伊藤典夫編訳『海の鎖』国書刊行会

Chains of the Sea,2021(伊藤典夫編訳)

装幀:下田法晴+大西裕二

 国書刊行会の叢書《未来の文学》最後の一冊。最初の作品『ケルベロス第五の首』が出たのが2004年なので17年ぶりの完結である。河出の《奇想コレクション》のときも『たんぽぽ娘』が最後だった。とはいえ、叢書の1つ前『愛なんてセックスの書き間違い』が2019年に出ているので、それほど間が空いたようには感じない(と思うのは、老齢による時間感覚遅延のせいかも)。本書は、過去に伊藤典夫自身が翻訳してきた作品(原著1952~85/翻訳68~96)を、自らが選んだ自選傑作選である。

 アラン・E・ナース「偽態」(1952)金星の探査を終え、地球を目前とした宇宙船内で、明らかに人間と異なる血液を持つ乗組員がみつかる。異星人が潜入したのか。
 レイモンド・F・ジョーンズ「神々の贈り物」(1955)異星の宇宙船が着陸、国連は東西陣営と中立国を交えた使節団を送り込むが、人類側には政治的な思惑があった。
 ブライアン・オールディス「リトルボーイ再び」(1966)2045年8月6日、その日に大きなイベントが行われる。しかし、何の記念日なのかは誰も知らなかった。
 フィリップ・ホセ・ファーマー「キング・コング堕ちてのち」(1973)キング・コングの墜落死を目撃した少年は、いま孫娘にそのときの記憶を語っている。
 M・ジョン・ハリスン「地を統べるもの」(1975)アポロ計画により月の裏側で発見された神が降臨する。主人公は〈神の高速道〉を調査するように指令を受ける。
 ジョン・モレッシイ「最後のジェリー・フェイギン・ショウ」(1980)TVやラジオ放送で地球人を学んだ異星人が、お下劣な話術で人気のTVショーに出演する。
 フレデリック・ポール「フェルミと冬」(1985)戦争が起こり、核の冬により地上の人々も生き物も死滅していく。アイスランドに逃れた人々は必死に生き延びようと戦う。
 ガードナー・R・ドゾワ「海の鎖」(1973)異星人の宇宙船が地上に忽然と現われたが、かれらは人類側のあらゆる試みを無視して反応しない。一方、田舎町に暮らす少年は、家庭的な問題を抱え、大人には見えない存在と会話することができた。

 全部で8編あるうちの5作品に異星人(神を含む)が出てくる。「擬態」はかなりストレートなボディ・スナッチャー(体から心まで人に化ける)もの。「神々の贈り物」は映画「地球が静止する日」ふうで、異星人は使節としてやってくるが、その中で主人公の心理に人間的なひねりがある。70年代になると、異星人そのものは物語の正面から後退する。答えのない謎に満ちた「地を統べるもの」や、ばかげたTV業界を皮肉っぽく描く「最後のジェリー・フェイギン・ショウ」に変わっていくのが面白い。中編「海の鎖」では、異星人は人類にまったく興味を示さない。これは大人が見えないもの、見失ったものと交感できる少年の物語なのだ。

 「リトルボーイ再び」は翻訳された当時(1970年)、むしろプロの間で騒ぎになった。世代的にまだ生々しい戦争の記憶が残っていたからだ。だがそれから半世紀が経ったいま、われわれはまだ当事者意識を持っているだろうか。歴史的悲劇は個人の体験でしかない(体験者が亡くなれば失われる)という、この小説の描いている世界に近づきつつあるように思える。

野田昌宏『山猫サリーの歌』扶桑社

表紙イラストレーション:加藤直之
表紙デザイン:岩郷重力+WONDER WORKZ。

 野田昌宏は2008年に亡くなっている。13年後になって、その遺作がオンデマンド書籍+電子版の形で出版された(扶桑社PODのレーベル)。編集部のまえがきによると本書が書かれたのは1995年、一部未完成のまま埋もれていたものである。どういう経緯でお蔵入りになったのかは分からない。

 昭和40年、主人公がフジテレビの〈日清ちびっこのどじまん〉ディレクターを務めていたころのこと。番組はまだブレークする前で視聴率も伸びず、公開放送での観客集めやPTAからの俗悪番組批判に苦しんでいた。そんなある日、宣伝に回る車の前に1人の少女が飛び出してくる。飛び入りで番組出演を要求するのだが、ただ者とは思えない歌唱力にスタッフ一同は驚愕する。けれど、サリーと名乗る少女が何ものなのか、どこに住んでいるのか親がいるのかさえ不明なのだった。

 野田昌宏のSF関係での代表的な仕事には《キャプテン・フューチャー》などの翻訳やスペースオペラの紹介、オリジナルのスペオペ小説《銀河乞食軍団》などの人気シリーズ執筆の他に、『レモン月夜の宇宙船』に代表されるノンフィクションめいたフィクション群がある。主人公は作者本人、担当した番組名や登場人物の多くは実在するが、そこに大きなフィクションが挟み込まれるスタイルである。昭和40-50年代(1965-75年代)が舞台となり、当時の雰囲気や社会的な状況が色濃く表われていた。本書はそういう一連の作品の総決算、唯一の長編として書かれたものだろう。

 本書には結末があり(サリーの正体が明らかになる)、あとがきまで用意されている。しかしメモ書きのみの章(【断片】とある)や、後で書き直すはずだったと思われる部分も多数ある。原稿としては、ブラッシュアップ前の草稿版/第1版なのだ(いったん最後まで書き上げてから直しを入れる作家は多い)。では、なぜ完成させなかったのか。

 本書は1995年に書かれた。当時でも『レモン月夜の宇宙船』(ハヤカワ版)から20年が経過していた。同書の作品群は、時事風俗描写に同時制=リアルタイム性があるから読者に歓迎された。同じ設定で、本書のように過去(30年前)を描く作品が受け入れられるだろうか。著者にはそんな迷いがあったように思われる。

 とはいえ、現在ならば不完全であっても世に出すべき、という考え方もできる。『山猫サリーの歌』が遺稿であることは間違いないし、もう帰っては来ない(体験として書けない)半世紀以上前を象徴する内容であるからだ。

アマル・エル=モフタール&マックス・グラッドストーン『こうしてあなたはたちは時間戦争に負ける』早川書房

This Is How You Lose the Time War,2019(山田和子訳)

カバーデザイン:川名潤

 2019年に出てヒューゴー賞やネビュラ賞、ローカス賞、英国SF協会賞(それぞれノヴェラ部門)など5賞を軒並み受賞した話題作。もともと中編の長さなのでコンパクトで読みやすい。著者はレバノン系カナダ人アマル・エル=モフタールとアメリカ人マックス・グラッドストーンのコンビだ。

 時空の覇権を賭けて《エージェンシー》と《ガーデン》という2つの組織が争っている。レッドは前者に、ブルーは後者に属する有能な工作員だ。各陣営は自分たちに有利な時間改変の種を植え付け、相手のそれを根絶やしにしながら勢力範囲となる並行世界(ストランド)を拡張/消滅させようとしている。そんなあるとき、戦いを終えたレッドはこの世界にはあり得ない一通の手紙を見つける。

 時間を股にかけた2大組織の抗争というと、サンリオSF文庫世代の読者なら、フリッツ・ライバー『ビッグ・タイム』の《スネーク》と《スパイダー》を思い出すだろう。ライバーも単純な冒険活劇ではないのだが、本書の場合はさらに奇妙で、レッドとブルーはお互い惹かれ合い、組織に知られない方法で(メールでもSMSでもない)文通を交わそうとするのだ。エージェント同士が「文通」するってなに? ちなみに、本書の中で2人の性別は女性(文中では彼女とある)のようではあるが、もしかすると、われわれのような性を持たない存在かも知れない。

 手紙はさまざまなところに隠れている。クリーム色の紙、MRIの中の水、僧院の納骨堂、神殿に収められた古代の(Appleの)シリ、あるいは何世紀も経た木の年輪。本書の最大の特徴として、歴史(時間ものなので)から文学作品と音楽(シェリー、テニスン、キャロル、キーツ、そしてディランなどポピュラー・ミュージックまでさまざま)に至る多彩でお洒落な引用がある。日本の読者には分かりにくいけれど、手紙のバリエーションと絡めて、詩的でリズム感ある文体の一要素だと解釈すれば楽しめるだろう。

J・J・アダムズ編『この地獄の片隅に』東京創元社

Armored,2012(中原尚哉訳)

装画:加藤直之
装幀:岩郷重力+W.I

 3月に出た本。『スタートボタンを押して下さい』(2015)と同じ編者による「パワードスーツSF傑作選」である(発表年的には本書の方が古い)。編者は LightspeedNightmare Magazine 等の電子/Web版雑誌の編集を長年手がけ、年3~4冊のペースでアンソロジイの編纂も行うなど、独自の短編市場を切り開く活動を続けているJ・J・アダムズ。

 本書は、傑作選といっても既存作品からのセレクトではなく、すべて書下ろしのオリジナル・アンソロジイになっている。訳者が全23編から12編を選び、読みやすいように掲載順序を入れ替えているのは前作と同じスタイルだ。原著よりコンパクトなことが人気を呼んだのか、7月にはさらなる新刊 Federations,2009 が予定されている。

 ジャック・キャンベル「この地獄の片隅に」有毒な大気に満ちた惑星で、異星人と交戦する機動歩兵の部隊は将軍から直々に無謀な命令を受ける。
 ジュヌヴィエーヴ・ヴァレンタイン「深海採集船コッペリア号」藻類を刈り取る作業船が、水中に沈んでいたデータドライブを偶然見つける。そこに映っていたものとは。
 カリン・ロワチー「ノマド」人とロボットが一体化した融合者は「縞」と呼ばれる縄張りを作り、他の縞との抗争を繰り返していた。
 デヴィッド・バー・カートリー「アーマーの恋の物語」その天才発明家は、決して自身のパワーアーマーを脱がないことで有名だった。
 デイヴィッド・D・レヴァイン「ケリー盗賊団の最期」19世紀のオーストラリア、隠棲した発明家のもとに強盗団の一味が現われ、実現不可能と思われる兵器製造を命じる。
 アレステア・レナルズ「外傷ポッド」戦闘中に負傷し医療ポッドに収容された兵士は、それでも戦闘に関わろうとするが。
 ウェンディ・N・ワグナー&ジャック・ワグナー「密猟者」全域が自然保護区となった地球で、異星の密猟者に対処するアーマーを着たレンジャーたち。
 キャリー・ヴォーン「ドン・キホーテ」スペイン内戦末期、アメリカ人のジャーナリストは、劣勢の共和国軍の開発した恐るべき新兵器を目撃する。
 サイモン・R・グリーン「天国と地獄の星」凶暴な植物が生い茂る惑星にハードスーツを着た要員が送り込まれる。彼らにはそうならざるをえない過去が隠されていた。
 クリスティ・ヤント「所有権の移転」もともとの外骨格の所有者が殺される。殺人者が代わりに使おうとするが、もちろん思い通りには動かない。
 ショーン・ウィリアムズ「N体問題」ワープゲートの終点にある星は異星人達の坩堝だった。そこで主人公はメカスーツをまとう女と出会う。
 ジャック・マクデヴィット「猫のパジャマ」強烈な放射線を放つパルサーを巡る観測ステーションから連絡が途絶える。補給船はその中で唯一の生命反応を見つける。

 日本で単行本が出ている作家は、ジャック・キャンベル、カリン・ロワチー、アレステア・レナルズ、サイモン・グリーン、ショーン・ウィリアムズ、ジャック・マクデヴィットと結構いるが、現行本が残るのはキャンベルくらいだろう。逆に言えば、作者名にこだわらず内容だけで読めるわけだ。

 パワード/アーマードスーツというアイデアがハインライン『宇宙の戦士』由来だとすると、必然的に本書はミリタリものになりそうなものだが、実際にはミリタリーSFは少数派である。キャンベルとレナルズくらいしかない。代わりに知性を持ったアーマー/外骨格が主人公になったり、宇宙服の延長線上やスチームパンクのメカ、アーマーを着ていることが設定の一部になっていたり、あるいは事件解決の手段になったりする。やや強引なものを含めて、機動歩兵ばかりがアーマーネタではないのだ。最後の作品は(古い読者は誰もが思うように)クラークネタ。ただし、オチに使っていないのがミソ。

山本弘『料理を作るように小説を書こう』東京創元社・他

カバーイラスト:竹田嘉文
カバーデザイン:日高祐也

 創作についての本は従来からたくさん出ているが、今年の4月に山本弘と冲方丁『生き残る作家、生き残れない作家』(早川書房)が、さらに3月には、ミステリ作家でベストセラーの常連でもある松岡圭祐による『小説家になって億を稼ごう』(新潮社)が出版され話題になった。3冊をまとめて買った人も多いようだ。今週はこれらを取り上げてみたい。

 まず『料理を作るように小説を書こう』は、隔月刊の「ミステリーズ!」で2016年8月から1年間連載された創作講座を加筆訂正したものである。受講者と著者のQ&Aのスタイルで書かれており、アイデアを食材、プロットを調理法になぞらえ、小説を料理に見立てて説明している。主に1950-60年代SFを中心に著者に影響を与えた作品が、自作のアイデアやプロットにどう応用されているのかを、引用文を多用することで説明している。

 冲方丁『生き残る作家、生き残れない作家』はセンセーショナルな表題が付いているが、内容は著者独自の分析に基づく創作術といえる。この本のベースには、西武池袋コミュニティカレッジで行われた「冲方丁・創作講座」がある。著者には『冲方丁のライトノベル書き方講座』という本が既にあり、ノウハウ的な内容はそちらに書かれている。本書は講座のエッセンスを16のポイントに分割し、コンパクト(250枚ほど)にまとめ直したものだ。例文などもあり具体的だが、初心者向けというより作家としての持続性に重きを置いた内容といえる。

 松岡圭祐『小説家になって億を稼ごう』も煽った題名ではあるものの、内容はむしろ堅実な生き方を勧めている。最初から長編を書くべきだ、その手法はお話をすべて頭の中で組み立て切ってから、三幕構成で書けとある(自身のノウハウなのだろう)。そこまでは創作の方法だが、本書が類書と違うのは、デビュー後の対応について詳細に記載してあることだ。業界の内情を含めて、新人作家がどう振る舞うべきか、何をしてはいけないかが明確に書かれている。

 作家がなぜ創作の方法を人に教えるのか。この3冊には、それぞれが考える理由が書かれている。まず第一に、人に教えることで、自身の創作に対する考え方を総括することができる。それが新たな創作の糧になるかもしれない。また、蓄えたノウハウを、失わせることなく次世代に継承することができる。次の作家が生まれなければ、ジャンルどころか小説そのものすら滅びてしまう。

 もう一つの特徴、作家が自分を語る自叙伝的な要素も注目に値する。著者の経験(どうやってデビューしたのか、何が助けとなり何が妨げとなったのか)が、そのまま半生の生きざまになっているのだ。作者に興味がある読み手にとって、こういう部分は見逃せないだろう。

 山本弘はキャリア40年。冲方丁は25年、年収6千万で12億を稼ぐ。松岡圭祐は24年、ピーク年収1億越えで累計額は冲方丁を上回るだろう。ただ、それぞれの収入の多寡、仕事内容に差異はあっても、多数の著作を世に出したエンタメ分野の成功者である点に違いはない。3人で共通するのは、創作を志す動機を「書くのが楽しいから」としたことだ。金儲けや著名文学賞の獲得に目標を置いただけでは、達成した後/挫折した後に行き詰まる。好きであるからこそ、浮き沈みがあっても乗り越えられるのだ。

マイクル・ビショップ『時の他に敵なし』竹書房

No Enemy But Time,1982(大島豊訳)

デザイン:坂野公一(welle design)

 名のみ高いまま翻訳されることがなかった(そういう作品は、まだいくつもある)1983年のネビュラ賞長編部門受賞作。マイクル・ビショップの長編という意味では、3年半前に『誰がスティーヴィ・クライを造ったのか?』が出ているのだが、そちらはメタ構造の変格ホラー小説だった。本書はタイムトラベルものであると同時に人類学SFでもあるので、ビショップ全盛期80年代の代表作といえるだろう。表題はイェイツの詩の一節 The innocent and the beautiful/Have no enemy but time. から採られたもの。

 200万年前のアフリカ東部に、一人の空軍兵士が送り込まれる。そこには人類直系の祖先にあたるホモ・ハビルスたちが暮らしていた。時間旅行には制約があり、タイムトラベラーとその時代とが同調している必要があった。若い兵士はその条件に適合していたのだ。だが、過去と現在を結びつけていた通信が途絶してしまう。

 本書では2つの物語が描かれている。200万年前に島流しされた男の苦闘と、自分は何ものなのかを探る出自をめぐる物語である。主人公は小柄な黒人男性、実母はスペインの娼婦だったが赤ん坊の頃に捨てられ、アメリカ人軍属の養子となる。養父はヒスパニック、養母の実家は保守的な田舎で差別は日常的にある。主人公は赤ん坊の頃から、200万年前の世界を夢の中で見る“魂遊旅行”をすることができた。やがて、著名な古人類学者の目に留まり、アメリカ軍がアフリカの新興国と秘密裏に進める時間旅行計画に参加することになる。

 複雑な過去を抱えた主人公の葛藤を背景に、200万年前のホモ・ハビルス女性との不思議な愛情関係が描かれる物語は、日ごろエンタメ小説を読まない読者にもお奨めできる重層的な構造になっている。魂のタイムトラベルというのも、それが個人のルーツではなく人類のルーツにつながるという点でいかにもSF的だが、主人公の心の問題の一解釈ともいえる。

 訳者は本書を最低でも2回読めと薦めている。難解ではないが、実際それだけの内容をともなう作品だろう。600ページを超える分量(原稿用紙で1000枚越え)があり、読み応えも十分だ。あいにくなことに、評者はまだ1回しか読めていませんが。

劉慈欣『三体III 死神永生(上下)』早川書房

三体III 死神永生,2010(大森望、光吉さくら、ワン・チャイ、泊功訳)

装画:富安健一郎
装幀:早川書房デザイン室

 三年がかりで翻訳された《三体三部作》の完結編である。副題「死神永生」とは「人の運命はさまざまだが、死だけが永遠である」ということなのだが、本書では人の生を越えた意味が与えられている。「必ず訪れる死」を象徴する一般的な表現ではないのだ。

 暗黒森林から少し遡った時代、面壁計画と同時にはじめられた階梯計画は、迫り来る三体艦隊に向かって探査機を送り込むというものだった。通常の推進機関では、接触までに時間がかかって意味がない。これまで知られていない技術的なブレークスルーが必要になる。主人公は暴力的な上司の下で研究に励んでいたが、そこで思いがけない贈り物を受け取ることになる。

 第2部までは、三体艦隊が太陽系に達するまでの400年が物語の舞台と思われていた。しかし、本書では時間以外のスケールが大幅に広がる。前作の結末で訪れた小康状態が覆って地球が大混乱に陥り、それがまた思わぬ突破口から解決すると、今度はリスクテイクを避けた手堅い防衛策が裏目に出る。予測不可能な危機と意外な解決手段のセットが(ディープな科学ネタを取り混ぜ)何重にも用意されていて、三部作中もっとも振り幅の大きな物語といえる。

 これまでの主人公は、『三体I』のナノテク学者や『三体II 黒暗森林』の面壁人など(一見凡庸だが実は天才という)巻き込まれ型ヒーローがドライブしていくスタイルだった。本書の女性科学者は彼らとは少し異なる。複数の地球/人類規模の危機に襲われ、何度も重大な局面で決断を迫られるのだが、決してマッチョな考え方に与しないのだ。七夕のような古典的な恋の物語でもある。

 頻繁な場面転換という点でも、3巻中もっとも派手だ。相変わらずのサービス精神で、それぞれの見せ場について吃驚仰天のどんでん返しがある。途中にコンスタンチノープル陥落(オスマントルコによる東ローマ帝国滅亡)のお話や、謎解きが織り込まれたおとぎ話まであり、メタフィクションを思わせる仕掛けになっている。先を見通せない複数の伏線が張りめぐらされ、しかも大風呂敷の大半が回収されているなど、構成の巧みさも楽しめるだろう。

日本SF作家クラブ編『ポストコロナのSF』早川書房

カバーデザイン:岩郷重力+Y.S

 表題をテーマとするオリジナル・アンソロジイである。ポストコロナとなっているが、必ずしも現在のコロナ禍を意味してはいない。また19人の収録作家も、全員が日本SF作家クラブの会員ではないのだ。ジェネレーションやジェンダーのバランスを再考する余地はあるものの、より幅広く多様にという意味なのだろう。

 小川哲「黄金の書物」ドイツ出張中の空港で、主人公は見知らぬ男から古書のハンドキャリーを依頼される。
 伊野隆之「オネストマスク」そのマスクの表面はディスプレイとなっており、着けている者の感情を表出する。
 高山羽根子「透明な街のゲーム」コロナ禍で無人になった街中に出て、インスタ的サービスのインフルエンサーたちがお題をテーマにベスト写真を競う。
 柴田勝家「オンライン福男」コロナ禍にヴァーチャル化した福男レースは、形を変えてその後も続けられている。
 若木未生「熱夏にもわたしたちは」コロナの後、接触を恐れて育った世代の少女2人が生きる、ひとときの夏。
 柞刈湯葉「献身者たち」国境なき医師団に属する主人公は、収束のみえない変異株に襲われるソマリアで、ひとつの解決法を明かされる。
 林譲治「仮面葬」一度は棄てた故郷に戻った主人公は、葬式に仮面を着け代理参加する仕事を得たものの、故人の名前を聞いて驚く。
 菅浩江「砂場」ワクチンが日常化し過剰なまでに投与される時代、ママ友の集う公園の砂場では不穏な世間話の輪が広がっている。
 津久井五月「粘膜の接触について」高校生になった主人公は、感染症対策のため全身を覆うスキンを身につけ、自由な接触を愉しむようになる。
 立原透耶「書物は歌う」三十代になると疫病で死ぬ世界、一人の子供は書物が奏でる歌を探して歩き回る。
 飛浩隆「空の幽契」猪人間と鳥人間が陸と空に別れて住む世界と、衰退した東京で老女とロボットとが会話する光景が交互に物語られる。
 津原泰水「カタル、ハナル、キユ」ハナル十三寺院に秘められた伝統音楽イムについて、詳細に分析した著作が「カタル、ハナル、キユ」である。
 藤井太洋「木星風邪(ジョヴィアンフルゥ)」木星大気に浮かぶ浮遊都市、主人公は月出身の労働者だったが、そこでは木星風邪と呼ばれるファームウェア感染症が蔓延する。
 長谷敏司「愛しのダイアナ」データ人格の家族で、父親の隠していた映像を娘が見たことからもめ事が発生する。
 天沢時生「ドストピア」濡れタオルを叩きつけ合って勝負を決めるタオリングは、滅びゆくヤクザたちにとって有力な収入源だった。
 吉上亮「後香(レトロネイザル) Retronasal scape.」マレー半島の奥深くに住むアガルは、常人にはない特殊な臭覚を持つ人々だった。
 小川一水「受け継ぐちから」隣の星系から飛来した3人乗りのクルーザーは、その製造年代から見てもありえない古さと思われた。
 樋口恭介「愛の夢」人類が眠りについてから1000年が経過し、一人の指導者が目覚めの時を迎えようとしている。
 北野勇作「不要不急の断片」70編からなる、ポストコロナを巡る世の中を点描するマイクロノベル集。

 著者の一人、飛浩隆によるとても詳細な解題が既にあるので、ここでは1文リミックス紹介のみとした。このうち、現状のコロナと直結する話は柞刈湯葉「献身者たち」くらいで、最も遠いのが小川哲「黄金の書物」と天沢時生「ドストピア」だろう。コロナから多重に連想された創造の果てという感じか。

 物理的な疫病から逃れられる究極の場所は電脳世界になる。柴田勝家「オンライン福男」、IT的にひねった藤井太洋「木星風邪(ジョヴィアンフルゥ)」、家族まるごと移転したのが長谷敏司「愛しのダイアナ」である。

 コロナの現実に生じた異形の風景を、さらにデフォルメした作品が多い。欠かせないマスクの伊野隆之「オネストマスク」、無人の街を切り取った高山羽根子「透明な街のゲーム」、少女の恋に昇華させた若木未生「熱夏にもわたしたちは」、これもマスクだが田舎の因習に形を変えた林譲治「仮面葬」、生活をむしばむ悪意を描く菅浩江「砂場」、肉体の接触が忌避される津久井五月「粘膜の接触について」、極めつけは日常のスナップショット北野勇作「不要不急の断片」だろう。

 現実をはるかに越えるお話も読みたい。小松左京「お召し」を思わせる世界を書いた立原透耶「書物は歌う」、飛浩隆「空の幽契」ではロボットと主人公の会話と異世界の物語がシームレスに溶け合い、小川一水「受け継ぐちから」は謎の宇宙船の正体を探り、樋口恭介「愛の夢」は1000年もの皮肉な明日が描かれ、津原泰水「カタル、ハナル、キユ」では緻密に組み立てられた音の秘密が、吉上亮「後香(レトロネイザル) Retronasal scape.」では匂いの秘密が解き明かされる。

 枚数的には50枚前後(ばらつきはある)で短編の書下ろしながら、テーマが明確なためか、ひねるにしても正面から書くにしても各作家なりの工夫が楽しめる。評者としては、上記の中で最後のグループが面白かったのだが、それは現実からの距離の置き方にも依存するのだろう。


三島浩司『クレインファクトリー』徳間書店

カバーイラスト:緒賀岳志
カバーデザイン:宮村和生

 三島浩司の書下ろし長編。著者の新作としては『ウルトラマンデュアル2』以来の3年ぶりになる。本書では、巨大ロボットが主人公だった『ダイナミックフィギュア』とは対照的に、小型の人型ロボットが登場する。

 あゆみ地区は全国から伝統工芸の職人が集まってくる特区だ。主人公はある事情で両親から離れ、地区の里親と暮らしている。同じ境遇で暮らす仲間もいた。しかし、ここはもともと此先ファクトリーズと呼ばれる先端工業団地だった。さまざまな工場が建ち並び、ロボットによる無人化が進んでいた。今ではその面影はない。いったい何があったのか。

 まず、著者が得意とする奇想アイデア「分水嶺」が登場する。自然界に生じる完全にランダムな現象をもとにした乱数を物理的乱数という。分水嶺は物理的乱数を攪乱する物体なのだ。疑似乱数ならともかく、こういう概念的なものに影響を与える物質など、ふつうは考えられない。分水嶺はさいころの目の頻度すら左右する。形はさまざま、おもちゃだったり日用品だったりする。ストルガツキーのゾーンにある物質と同様、超自然的存在といえる。

 もう一つがロボットの反乱である。ファクトリーズのロボットが人間に反抗し、治安部隊に向かって破壊活動を企てたのだ。それ以来、ロボットを使う機械化は忌避されることになり、自動化地区は伝統工芸地区になる。なぜロボットは反抗心を持つようになったのか。

 500枚ほどの長編だが、そこに家庭の問題、オーパーツ、AI(ロボット)の知能と心の問題を盛り込むという意欲的な作品だ。著者はかつて、小説にアイデアではなく概念を盛り込みたいと述べたことがある(下記リンク参照)。本書の場合、それはロボットの心がオーパーツを生み出し、家庭問題を救うという3段階の(本来結びつきようのない)連想で作られているのだろう。

早川書房編集部・編『世界SF作家会議』早川書房

装画:森泉岳士
装幀:早川書房デザイン室

 フジテレビの地上波番組(ただし東京ローカル)で放映された全3回の「世界SF作家会議」(2020年7月/2021年1月/同2月)をまとめたもの。全員が(たとえスタジオに居ても)リモート参加で、6分割画面という今風のスタイル。カットシーンを補完した拡張バージョンは現在でもYouTube版が視聴できるが、本書は文字にする段階でさらに手を加えた決定版である。担当ディレクター黒木彰一がSFファンだったために実現した企画だという。海外の作家も参加したので(陳楸帆が同時通訳参加、劉慈欣/ケン・リュウ/キム・チョヨプらはビデオ参加)、世界SF作家会議でも大げさではないといえる内容になった。

【第1回】コロナパンデミックをどうとらえたか/パンデミックと小説/アフターコロナの第三次世界大戦(冲方丁)アフターコロナのトロッコ問題(小川哲)アフターコロナのセックス(藤井太洋)アフターコロナは・・・・・・ない(新井素子)/劉慈欣のメッセージ。

【第2回】パンデミックから一年・・・・・・SF作家たちはどう見たか?/人類はチーズケーキで滅亡する(小川哲)人類は宇宙からの災難で滅亡する(劉慈欣)人類はポスト人類で滅亡する(ケン・リュウ)人類は愛で滅亡する(高山羽根子、藤井太洋)人類は目に見えないもので滅亡する(キム・チョヨプ)人類は滅亡しない(新井素子)/地球滅亡の日に食べるなら、ご飯か麺か。

【第3回】SF作家が考えるコロナ禍の現状/100年後の企業帝国と惑星開拓(冲方丁)100年後の和諧(ハーモニー)(陳楸帆)100年後はサイボーグたちの世界(キム・チョヨプ)100年後は人間が変化する(劉慈欣)100年後は分からない(樋口恭介)100年後は予測不可能(ケン・リュウ)100年後はあまり変わっていない(新井素子)/地球脱出時に連れていくなら犬か猫か。

 司会者のいとうせいこうは作家兼タレント、大森望がコメンテーター的な役割、それ以外は全員が作家である。6人で進行するのは、SF大会のパネルとしても多い方だろう。深夜帯とはいえ、非専門的な地上波TV番組として成り立つのかどうか見る前は疑っていた。評者はYouTube版で視聴したが、ネタ的な話題に偏らず(テーマはネタ的だが)、SF作家らしいキーワードを交えた分かりやすい流れで作られていた。さらに本書になると、キーワードに読み物としての重みが加わる印象だ。SF作家は予言者かと問われると誰でも違うと答えるだろうが、あらゆる可能性を(ありえないことまで含めて)考えてみるのがSF作家だという見方はできる。ハードな明日を冷めた視点で語る冲方丁、あくまで希望を失わない陳楸帆、何も変わらないとうそぶく新井素子が対照的で面白い。