人間六度『スター・シェイカー』/安野貴博『サーキット・スイッチャー』早川書房

COVER DESIGN:有馬トモユキ(TATSDESIGN)
COVER ILLUSTRATION:ろるあ/ROLUA
装画:Rey.Hori
装幀:早川書房デザイン室

 第9回ハヤカワSFコンテストの大賞『スター・シェイカー』と優秀賞受賞作『サーキット・スイッチャー』である。大賞が出たのは第5回(2017年)以来4年ぶり。柴田勝家、小川哲、樋口恭介らを輩出した賞だが、ここしばらくは停滞が続いていた。

 スター・シェイカー:21世紀末、世界は空前の〈テレポータリゼーション〉時代を迎える。空間を乗物を使って移動する〈線動時代〉は終わったのだ。ただし、重大事故を招くテレポートは厳密に区画されたワープボックス間に限られ、認定された能力者だけが運用できる。主人公は事故により第一線を退いていたが、業務中に麻薬密売組織に追われる一人の少女と出会ったことから、大きな陰謀の渦に巻き込まれてしまう。

 テレポートが運送業になる未来というのは面白いが、放棄された高速道路を走る「空走族」が登場すると物語は一変、次第に超能力バトルものに変貌し、最後は宇宙的なスケールアップを遂げる。最後を除けばライトノベル風だ。相対崩壊=梵我一如がキーワードになる(と書いても、仏教用語に対する独特の解釈なのでネタバレにならない)。

 著者は1995年生まれの現役大学生。第28回電撃小説大賞の受賞作『きみは雪をみることができない』もまもなく出る。本作は構成に難があり、優秀賞に比べ完成度は劣ると指摘された上で、「ネタひとつひとつが輝いていたから」(東浩紀)、「圧倒的な熱量とパースペクティブがある」(小川一水)、「作者の物や人の見方などについては、確かに魅力的だ」(神林長平)とあり、「多少の欠陥はあっても、とにかくスケールの大きな作家を送り出したい」という選考委員の一致した見解で選出された。構成やお話の一貫性については、応募時より相当改善されていると思われる。とはいえ、数秘術めいたキーワードの扱いはSF的というよりオカルト的、説明不足感はまだ残っている。

 サーキット・スイッチャー:2029年、東京ではレベル5の自動運転車が走るようになっている。そんな車の一台が、首都高速でカージャックされる。乗客はベンチャー企業の創業者で、自動運転技術の要を握る男だった。同乗する犯人の要求を容れない場合、車は自爆する。しかも車速が90キロ以下になっても爆発は起こるのだ。どうすれば爆破プログラムを解除できるのか、そして犯人の要求とは何か。

 著者は1990年生まれのソフトエンジニア。こちらは対照的な評価となった。「たいへんアクチュアルな舞台と問題設定で、サスペンスあり社会的な問いかけありで楽しく読むことができる」(東浩紀)、「近未来の自動運転車の構造と挙動、その悪用がもたらす効果と害悪、さらにそれをテーマとして物語の起伏を作ることに成功している(大意)」(小川一水)、「よくできた刑事物の2時間ドラマを思わせる抜群の完成度だ」(神林長平)とあって概ね好評である。エンタメ性を考慮した編集部の評価でも本書がトップだった。しかし、出来上がりすぎ/飛び抜けていない点は、逆にマイナスポイントとも取られる。プログラムにまつわるアイデア、自動運転技術やトロッコ問題(八島游舷「Final Anchors」岡本俊弥「衝突」)あるいは映画「スピード」など、書かれているテクニカルな部分のほとんどはいま現在既にある。舞台も今から7年後なので、文字どおりの近未来サスペンスだ。ただその点で言えば、警察や自動車メーカなど組織描写のリアリティはちょっと気になる。アメリカならともかく、スタンドプレーの通じにくい日本の業界だとこうはならないだろう。

 第8回でも同様の傾向だったが、エンタメ作品を応募するのなら、たとえSFであっても間口が広いアガサ・クリスティ賞の方が良さそうに思える(『同士少女よ、敵を撃て』が入った昨年は厳しいものの)。ハヤカワSFコンテストでは「スケールの大きな作家」が求められている。しかし、それがどういうものか判然としない。分からないからこその新人賞だとしても、なかなか難しさを感じる。

R・A・ラファティ『とうもろこし倉の幽霊』早川書房

Ghost in the Corn Crib and other stories,2022(井上央編訳)

カバーイラスト:unpis
カバーデザイン:川名潤

 全編初訳作品で編まれた、編者オリジナルのラファティ短編集である。「ボルヘスにあやかって『ラファティの伝奇集』と題したい」(編訳者あとがき)とする幻想性の強い内容だ。編訳者は古くからのラファティ研究家で、これまで『子供たちの午後』『蛇の卵』などを青心社から出してきたが、本書は(旧シリーズを含めて)初の新☆ハヤカワ・SF・シリーズ版になる。既存作品のベスト選だったハヤカワ文庫SFの《ラファティ・ベスト・コレクション》と対を成す作品集だろう。

 とうもろこし倉の幽霊(1957)老犬だけにしか見えない幽霊が、とうもろこし倉に出るらしい。2人の少年はその幽霊の正体を確かめようとする。
 下に隠れたあの人(1960/67)舞台の箱から人を消すマジックが得意なマジシャンは、あるとき予定していなかったみすぼらしい男を呼び出してしまう。
 サンペナタス断層崖の縁で(1983)その断層崖は、羽の生えたウミガメなど変異生物の源だった。6人の大学研究主任と12人の天才少年少女たちが激論を交わす。
 さあ、恐れなく炎の中へ歩み入ろう(1971)イクチオ人別名〝奇妙な魚たち〟は地球最初の知的存在であると自称している。彼らは秩序の担い手なのだった。
 王様の靴ひも(1974)アメリカ・ゴジュウカラ及び類縁鳥類観察者連盟(NRBWA)の会合で、主人公はテーブルの下に小さな人々がいるのに気がつく。
 千と万の泉との情事(1975)世界中を巡る男は、万を越える泉を訪れてはいた。しかし、完全な自然はどこにもないと語る。パターンがあるものは完璧ではないのだ。
 チョスキー・ボトム騒動(1977)チョスキーの川窪にすむ〝せっかちのっそり〟はハイスクールのアメフトで圧倒的な活躍をするが、ある日突然姿を消してしまう。
 鳥使い(1982)鳥を自由に操る少年の姿をした鳥使いと〝血の赤道化師〟の集団とが儀式のような奇妙な秋祭りで争い合う。
 いばら姫の物語(1985)世界は10世紀に終わっている。実は5世紀にラクダに呑まれ、8世紀には魚に呑まれ、さらに昔には異教の神の脳内に吸収されていたらしい。
 *括弧内は執筆年(ラファティの作品は、売れるまでに時間を要したものが多い)

 「サンペナタス断層崖の縁で」(作品選定時点では執筆年不詳だった)を除けば、基本的に執筆年代順に並べられている。ハヤカワ文庫でセレクトされた作品と比べると、さらに奇想度が増していることがわかる。冒頭の標題作にしても、田舎の古いとうもろこし倉にお化けがでるというありふれた怪談の体裁だが、大人たちが話す(食い違った)伝承を交えながら、あくまで少年の(不確かな)体験として描かれるのだ。

 以降、とても奇妙な登場人物たちが続々と出てくる。頭文字が小文字の名前を持つ男、変異動物=モンスターズ、奇妙な魚たち、ゴジュウカラと小人たち、泉の精、ねじれ足=せっかちのっそり、鳥使いなどなど。ラファティ得意の超知能を持つ1ダースの子供たちや、《不純粋科学研究所》のロボットであるエピクトらも登場する。

 「千と万の泉との情事」や「鳥飼い」などには、ラファティの根源的な考え方、(神によってもたらされた)秩序と、秩序を持たない混沌という二項対立の関係が鮮明に描かれている。異様な世界を描きながらも、これらは無秩序を肯定するものではない。ラファティの根底にはキリスト教に基づく世界観が常にあるからだ。イエスに笑みを浮かべさせようとするジョーク(編訳者あとがき)という独特の解釈が面白い。

スタニスワフ・レム『地球の平和』国書刊行会

Pokój na Ziemi,1987(芝田文乃訳)

装訂:水戸部功

 スタニスワフ・レム・コレクション第2期2冊目(第1期を含めると8冊目)は、レム最後から2番目の長編である。《泰平ヨン》もので、《宇宙飛行士ピルクス》の『大失敗』と同じ年に出ているが、実際に書かれたのはこちらの方が早い。

 冒頭ヨンは半身の反抗に悩んでいる。何しろ右脳と意思が通じないのだ。右脳にあるはずの記憶も呼び出せない。原因は月面での事故にあった。人類は地球の平和を保つため、あらゆる軍事技術を月に封印した。しかしそれは欺瞞的なもので、月では各国の人工知能による軍事技術開発が依然として行われている。地球側は状況をモニタしていたが、最近になって偵察機がことごとく失われる事態が生じた。そのため、現地調査にヨンが赴いたのだ。

 『地球の平和』では、2つに分離された存在がいくつも重層的に登場する。脳梁切断で切り離されたヨンの右脳と左脳、本物の人体と遠隔人(リモート人体)、偽りの平和が訪れた地球(本書の表題の由来は小松左京「地には平和を」と同様、聖書のルカ福音書によるもの)と戦争に明け暮れる月、そして地球側組織間の拭いがたい不信感などなどである。

 それぞれに興味深い問いかけが出てくる。左右の脳が分離したとすると、自分(ヨン)の存在は2つに分裂してしまうのか。それとも、言語が使える理性的な左脳だけがヨンなのか。月のAIに支配された地域は国ごとに厳密に隔離され、別の地域に侵攻することは許されない。では、どうやって兵器を進化させるのか。その結果生まれる究極の兵器とは何か。そして、月から帰還したヨンの甦らない記憶を巡って、『浴槽で発見された手記』風の謎めいた騙し合いが繰り広げられる。

 レムは1982年から6年間、西ドイツの高等研究院やオーストリアの作家協会の招待など、オフィシャルな理由を付けて国外に脱出していた。不穏な国内情勢(戒厳令が敷かれるなどしていた)を嫌っての行動と思われるが、国を捨てる「亡命」までは踏み込まない。『地球の平和』は、そのころ(1984年5月)に書上げられたものだ。レムは認めてはいないものの、本書では当時の政治に対する疑念や揶揄が顔を覗かせている。

 本書の結末は、『インヴィンシブル』で仄めかされたウィルスの存在(下記リンクを参照)と直結したものといえる。月の各区画では、SUPS(スーパー・シミュレータ)が兵器を製造して、SEKS(セレクティブ・シミュレータ)がそれに対抗する仕組みが描かれている。これなどは、AIの機械学習方法であるGANとほぼ同じ考えだ。本書が書かれた1984年には、サイバーパンクを象徴するギブスン『ニューロマンサー』こそ出ているが、今日的なAIについては何も述べられていない。本書にある分散/離散化された雲のような存在は、クラウド上にあるニューロネットワークが生み出すAIを思わせる。しかも、それは実は「知能」などではなく「本能」、それも原始的な本能に近い制御不能の存在なのだ。まさに予言的な示唆である。

アンドレアス・エシュバッハ『RSA(上下)』早川書房

NSA,2018(赤坂桃子訳)

カバーデザイン:土井宏明(POSITRON)

 久々に紹介されるドイツ作家アンドレアス・エシュバッハによる、2019年クルト・ラスヴィッツ賞受賞長編。著者は同賞を1997年から2021年までに12回も獲る常連人気作家だ。多くの著作があり、日本では『イエスのビデオ』(1998)や『パーフェクト・コピー』(2002)などの翻訳があったものの、2004年以降17年の空白ができてしまった。

 この世界のドイツでは第1次大戦後にコンピュータやテレビ、携帯電話が普及し、現在とよく似た情報化社会になっている。それらを巧みに操りナチスは政権を掌握した。やがてヨーロッパ全土で戦争が拡大、ソ連とは泥沼の消耗戦となる。NSAに勤務するアナリストは、個人的復讐に情報を悪用するつまらない男だったが、天才的な女性プログラマと出会ったことで、蓄積された個人情報の恐るべき活用法を提案することになる。

 NSAとはNationales Sicherheits Amt=National Security Agency(国家安全保障局)のこと。スノーデンが実態を暴露したことで明るみに出たアメリカの実在組織がモデルである(本書で書かれたような情報収集をしてきた)。外国人だけではなく、自国民の私的な通信まで傍受し(非公表の)諜報活動に利用するのだ。

 改変歴史ものでは大胆な「もし=If」が用いられる。もし帰趨を制する作戦や兵器開発競争で枢軸側が逆転勝利していたら、歴史はどう変わっていたのか。ただ、本書での「IT革命が戦前に起こっていたら」という設定では、不思議なことに歴史は大きく損なわれず、結末にはひと捻りがあるものの概ね史実をなぞっていく。おそらく著者は、過去の全体主義体制と、デマに脆弱で付和雷同に陥りやすい現在の情報社会とは相似している=ほぼ同じものと考えたのだ。

 ティムール・ヴェルメシュ『帰ってきたヒトラー』(2012)が、映画化を契機に日本でも評判を呼んだのが2014年のこと。ナチスドイツ/ヒトラーや、その後の分断国家/東ドイツが甦ってくるという悪夢は、例えば東ドイツが存続する現在を描くジーモン・ウルバン『プランD』(2011)が評価されるなど、ドイツ人にとって忘れてはならないテーマのようだ。さらに、高度に情報化された監視社会も注目されている。本書と同じくクルト・ラスヴィッツ賞を受けたマルク=ウヴェ・クリング『クオリティランド』(2017)ではあらゆるものにAIによる格付けが成されるし、これも同賞受賞作のトム・ヒレンブラント『ドローンランド』(2014)では、ドローンを使った超監視社会が描かれる。これらは近未来(≒現在)に仮託された全体主義社会である。本書は過去と現在の2つの要素を、巧みに組み合わせた作品といえる。

 同じような全体主義体制下にあった日本だが、戦前の翼賛体制が今でも続くというディストピア小説は(一部の短編を除けば)もうほとんど見かけない。体験世代が失われつつあるいま、忘れっぽい日本人には遠い戦前/戦中など、もはや関心の埒外だ。だが、もしほんとうにディストピアが来るなら、それは目先の小事の延長線上にはないだろう。国民が熱狂的に支持し、戦争に興奮したあの翼賛体制に近いものになる。だれも恐ろしいと思わなくなったところに、ディストピアは出現するのである。

アンディ・ウィアー『プロジェクト・ヘイル・メアリー(上下)』早川書房

Project Hail Mary,2021(小野田由利子訳)

カバーイラスト:鷲尾直広
装幀:岩郷重力+N.S

 昨年5月に出たばかりのアンディ・ウィアー最新作(第3長編)である。アメリカでは出版忽ちベストセラーの話題書、出版前から映像化の話も進んでいる。標題の「ヘイル・メアリー(ヘイルメリー)」とは、アメフト用語で一発逆転のパスのこと。僅差ゲームでのギャンブル技で、確率はかなり低いのだが成功すれば勝てる。いかにもアメリカンスポーツらしいドラマチックな逆転サヨナラを生みだすのだ。

 さてしかし、本書には重要な仕掛けが何カ所かあり(ネタバレを嫌う昨今の風潮からしても)あまり詳しくは書けない。あらすじなどは本書カバー(及び冒頭部分の公開)で記載された内容までとするが、気になる方は本書読後にお読みください。

 主人公は奇妙な部屋で目覚める。ここがどこなのか分からない。ロボットの音声らしきものが執拗に問いかけてくる。何のためか分からない。だが、刹那に断片的な過去の記憶が甦ってくる。最初に思い出したのは、友人の科学者との会話だった。太陽から延びる未知の帯状の雲が、太陽の出力(エネルギー)を奪っているのだという。それも地球環境に重大な影響を及ぼすレベルで。

 なぜ野尻抱介が(下巻の)帯文を書いているかというと、共通点を持つ先行作品のためだろう。冒頭の設定がこうなら、ハードSF的にはむしろ必然的に「このテーマ」になる。同じ要素があるからこそ似てしまう。もちろん、その先行作品と本書とは、お話的にまったく異なるのだが。

 例外はあるものの、本書の主な登場人物は科学者とエンジニアである。ある種の(地球的規模の)デザスター小説なのに政治家はほとんど出てこない。肝心の科学者たちは目的に対しては極めて有能であるが、およそ常識外れで奇矯な振る舞いをする。世間体や人間関係には無頓着、主人公もそんな一人だ。人類存亡を賭けたミッションに巻き込まれるのに、犠牲精神とか崇高な倫理観とかは持ち合わせていない。まあつまり、至ってふつうの理系人間なのである。しかし、理科系特有の探究心と真因をどこまでも追求する執念は備えている。それがないと科学者は務まらないからだ。

 主人公は理系のオタクでたった一人、舞台は地球から遠く離れた異世界、救援は物理的に困難/自力解決以外に方法はない、という状況は『火星の人』と同じである。前作『アルテミス』は人間ドラマが半分程度を占めた。悪くはないけれど、それはウィアーの本領ではないだろう。本書は原点に復帰した作品といえるが、一つ大きなポイントを追加している。「このテーマ」を「こういう関係」で爽やかに描くのは本書が最初ではないだろうか。
(註:宇宙ものに限らず類似作品はありますが、ここまで深くはない)