流れ者の賞金稼ぎがふと帰ってきた故郷の町で、老いた友や敵たちと再会する物語だが、本書はちょうどその逆の位置関係にある。グランパは、還ってきた老ヒーローなのであり、敵は誰もが若い。その若さに対して、グランパは対抗するのではなく、自身の死に場所を求めるように、ただ冷静に相対していくのである。後に、菅原文太主演で映画化されている。

 筒井康隆は、2002年に文化勲章の紫綬褒章を、2010年に菊池寛賞を受賞する。だが、それで執筆を止めたわけではない。72歳で長編『銀齢の果て』(2006)を書く。高齢化社会の究極の解決法として、老人相互処刑制度(シルバー・バトル)が設けられ、70歳以上の老人が各区域1人になるまで、老人だけの殺し合いが行われるお話だ。79歳で書いた『聖痕』(2013)は、著者20年ぶりの朝日新聞連載小説。主人公は5歳の時に、変質者により性器を切除される。この世のものとも思えない美少年だった彼は、性に対する欲望の一切から解放され、やがて味覚の奥義に目覚めていく。81歳では、神自体がテーマである『モナドの領域』(2015)を書き、毎日芸術賞を受賞している。SF第1世代作家の中で、眉村卓とともに80歳を過ぎてなお執筆を続ける稀有な作家といえる。

(シミルボンに2017年3月6日掲載)

 この記事の2年半後に眉村卓さんは亡くなっています。筒井さんは今年になって日本芸術院会員となり、昨年末には最後の短編集とする『カーテンコール』を出すなど、活躍を続けています。

田中空『未来経過観測員』KADOKAWA

装画:Y_Y
ブックデザイン:青柳奈美

 著者は1975年生まれ。少年ジャンプ+で連載した『タテの国』(縦スクロールで読むコミック)で話題を呼ぶ漫画家だが、本書が(私家版を除くと)初の単行本、それも小説である。カクヨムで連載された表題作(昨年私家版でも出した)を加筆訂正し、新たに書下ろし短編1編を加えた作品集だ。

 未来経過観測員:超長期睡眠技術が生まれ、生身の人間による未来の調査にこそ意義があるとされて観測員が生まれた。100年ごとに1か月を過ごして、その時々の社会をレポートする仕事なのだ。それも5万年後までの500回にわたって。目覚めるたびに、未来社会は様相を変えていく。
 ボディーアーマーと夏目漱石:地球温暖化が究極まで進み、人々はボディーアーマーの中で生活している。脱いだら短時間で死ぬ。そのアーマーも部品不足で次第に減っていく。ある日、主人公は廃墟の書店でツタに絡まれ動かない一台を見つけるが。

 未来をめがけて(比喩的に)飛んでいくという設定は、原初の『タイムマシン』以来の普遍的テーマだろう。超長期睡眠でも駒落としで時間経過が生じるのだから、タイムマシンと同様の働きをする。そこには社会的な問題も、宗教的、哲学的な問題も込められるし、目も眩むような超未来の光景を描き出すことも(書きようによっては)可能である。

 本書は300年目(第3章)で様相を変える。孤独な時間旅行者だった主人公に新たな道連れが加わり、受動的な「観測員」ではなくなっていく。時間に加えて(宇宙から電脳までの)空間的な広がりも増す。そういう意味では、人間とは限らない仲間たちによる冒険と救済の物語となるのだ。イーガン風と言うには直感的に過ぎるが、ちょっとありえない驚きのアイデアも登場する。

 一方の「ボディーアーマーと夏目漱石」では意外なところに夏目漱石の作品(全集)が出てくる。人類の終末に本が読まれているのだが、そこに書かかれた社会風俗は読み手の現実とは全く異なっている。本が選ばれた理由も哀しい。燃え上がる世界と残った本との組み合わせは、まるで逆転した『華氏451度』(本が残って人が燃える)と『旱魃世界(燃える世界)』の組み合わせのようだ。

5年目を迎えたハヤカワSFコンテスト

 今年ハヤカワSFコンテストは、第12回目の公募を迎えています。このシミルボン転載コラムは、(7年前時点で)その意義を捉えなおそうというものです。コンテストの醍醐味として「意表を突く新人登場の瞬間を目撃」というのがありますが、将来どうなるかは簡単には見通せません。以下本文。

 早川書房が主催するSF新人賞は、1961年から始まり多くの作家を輩出してきた伝統ある賞だ。ただこの賞は、時代によって大きく性格を変えている。1961年第1回から63年第3回までの「空想科学小説コンテスト/SFコンテスト」と呼ばれた時代は、田中友幸、円谷英二らが審査員に入り、東宝とのタイアップで映画化を目指すというものだった(ただし、映画化まで進んだ作品はない)。入選または各賞に入った作家には、眉村卓、豊田有恒、小松左京、平井和正、半村良、光瀬龍、筒井康隆らがいる。第1世代作家の多くは、唯一のSF新人賞だったこの賞を目標にしていたのだ。

 この後11年の空白のあと、1974年の第4回「ハヤカワ・SFコンテスト」では、川田武、田中文雄、かんべむさし、山尾悠子らが(この回のみのアート部門では、加藤直之、宮武一貴らが)登場する。5年を空け、小説専門に戻した1979年の第5回から1992年の第18回までは毎年実施される。野阿梓、神林長平、大原まり子、火浦功、水見綾、草上仁、橋元淳一郎、中井紀夫、貴志祐介、藤田雅矢、柾悟郎、金子隆一、北野勇作、森岡浩之、松尾由美、秋山完ら多数が受賞者に名を連ねた。

 しかし後半になると、応募作の減少や入選作のない年が増え、中断を余儀なくされる。以降20年という最長の空白期間が生じる。この間、新人は「小松左京賞」「日本SF新人賞」や、「日本ファンタジーノベル大賞」「日本ホラー小説大賞」、あるいは多数生まれたライトノベルの新人賞など、他ジャンルの賞に移っていった。結果として、2002年から始まった早川書房のSF叢書《Jコレクション》では、新鋭作家のほとんどが別の新人賞を経た作家で占められるようになる。そこで2013年に再スタートした「ハヤカワSFコンテスト」では、

(前略)世界に通用する新たな才能の発掘と、その作品の全世界への発信を目的とした新人賞が「ハヤカワSFコンテスト」です。
中篇から長篇までを対象とし、長さにかかわらずもっとも優れた作品に大賞を与え、受賞作品は、日本国内では小社より単行本及び電子書籍で刊行するとともに、英語、中国語に翻訳し、世界へ向けた電子配信をします。

「募集開始のお知らせ」より

と、新たな目標「世界展開」を掲げ通算回数をいったんリセット、リニューアル感を鮮明にした。六冬和生『みずは無間』は、新生ハヤカワSFコンテストの第1回大賞受賞作である。

カバー:loundraw

 主人公はAIである。人間の意識が転写されたもので、遠宇宙へと飛び続ける無人宇宙機に搭載されている。膨大な時間を経ても機能するように、物資の調達、自己改変をする仕組みを持っている。しかし宇宙は空虚なままで、何ものとも遭遇することはない。やがて、AIは自身をコピーし、銀河に遍く散開させる。刻み込まれた“みずは”の記憶とともに。

 コピーされた人格という概念は、もはやSFのスタンダードである。生命に束縛されないから、何千何万年の時間スケールで宇宙を航行しても何の問題もない。イーガン『白熱光』がそうだった。小松左京『虚無回廊』に登場する“人工実存”はその一種になる。ところが、本書には主人公(AIの人格)の他に、みずはという恋人が現れる。きまぐれで直情的、食べることに対する執着、遠く離れた恋人にまで作用する暗い存在感。その“みずは”との泥沼の人間関係が時空間に拡張されていく異様さが、まさしく本書のポイントとなる。宇宙機のAIが、現代日本人の形而下的な感情に翻弄されるわけだ。読み手に対するインパクトという意味で、21世紀のSFコンテスト、今のSFの立ち位置を再認識できる作品といえる。

 第1回では、この他に坂本壱平『ファースト・サークル』小野寺整『テキスト9』下永聖高『オニキス』(短編集)が、最終候補作から書籍化されている。

 翌年、第2回ハヤカワSFコンテストでは、大賞に柴田勝家『ニルヤの島』が選ばれた。独特のペンネームと、侍のコスプレが話題を呼ぶ。

カバー:syo5

 書名の「ニルヤ」は、沖縄神話の中のニライ・カナイ(理想郷)の別称ニルヤ・カナヤに由来するものだ。主な宗教で死後の世界が否定され、人々は自身の記憶を叙述し記録することが、死を克服する手段になると考えるようになった21世紀末。そんな神のいない世界の中で、島々を長大な橋で結ぶことで成立したミクロネシア経済連合体には、死後を信じる宗教が生きていた。カヌーで死者を送り出す彼らの宗教にどんな意味があるのか。文化人類学者や模倣子行動学者たちは、それぞれの立場からその謎に迫っていく。

 物語は4つのセクションに分かれ、それぞれが平行に進んでいく。「Gift 贈与」は、2069年に文化人類学者が、島に残る伝承の語り手を訪ねるところから始まる。「Transcription 転写」では、島で休暇中の模倣子(ミーム)行動学者が死後を信じる統集派の葬列と出会い、「Accumulation 蓄積」は、橋が完成する前、現地で危険な潜水作業に就く父娘の物語である。チェスや将棋に似たゲームをひたすら続ける「Checkmate 弑殺」の章は、不連続な時間の流れ方となる。人の記憶する時間は断片的で連続しない。それは「叙述」されることで1つの物語になる。叙述という言葉は伝承(語り伝える)文学との関係を意識したと、〈SFマガジン2014年1月号〉の著者インタビューにもある。電脳世界におけるデータ化された人間は、イーガン『順列都市』の強い影響を受けたという。ポリネシア=沖縄神話と、今風のヴァーチャルな世界観を結ぶ野心作といえる。

 第2回では、最終候補作の神々廻楽市(ししば・らいち)『鴉龍天晴』と、倉田タカシ『母になる、石の礫で』が書籍化された。また伏見完はアンソロジイ『伊藤計劃トリビュート』に最初の作品を寄せている。

 第3回ハヤカワSFコンテストの大賞受賞作は、小川哲『ユートロニカのこちら側』である。連作短編形式で書かれている。ユートロニカとは、ユートピア+エレクトロニカ(電子音楽)から作られた造語だ。

カバー:mieze

 サンフランシスコの郊外に、アガスティアリゾートと呼ばれる都市が建設される。そこは見たもの聞いたものなど、全ての個人情報を企業に提供する代わりに、生活が保障されるある種のユートピアだった。個人の行動は事前に推測できるため、犯罪も予め抑えられる。そういった利便性は、プライバシーと引き換えに与えられる。物語は6つの章に分かれ、リゾートにかかわった人々の運命を描いている。

 犯罪者を予防拘束するといえば、映画やTVシリーズにもなったディック「マイノリティ・リポート」があり、Google的なIT企業がプライバシーを失わさせるデイヴ・エガーズ『ザ・サークル』、存在しなくなった都市を電脳空間に再現するトマス・スウェターリッチ『明日と明日』など、アイデア自体には先行する作品がいくつかある。しかし、本書は楽園の暗黒面を、陰謀(秘密組織や国家が黒幕)のようには描かない。その周りに住む(こちら側の)人々を点描することによって、自由意志とは何かを表現しているのだ。

 第3回では、佳作となったつかいまこと『世界の涯ての夏』が書籍化されている。

 第4回ハヤカワSFコンテストでは、優秀賞が2作品、黒石迩守(くろいしにかみ)『ヒュレーの海』、吉田エン『世界の終わりの壁際で』、及び特別賞の草野元々(くさのげんげん)『最後にして最初のアイドル』が選ばれた。審査委員の意見が割れたため、大賞受賞作は出なかった。

カバー:ジェイコブ・ロザルスキ

 未来のいつか。文明は混沌に呑み込まれ崩壊、情報的記録の海が地球を覆う。人類はシリンダ型の塔のような都市に住み、都市は7つの序列を持ち、さらに資本家と労働階級に分かれる。人類はある種の情報生物となって世界に適応している。そんな中、過去の記録にある本物の海を見ようと、下層民の少年少女は旅立つ。

 『ヒュレーの海』のヒュレーとは、アリストテレス哲学でいう、形相(エイドス)と質料(ヒュレー)に由来する。情報生物が主人公なので、ソフト/ファームウェアとハードウェアとでもいえばよいのか。現職プログラマーの経歴を生かした、ITの専門用語をルビで駆使する異形の世界が印象的だ。

カバー:しおん

 未来の東京は山手線の内側に壁を築き、その外部との出入りを遮断している。内側にある〈シティ〉は、大規模な環境変動から逃れるための箱舟なのだ。外側で育った主人公は電脳ゲームの名手だったが、ある日アルビノの少女や奇妙な人工知能と出会ったことで、内側世界の秘密を知ることになる。

 物語では、ゲーム空間でのバトルと、リアル世界である壁内側/外側の争いが並行して描かれている。優秀賞受賞の2人は、ともにオンラインサイト〈小説家になろう〉で活動していることでも話題になった。

 「最後にして最初のアイドル」は120枚ほどの中編小説だが、この題名通りステープルドン『最後にして最初の人類』をベースに、その主体が人類ではなくアイドルだったら、という驚くべき発想で書かれている。電子書籍でベストセラーに上がり、『伊藤計劃トリビュート2』に収録されるなど注目を集めた。

 ハヤカワSFコンテストは2017年で第5回目を迎える。応募総数こそ、ラノベ系やネット系新人賞に比べて少ないが、入選作を見る限り応募作の水準は相当高い。発足の趣旨に沿った世界展開が図られ、新人発掘の場として機能していくことを期待したい。

(シミルボンに2017年2月7日掲載)

 国際化を謳ったハヤカワSFコンテストですが、英訳や中国語訳などの実績はまだないようです。この趣旨は、VG+主催によるかぐやSFコンテストで実現しています。なお、5回から11回までのコンテストについては、このページからリンクを逆にたどることで読むことができます。

松樹凛『射手座の香る夏』東京創元社

装画:hale(はれ)
装幀:アルビレオ

 著者は1990年生まれ。本書は、第12回創元SF短編賞受賞後初の短編集である。著者は他でも第8回星新一賞の優秀賞や、飛ぶ教室第51回作品募集の佳作(雑誌飛ぶ教室62号に掲載)に入選するなどの実績がある。収められた4作品はどれも100枚を超えるボリュームがあるので、中編集といってもいいだろう。

 射手座の香る夏(2021)短編賞受賞作。北海道を思わせる北の超臨界発電施設。現場が地中深くにあるため、作業はオルタナと呼ばれる意識転送制御のロボットが行う。その間、作業員の肉体は地上に保管されている。だが、その肉体が何者かに奪われてしまう。
 十五までは神のうち(2022)息子を〈巻き戻し〉で失ったわたしは、事情を知っているかもしれない当時の教師と話をするため、実家のある離島に帰郷する。島にいた30年前、兄も〈巻き戻し〉を選んだからだった。
 さよなら、スチールヘッド(書下ろし)人工知性たちが暮らす〈アイデス〉、そこには病気もなく本物の獣もいない。しかし、ぼくは夢を見る。その中では世界は滅び、歩く死体=ウォーカーたちが彷徨い歩いているのだ。
 影たちのいたところ(2022)祖母が毎夜語ってくれるお話の一つに、イタリアの島に住む少女の物語がある。少女は海で遭難していた男の子を助けるが、その少年の影はなぜか一つではなかった。

 どの作品にも工夫が施されている。特に表題作では、動物に憑依するズーシフト(意識転送は制御装置を付けた動物に対しても可能)に溺れるわたし(一人称)と、肉体盗難を調査する刑事(三人称)、さらに環境保護派と白い狼=カームウルフの伝承を組み合わせる、という複雑な構造になっている。ふつう人称を混在すると読み手に混乱を与えかねないが、著者は複数要素を巧みにコントロールする。

 「十五までは神のうち」の〈巻き戻し〉は、タイムマシンを使った「親殺しのパラドクス」の逆バージョンだろう。親ではなく子が消えるのだ。直線状の時間(並行宇宙に分岐しない)ならば、過去が書き換わると記憶も変化するが、この作品では意図的にそうはしない。現実にもありえる事件の真相を探る、謎解きのキーになるからである。さらに「さよなら、スチールヘッド」では、メタバース世界よりもリアル世界の方がはるかに非現実的(ゾンビが徘徊する)だし、「影たちのいたところ」では、ファンタジーの背後にディープな現実世界の陰(戦争と難民)が見え隠れする。こういう寓話的なプラスワン(メニー?)で作品の先鋭度を増す手法こそ著者のユニークさ、真骨頂といえる。

幻視者の見た9つの世界『神樂坂隧道』

 シミルボン(#シミルボン)のコラムの中では、ちょっと異色の作家を紹介しましょう。西秋生、この名前ご存じでしょうか。《異形コレクション》など、アンソロジーや専門誌で見かけた覚えがあるかもしれません。小説の単行本がなかったこともあり知る人ぞ知る作家ですが、独特の忘れがたい印象がありました。以下本文。

装幀:戸田勝久

 西秋生という作家がいた。1970年初め頃から同人誌等で活動をはじめ、1984年から91年まで〈SFアドベンチャー〉や《ショートショートの広場》にて主に短篇、ショートショートを掲載、2000年代に入ってからは井上雅彦監修《異形コレクション》にも寄稿していた。著作には、神戸新聞夕刊の連載をまとめた『ハイカラ神戸幻視行 コスモポリタンと美少女の都へ』がある。この本は地元神戸と縁の深い、稲垣足穂や江戸川乱歩、谷崎潤一郎ら画家や作家が描く戦前の神戸を幻視するエッセイ集だ。

 そんな西秋生だったが、2015年9月に急逝する。70作近い作品があるのに、小説をまとめた著作集がないままだった。そこで、有志によって編まれたのが『神樂坂隧道』である。この本には9つの短篇が収録されている。

  • 『夢幻小説傑作選』について(1985):夢で編む小説集についての同人誌でのエッセイだが、本書の巻頭言として違和感なく置かれている。
  • 1001の光の物語(2011):『異形コレクション 物語のルミナリエ』所収。わずか12段落の文章で綴られた、タルホ風超掌編小説。
  • マネキン(1977):『ネオ・ヌルの時代 PART2』所収。マネキンとなった兄に語りかける弟。筒井康隆から「完璧な小品」と評された作品。
  • 走る(1977):同所収。文明が滅びた世界を、バイクで走り抜ける男を描いた疾走感あふれる作品。
  • いたい(1980):『ショートショートの広場1』所収。主人公を追ってきた姉は、毎夜幻の痛みに苦しめられる。
  • 星の飛ぶ村(1992):作家が訪れた村では、UFOらしきものが現われるが誰も存在を気にしない。
  • チャップリンの幽霊(2007):『異形コレクション ひとにぎりの異形』所収。神戸新開地の工事現場に、その地で亡くなったチャップリンの幽霊が出るらしい。
  • 神樂坂隧道(2000):第5回日本ホラー小説大賞最終候補作の改稿版。戦前の東京、神楽坂の下には得体のしれないトンネルがあった。乱歩をイメージする旧仮名遣いで書かれたホラー小説。
  • 翳の そしてまぼろしの黄泉(1984):〈SFアドベンチャー〉1984年12月号掲載。3人の同人誌仲間がスナック「オクトーバー・カントリー」に集い、お互いの作品を講評し合う。中井英夫のオマージュ作品でもある。
  • 5:46(1998):著者が実際に体験した阪神淡路大震災の瞬間をモチーフとし、神戸のさまざまな風景を封じ込めた幻想小説。

 本書の作品には、おおまかに3つの時代が含まれる。1つは完璧と言われたアマチュア時代のショートショート「走る」や「いたい」が書かれる1970年代、もう1つは「翳の…」を含む〈SFアドベンチャー〉にホラー短篇を寄稿していた1980年代、そして「神樂坂隧道」「1001の光の物語」など、乱歩やタルホを別の視点から描き出す夢幻小説群を書く1990年代以降である。

 考えてみれば、初期の段階で筒井康隆が認めるほど「完璧」な作品が書けたのだ。そのまま書き進めても良かったように思うが、おそらく著者が20代に抱えていた創作の動機(兄や姉への情感、滅びゆく世界に対する焦燥感と、反面突き放したような虚無感)は維持できる性質ではなかったのだろう。やがて、モダン・ホラーに趣向が変わり多数の作品を発表するものの、本書ではこの時期の短篇は1作しか採られていない。著者の迷いが、作品自体を歪めたせいかもしれない。

 その後、地元神戸や探偵小説に由来する幻想を語りはじめ高評価を得るようになる。1995年の大震災を契機に、神戸に対する志向性はより強まった。それらは、冒頭の「夢幻小説」を体現する独特の作品群となった。

 本書の後半に収録された追悼文も読みでがある。眉村卓はラジオ番組に投稿していた時代から振り返り、ネオ・ヌル時代から創作仲間だった高井信、大学の先輩で分析的な作品論に踏み込むかんべむさし、星新一ショートショートコンテストで繋がる江坂遊、異形コレクションで関係する井上雅彦、神戸での一夜の出会いを語る森下一仁、特に最近の諸作を高く評価する堀晃、神戸新聞編集者の大町聡は『ハイカラ神戸幻視行』連載当時を語っている。

装幀:戸田勝久

 『神樂坂隧道』は一部の書店で入手可能だが数が限られる。見当たらない場合は、ここからオンデマンド版を直接購入することができる。版型はB6判(四六判)並製(ソフトカバー)224頁。カバーや帯の付かないペーパーバックである。なお、前掲書の続編(新聞連載の後半)として『ハイカラ神戸幻視行 紀行篇 夢の名残り』も、戸田勝久の装幀で出版された。こちらも、一般書店での入手は限られる。

(シミルボンに2016年9月14日掲載)

 紹介した本のうち『ハイカラ神戸幻視行』は、どちらも新刊入手はできないようですが、『神樂坂隧道』については現在でもオンデマンドで購入可能です。

宮内悠介『国歌を作った男』講談社

装丁:川名潤

 2016年から22年にかけて書かれた13作品を集めた短編集である。著者には連作短編集が多く(『盤上の夜』『スペース金融道』など)、お互いの関連が薄い純粋な短編集としては『超動く家にて』(2018)以来の2冊目にあたる。宮内悠介自身による作品解題も付いている。

 ジャンク(2020)パワハラ上司から逃れ会社を辞めた主人公は、秋葉原の実家で店番をする。そこは寂れたジャンク屋で、存続自体が難しい店だった。
 料理魔事件(2019)平和な田舎の街で奇妙な連続空き巣事件が起こる。留守宅に侵入し、勝手に料理を作って置いていくのだ。そこで殺人事件が発生する。
 PS41(2020)ニューヨークの公立学校PS41に通っていたころ(エッセイ)。
 パニック ―― 一九六五年のSNS(2022)イザナギ景気さなかの1965年、日本でSNSが生まれた。そこで開高健による世界初の炎上事件が発生する。
 国歌を作った男(2022)移民三世のジョンは、コンピュータRPGを作った際にフィールド音楽を付けた。その楽曲はアレンジを重ね、誰もが知る「国歌」となる。
 死と割り算(2021)メイン州で謎の言葉を残す連続殺人が起こる(掌編)。
 国境の子(2021)対馬で生まれ父親が韓国人だった主人公は、上京しデザイナーになったが職場で友人がいない。そんなある日、母が入院したと知らせが届く。
 南極に咲く花へ(2021)作家を志していたぼくは、会社の立ち上げにかかわり書けなくなった。やがて同居していたきみと仲違いして別れてしまう。
 夢・を・殺す(2017)ゲーム制作にのめり込んだ従兄弟とぼくは、大人になって会社を立ち上げる。けれど、日銭を稼ぐ下請け仕事で手一杯のありさまだった。
 三つの月(2017)メンタルクリニックの医師は、患部が色で見分けられる整体師の不思議な能力に惹かれる。ただ、それには副作用があった。
 囲いを越えろ(2020)オリンピック代表を決めるハードル競技の一瞬(掌編)。
 最後の役(2020)無意識に麻雀の役をつぶやいてしまう理由とは(掌編)。
 十九路の地図(2016)元本因坊だった祖父が事故で植物状態になる。かつて碁を習った孫の主人公は、BMIで祖父の脳に直結された画面で碁を打ってみる。

 表題作「国歌を作った男」は、直木賞候補長編『ラウリ・クースクを探して』の原型となった。短編の舞台はアメリカで主人公はウクライナ移民三世、長編版ではバルト三国のエストニアで数字に憑かれた少年が主人公になっている。憑かれた少年という意味では、三角形など図形に憑かれる「国境の子」も関係するだろう。そういう、連作ではないものの緩く関係するモノが多い。海馬(記憶)、市松模様の台所、ゲーム開発とZ80やMSX(著者は実際にゲームソフトを作っている)などなどだ。

 総じて著者の経歴(ニューヨークで生まれ育った帰国子女)や、実体験(IT会社でのプログラム開発や、プロの麻雀士を目指したことなど)が、共通要素の土台になってつながりあっている。「パニック ―― 一九六五年のSNS」は『ifの世界線』でも触れた。「PS41」はエッセイなのだが、フィクションとして読めるから収録したという。中では「南極に咲く花へ」が水野良樹とのコラボ企画で実際に作曲されたもので異色。このお話は、作家業を絡めたほろ苦い別れの話に収れんする。