ロバート・シルヴァーバーグ『小惑星ハイジャック』東京創元社

One of Our Asteroids is Missing,1964(伊藤典夫訳)

カバーイラスト:緒賀岳志
カバーデザイン:岩郷重力+T.K

 珍しい本を読んだ。シルヴァーバーグはペンネームを多用するペーパーバックライターだった(ピーク時に年30冊)が、この年に出しているのは長編3冊と短編集1冊ぐらい。ノンフィクションが多かったのだろう(また、雑誌にたくさんの中短編を書いていた)。本書はエースブックスのダブルブック(1952年から78年の間に出版された、2作家の本を裏表どちらからでも読めるようにしたお徳用合本)でヴォークトとのペアだったもの。いかにもチープな雰囲気が漂う。

 主人公は鉱山技師の資格を得て大学を出た後、大手探鉱会社の就職口を蹴って一人小惑星帯に赴く。太陽系は開発ブームに沸いており、個人であっても有望な未登録小惑星を見つければ莫大なもうけが得られるのだ。2年間という自らに科した期限はあったが、その最後に直径8マイルほどの小惑星を発見する。

 主人公はそのあと不可解な事件に巻き込まれる。登記したはずのデータが無くなり、自分の記録すら消し去られているのだ。宇宙が舞台、主人公は一匹狼で、相手は太陽系を席巻する大企業(ユニヴァーサル・カンパニー)。どうやって戦うのか、そこにもう一役が加わる、というスペースオペラだ。

 400枚に満たない長編である。いまどきの小説に比べると、さまざまな要素が削ぎ落とされている。主人公は知性と腕力を兼ね備え、しかし合理性よりも冒険心と一攫千金を優先する(なぜそうなのか、背景は分からない)。ヒロインはお飾りで、主人公の帰りをひたすら待つ役割(なぜ馬鹿な主人公に惹かれるのか不明)。敵は企業なのだが、強欲で人殺しも厭わない(頭の悪い経済ヤクザ)。ダブルブックは2冊分を1冊にまとめるため、分量に制約がある。余計なことは書けない。それに適応した、完全なフォーミュラ・フィクションに見える。

 食うために仕方なくなのか。しかし、作者はそのあたりを承知の上で、愉しみながらタイプを叩いたようだ(メカ式タイプライタの時代)。伸び伸びと破綻なく(たぶん)推敲することさえなく一気に書きあげたのだろう。さまざまなシルヴァーバーグのエピソードを聞くと、内容よりも書くこと自体に憑かれた作家である。時間さえ取れれば、すぐに執筆に没入できたのだ(訳者は、推敲をほとんどせずに大長編を書いた栗本薫に例えている)。作風をがらりと変え、ニューシルヴァーバーグと呼ばれるようになるのは1967年以降のことだが、方向性が変わっただけで書き方自体に変化はなかったと思われる。残念ながらシルヴァーバーグの現行本は『時間線をのぼろう』くらいしかない。『夜の翼』などを古書で入手して、読み比べてみるのも面白いだろう。

エリザベス・ハンド『過ぎにし夏、マーズ・ヒルで エリザベス・ハンド傑作選』東京創元社

Last Summer at Mars Hill and Other Stories,2021(市田泉訳)

装画:最上さちこ
装幀:岩郷重力+W.I

 エリザベス・ハンドは1957年生まれのベテラン作家だが、これまで6冊出た翻訳書のうち『冬長のまつり』(1990)を除く5作品は、映画のノヴェライズや企画絡みのシリーズの一部など、本格的な紹介からほど遠いものが多かった。本書は代表作といえる中短編4作をまとめた傑作選である。アメリカでも17編を収める大部の傑作選は編まれているが、それよりコンパクトで読みやすくなっている。

 過ぎにし夏、マーズ・ヒルで(1994)メイン州の沿岸にあるマーズ・ヒルには超常的な現象を信じる人々が集うコミュニティがあった。お互い病に冒されている父と母を持つ少年少女は、丘で不思議な現象を見る。
 イリリア(2007)ニューヨーク州の郊外に住む一族に、かつて演劇で身を立てた曾祖母がいたが、子供たちは同じ道を歩まなかった。そんな中で、ひ孫の世代である少年と少女は、ハイスクールでのシェイクスピア劇から意外な才能を芽吹かせる。
 エコー(2005)犬と離島で暮らす女は、外の世界で何か良くないことが起こっていると気がつく。とぎれとぎれのラジオ電波、数週間に一度くらいつながるインターネットに届くメッセージ。
 マコーリーのベレロフォンの初飛行(2010)かつて博物館に勤めていた男たちに、昔上司だった女性が重い病にかかっていることが伝えられる。その上司のために、失われた記録フィルムを再現しようというアイデアが生まれるのだが。

 「過ぎにし夏、マーズ・ヒルで」では、かつてヒッピーだった両親を持つ少年少女と、スピリチュアルな存在との関係が描かれる。1995年の世界幻想文学大賞(中編部門)と96年のネビュラ賞を受賞。「イリリア」の少女と少年は、お互い(誕生日が同じ)いとこ同士なのに惹かれ合い、意外な形で才能の開花を迎える。2008年の世界幻想文学大賞(中編部門)を受賞。この2つのお話では、家族に根ざす複雑な関係と、シェイクスピアの古典劇が物語を支える大きな枠組みになっている。かつて役者だったライバーの小説より、むしろリアルな形だろう。

 「エコー」の孤島の女は遠く離れた恋人との手紙(メール)をプリントする。2007年ネビュラ賞(短編部門)を受賞。「マコーリーのベレロフォンの初飛行」では、博物館の男たちは冴えない中年おやじだが、何十年も前の青春時代を蘇らせようと奮闘する。2011年の世界幻想文学大賞(中編部門)受賞作。どちらも失われた過去を(不格好でもいいから)取り戻そうとする物語だ。

 4作とも、SFというよりファンタジイ寄りの作品だろう。「エコー」だけはアポカリプスを暗示させていて、そこがネビュラ賞の理由かもしれない。ただ、ファンタジイといっても異世界要素は象徴にすぎず、描きたかったのは現実寄りの青春小説なのではないかと感じさせる。どの物語も悲劇では終わらない。登場人物たちはそれなりの達成感を味わうが、かつて夢見たものとはどこか違っていて、ほろ苦い後味を残すのだ。

大森望編『NOVA 2021年夏号』河出書房新社

装幀:川名潤

 大森望編のオリジナルアンソロジイ《NOVA》が前号から(出版サイドの事情もあり)1年8ヶ月ぶりに出た。雑誌スタイルなので特定のテーマは設けられていない。書かれて1年以上(コロナ禍を挟みながら)空いたにもかかわらず違和感が少なく、各作家の個性が十分発揮されているのは、時事ネタが少なかったせいもあるだろう。

 高山羽根子「五輪丼」2020年、長期入院のあとで市街地に出た主人公は、街の異様な変貌に戸惑い、食堂で五輪丼と書かれたメニューを見つける。
 池澤春菜/堺三保原作「オービタル・クリスマス」軌道上に浮かぶ作業用宇宙ステーションに、貨物モジュールが到着する。だがAIは、積載物に重量異常があると警告を出す。
 柞刈湯葉「ルナティック・オン・ザ・ヒル」月面上では大気の影響を受けないため、単純な物理法則に則った機械的戦争が行われている。
 新井素子「その神様は大腿骨を折ります」余裕のないブラック労働に沈む主人公は、ある日よろず神様紹介業と称する女と出会う。
 乾緑郎「勿忘草 機巧のイヴ 番外篇」高等女学校の生徒である少女は、お金持ちで金髪碧眼の上級生に憧れ手紙を託そうとする。
 高丘哲次「自由と気儘」世界大戦の後、田舎に逼塞した主人に命じられ、使用人はひたすら猫の世話に明け暮れる。
 坂永雄一「無脊椎動物の想像力と創造性について」京都盆地の市街地全域を蜘蛛の巣が覆いつくしている。主人公は全面焼却作戦が開始される直前、京都大学の中枢にある事件の始まりの場所へと赴く。
 野崎まど「欺瞞」どの個体もたどり着き得なかった自動抽出装置の本質とは何かを、ひたすらアカデミックな文章で解き明かす。
 斧田小夜「おまえの知らなかった頃」チベット自治区の辺境、遊牧民の青年と恋に落ちた天才プログラマーの女が企てたこととは。
 酉島伝法「お務め」いつ頃からなのか、主人公は機械的な生活を強いられている。朝目覚め、豪華な朝食を食べ、昼寝をしてからまた豪華な夕食を食べる、その繰り返し。

 今号はベテラン枠が新井素子、中堅枠に高山羽根子、柞刈湯葉(最新短編集など、すでに5冊の著作がある)、乾緑郎(人気シリーズ《機巧のイヴ》の一編)、野﨑まど、酉島伝法、新人枠に池澤春菜(この作品は、堺三保監督による同題短編映画のノヴェライズ。小説、映画共に長編化が望まれる)、高丘哲次(日本ファンタジーノベル大賞2019)、坂永雄一(第1回創元SF短編賞大森賞)、斧田小夜(第10回創元SF短編賞優秀賞など)と、これまで通り3~4割が新人という新たな書き手向けのバランスを考えた陣容だ。

 この中では、高山羽根子の曖昧な謎に満ちた(2021年に書かれただけあってタイムリーな)短編が印象に残り、あとはパワフルな女の生きざまを描く斧田小夜の中編力作、坂永雄一によるすべてが蜘蛛の巣になるという異形の(静かに荒廃するバラード風)京都作品がベストだろう。

 

岸本惟『迷子の龍は夜明けを待ちわびる』新潮社

装画:tono
装幀:新潮社装幀室

 日本ファンタジーノベル大賞2020の優秀賞となった作品(再スタートから4回目にして、初めて大賞は該当作なしとなった)。著者の岸本惟(きしもとたもつ)は2018年でも最終候補作に選ばれている。

 主人公は天空族の若い女性で、大和族の町に住んで生活している。しかし仕事は上手くいかず、半ば引きこもるようにアパートの一室に逼塞している。ある日、そんな主人公に通訳の仕事が舞い込む。山奥に住む老人に、天空語の書き物の読み聞かせをしてもらえないかというものだった。

 舞台の世界は現代の日本とほぼ同じ、スマホや自動車があり人々はふつうの生活をしている。そこに、天空族と呼ばれる人々もいる。もともと不思議な能力を持つ種族だったが、故郷である天空山での生活は不便で、いまでは山に住む者はいない。大和族と混じり合って麓の町でばらばらに生きている。天空族は緑がかった皮膚の色から、いわれのない差別を受けることがあった。町の生活に自信が持てなかった主人公は、町から離れた山荘で超常的な存在である龍と少年の姿が見えるようになる。

 選考委員の中では、恩田陸が「雰囲気の良さは買うが、ファンタジーノベルにする必要があるのか」と疑問を呈するも、萩尾望都(今回で委員を退任)は「優しく、温かく、ちょっとさみしいところもある独特な雰囲気や世界観を持っている」、森見登美彦は「まるでスノードームの中にあるような閉鎖された小天地を作ることに作者は長けている」と評価している。ただし、主人公が消極的すぎて物語をドライブしていない点は、選評共通のマイナスポイントとして指摘されている。また、独自の文字や言語を持つ種族であるなら、(日本とは)異質の文化や社会を持っているはずだが、そのあたりもあまり明瞭に書かれていないのだ。

 緑色の皮膚を持つ人間という設定は、ピーター・ディキンスンの書いた『緑色遺伝子』(1973)を思い出す。ディキンソンは明確に人種差別を扱った(ケルト人の肌が緑色になる)のだが、本書の場合、それは主人公の個人的な問題(肌が緑色であることで虐められる)として描かれる。本書の女性たちは極めて繊細だ。主人公は、知人のほんの一言に傷つき、老人の妻は幼い頃のトラウマに一生苦しむ。滅び行く天空族と大和族(現状の日本人)とが共存を模索する物語にはならず、自信を失った一女性の回復の物語であるのは、著者の視点がより個に寄り添っているからだろう。

ケン・リュウ『宇宙の春』早川書房

Cosmic Spring and other stories,2021(古沢嘉通編訳)

カバーイラスト:牧野千穂
カバーデザイン:川名潤

 古沢嘉通編によるケン・リュウの日本オリジナル短編集も、SFシリーズ版はこれで第4集目になる。2011年から19年までに書かれた全10編を収録している。これまでに比べ、かなりヘヴィーな作品が中核を占めているのが特徴だろう。

宇宙の春(2018)宇宙は真冬だった。すべての星が光を失い死につつある。だがその先には再生の春が待っている。
マクスウェルの悪魔(2012)日系アメリカ人だった主人公は優秀な物理学者だったが、家族を人質にとられスパイとして帝国日本に送り込まれる。
ブックセイヴァ(2019)あるウェブ・プラットフォームには、特別なプラグインが用意されている。それを使うと、読者が不快と思う文書が自動的に改変されるのだ。
思いと祈り(2019)銃撃事件で娘を亡くした母は、ある運動のために娘のデータを提供するのだが。
切り取り(2012)雲上の寺院に住む僧侶たちは、聖なる書物に書かれた文字を、一文字一文字切り取っていく。
充実した時間(2018)シリコンバレーのハイテク会社に就職した主人公は、家庭用のロボット開発で思わぬ困難に直面する。
灰色の兎、深紅の牝馬、漆黒の豹(2020)疫病発生後の未来、動物に変身するという超常能力を持つ3人娘の友情と活躍のはじまり。
メッセージ(2012)遠い昔に滅び去った文明が残した異形の遺跡を、在野の学者である男と別れた妻に育てられた少女が探索する。
古生代で老後を過ごしましょう(2011)危険な大型動物のいない古生代は、リタイア後の終の住まいに最適だった。
歴史を終わらせた男――ドキュメンタリー(2011)過去の情景をただ一度だけ再現できるタイムマシンは、その使用方法によりさまざまな波紋を広げる結果になる。

 「宇宙の春」「切り取り」は詩的なイメージに溢れた短いお話、「ブックセイヴァ」「充実した時間」「古生代で老後を過ごしましょう」はちょっと皮肉を効かせたアイデアSF。「メッセージ」も同様だが、いまから何万年後かの地球に宇宙人が来たらこうなるのかも。親子関係が微妙に絡む展開はいかにも著者らしい。「灰色の兎、深紅の牝馬、漆黒の豹」は著者得意の中国古典からインスパイアされた作品(訳者が書いているように、ほとんど原型は分からない)。

 本書でメインとなる作品は「マックスウェルの悪魔」「思いと祈り」「歴史を終わらせた男」だろう。「マックスウェルの悪魔」の主人公は、両親が沖縄出身の日系人である。この作品ではアメリカ移民に対する差別、日本では沖縄人であったことに対する差別が二重のものとして描かれる。「思いと祈り」は銃社会や日本でも同様の熾烈なネットによる中傷問題が扱われ、「歴史を終わらせた男」ではもし歴史の真実をタイムマシンが捉えたらという設定で、細菌戦に関わる日本軍部隊の残虐行為が掘り下げられている。主人たちは被害者に対する尊厳を訴えるのだが、政治的なメンツや浅はかな世論に押しつぶされようとする。情の作家ケン・リュウの、社会派的一面がうかがえる力作だ。

J・G・バラード『旱魃世界』東京創元社

The Drought,1965(山田和子訳)

cover direction+design:岩郷重力+R.F

 バラードが書いた最初期の三部作『沈んだ世界』(1962)『燃える世界/旱魃世界』(1964/65)『結晶世界』(1966)の中の1冊(長編2作目)である。『燃える世界』の翻訳は1970年に出ているのだが、当時はアメリカ版(1964)を底本としたために、大幅に改稿されたイギリス版(1965)の内容は反映されなかった。本書は初翻訳から半世紀を経て初めて登場する〝決定版〟なのである。

 主人公は医師だ。自宅を出て湖に浮かぶハウスボートで暮らしている。しかし、世界は極めて深刻な旱魃に襲われており、湖の水位はみるみる低下していく。渇きが増すにつれて周囲の治安は悪化し、不穏な空気が渦巻く。人々は町を次々と脱出して海岸線に向かおうとする。だが、主人公は町に残る奇妙な人々とともに、出発をためらっていた。

 妻から心が離れた医師(妻は他の男と出て行くが、主人公は黙って見送る)、丘の上に住む豪邸の建築家と妹(奇矯な服装をし、水を浪費する生活を続ける)、水上生活する親子(ほとんど動けない老女と、異様な行動を取る息子)、動物園の園長の娘(動物を助けようとするが見通しはない)、湖で生活していた自然児(失われゆく水辺で、ボートを自在に操る)、過激な思想を叫ぶ牧師とその追従者(漁民たちと対立し抗争する)。乾ききった世界。至る所で火災が発生し、舞い上がった灰が降り積もる。湖は泥濘から砂場に変わり、河は干上がり、海岸線には乾いた塩の大地だけが拡がる。

 バラードの《破滅三部作》は原著出版順に翻訳されたのではなく、まず『沈んだ世界』が1968年に出て、翌年に『結晶世界』が先行翻訳され、最後に出たのが『燃える世界』である。『沈んだ世界』には伊藤典夫による解説が付いていた。ニューウェーヴをアジる熱気溢れる評論だったので、文字通りの厨二SF病だった評者は強い影響を受けた憶えがある。バラードは人気を得た。『結晶世界』の翻訳が出た後、立て続けに短編集『時の声』『時間都市』『永遠へのパスポート』が出版される(さらに間を置かず『時間の墓標』『溺れた巨人』が出る)。先行する2長編と比べ本書の印象が薄かった(ほとんど記憶にない)のは、怒濤の短編ラッシュの合間に埋もれてしまったせいもあるだろう。

 さて、半世紀ぶりに出た新訳であり、決定版でもある本書はどうか。訳者や解説者(牧眞司)も指摘しているとおり、本書の設定や登場人物のありさまは、そのまま以後のバラード作品を反映したものとなっている。萌芽と言うより、未来の作風そのものだ。《破滅三部作》はサブジャンル的な意味の破滅ものではない。破滅(デザスター)のメカニズムは書かれないし、政府も社会もほとんど出てこない。バラードは、そんな俯瞰的な抽象化は、破滅の本質ではないと考えたのだろう。同じことは登場人物にも当てはまる。不可思議な行動を取る人物たちは、ふつうの小説で描かれるような背景(どう生まれてどう生きたのか、生活の動機は何か)を持っていない。今しかなく過去も未来もない。その空虚さは、周囲に拡がる旱魃世界(砂や塩に埋もれ何も見えない世界)と等価に繋がっている。バラードは長編第2作目にしてここまで完成していたのかと驚かされる。

ザック・ジョーダン『最終人類(上下)』早川書房

The Last Human,2020(中原尚哉訳)

カバーイラスト:緒賀岳志
カバーデザイン:岩郷重力+A.T

 アメリカ在住の作家ザック・ジョーダンによる昨年3月に出たばかりの初長編である。大学を中退後、U.S. Killbotics名義で楽曲を作り、ゲームやFEMAなどのプロジェクトに関わった後、本書を構想してから書き上げるまで4年半を要した。エージェントからの高評価を受けて、英米の他、ドイツや韓国でも出版されることになっている。アシモフやクラークなどの伝統的な宇宙SFを現代に再現したものという

 主人公は蜘蛛に似た姿のウィドウ類に育てられた娘だ。出自を偽っているが、滅ぼされた人類の最後の末裔なのだ。彼らは高度にネットワーク化された宇宙に住んでいる。ネットワークに参加する種族は、知性の段階により階層化がされている。上位の種族は、コミュニケーションも困難な集合知性ばかり。しかし、なぜ人類は滅亡したのか。娘にはもはや仲間はいないのか。

 クラークなどは、人類より進んだ生命は肉体を持たない集合知生になると考えたわけだが、まさにそういう世界が描かれている(本書の場合は、現代的な情報ネットワークによるAR空間)。第1階層から第5階層に至る段階的な知性の階層(その上もあるらしい)を、章ごとにたどっていくのである。第2階層相当の主人公は、同レベルの仲間たちを得て、さらに上位の知性から驚くべき提案を受ける。

 ポール・ディ・フィリポはローカスのレビューでハインラインの古典宇宙もの、ヴィンジの宇宙もの(『最果ての銀河船団』を含む三部作。蜘蛛に似た生命が登場)や、ディレイニー『エンパイア・スター』(知性を段階的に表現)を引き合いに出し本書を評価していた。本書では、人類は銀河ネットワークに加入する際、取り返しのつかない失策を犯して滅ぼされてしまう。そのチャンスがあったとして、ここは過去の復讐を遂げるべきだろうか。秩序を重んじるネットワークに埋没するより、何ものにも支配されない自由を重視すべきだろうか。主人公の心理は二転三転する。

 単純な(白黒が明白な)勧善懲悪ものではなく、かといって哲学的な思索が目的ではない。熱心なファン上がりの作家デニス・E・テイラー(下記リンク)や、ネット人気から出版に繋がったアンディ・ウィアー(『火星の人』)らが帯に推薦文を挙げている。この2人のファンならば、本書も面白く読めるだろう。

佐々木譲『帝国の弔砲』文藝春秋

カバーイラスト:ケッソクヒデキ
カバーデザイン:征矢武

 佐々木譲の歴史改変ミステリ『抵抗都市』の続編にあたる作品である。ただし、前作の集英社「小説すばる」連載版とは違い、本書は文藝春秋の「オール読物」で2019年3月号から2020年7月号まで約1年半連載されたものだ。続編というより、並行する枝編なのだろう。時代は前作から四半世紀後の1941年7月の東京へと飛ぶ。

 主人公はディーゼルエンジンの整備工だった。下町に小さな家を借り、親しくなった女と籍を入れないまま同居生活を送っている。しかし主人公には隠された使命があった。それは最後の任務と呼ばれ、一度決行すると二度と元の生活には戻れないものなのだ。主人公は、前線で戦った過去を思い浮かべる。それは帝国が存在していた25年前に遡る記憶だった。

 今回舞台は一変する。物語はロシア帝国の沿海州に移住した、日本人家族のエピソードから始まる。入植者たちはロシアと日本が戦争になった後に収容所に送られ、戦後も土地を取り返すことができず貧しい生活を強いられる。なんとか鉄道学校に通えた主人公は、第1次大戦勃発とともに徴兵され西部戦線(ロシアからみた西部、ドイツからみれば東部戦線)に送られるが、そこで思わぬ戦功を上げる。

 日本がほとんど関係しなかったこともあり、第1次大戦のイメージはあまり沸かない。最近の映画「1917 命をかけた伝令」などを見て、英仏とドイツが対峙した西部戦線が人命をすりつぶす塹壕戦だったことが分かるくらいだ。しかし最大の犠牲者を出したのはロシアとドイツの戦いなのである。広大なロシアで総力戦が起こると、被害の及ぶ範囲も果てしなく拡がる(ナポレオン戦争や独ソ戦もそうだった)。主人公は、日系ロシア人としてその戦いに参加する。この設定は、第2次大戦下の日系アメリカ人と似ている。第1次大戦や、それに続く革命の混乱期を、日系ロシア人(二世)の視点で描くというのはユニークだろう。

 本書の場合、ロシア兵器に可変翼グライダーや水中翼船のようなものが出てくる以外は、歴史改変度合いは小さい。ロシア革命後に日本は独立し(史実的にも、ロシア帝国内のバルト三国やフィンランド、ポーランドが独立)、極東共和国の樹立や革命干渉のため派兵された日本軍など、概ね元の歴史をたどりつつあるように見える。物語の最後は太平洋戦争を予感させてまだ続く。小説すばる版の続編『偽装同盟』は新連載が始まったばかりだ。さて、2つの物語はどこでつながるのか。

眉村卓『静かな終末』竹書房

イラスト:まめふく
デザイン:坂野公一(well design)

 日下三蔵編による眉村卓初期ショートショート選集である。デビュー6年目に出版された『ながいながい午睡』(1969)のうち文庫に収められなかった作品28編(下記【I】)と、それ以外にも、著者の単行本または文庫未収録のままだったショートショート作品21編(下記【II】【III】)を加えたものだ。雑誌「丸」収録作など、後にアンソロジイ『SF未来戦記 全艦発進せよ!』(1978)に収められたものも含まれる。著者の初期作品集は、文庫化の際にほとんどがテーマ別に再編集されており、内容が合わない作品が宙に浮くケースが結構あった。

【I】いやな話(1963)深夜のTVから流れ出す声。名優たち(1968)画期的なレジャーの正体。われら人間家族(1968)臓器移植を巡るかけひき。廃墟を見ました(1967)タイムマシン発明者の見たもの。大当り(1968)大当たりの景品は月旅行だった。誰か来て(1962)古びた部屋で誰かを待つわたし。行かないでくれ(1968)久しぶりに出会った友人の様子がおかしい。応待マナー(-)応対技術を促成で取得しようとする主人公。ムダを消せ!(1965)あらゆるムダを削減した会社の顛末。委託訓練(-)新入社員の訓練を外部委託したら。面接テスト(1968)面接を受けようとする男がトラブルに巻き込まれる。忠実な社員(1968)仕事に忠誠を誓う社員は体をいたわる暇もない。特権(1965)絶え間のない仕事に追われる男の特権とは。夜中の仕事(1968)夜中に帰ってくると妻が何かをしている。のんびりしたい(-)忙しすぎる客のために特注のレジャーが提供される。土星のドライブ(-)土星の輪でドライブしたいと要求する客。家庭管理士頑張る(1967)旧家から家庭管理の仕事を受けた新米管理士の奮闘。自動車強盗(1967)雨の中不審なタクシーに乗った客。ミス新年コンテスト(-)未来のミスコンで暴かれる真実。物質複製機(1968)画期的な発明品の秘密。獲物(1962)満員電車の中で一人の男が女にまとわりつく。はねられた男(1968)暴走車にはねられた男が気がつくと。落武者(1968)燃えさかる城の前で落ち武者は百姓に追われる。安物買い(1967)格安月旅行の中身。よくある話(1968)棄てた男から贈られた宝飾品。動機(1968)莫大な財産を持つ政治家の生活は質素に見えた。酔っちゃいなかった(1961)加速剤を使って犯罪をもくろんだ男。晩秋(1962)懐かしい校庭の思い出から得たものとは。怨霊地帯(1967)アフリカに侵攻した国連軍が遭遇する恐怖。

【II】敵は地球だ(1966)月が世界連合に反乱を起こす。虚空の花(1966)人工頭脳が統御する戦闘艦の中では艦長ただ一人が決定を下せる。最初の戦闘(1966)自分の分身を駆使して敵基地を叩く要員。最後の火星基地(1966)科学エリートが築いた火星基地に最後の攻撃が下される。防衛戦闘員(1967)ロボットと見まごうほど改造された兵士。最終作戦(1967)恐ろしい敵に蹂躙される地球で究極の決定がなされようとする。敵と味方と(1968)意識をコントロールする兵器に市民たちは疑心暗鬼となる。

【III】すれ違い(1961)太陽に引き込まれるロケットがみたもの。古都で(1961)滅びた都にあるひとつの像。雑種(1961)昔は良かったはずとの政策の結果。墓地(1961)奇妙な武器の売り込みが来る。傾斜の中で(1961)戦争を恐れる社長の下で働く技術者。あなたはまだ?(1962)一人の男がどことも知れぬ世界から帰ってくる。静かな終末(1962)今日最終戦争が起こるという噂が拡がる。錆びた温室(1963)あれがやってくるまで時間は残されていない。タイミング(1964)これまでで最高のショーの時間が迫っていた。テレビの人気者・クイズマン(人間百科事典)(1967)人気を誇るクイズ選手権ではプロのクイズマンたちが争っている。100の顔を持つ男・デストロイヤー(破壊者)(1968)秘密裏に個人・組織を問わず相手を失脚させる職業。電話(1969)プライベートな行き先になぜかかかってくる電話。店(1969)その店の店員のふるまいは異様だった。EXPO2000(1970)21世紀の万博は失われたものを回復させる。
 註:(-)とあるのは発表年不詳

 最近翻訳が完結した『フレドリック・ブラウンSF短編全集』で確認すると、日本にも大きな影響を与えた名手ブラウンが、ショートショートを書いた時期は60年代前半までである。眉村卓の本書は、ちょうどその時代とシームレスにつながっている。ただ、いつ起こるかも知れない核戦争の恐怖という、60年代共通の背景を別にすれば、ブラウンと眉村卓では描く世界がまったく異なっている。言葉遊びや洒落、ユーモアを重視するブラウンの作品はある意味で観念的だし、変貌する社会に翻弄される人々に視点を置く眉村卓はよりリアルといえる。

 「怨霊地帯」と【II】に収録された作品は、ミリタリー雑誌「丸」で複数作家による競作で連載された「SF未来戦記」の一部。すべてが戦争物で、多くは宇宙を舞台としている。機械に囲まれた孤独の指揮官・命令者という司政官の原型が表われている。戦闘はどれもが虚無的である。70年代の《司政官シリーズ》に派手な会戦・戦闘シーンがないのは、既にここで描いてしまったからかもしれない。

 【III】には(著者による自筆年譜などによると)同人誌「宇宙塵」の掌編をきっかけに掲載が決まった「ヒッチコックマガジン」の最初期作や、筒井康隆の同人誌「NULL」掲載のやや長めの作品が入っている。デビュー前後のもので、同じく「宇宙塵」に載った後に改稿された「準B級市民」などと違い、執筆当時の原形を保つ貴重な初期作といえる。表現はまだ硬いが、何かに追い詰められている人々の苦闘と、どこか夢を見ているような幻想性が併存しており、それはデビュー後の諸作につながっている。

筒井康隆『ジャックポット』新潮社

装画:筒井伸輔
装幀:新潮社装幀室

 2017年から2021年かけて主に文學界、新潮などで発表した14作品を収めた最新短編集。

漸然山脈(2017)ジャズ「ラ・シュビドゥンドゥン」の曲に乗って、言葉が意味不明、文脈不明のままひたすら書き貫かれる。
コロキタイマイ(2017)35分間の漫才のやりとりの体裁で、「フランス文学/批評が内部から溢れかえる」(掲載誌編集長)作品。言葉の連想が、文脈不明でひたすら書き貫かれる。
白笑疑(2018)人類終末の予感、豪雨や気温上昇に伴う気候変動、迫り来る核戦争、押し寄せる難民。
ダークナイト・ミッドナイト(2018)DJとなった著者(闇の騎士)が、合間にジャズを流しながら、哲学者ハイデカーの思想を交え、死についてえんえんと語り続ける。
蒙霧升降(2018)戦争が終わり、民主主義がホームルームとなって突然現われた。何も知らない者でも、自由に意見をいえるようになったのだが、その行方にはどこか違和感がある。社会やマスコミや大衆の下に蒙昧の霧が降りていく。
ニューシネマ「バブルの塔」(2019)美人のロシア人詐欺師、泥棒とロシア中央銀行から大金をだまし取った私は、仲間に裏切られその金を奪われる。その後も詐欺と殺し合いの応酬のあげく、物語は究極の詐欺的文学を目指す。
レダ(2019)同族企業の老いた会長が若い秘書と歩いている。会社を継ぐはずの息子たちは愚かだった。秘書は新たな息子となる卵を産む。物語にはチェーホフやヘミングウェイや横山隆一らが混ざり込み混沌となる。
南蛮狭隘族(2019)
太平洋戦争で米軍や日本軍が引き起こした野蛮な行為、残虐さを精神の隘路として描き出す。
縁側の人(2020)
縁側に座るいくらか惚けてきた老人が、しゃべる相手が孫なのか誰かも分ないまま詩について語り続ける。
一九五五年二十歳(2020)著者が同志社大学に在学していた二十歳のころ、演劇に入れ込み、映画を見て俳優に憧れる日々。
花魁櫛(2020)
母親が亡くなり、家財整理で唯一残した仏壇から鼈甲の櫛が見つかる。それには思わぬ骨董的な価値があるようだった。
ジャックポット(2020)ハインラインの「大当たりの年」を念頭に、新型コロナ禍の世界で起こるフィクションやノンフィクションを、経時的に描き出したコラージュ作品。
ダンシングオールナイト(2020)ジャズから楽器に興味を持ち、ダンスの修行を経て、フリージャズから山下洋輔のファンとなり、やがて憧れたクラリネットを手に入れる。死ぬまでにダンスをまた踊りたい。
川のほとり(2021)夢の中に亡くなった長男が現われる。長男とは昔のように会話をするのだが、それは自分自身が話していることだと分かっている。

 「漸然山脈」のテーマ曲「ラ・シュビドゥンドゥン」は著者自身が作詞作曲している。「ダンシングオールナイト」でも言及されているが、意図的にでたらめを歌うバップ唱法(ビバップ)に則っている。この曲も、意図的に意味不明となっているのだ。そして作品はというと、ほとんどすべてに著者の言うところの「破茶滅茶朦朧体」が取り入れられている。単語の意味は分かっても、一文の意味は分からない(何らかの引用だったりするが)。しかし、作品全体で読むとリズムがありまとまりを感じる。

 本書の中では「花花魁」がショートショート、私情の濃い「川のほとり」がさらに短い掌編で、トラディショナルな文体で書かれている。「漸然山脈」「コロキタイマイ」は朦朧文体で書かれた短編、「レダ」「ニューシネマ「バブルの塔」」はその中間的な文体だ。一方「白笑疑」では終末、「ダークナイト・ミッドナイト」では死が、「蒙霧升降」では民主主義、「南蛮狭隘族」では戦争、「縁側の人」では詩、「ジャックポット」ではコロナ禍が、それぞれの特定のテーマとして取り入れられている。これらは著者の批評精神が発露されたものだろう。「一九五五年二十歳」と「ダンシングオールナイト」は(もともとの依頼に基づく)自伝的な要素が強い。

 筒井康隆はいまでもSF作家を名乗っているが、1970年代にはもはやSF専門ではなくなっている。いまでは純文学の最前衛に位置するわけで、幅広いファンに支えられている。本書を読んでも、まだ果ては見えない。